TOP-Page ▲ もどる  -- 介護夜汰話--- 『「生きたい」と「死にたくない」』



---- ブリコラージュ 2007年3月号

「生きたい」と「死にたくない」
〜インド・ムガルサライ駅前広場の夜〜


 

■ 

インドを旅行してきた。雲母書房の社長の茂木敏博さんがきっかけだ。なにしろ、彼は今回で6回目のインドだという。かつてインドへ行って、人間観、世界観が変わったという話をよく聞かされてきた私は、何が彼をこんなに惹きつけるのか、自分も体験したいと思ったのだ。

毎月やっている読書会のメンバー7人を中心に、仙台、松山からも参加者があった、因みにその2人は、雲母書房から出版されている本の著者である、といえば想像のつく人もいよう。
医療・介護関係者11 人に、昨年のモロッコ旅行で知り合った女性3人の総勢14 人。飛行機と列車、ホテル、それに駅や空港とホテル間の送迎だけはセットだが、それ以外はすべてフリータイムで現地ガイドもいないという旅行だ。
半分手づくりということで「ブリコラージュ旅団」と名乗っての旅である。

なんとも不思議な旅だった。問題が起こり、疑問が生じては、それが何かによって意図されていたかのように解決し、答が見つかっていくというくりかえしなのだ。まず、私は多くのインド初心者と同じく、ショックに襲われた。路上生活者、物乞いをする身体障害者、アカと小便の臭いのする子ども……。

私が物心ついた頃には戦後日本の絶対的窮乏はすでになくなっていたから、生まれて初めての経験でどうしていいかわからない。列車の床のゴミを這いながら片づけて物乞いする子どももいた。私の下の子と同じくらいの年齢だろうか。厳しいカースト制度のせいか、私たちには顔も見せない。仕事柄「人間的」とか「人間らしく」なんてコトバが飛びかっている。でも、私はもう使えないなと感じた。これも人間だぞ、あれでも人間だぞと言われているような気がしたのだ。人間なんて動物とどこに違いがあるんだ、と。

ヒンズー教徒が聖なる川、ガンガー(ガンジス)の沐浴場に集まり、死体の焼却場(それもオープンの)があることでも知られているのがベナレスという町だ。朝日と共に沐浴する様子を見ようと、早朝の薄明かりの中、河岸を目指したが、私は足がすくんだ。何千という掘立小屋の店と人。その異様さに、ひさしぶりに恐いという経験をした。迷子になってはもっと恐いから、やむなく狭い路地を前の人について歩いたが、1人ならホテルに逃げ帰ったかもしれない。

椎名誠はこう書いている。「ガンガーに近づくにつれて、人人人人犬犬犬犬牛牛牛牛ホコリホコリホコリホコリ騒音絶叫警笛怒号………」(『インドでわしも考えた』集英社文庫)日本の終戦直後はこんな世界だったらしい。いや、中世へタイムスリップしたと言ったほうが正解かもしれない。死もあからさまだが、生もあからさまだ。

日本での「人間らしく」なんて考え方からは、こんなことはあってはならないことだ。「もっと福祉を充実させて、人間的生活を保障すべきだ」となるだろう。だが、私はそう思う一方でこれはあってもいい、と感じていた。これはどういうことだ。

ベナレスからコルカタ(カルカッタ)へは寝台車での移動だ。乗車時間は午後5時。乗車駅のムガルサライ駅には1時間前に到着した。すると「2時間遅れ」との表示が出ている。ここからムガルサライ駅前広場の長い夜が始まった。なにしろ「2時間遅れ」は、3時間になり4時間になり、最終的には9時間半の遅れだ。午前2時半にようやく列車がやってきた。

ムガルサライの駅前広場は、白黒の記録映画や映画のセットで見ることのある日本の終戦直後の駅前風景だと思えばよい。小屋のような店が並び、リキシャと呼ばれる人力車、オートリキシャと呼ばれるオート三輪車がズラリと客待ちしている。駅舎には列車待ちの人が毛布を敷いてズラリと寝ている。なにしろ、すべての列車が遅れているのだ。

広場に住みついている家族とその子どもが「ハロー」をくりかえして、物乞いにやってくる。私はやはりどうしていいのかわからない。ところが参加者の女性たちがその子どもたちと遊び始めた。男性も紙ヒコーキをつくって飛ばし、子どもたちがキャーキャー走り回る。駅前学童保育である。

物乞いをする子どもたちを監督するように眺めていた母親が、うれしそうな表情で遊びに参加してくる。こんな表情を見たのは初めてだ。それを見ていたインド人のバスの運転手が「あなたたちはいい人だ」と言って、女性たちにチャイ(お茶)をおごってくれた。

いくら待っても列車は来ない。私たちはバスの中で一人ひとり、旅の感想を語ることにした。起きた葛藤をボソボソしゃべる人、世界経済の動向からインドの未来を述べる人、ちょっとした講演会だ。

そこで、さっきまで運転手からリキシャを借りて乗り回して遊んでいたインド6回目の茂木さんはこんな話をした。「初めて来た時、乞食の子どもから手を出されて戸惑った。しかしその子といっしょに遊ぶことができた。その時に、われわれは金を乞う者と乞われる者という関係から解放されることができた」と。
そうか、さっきここで起きたことはそういうことか。どうしていいかわからないという状態への答のひとつは見つかった。バスの運転手まで含めた“講演会”が終わっても列車は来ない。

そこで身体を動かそうということになって、広場でラジオ体操が始まる。それが終わると遊びリテーションだ。インド人が周りで不思議そうに、そのうち笑いながら見ている。これはデイサービス、いやミッドナイトサービスである。いつもは外国人ツーリストによって大型バスの窓から眺められている現地の人たちが、逆にわれわれを眺めているのだ。ここでは関係の逆転が起こっている。

私はこのツアーの参加者に感心してしまった。10 時間半もの待ち時間というマイナスの状況をプラスに変えてしまう力をもっている。しかも私の疑問に答まで見つけてくれるのだ。とはいえ、深夜に乗り込んだ満員の列車にさらに14 時間乗っていなくてはならない。

ところが、そんな心配も無用だった。目覚めた彼ら、特に女性たちはすぐに周りのインド人乗客たちと親しくなり、食べものの交換どころか、路上生活者の性生活まで聞き出す始末なのだ。ここでも、マイナスを国際交流というプラスに転化するのだ。
私なんかこんな時せいぜい、「本でも読むか」ぐらいにしかならない。まあ今さら彼女らのようにもなれないし、これも私の個性なんだからしかたあるまい。ところが読んでいたその本にまた答が用意されているのだ。

寝台車で読んだのは『社会学入門』(見田宗介著・岩波新書)である。インド関連本として読書会のメンバーの1人が持ってきた4冊の本のうちの1冊である。著者が学生を連れてインドに来た時の話が出てくる。

デリーから有名なタージマハールのあるアグラへ列車で行くことになった。朝早くから待っているのに1時間遅れとアナウンスがあり、それが2時間になる。みんなウンザリしているが現地の人は平気だ。そのうち、今日の運行は中止になったと知らされる。どうしていいかわからずにいるうちに、周りの人たちはとっくにいなくなってしまって、自分たちだけがプラットホームに残されたという話である。

スケールはちがうが、似た体験ではないか。著者の見田は、時間を予定どおりに過ごしてきた者はその予定が狂うとどうしていいかわからなくなる、私たちは時間を「使う」ものだと思っている、だから遅れるとそれを無駄な時間だと感じてしまう、でも、時間は「使う」ものではなくて、「生きる」ものだと言う。
おそらく見田の経歴からすると、連れて行った学生は、最も時間を上手に「使う」ことをやってきた者しか入れない大学の学生だったろう。たとえ待たされた時間は短くても、その茫然感は私たちの比ではなかったにちがいない。

時間は「使う」ものではない。つまり、消費するものではないのだ。自ら主体的に生きるものなのだ。だから無駄な時間なんかない。ツアー参加者はあの時間を生きていたのだ。日本人は、日本の子どもたちは、時間の上手な「消費」をしているだけではないか。インド人の豊かさが見えてくる気がした。茂木社長がなぜよく時間に遅れるのかというナゾも解けてきた。

私の最初の疑問、こんな現実があっていいはずがないと思いつつ、一方で、これでいいのだと感じているのは一体なぜか、に答えてくれたのも旅行中に読んだ本だった。『インドで考えたこと』(堀田善衛著・岩波新書)という有名な本である。

なにしろ、私が高校生の時、現代国語の教科書にその一節が載っていたくらいだ。アジア作家会議でインドに招かれ、事務局としてしばらくインドに滞在していた時の見聞と考察が書かれている。東西冷戦時代に書かれたものだから、現在の感覚で読むと古い枠組みの中の話だという感は否めない。社会主義への幻想は生きていたし、特に革命中国への期待が文中にあふれている。大躍進の破綻や文化大革命の悲惨さ、ソ連邦の崩壊なんか予測もできなかった時代なのだ。

それでも私は途中でやめないで最後まで読み通した。他にすることもないのだ。すると、最終章の結語にすばらしいコトバがあった。『アジアは生きたい、生きたいと言っている。ヨーロッパは死にたくない、死にたくないと言っている』見事なものだ。私は自分の疑問、矛盾、葛藤がスーッと消えて、なぜこのインドの状態をよしとすべきだと感じているのか、わかったような気がした。

今や、日本はかつてのヨーロッパと同じように「死にたくない」側になった。つまり、生きていられるのが当たり前になったのだ。だから「死にたくない」ために、老人がバンダナを巻いてエアロビクスに励み、みのもんたの番組を見ては食品の買い占めに走る。これは不健康ではないか。

たとえ、どんなに貧しくても「死にたくない」よりは「生きたい」ほうが健康だ。生きるのに必死な人はエアロビクスも納豆の買い占めもしないだろう。インドの人々の「生きる」ことそのものを目的としていることの強烈さ。「生きる」ことが保障された途端、人は生きる目的を失ってしまうのだろうか。少子化もそのあらわれかもしれない。因みに、インドでは人口は爆発的に増えている。

私たちは「生きる」をケアしたい。「死にたくない」をケアするのは嫌だ。介護予防、筋トレ、脳トレ……、みんな「死にたくない」に迎合したものではないか。生きていてもしかたがない、と感じていた人が、もう一度この身体で生きていこう、と思うようなケアがしたいのだ。

問題や疑問が生じては、それが解決し、答が見つかるという不思議な旅だった、と、最初に書いた。介護の仕事は好き。だけど職員間がうまくいかず精神的にやられてしまう子。『資格』が邪魔になってしまうこと。いろんな情報を聞き、中間管理職としてどう対応したらいいのか…。

私自身、人とのコミュニケーションは苦手だから悩んでる。世間のじつはその典型ともいえることが私の身に起こった。インドに到着して3日目の早朝、ニューデリー駅からアグラへと向かう列車に乗り込んだ時に、パスポートと帰りの航空券、それに相当額の日本円の入ったショルダーバックが忽然と消えたのである。
ホテルやバスの中に忘れたのではないかと考えたが、数分前に駅のプラットホームで撮ったデジタルカメラの映像にはちゃんとバックが写っている。シートにバックを置き、リュックを棚に乗せている間に盗難にあったと考えるよりほかなかった。

アグラの警察に届けを出し、証明書をもらう。これがパスポートを持たない非国民が再び日本に帰れるための唯一の証明書だという。私一人がデリーに戻って大使館に行けば、パスポートの再発行が間に合ってコルカタから戻ってくる13 人と合流して予定通りの便で日本に帰れるかもしれないのだが、それではベナレスもコルカタも見ないまま帰ることになる。それになにより、こうなると1人になるのが不安でしょうがない。

そこで、帰国が何日か遅れることは覚悟で、みんなと行動を共にすることにした。最終日、コルカタからデリーへの飛行機は3時間遅れた。でも誰も「遅れた」とは思わない。ムガルサライ駅の10 時間に比べれば定刻だと言っていい。しかし、これでその日のうちに日本大使館とインドの出入国管理局を回って、予定されていた便でみんなといっしょに帰るというのは絶望的になった。

帰りの飛行機のチケットは一番安いのが12万円。日航系のホテルだと1泊4万円もかかるという。やれやれ……日本大使館の窓口は2時半にならないと開かない。名前を告げると、やや反応があって日本人が出てきた。なんと、バックが出てきたというのだ。

その日の午前中、ある婦人から大使館に電話があって、パスポートの入ったバックを預かっているという。さっそくガイドが連絡をすると、「本人でなければ渡さない」とのこと。しっかりした人だ。門番も使用人もいる立派なアパートで、栄養豊かな女性と15 歳のやはり丸々とした息子が迎えてくれた。

バックは、2日前電車のシート下で見つけたという。警察に届けようかと思ったが、現金があったので思いとどまったという。こちらでは現金は警察がボーナスとして抜いてしまうらしい。それで、直接日本大使館に連絡をしてくれたというのだ。
みんなが「奇跡だ!」と口々に言う。インドでは落とし物が出てくることはめったにないそうだ。ましてや盗まれたものが出てくる可能性はゼロに近い。それにしてもどうやって彼女が発見するに至ったのか、何か“ウラ”がある話なのか、いまだに諸説が入り乱れている。最後にインドの神秘が残った。

パスポート紛失という大事件が起きながらも、結局は行程どおりのツアーで、予定の便で日本に帰ることができた。しかも帰国するその日に消えたパスポートが出てくるというタイミングのよさ。ドラマならご都合主義のストーリーと言われるところだろう。
茂木さんの説はこうだ。「神様が三好春樹にインドの現実とパスポート紛失というショックを与えてどう変わるかを試したのではないか…」オイオイ、神様に会ったら私なんかほっといてくれと言わなくては。

 

■ 三好春樹

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