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時間は存在しないプロジェクト
固定的な時間軸は存在しない。
個々人の生き方・経験が織りなす多様な時間性といかに付き合うか…

往復書簡List

第11通 (村瀨→小林)【ゼロに還る身体】
 第12通 (小林→村瀬)【ケアがすくすくと育つ土壌】

 WEB 往復書簡 「追伸:時間は存在しないのか」


 第11通(村瀨→小林) 【ゼロに還る身体】


小林くんへ

 実家には4匹の猫がいる。飼っているのではない。居着いてしまったのだ。父が死に、一人暮らしとなった母が、さみしさを紛らわせるために、1匹の野良猫を部屋に招いてしまった。若い雄猫だった。母に寄り添ってくれる猫を無碍にはできない。チビスケと名前を付けて餌をやるようになった。

 なんと、彼には家族があったのだ。隣家の軒下で出産した妻が、4匹の子どもたちと引っ越してくる始末。1匹の子猫を、なんとか里子に出すことができたが、残りの3匹は我が家の庭を根城に大人になった。

 猫たちはよく眠る。鼻をピンク色に染め、正体をなくして爆睡する。しばしば見回りのような散歩をする。縄張りを侵す他の猫を警戒し、出くわしてしまうと「ミャオーミャオ~」と変な声を上げて長時間にらみ合う。鳥を捕まえることができた日は、猫にとってよい日なのだと思う。おそらく鳥はごちそうなのだ。ネズミを捕らえたときは、勝手口にそっと置いて分けてくれたりもするが、鳥をもらったことはない。

 猫族は、そんな一日を過ごしながら、腹が空くと我が家にやってくる。5匹の猫が集まって窓越しから母と僕を見つめる。家の中と外を隔てる1枚のガラス戸をはさんで、5匹の猫と2人の人間が向き合う。10個の縦長に細い瞳が、無言のまま見つめてくる。なんだか、冷徹に観察されているようだ。彼らの眼差しを見ていると猫族の知性に人間の知性が負けている感じがした。

 本当は猫をはじめとした動物や植物たちが、この世界の主なのだと思えてしまう。彼らは、人間と比較にならないくらい自由だ。生きることにのみ、生きるという、「いのち」そのものが持ちうる自由なのだろう。

 人間たちが失って、生き物たちが持ち得ている自由について考えた。彼らは何故にあんなにも自由でいられるのか。それは、世界はすでに完成されているからだと思う。その営みの一員でいるだけで「時間に紐付けされた労働」なんてしなくても生きていけるのだ。

 完成された営みの内実とは、「食べて、出して、眠る」という、すべての生き物に共通する行為によって成り立っている。

 「他の生き物を食べて、うんこをし、他の生き物から食べられて、うんこになる」という関係性の循環が「いのち」そのものなのだ。生き物たちは、お互いを必要とし合っていて、決して排除なんてしない。食べるために。食べられるために。

「食べて、排泄して、眠る」だけの「わたし」という「いのち」

 その、ひとつ、ひとつが存在するだけで世界が成り立つ。そう、僕たちは生きているだけでいい。自由って、きっと、そういうことなのだ。

 僕は、老いを堪能しながら死ねる場所として、島を開拓している。そこに行くと「世界は完成している」のだという実感が強くなる。野でうんこをして、浅く埋めると、瞬時に臭いが消え、ゆっくりと分解される。地上にも、地中にもうんこを食べる生き物がいて、大きい生き物が出したうんこを、小さい生き物が食べて、うんこする。それを、さらに小さい生き物が食べて、うんこをする。その営みが繰り返されることで土が誕生する。

 黒っぽくて、ふかふかした土を嗅いでみると、とてもいい匂いがする。土は苗床となり、さまざまな生き物の「いのち」を育む。食べて出すという内臓的世界の営みに、時間の概念など無用なのだ。

 そう想いながら、実家の庭に出て景色をみる。春に霞む山なみ。水色の青空。肌をなぞる風。大地を彩る草木。野に響く鳥のさえずり。日だまりに横たわる猫。夜になると、森から鹿の鳴き声が聞こえる。家の中には、お迎えの近い寝たきりの母が居る。

 母も猫も何もしない。食べて、おしっことうんこをして、眠るだけ。それでも、この世界を成り立たせる存在のひとりなのだ。そして、僕は何もしない母の食べること、排泄することを手伝い、眠りを見届ける。

 今日も母をトイレに座らせて、摘便をした。立派なうんこがモリモリと出る。できれば水洗トイレに流さずに、土に埋めるといいのだが。死んだ後、土に埋めてやることができれば、母の体は最期まで、この世界の生産者でいられるのだけど。

 僕たち人間は自ら手放した自由を取り戻した方がよいように思える。書を捨てよ、野に還ろう。大資本が作り出す労働時間なんかに縛られずに。

<村瀬孝生>


 第12通(小林→村瀬) 【ケアがすくすくと育つ土壌】


村瀬さんへ

 あっという間に春の桜前線が通り過ぎ、びっくりするぐらい暑くなってきた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
 僕はお年寄りだけでなく制度の切り替えにも振り回されつつ、相変わらずてんやわんやで毎日を過ごしております。猫族の話、興味深かったです。
僕も小さい頃から「実は猫や犬とか動物のほうが人間よりも利口で、何もかもわかったうえで、動物の役を演じているのではないか」説を考えていました。

 村瀬さんのお手紙を読んで思い出したのと、大国の大統領が自分の機嫌で戦争を起こしていることに対しての怒りから、また思い出しました。 ただ命令するだけで、兵士や化学兵器を使って殺すことの無惨さといったら……。胸が苦しくなります。

21世紀になっても歴史から学ばず、同盟国の僕らの国のトップは犬のくせに猫なで声で「ノーベル平和賞」を推薦までしています。
本当に人間のほうが反知性的じゃないかと思っています。
「食べて出して寝る」だけで満足できない人間と、「食べて出して寝る」だけを繰り返して満足している猫や犬。

 はいこんちょにお住まいさんにヒロミさんというお婆さんがいます。ヒロミさんは、眠る時間が増えてきて一日のうち20時間は寝ています。食事のときとお風呂のときとトイレしたくなったときぐらいしか起きていません。食事中ですら目がつむっています。「目を」ではなく……。

 スタッフはアイスを出したり、うどんにしたり、家族から温泉卵が好きと聞いて出したり、あの手この手で誘惑しますが、徐々に食べないときのほうが多くなってきました。
それを家族さんに伝えると、お孫さんが会いに来てくれました。
その日スタッフから送られてきた動画を見ると、目が0.5センチくらい開いてました。奇跡です。

 夜中もトイレだけは起きます。
食べている量が少ないので、トイレの回数も少なくなってきました。
家族さんからは「どこか悪いところがあるのでしょうか?」と尋ねられ、「ご本人が苦しそうにしているなら、それも疑うのですが、食べるよりも眠ることを優先するぐらいスヤスヤ寝ていて、苦しそうじゃないんですよねえ。
なんだか起こされることのほうが苦痛そうで」と返しました。

 ヒロミさんには時間感覚はありません。
食べたいときに食べ、寝たいときに寝て、トイレに行きたいときにトイレに行く。
ピンピンコロリなんだろうなあって思っています。
 はいこんちょのお年寄りは、こんな感じでお亡くなりになる人が多いです。

ピンピンコロリって自然にしていたらみんななるんじゃないのかなあって思ってしまいます。
認知症になっている人のほうが痛みに鈍くなるからピンピンコロリの可能性は高そうです。
 僕もいつか老人的超越を迎えるその日まで、長生きできるように頑張りたい。
今の子どもたちは大人になりたくない、と思うようです。
少なくとも今の中年である僕は老人になりたいと思えるみたいです。

 野糞の話も少し。いやほんとに少しですから。約束します。
 ジロウさんは、おしっこを廊下でしたり、はいこんちょの庭で野糞します。
家族さんに相談したら家でも庭でしていたそうです(笑)。
この現代で地球に排泄物を還してきた強者です。
そもそも土に還りますもんね。
コンクリートジャングルになってしまったから気になるわけで、周りが土だらけだったら気にならないわけですから。

僕も小さい頃は長野の田舎だったのでよく野糞や立ちションしてきましたし、大人になってからは数回酔っぱらいすぎて花壇で野糞したことあります。
ちゃんと土で埋めたら臭くないんですよね。
地球に還す場所がどんどん減ってきたら問題になっているだけ。
生ごみも畑に還せば臭くないし肥料になります。

プランターでやったら分解が間に合わず、ハエがたかりやめました。
鹿沼には野良猫がまだいて、時々見かけます。
うちのスタッフもアパートで猫を飼っています。
どこかで買ったの?と尋ねたら、捨て猫の面倒を見ていたらなついちゃったと言っていました。

介護職はプライベートでもケアしています(笑)。
ドキュメンタリー映画の監督の想田和弘さんは、野良猫が多い地域のほうが寛容度が高いと言っていました。
 そういえば、先日4歳の三男とお花見に行ったとき、トイレの場所をお店のおじさんに尋ねたら、山の中に入って立ちションしちゃえばいいよって言われました。
鹿沼もまだ寛容度が高いのかもしれません。

僕もそんな息子と寝起きにじゃれ合うことに寛容どころか夢中。
猫がぐるぐる寝返りを打ちながらじゃれ合って遊ぶように、スマホを手放して寝起きの息子とじゃれ合うのを日課にしています。
子どもといるとぼーっとできたり、お年寄りといると夜勤の朝方、朝日の存在を意識したり、鳥のさえずりに敏感になれます。
子どもやお年寄りや障害のある人も含めて、大資本の労働時間の縛りから逃れる為に居てくれるような気がしています。

 あっそういえば、さっき出てきたジロウさん、うんち付きのパットを第2宅老所はいこんちょの隣の家の庭に投げていたんです。最低です(笑)。
 隣の家の方が教えてくれて、急いで管理者に謝りに行ってもらい、僕は文明堂の三笠山(どらやき)を持って再度謝りに行きました。
仏みたいなおばあさんで「大丈夫よ。誰にでもあることだから」って言って許してくれました。

ないです。絶対にないです。
隣家から、うんこ付きのパットが家の花壇に舞い降りることなんて。
 真面目で滑稽な呆けの世界と、そこに付き合う人たちもまた真面目で滑稽な優しい世界。
 本当に申し訳ない気持ちと優しさと呆けがつまった物語は、くすくす笑いながら涙がこぼれます。

涙と笑いが同時発生するのが介護の世界の醍醐味だと思っています。
翌日、お隣さんちの庭のある一角に、ジロウさんがいかないようにチェーンを張り、立ち入り禁止の看板を起きました。
その翌日、ジロウさんはいつもと違う様子に気づき、立ち止まり、しばらく考えたのち、チェーンをくぐって、またお隣さんちの庭の方へ向かっていくのでした。

 パットを捨てよ。野に還そう。(ジロウ)

 そんな気分に寄り添いたくなりますが、ダメ。石油製品で地球には還らない。

 そんなジロウさんは電気工事をしていたらしく、ドライブしていると電柱や電線を指さしては、「鹿沼中の電気を俺が通したんだ」が口癖です。
電柱の上で仕事をしていたからか鳥の鳴き声がわかると言っていました。
事実、ジロウさんが庭に出ると鳥の鳴き声が凄くうるさくなります。
スタッフと電話している声が聞こえなくなるくらい鳥がざわついています。
ティッシュもコーヒーに浸して食べようとするジロウさん。
お茶碗も箸も部屋に持っていって溜め込んじゃうジロウさん。
バケツにうんちしたジロウさん。

そんなジロウさんと、スタッフは毎朝一緒にごみ捨てに外へ行きます。
ジロウさんがごみ袋を持ってくれて。
僕が深々頭を下げてお礼を伝えると「困ったことがあれば俺に言いなよ」と100%本気のイケメンです。
「トイレで排泄してくれないから困っている」と言いかけて、やめました。
スタッフと二人で楽しそうにごみ捨てしている姿があまりにも素敵だったから。
水に流します、トイレの話ですから。

 はいこんちょは、お年寄りが周りの人たちに迷惑をかけてトラブルになると、なぜか時間とともに発酵して分解を促し施設や地域の「ケアの土壌が豊か」になっていくような感覚があります。

「これ使ってー」3年前に看取ったカズオさんの奥さんが調理ボランティアに来てくれている。アイスノンやバリカンを寄付してくれた。
「これ食べてー」2月に看取る二日前まで第2はいこんちょに通ってくれたモトヨさんの娘さんがタケノコを届けてくれた。

こんな時代だからこそ、希望は胸に高鳴っている

<小林敏志>

三好春樹と行くインド
 生と死を見つめる旅

■ 介護職よ、北欧へ行くより、
 インドへ行こう!

インド路地裏といっても、現地で施設を訪ねるつもりもないし、私の講演があるのでもない。ただカレーを食べ、名所を回りながら、そこに生きている人や牛やサルや犬に出会ってくるという旅だ。寄ってくる物乞いや物売り、路上生活者や野良牛に戸惑って、ホテルのベッドでウーンと考えこんだりする旅である。
おそらくそれは、私たちが介護、あるいは医療や看護という仕事の根拠としていたものを揺るがす体験になるに違いない。インドから帰ると日本で生きるのが楽になる!自由に生きりゃいいんだ、と開き直れるから。日本にない融通無碍、生と死を隠したりしないところ、それに近づきたいんです。