● WEB 往復書簡 「追伸:時間は存在しないのか」
第9通(村瀨→小林) 【鹿の目】
小林くんへ
先日、息子が「罠を見に行く」と言うのでついていった。
罠とは猪や鹿を捕まえるもので、金属製の細いワイヤーで作られている。彼は毎日のように確認にいくが、動物たちが掛かったことは一度もない。罠猟免許取り立てホヤホヤなので、野生動物たちが簡単に捕まるわけがない。そんな気持ちで山に入った。
山は叔父のもので、タケノコ狩りができるように手を入れていた。けれども、寄る年波には勝てず、半ば放置状態となり、獣たちが畑へと通うルートとなっている。実家から数分の距離にあるにもかかわらず、この山に生まれて初めて足を踏み入れた。そこには感じたことのない静けさがあった。
元々繁殖していた広葉樹の森に杉が植えられたが、それも放置され、徐々に孟宗竹の繁殖が進んだことが伺えた。けれども、叔父がせっせとタケノコを採り続けた成果もあって、孟宗竹のすさまじい繁殖力が押さえられている。
そこには見たことのない植生があった。樹齢数百年を超える楠が数本点在していて、存在感に圧倒される。人が植えた杉のほとんどが朽ち始めており、孟宗竹はそれらを緩やかに包んでいた。地面は竹の落ち葉で、一面が覆い尽くされている。変色した竹の落ち葉は、真っ白な雪に見えた。歩くとフカフカした白銀の野を踏みしめている心地がする。
息子は5つ罠を掛けていた。獣の気配がまるでしない。「今日も空振りか」という体で、ひとつ、ひとつの罠を確認する。最後の罠にたどり着いた時だった。「掛かっとる」と、彼は静かに言った。その声は喜びよりも哀しみの音がした。きっと聞いている僕の方が自分の哀しみを彼の声に投射したのだ。僕は本当の飢えを知らない。だから、喜びが湧かないのだと思った。
ワイヤーの先に牝鹿がいた。鹿の年齢とその容姿に詳しくない僕でも、彼女が若いことはすぐに分かった。彼女の目が僕の目を見ている。真っ黒な瞳はとても可愛かった。獣に白眼がないのは、どこを見ているかを相手に悟られないためである、と聞いたことがあるが、彼女が真っ直ぐに僕の目を見ているのが感じられた。
これから、彼女の身に起こることを考えると、身がきゅーっとした。初めて体験する、とても静かな情動に胸が破裂しそうだった。
息子は「外してくれ」と言った。彼女を殺す姿を見られたくないのだ。僕はその場を離れた。どこまで離れれば良いのか分からない。とりあえず倒木に腰掛ける。ず~っと耳を澄ました。彼女が最期に漏らす声を拾うために。けれども、何も聞こえてこない。
おずおずと罠場に足を運ぶ。彼女は大地に伏していた。胸から血を流して。息子は彼女の足をロープで結ぼうとするけれど、手がワナワナ震えてどうにもならない。「俺は、もう戻ることのできない所に行ってしまった」と呟く。
あの時、僕は彼と交流することが許されなかった。彼が許さなかったのではない。僕と息子は、同じ時間と空間を共にしながら、同じ時間と空間にいなかったのだ。言葉では表せない断絶を感じた。
鹿狩りは、予測できないことが常に生じ続ける「時」の連続だった。雪原のような森を歩いた時。牝鹿と目が合った時。断末魔に耳を澄ます時。胸から流れる血を見た時。ワナワナと震える息子の手のひらを見た時。瞬間の映像が、点となって僕の体に留まっている。それは宇宙空間に漂う星のようだと思えた。瞬間の光景は、それ自体の質量が大きくて独立している。
もしかして、人は点在する瞬間、瞬間の光景を意味でつなぐことで、時間を生み出したのかもしれない。時と時を意味で繋ぐことで、物語を紡ぎ出し、価値というものを見出したのではないだろうか。
僕は鹿狩りで遭遇した、「あの時」や「その時」を意味で繋ぎたくないと思った。介護の現場にもある「あの時」や「その時」も意味で繋ぎたくないと思うことがある。意味で彩られた価値から介護をしたくないと考えてしまう。感じたことだけで終わらせたいと願う傾向がある。
意味や価値に紐づけされることなく、「あの時」「その時」という瞬間から世界を受け止める、ぼけの知性に憧れているからだと思う。そういう知性の体系があると感じる。
<村瀬孝生>
第10通(小林→村瀬) 【Beautiful Life】
村瀬さんへ
中3の長男が学校に行かなかった時期、家にいる長男は時間が止まっているように見えました。社会的動物である人間は、関係の中にいるから時間が動いているのかなと思います。でもきっと、ただただ息子が元気なさそうで心配する親目線なんでしょう。
学校の先生に尋ねてみたら、「本人は一見、家で何もしていないように見えますが、部屋の中でいろいろなことに思いを巡らせて考えている大切な時期なのでぜひ認めてあげてください」と教えてくれました。だからできるかぎり一人の時間を味わってもらえるようにこちらからは声をかけないでいました。息子の思いを尊重しながら。
もう卒業まで学校に行けなくても別にいいやと思えたころ、長男はまた学校へ行けるようになりました。ちなみに別にいいやと思えたのは息子ではなく僕です。2か月後のこと、きっかけは友達でした。学校に行けなくなったのも友達がきっかけで、行けるようになったのも友達がきっかけ。
彼の止まっていた時間はまた動き出しました(心配性の親からはそのように見えました)。世界は関係でできている。彼の時間が存在しているかのように見えるためには、友達という物語が必要だったのかもしれません。
中一の二男もまた、半年前に中学校に行かなくなりました。小林家は自由な子どもだらけです(笑)。なぜ学校に行かなくなったかというと、部活で関係障害があったからです。彼は、サッカー部からテニス部へ移籍すると、水を得た魚のように休みの日でも近くのテニス場へ行ったり、夜はテニスクラブへ通うようになりました。
生まれて初めて熱中するようなコトが見つかり、彼にとって新たな時間がスタートしたように見えました。友達や顧問の先生との関係が彼を彼らしくしているのかな、と思いながら大会に送ったり、休みの日に僕がテニス相手に付き合わされたりしています。続けるのと同じくらい辞めるのって大切。
4歳の三男は、つい最近まで朝起きると「今日は幼稚園行く日?」と毎日親に聞いてきました。おお、時間からの解放はこういうことを言うのかと、彼の質問から妙に納得したのを覚えています。彼は今日がいつかわからなくても困りません。
それは、親という頼る相手がいるだけではなく、僕は親に頼っていいと思っているからです。頼り頼られるはひとつのコト。といったのは僕が敬愛する最首悟さん。重度心身障害者の娘さんを介護しながら、水俣病の研究もされていました。今年の2月8日にお亡くなりになられました。
亡くなるって瞬間が無くなるってことでもあると思うんです。それは本人の瞬間が無くなったことであると同時に、本人と関係があった人たちが、あなたと会える瞬間が無くなることでもあります。秩序だった時間が存在しないのだとしたら、たまたま存在していた点と点が出会うことは、巡り合えた奇跡ということなのかもしれません。
亡くなったから夜空の星になったのではなく、もともとすべてのことが夜空に浮かぶ星のような瞬間なのかも。星と星をつなぎ合わせて星座を作り、そこに物語を載せるのが人間の持つ知性なのだとしたら、認知症のお年寄りが繰り出す言葉の数々は、無数の瞬間のつなぎ合わせ。…お年寄りとともにいるとそんなことを考えたりします。
ミチヨさんに尋ねます。
「お父さん元気?」「元気だよ」この繰り返しを毎回行っているとミチヨさんの旦那さんは、本当に死んでいないように思えてきます。
「どこにいるの?」「家だよ」
「家でなにしているの?」「寝ているよ」
たしかに仏壇で寝ている!!
「娘さんは元気?」「娘は死んだ」
まてまてー! あんなにいつも足を運んで世話をしてくれている娘さん殺すなー!笑
「息子さんは元気?」「元気だよ」
たまにしか来ない息子は殺さないんかーい。
この世は不条理です。でも、死んでいても死んでいないように思えているならそれでいいじゃん。娘さんのことを殺したのもきっと娘さんのころみたいに活躍していた自分はもういないってことを意味しているんじゃないのかなあ。
息子さんについては、母親は結局最後まで手のかかる息子を存在させることで「母でいる私」を求めている、自己同一性を確保しているのだろうなあと思うのです。
ああ、また意味づけしてしまった。
ただただ起きたことを起きたまま、眺めていればいいのに。
「ミチヨさん教えてくれてありがとうございました。」
「どういたしまして」
僕がその場を去ってから、スタッフがミチヨさんに尋ねます。
「あの人だれ?」「知らない人」
話し相手をしてもらっていたのは、間違いなくぼく。
<小林敏志>
といっても、現地で施設を訪ねるつもりもないし、私の講演があるのでもない。ただカレーを食べ、名所を回りながら、そこに生きている人や牛やサルや犬に出会ってくるという旅だ。寄ってくる物乞いや物売り、路上生活者や野良牛に戸惑って、ホテルのベッドでウーンと考えこんだりする旅である。