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介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話



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地下水脈 スペシャル ”生活リハビリ”を語る(上)
特集:病院に”生活的なものを”! 特集に寄せて:光も影も見通す目
なぜみんな、全国からリハクラブにやってくるのか
 ~“水商売”論争について~
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1992 ~ 1991
1992.11-12月 地下水脈 スペシャル ”生活リハビリ”を語る(上)

 【「生活リハビリ」とは何か】 問:生活リハビリという言葉がたいへん広まってきました。その言葉を広めた張本人である、三好さんから、生活リハビリというのはいったいなんなんだろうかということについてお話をうかがえればと思います。

三好:生活リハビリという言葉は私か初めに言いだした言葉ではありません。すでにいろいろな人が生活リハビリという言葉や、そういうニュアンスのことを語っていました。
私は長い間、生活リハビリという表現をあえてしないようにしておりました。所属の名前も生活とリハビリ研究所というふうに名乗っていたわけですけれども、いつのまにか生活リハビリと私の名前とがセットになって語られていくようになりましたので、「生活リハビリとは何か」という本の題名にまで使うことにまでなってしまいました。ただこの本は“生活リハビリとは何がということを求めて読んだ人にとっては、その期待を意識的に裏切るために書いたような本なのです。

ここにはケースが何ケースか出てくるだけです。そのケースに対してどういうふうに考えて、どういうことをやって、どういうイメージが残ったかということしか書いていないはずです。それはいわば一つのケースにとことん関わることの中に、はたしてどういう普遍性があるかということを追求したわけですけれども、生活リハビリとは何だろうということが読んでパッと分かるという本ではないのです。

そういう安易な、生活リハビリとは何かがすぐ分かるだろうと期待して読む読者にとっては裏切られたような内容になっています。 生活リハビリという言葉に対していろいろな人がいろいろなイメージを持つのはいっこうにかまわないのですけれども、例えば生活の場でするリハビリだと考えている人もいます。

それは生活の場という老人ホームや地域でやるリハビリテーション、つまり空間的に違っているだけでやっている内容は病院でやっていることと全然変わっていないものを、生活リハビリというふうに語っている人もいます。これは勘違いとしかいいようがないです。

生活そのものがリハビリだという言い方をする人がいます。でもこういう言い方には少し留保が必要です。これは分からないことはないのです。例えば排泄をしたり入浴をしたりということが目的なのだから、あえて専門的なリハビリテーションでやらなくて良いのだというニュアンスなので、それはそれで確かにその通りなのです。

でも生活はリハビリではないのです。生活がリハビリなってはかなわないわけで、生活はゆとりをもって楽しくするべきなので、それが生活リハビリという名のもとに生活がギスギスしたものになったり、管理されたり、意識的なものになっていったり、あるいはリハビリテーションを強要される、お風呂の中でリハビリを強要されるというようなことになったのでこれは困りますので、生活そのものがリハビリだという言い方にはちょっと一定の留保が必要だというのはそういう意味です。

 【リハビリを生活の中に解消していく】
 素人でもすぐ出来るリハビリテーションのことが生活リハビリであるというふうに思われているのは、これは大変結構なことです。例えば遊びリテーションなんていうのもそうです。ただ奥は深いよと思うんです。奥が深いというのは別にもっと専門的になっていかなくてはという意味ではなくて、人間とかいうものが奥が深いと同じように、遊びリテーションだって体操だって結構奥が深いよということは分かった上で、素人でもすぐどこでもできるリハビリテーションであるという解釈はいっこうにかまわないと思います。

それはどうしてかというと、私がもし生活リハビリとは何かということに、一言で無理してあえて答えようと思えば、リハビリテーションというものを生活の中に解消していくことだというふうに思っているからです。つまりリハビリテーションだとかあるいは医療というふうに広く考えても良いのですけれども、医療というものをやる前に私たちのやることがいっぱいあるのだ、あるいは医療と共にやらなければいけないことがいっぱいあって、そのことが分かると、リハビリテーションだとか医療とかいうことが占めているパーセントというのは、じつは老人にとって必要なことの5パーセントぐらいにすぎなくて、残りの95パーセントというのはいわゆる私たちが生活ケアというふうに呼んでいるようなもの、生活作りそのものが、95パーセントの影響力を持っているのだということなのです。

生活リハビリというものがどういうものかというと、リハビリテーションという非常に魅力ある言葉、あるいは専門的な領域というところから入っていって、実はそれは5パーセントにすぎなくて95パーセントの大事なことが見えていくというプロセスではないかと考えています。

 【理論化、体系化よりパフォーマンス】 問:三好さんは生活の場のリハビリテーションというものを体系化したり、理論化したりしている人だといっている人がいますけれども、その点はどうなんでしょうか。今のお話を聞くとちょっと違っているのかなという気もするのですけれども。

三好:理論化ではないと思います。私たちは現場でやっていること、感じていることを言葉にしていくことはもちろんするわけです。だけど理論化ではないだろうと思います。というよりもパフォーマンスというふうに言った方がいいのではないでしょうか。

パフォーマンスというのは何かと言うと、ひとことでいうと身体性の回復ということだろうと思います。つまり言語表現という非常に狭いところに閉じこめられている表現形態を、もっとからだ全体を使ったものの中に解放していくことだろうと思います。

私たちにとっては言葉にするということよりも、その言葉がその人のどんな表情によって語られているかということの方が大事なわけです。あるいは数字を見せるよりも、老人の表情の写ったスライドを見せるということの方がはるかに意味があるということです。

そういうパフォーマンスをやっていこう、言葉という狭い範囲で自分達のやっていることを表現するのではなくて、表情だとか身ぶりだとか”場"そのものをつくっていくだとか、いろいろな多様な表現方法に開かれていくことを目指しているのであって、理論化というと言葉の範囲内という気がしますので、それはむしろ逆ではないかなという気がしています。

更に体系化ということになりますと、私の中に体系化しなくてはという誘惑のようなものはものすごくあるのです。それはどうしてかというと医療の世界というのは実に体系化されているわけです。

リハビリテーションも看護も体系化された世界です。つまり教科書があるんです。そういうものが持っている力というのはものすごいわけです。現実にはちっとも合っていなくても体系化されているということによって人々にたいへん大きな影響を与えて、それが老人には悪い影響を与えているということがあるわけで、それに対抗するために我々も体系化しなければいけないかなという誘惑はいつもあります。

しかしどうも言葉というのは大変な魔力をもっていて、更にその言葉が体系化していくというとむちゃくちゃな魔力を持ってしまって、どうも私たちが現場で感じていてやらなければいけないと思っていることが、理論化だとか体系化ということで、それが意味づけられていくかというと、むしろ私は逆になっていく方が強いような気がしますので、いずれこういう新しい運動体というものが体系化されていく、さらには教科書になっていくということはあるだろうと思いますが、それは私がやる仕事ではないなあというふうに思っています。

私か他にやることがなければ、他で飯が食えないというときにはやるかも知れませんけれども、それまではできればやりたくない。私のやる仕事ではないというのは、現場の人がやるべき仕事ではないという意味でもあります

 【{生活」というイメージは?】 問:そうすると別のところから聞いていきましょう。生活リハビリという生活という言葉のイメージというのはどんなものでしょうか。

三好:生活という言葉はたいへん曖昧な言葉です。ですから生活リハビリとか生活と言ったとたんそれは理論化とか体系化というのはたいへん難しいものだろうと思っています。 私かイメージしている生活というのは、例えば吉本隆明という思想家がいます。この人を知っている人はあまりいないでしょうね。作家の吉本ばななさんというのはご存じだろうと思います。彼女のお父さんです。

我々の世代にとっては吉本ばななさんというのはあまりピンときませんで、お父さんの方が大変影響力を持っているわけです。 彼は「生活者」ということをずつと前から言っています。「生活者」というものを自分の思想というものの原点にしていこうという人です。

人というのは生まれて食べて大きくなってペアを作って子供を作ってそして死んでいくという、そういう生活過程を持っていて、例えばインテリのようにそれ以上のものに価値を見いだそうとしたりしない、そういう存在というのを生活者と呼んでいます。これがいちばん価値があるんだというところから出発しようという考え方です。

私の「生活」というイメージはまさしくこの吉本さんの「生活者」というイメージ、彼はこれを「大衆の原像」というふうにいっているわけですが、これからきています。 つまりそういう生活過程というものだけは普遍的であって、これから離れていく、例えばインテリのように言葉の世界に何か意味があるというように考えたり、あるいはアカデミズムの中に何かがあるというふうに考えたりする事に対する、重石(おもし)のようなものとして生活という言葉があると思っています。

 【「生活臨床」が引き出した概念】 問:これまで精神科の領域で「生活臨床」といわれる地域における障害者を支えていこうという運動がありました。それから病院の中では、「生活療法」といわれているものがあったわけですけれども、同じ生活という名前がついているわけですが、こうした運動に対して、三好さんはどういうふうに思つていらっしやいますか。現在語られている生活リハビリということと、かってのそういう運動を、どう重ねて見ていらっしゃるのか、お聞かせいただければと思います。

三好:生活臨床というのは群馬県を中心にして、保健婦の西本多美江さん達が地域で精神障害者を支えるためにやってこられた運動です。私はこの運動は珍しく日本の医療や保健の世界の中で外国から翻訳した理論ではなく、日本の土着した実践の中から生まれてきたすばらしいものであるというふうに考えています。これは西本多美江さんの「ほんとに保健婦」という本を読んでいただければたいへんよく分かるわけです。

地域の精神障害者が生きいきと動き出すのは三つのポイントがあるというふうに言うんです。
一つは色気である、一つは金である、もう一つは名誉である、というふうに言います。
ちょっと聞くと俗っぽく見えまして、反発をする人がいるわけですけれども、本当にそうだろうなあというふうに思います。

いま西本さん達が地域で関わっていらした年代の方達がちょうど私か関わっている老人になっているわけですけれども、私たちが関わっているのは精神障害者も含めたもっと広い老人ですけれども、本当に今の老人の世代というのは、言われているように色気であり、欲であり、名誉というところで動いていくわけです。これは良いとか悪いとかということではなくて、実際に私たちはそれを本当に使っています。

機能訓練教室に来ていただくのに、おじいさんには保健婦さんがちょと色気を見せて手を貸そうとか、私はおばあさんの前に出ると若い男性として振る舞うだとか、それから遊びリテーションなどをやって優勝すると表彰式などをやって表彰状をあげるとたいへん喜んで名誉に思うとか、あるいはお金ということになると本当によく動くとかというのは、我々の実感としてあるわけです。

本当にすばらしい概念を実践の中から引っ張りあげてきたいい運動だと思います。 これが精神科の領域の中で、あるいは保健活動の中でどういうふうに評価され位置づけられているのかということにたいへん興味があるのですけれども、どうも私の知る範囲では正当な位置づけをされていないのではないかと考えています。

 【「生活療法」の轍を踏むな】
 生活臨床と生活療法というのは実は違うのでありまして、一緒にしてはいけないと思うのです。中には病院の中で行なわれた生活臨床が生活療法だと思っていう人がいるようですが、そうではないようです。ただ地域でやってたいへん効果をあげていることを病院の中でもできないだろうかというふうに思ってやった人はいただろうと思いますけれども、やはり病院内の悲しさというのでしょうか、はっきりと違った展開をとって参ります。

この生活療法というのは一時たいへん批判をされたのです。たいへん管理的であるというので批判をされました。病院の管理体制と一緒になったわけです。だけれども私は、管理的であることで批判するよりも、生活というものをとらえ損ねたというふうに考えています。

つまり地域における生活臨床が少なくとも色気、金、地位という人間を生活へといたらしめるような三つの概念を抽出しだのに対して、病院のスタッフ達は生活というものを何かもう少しスマートで実体的なものとして捉えたような気がします。

つまり病院の中で朝起きて髪をといて服を来て挨拶をして作業をして帰ったら又服を着替えて寝るという、そういうことが出来るようになっていけばだんだん社会に帰っていけるだろう、退院が近づくだろうというふうに考えたわけです。それで、あなたはここまで出来たからこの段階、もう一つここまで出来るともう一つ退院に近づきましたよというふうに機能別に病棟をわけていったりということになっていくわけです。

それはなんとなく分かるような気がします。つまり生活というのは実体としてみると私たちがやっているのは、朝起きて確かに歯を磨いて挨拶をして仕事にいってということをやっているわけです。それが形として出来れば地域に帰れるだろうというふうに考えるのは分かるわけですけれども、でもそうじゃないですよね。そういうことが出来ないから地域で生活できないわけではないし、あるいはそういうことが出来るから生活が出来るということでもないだろうというふうに思います。

つまり大事なのは我々を、朝起きて歯を磨かせ、服を着替えさせ、挨拶をさせ、仕事に赴かせている、もっと元になっているようなもの、我々を生活へと向かわせているものではないでしょうか。 これは吉本隆明さんが「大衆の原像」とか「生活者」というふうにいったときに、こういう批判があったのです。

そんな大衆なんて今やどこにもいないではないか、つまり観念過程に入っていかないような、ただ生まれて育ってペア作って死んでいくだけなんていう大衆はどこにもいないではないか、少なくとも日本には、という批判をたいへん受けました。

それに対して吉本さんは、自分は「生活者」というのは実体として語っているわけではないんだというふうにいっています。一つの思想の原点として一つの概念として語っているのだというふうに反論なさっていたように思うわけです。

私たちが考えている生活というのもそうなんです。朝起きて歯を磨いてというふうに実体にしてしまうのではなくて、もっと目に見えないものとして生活というものを捉えないとどうもおかしなことになるだろうと思います。

 【生活者の健全さと思想を歯止めに】
 この生活療法というのを英語に訳そうとしたんです。何で英語に訳そうと思ったのか知らないのですが、英語に訳さないと発表させてくれない専門誌というのがあるのです。学会なんかに行くと必ずそういう英訳をつけさせられたりするもので、そうなったのだろうと思うのです。

その時にこの生活療法をなんて訳したと思いますか?“living skill”というふうに訳したのです。他に訳しようがなかったというわけです。 リビングはともかくも、スキルというのはいただけないような気がします。私たちがあるいは生活療法ということを始めた人たちが目指していたものも、スキルではなかっただろうと思います。

そういうふうにスキルになっていく、つまりアカデミズムの中で発言権を得てアカデミズムの中で一定の位置を占めて行こうと思ったときに、そういうふうにスキルになり、これが評価できなくてはいけないということで段階化されていって、点数化されていくということが結果として病院の管理主義に結びついたわけです。

私たちは生活というものは実体として捉えられないし、ましてや段階化できないし、数量化できないのだということを、生活療法というものが行なった轍を踏まないといいますか、同じ過ちを繰り返さないために、よく肝に銘じておく必要があるのではないかと思います。

でもこういう誘惑というのはたいへん強いです。たいへん強いのだけれども、アカデミズムになり数字になっていくときにそこにブレーキをかける、そうなっていかないということはいちばん大事なことではないか。

そうならならいために何が必要かというと、一つは生活者の健全さです。そんな数字にしたってしょうがないじゃないかという健全な気持ちです。ただ私たちはたいへん不健全な世界に入り込んでいますから、健全さだけでは勝負できないので、あとは何かというと、やはり大げさにいわせていただくと思想の力みたいなものしかないのではないかと思います。

その歯止めが出来るかどうかということが、生活臨床にせよ生活療法にせよ生活リハビリにせよ、生活と名のついたものがちゃんと生き残っていけるかどうかの境目ではないかというふうに私は考えています。

 【人間とは非論理的なものだ】
 最近私の好きな映画監督でジム・ジャームッシュという人がいます。最近、「ナイトオンザプラネット」という映画で脚光を浴びていますが、それまでにも「ダウンバイロー」とか、「ミステリートレイン」なんていう映画を作っている人です。

この人の映画というのはたいへん特徴がありまして、彼自身はインタビューでこういうふうにいっています。
『そもそもストーリーが無いじゃないかといって非難する連中もいるが何とも思いません。人生にはあらかじめ用意したストーリーなんて無いのに、どうしてそんなものが映画になければいけないのです。私は非論理を、人物を描くことに徹して押し切る。物語は人物中心に構成しようとするし、内から外への方向で仕事をする』と語っています。

これはたいへん勇気づけられる言葉です。 彼は人間を描けば非論理になるんだというふうにはっきり言い切っています。人間というのは論理的でもないし、合理的でもないし、科学的でもないんだ。だから人間をちゃんと描けば描くほど非論理のままにとどまるのだというふうにいっています。

私たちに必要なのも、こういういさぎよさではないでしょうか。人間とか生活というものにちゃんと関わっていけばそれは科学的だとか、論理的だとか、ましてや数字なんかになるなんていうことはないのだ、なったとしてもそれはほんの1割ぐらいではないかということをはっきり知るべきだと思います。

ですから科学的で客観的で論理的でないアプローチは駄目だという人たちは、10分の1ぐらいのアプローチしかしていないし、してはいけないと思っている人たちなのだというふうに考えていいのではないでしょうか。私たちはそういうことからいさぎよく自由にならなければいけないと思っています。

ジャームシッシュは観客にあてたメッセージで次のようにいっています。
『ナイトオンザプラネットという映画は意義や意味などない。モラルもなければ教訓もない。何かがあるとすればこの地球というプラネット(惑星)の日常のささやかなディテールに時折見いだされることのある偶然のような美しいものがあるだけだ』と。

本当に私たちが老人にかかわりながらやっている仕事、その中に見いだしている意味というのはまさしくこういうことではないでしょうか。『日常のささやかなディテールに時折見いだされることのある偶然のような美しさ』それがあるからわたしたちはこの仕事をしているような気がします。(つづく)
「生活リハビリ」を語る〈下〉は次号掲載です


1992.09-10月 特集:病院に”生活的なものを”!
 特集に寄せて:光も影も見通す目

NHKスペシャルが、札幌麻生脳神経外科病院を取材した番組をごらんになっただろうか。総婦長の紙屋克子さん率いるナース集団は、すごい、の一言に尽きる。「私たちはあきらめません。看護婦があきらめてどうしますか」という最後の彼女のコトバも印象的だった。

もし私か、同じような病院に勤めていたとすれば、(あそこまでできるかどうかは別にして)同じように考え、実践しているだろうと思う。だが、病院という場での彼女らのスタンスと、今、私たちが関わっている生活の場での私たちのとるべきスタンスには、当然ながら違いがある。

例えば私たちは、麻生脳神経外科病院から老人病院へと転院していく老人が、その後どうなるんだろうということが気になってしょうがない。また、重病の夫に必死の思いで付き添い、アプローチする妻の、あんな張りつめた生活がいつまでも続く訳はないだろうということも気になって仕方がない。

つまり、どこかで「あきらめ」がやってくるはずなのだ。そしてそこからが私たちの仕事だと言ってもいい。医療やリハビリといった近代的方法論は、治せない病いを治し、救えない命を救ってきた。しかし、そうしだ光”の当る一方で、“影”も作り出してきた。

近代が無力な死や老いや障害は、あたかもあってはならないかのように、“近代の光”から遠ざけられてきた。“あきらめない”ことによっで“希望”の灯を点すのが、彼女らのやっていることだ。“障害者”や“老人”や“死に行く人々”に“もっと近代の光を”という主張は正しいだろう。
しかし、私たちのやっていることは少し違う。私たちの仕事ぱあきらめだその後から始まっているのだ。“あきらめた、その後”の仕事というと、むなしい、やり甲斐のない仕事だと思うだろうか。確かに世間の人たちはそう思っている。

特に、近代科学の担い手である医療の専門職は、地域や老人ホームのもう良くならない“慢性期”で“呆げがある“寝たきり老人”なんかへの関わりは、シロウトがやるべき仕事、と考えて関心さえ示さない。

しかし、彼らぱ“近代”という光の明るさに眩惑されて、“影”の部分が見えなくなっているのである。そもそも私たちの生活は“95%のあきらめと5%の希望”ではないのか。“95%”という現実に目を向けない“希望”はむなしかろう。

じつは、私たちがやっている仕事は、“あきらめる”ことによってその先に、わずかな、別の希望を灯すことなのである。それが、果たして私たち自身にも見えているだろうか。もっとも“5%”をちゃんとやってくれるから“95%”があるのである。

つまり、「病院でやるだけのことはやってくれた」という気持ちになるからこそ、「この障害を持ってどう生きていくか」という“生活”の課題と向き合えるのである。
だからこそ、病院には頑張ってもらわなければならない。だが、夢のような話だが、日本中の全ての病院に「麻生」のような看護婦集団がいたとしても、“95%”の課題は残っていくのである。

今回寄稿していただいた、永田さんと林倉さんの実践は、病院の中で、“光”の部分だけでなく、“光”も“影”もちゃんと見つめてるいる人たちが現われてきたことを教えてくれている。いや、そんな人はこれまでも沢山いたのだ。

“95%”に気が付かないはずはない。だが、それをちゃんと表現し始める人が出てきたということなのだ。私は「NHKスペシャル」とはまた違った感銘を受けている。


1992.09-10月 なぜみんな、全国からリハクラブにやってくるのか
 ~“水商売”論争について~

3月20日の「生活リハビリクラブ4周年記念集会」は、いろいろな意味で感動的な会でした。全国各地からあんなに大勢の人たちが参加してくれただけではありません。プログラムはいずれも感動的でした。

「失語症ライブ」と「遊びリテーション実技教室」は、いずれも上・下2巻のビデオになりました。カメラが切り取った世界は、現場とはまた違った意味で感動的です。ぜひ一見を。

さて、「失語症ライブ」にも「遊びリテーション実技教室」にも、生活リハビリクラブの利用者が何人も参加してくれました。サイコロビンゴで、みごとに数字を出したMさんが、数ヶ月前に初めてクラブにこられたときには、床に座っていることや寝返りすることさえも、一人ではできなかったとは信じられないだろうと思います。

何年も家に閉じこもっていて、最初の日には下を向いているだけでコトバも出なかった人や、逆に“関係の場”に慣れていないために、一人でしゃべり続けていたりしたお年寄りが、こうした場でちゃんと自分の役割を果してくれているのですから驚きです。

さて、私は職員さんに『こうやって利用者が人前に出てるのを見るのは、誇らしいような、心配なような気持ちでしょう?』と尋ねました。それは、私が特別養護老人ホームに勤めていた頃に、似たような場面、例えば地域の敬老会に出て行って、老人たちがちょっとした器楽演奏をするとかいった時に、感じていた気持ちだったからなのですが、彼女らの答えは、『いえ、別に…』というものなのです。

これは私にとって新しい発見でした。いつも老人ホーム職員が生活リハビリクラブにやってきて驚くのは、老人ホームとの違いの数々です。
「職員は少ないのに時間の流れがゆっくりしている」
「みんなでいっしょに食事ができている」
「一人ひとり普通の風呂に入れている」…等に。

しかし、最も違っているのは、お年寄り、それも障害や呆けを持った老人と職員との関係のようです。 私が尋ねた”気持ち”は、おそらく特養ホーム職員には共通した感じ方であろうと思います。でも、彼女たちはもうお年寄りを信頼しきっています。

いや、信頼というよりも施設の場合には、老人は外に出て行って初めて“社会的存在”となるのですが、生活リハビリクラブの場合には、お年寄りたちは最初から”社会的存在”として見られ、遇されているという感じなのです。

したがって、職員との関係も、介護者・被介護者という関係をはるかに越えて、個性的な生活者同士の関係になっているようです。それは、私の足かけ10年半の特養体験では達することのできないものでした。

更に興味深いことが、記念集会の”打ち上げ”の二次会の席でありました。ジャーナリストのWさんたちと、生活リハビリクラブの理念と実践について話していたときのことです。老人医療や介護の世界を広く取材されているWさんがこういう発言をされたのです。

それはちょうど、彼女らの活動が、お年寄りたちをその魅力で引きつけ、楽しい時間を作り出していることを“水商売”になぞらえて、皆で笑いあっているときでした。

中山真美さんが、
『でも私、水商売は無理だわ』 と言ったのに対して、
『いや、障害を持っている人たちですら、あれだけ生き生きさせているのだから、銀座での水商売なんか、十分やっていけますよ!』と。
それに対して、中山さんはかなり本気になって“違和”を主張し始めました。

Wさんの発言は、疑うまでもなく、彼女らに対する”誉めコトバ”なのです。しかし、中山さんは強くひっかかっていて納得しそうにありません。結局その場は、早寝の私のせいで、あいまいなまま”お流れ”となったのですが、彼女の“違和”は、おそらくこういうことなのでしょう。

Wさんを初め、一般のひとから見れば、障害や呆けを持った人との付き合いくらい難しいものはない、と思っているでしょう。でも、彼女らの感覚では、障害や呆けも”その人らしさ”の一部でしかなく、“その人らしさ”が見えれば見えるほど、障害の軽重や、呆けの多少なんかの占める割合は小さく小さくなっているのです。

そんな立場からは、公的なデイヶアのような「呆け、寝たきりお断り」や、障害の程度によってグループを分けたりするやり方が、何の根拠もないものに見えるのは当たり前ですが、Wさんの発言のように、“障害や呆け”が”特別に大変なもの”と見なした上での”誉めコトバ”をおかしいと感ずるのも当然だと言えるでしょう。

障害や呆けを持った人たちが”自分らしさ”を求めてやってくることに比べれば、金も地位もある人たちが、異性からチヤホヤされることを求めてくることのほうが、よほど本当の意味の「障害」と言えるかもしれません。

いま考えてみると、彼女らと一般の人たちとの「障害」や「呆け」に対す&感じ方の大きな差、そして彼女らと私との「老人」を見る目のその差の大きさこそが、全国各地からあれだけの人が集まってくる根拠だと思えてくるのです。
 〔生活とリハビリ研究所代表〕


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金と嘘と暴力で作った原発に さよならを
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