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● WEB 往復書簡 「追伸:時間は存在しないのか」
第13通(村瀨→小林) 【その、空気】
小林くんへ
4月24日の14時6分。母は死にました。
3月末頃から、あまり食が進まなくなり、食事の形状にずいぶんと工夫するようになっていた。
とろみが強いと、かえって飲み込めないし、かといって、普通の水分だと咽せる。
スムージーみたいな塩梅だと、ゴクリと音を立てて飲む。
これが、誤飲と紙一重で、一口、一口がドキドキなのだ。
飲み込むたびに「うっ」と声がでる。
食べ物が胃に到達する前に「もう無理、食べられない」と内臓が言っている感じがした。
眠る時間も増えたし、「もしかして死ぬの?」「いや、あと1年は生きるはず」などと、いろんな気持ちが交錯する。
「口から食べることができなくなったら、天寿として受け入れる」
そうやって、食べないことを了解してきた。
「でも、これが本当に天寿なのか」、それとも、食べるための工夫や努力をもっとすれば、「また、食べるようになるんじゃないか」、などと押し問答に明け暮れる。
食べることを諦めるには、徹底的に諦めない食事介助が大前提になる。
それは、よりあいのでの知見。
だから、執念深く食事介助をした。
けれども、この期間は、母にとって拷問だったかもしれない。
食事介助を諦めない僕に、母はよく付き合ってくれたものだと、今となっては思う。
まさに「ケアしているつもりが、ケアされている」だね。
諦めがついたのは、デイサービスに送り出す直前に、食べたものを全部、吐いてしまったから。
あのとき、無理に食べさせていたのだと自覚した。
食べて消化することにもエネルギーがいる。
その量が「呼吸する」「心臓が動く」といった「ただ生きる」ことを浸食し始めると、はいこんちょのヒロミさんが、食べることよりも眠ることを優先するように、人の体は「食べずに生きること」を選択するのだろう。
母はその状態に移りつつあると実感した。
埼玉で暮らす娘が「ますよ、ゴールデンウイークまでもつ?」(我が家族は、母を名前で呼んでいます。ちなみに、僕も名前で呼ばれます)と電話で聞いてきたので、「それは無理やろ」と応えると、翌日には飛んで帰ってきた。
母はその日から数えて、17日間を生きた。
僕と妹、僕の息子と娘・孫娘2人。
計6人が、母の飲まず食わずの日々に付き合うことになった。
時間なんて存在しない。
本当に、そんな感じだった。
まず、予定のすべてが無効となった。
約束を交わした人たちは、それを反故にしているのは僕であるにもかかわらず「こんなときに、すみませんでした」と謝ってくださる。
朝起きると、母の体を拭いた。
毎日拭いているのに、手のひらはちゃんと臭くなる。
多分体の中で臭い部位の上位に入る。
体全体は死に向かっているのに、隅々の細胞は新陳代謝を止めない。
口の中も独特な匂いがする。
食べること、消化することを止めた口と内臓。
体にすまう細菌たちも母と共に逝くのだろう。
死臭とは、母と生きた億を超える生き物たちが、一緒に死ぬときに放つ匂いなのだ。
1日、1日と過ぎていくうちに、体を拭くことすら恐る恐るになった。
けれども、母の虫の息は、あまりに好調で止まる感じがない。
僕の息子と娘はタケノコを掘りに行くし、妹は「ご飯をつくっていた方が落ち着く」と言い、せっせと家事に勤しむ。
ふたりの孫娘はシャボン玉を飛ばして、庭を走り回っている。
僕といえば、時間を持て余してしまい、母の体にスマホを立てかけ、寝っ転がってユーチューブを見た。
「これって、何時間?」
母があの世に逝くのを待ちながら、食べて、出して、眠って、遊ぶ。
そしてタケノコを掘った。
職場である、よりあいでの看取りでは、もっと死に逝く体に集中していた。
ご老体が不快でないように、家族の不安と共にあるように、医療とは違う眼差しがもてるように、知識や知見、感覚と第六感をフル動員して臨んでいた。
そりゃ、仕事だからね。
けれども、家族だけでの看取りは、拍子抜けするほど、何にも起こらない。
まるで、釣る気のない釣り人が、魚のいない池に糸を垂らして昼寝するような感じ。
それを思うと、よりあいでの看取りは、職業的課題を丸出しにして家族にもち込んでいたのだと思った(家族と介護職が共に看取る地平には、まだまだ、奥がありそうです)。
いずれにしても、未だかって体験したことのない17日間だった。
現代社会は、このような「よく分からない時空」を手放していることは確かで、その理由に「合理性が関わっている」と考えてみた。
「合理性とは何ですか」
AIに問うと「物事が道理や論理にかなっており、無駄なく目的を達成できる性質」と教えてくれた。
さらに目的合理性(設定した目標を達成するために、最も効率的かつ効果的な手段を選ぶこと)と価値合理性(自身の信念や価値観、モラルに忠実に行動すること)があるらしい。
はいこんちょやよりあいの介護、そして、母の看取りには、いずれの合理性も該当しない気がする。
そもそも、プロセスを出来うる限り最短化しようとする合理性の行動原理が内蔵されていない。
小林さんのお手紙を読んで、しみじみ考えることは、僕らは「付き合っているんだな」って。
いや、僕と小林さんが付き合っている? という意味ではなくて。
いや、ある意味?ではあるけれど。
小林さんは、超人的老人であるヒロミさんや、うんち付きのパットを隣の庭に投げるジロウさんをはじめとするご老体たちに付き合っている。
僕は、母とよりあいのご老体たちに付き合っている。
ご老体たちは、僕らに付き合っている(ケアしているつもりが、ケアされている。2回目)。
付き合うという行為には、合理的な時間をもち込むことはできないと思う。
なぜなら、僕らの「付き合う」には「落ち着くために」とか「改善するように」というような目的設定を存在させていない。
納期など設けずに、どんな結果が出ようとも、とりあえず一緒に彷徨う。
この「付き合う」という土壌なしには、ケアは生まれてこないと感じる。
実は、社会学者の上野千鶴子さんと対談してから、ずっと、合理性という強い言葉について考えているんです。
それでは、また。
<村瀬孝生>
第14通(小林→村瀬) 【死は存在しない】
村瀬さんへ
この度はお母様のお看取りをされたとのこと、心よりお悔やみ申し上げます。
手紙の文章が失礼のないようにchatGPTに確認しましたが、なんだか違う気がしました。
だって悔やんではいないですもんね。
もう存分に関わってこられたわけですから。
ああ、なんて返したらいいのだろう。
僕はいつもお看取りされた家族さんにかける言葉を悩みます。
だって、はいこんちょで家族を看取る家族さん達はもう存分に介護してきた人達ですから。
ただ、もう顔も見たくないほどに介護してきた人達にしかわからない心情がそれぞれあり、言葉かけが難しくていつも悩みます。
もう介護しなくてよいという安堵感もあるかもしれませんが、やはりもう会えないという寂しさは残ると思うのです。
悲しみというよりも寂しみ。寂しみなんて言葉があるのかはわかりませんが。
僕の親父は僕が21歳の時に仕事中の事故で亡くなりました。
死に目には逢えていないので、冷たくなった親父しか逢っていないことと、亡くなっていく過程を見ていない中である日突然この世からいなくなったために全く実感がわかなかったのです。
事務処理上はいないってことになっていますし、実際に動いている親父に逢えていないのでこの世にいないことは間違いないのですが、それと実感が伴うというのは一緒じゃないですもんね。
しかもね、人間はあまりにも実感がわかないと笑っちゃう生き物なのだと思いました。
親父のお葬式でのことです。
とても不謹慎な話なのですが、20年以上前なので書いちゃいます。
僕の田舎は当時、自宅でお葬式をやるのが主でした。
地域のお婆さん達がやってきて、親族とお坊さんと一緒にお経を唱えます。
うちは曹同宗で般若心経を唱えるのですが、みんな結構がっつり大きな声で唱えるんです。
お坊さんに負けないくらい大きな声で。
結婚式の讃美歌を唄う参加者ではなくて、前の方でこっちを向いて黒人のプロが唄っているのをイメージしておばあちゃん達にしてもらえたら。
それでね、お婆さん達だから全員耳が遠くて、だんだんお坊さんと同じタイミングでお経を唱えられなくてずれてきたのです。
どんどん遅れてきて輪唱みたいになっているの。
でもお婆さん達は耳が遠いから誰もずれているのわかっていないし、周りの人たちもずれているのに気づいていない。
もしくは気づいていても気にしない。
それがおかしくて、でもずっと我慢しながら僕も唱えていたのだけれど、一つ疑問がわいてきました。
最後の「ぼーじーそーわか、般若心経~♪」でお坊さんが終わる時、輪唱お婆さん達は一体どうなるんだろうと。
もしかして、最後の最後でずれていることがみんなにバレちゃうんじゃないかって。
もしくは、自分たちだけずれていたことにショックを受けるんじゃないかとか思ったらドキドキソワソワしちゃって。
最後の審判が来ました。
「ぼーじーそーわか、般若心経~♪」どうなったと思います?
そうなんです。
ずっと輪唱だったのに、最後なぜか揃っていたの!(笑)
それがまた可笑しくなってきて笑いが止まらないの。
誰も申し合わせたわけじゃないんですよ。しかも誰一人可笑しいとは思っていない。
真面目で滑稽なの。
あの風景思い出しただけでニヤニヤくすくすしてきちゃう。
姉も僕につられて笑いがこらえきれなくなり、兄も笑いそうになってきたため、僕と姉を後ろに行けと指示されました。
お父ちゃん子だった僕は、いつも親父にくっついて畑や田んぼに行ったり、サッカーや陸上やスキーの大会に付いてきてもらったり、親戚のお祭りやお葬式に付いて行ったりして育ってきました。
16歳で高校サッカーの強い高校の寮に入り、卒業後は県外の福祉短大に行き、就職してからも実家から3時間も離れた老健で働き暮らしていたため、一緒に暮らせたのはたったの16年間でした。
一緒に海釣りに行きアジが大量に取れたら向こう三軒両隣まで毎回おすそ分けをしていました。
実家は長野の雪深い土地なので、冬は除雪が大変なんですが、会社のユンボを借りてきて、隣の家まで雪かきしていました。
前の家のばあちゃんが病院に行く足がないので、仕事前に乗せていき途中で降ろしてあげていました。
建設会社で中間管理職をやっていたので、台風の時は砂防ダムが心配で見に出かけていました。
地域活動も熱心で田んぼや畑や小さな商店までやり、山鳥を飼ったり山菜取りに出かけたり、日曜大工から盆栽庭園までなんでもやる昭和の頑固親父でした。
そんな親父と覚えている思い出は、隣町のお祭りに出かけたときに、知り合いの駐車場に連絡もせずに置かせてもらった時のことです。
親父とお祭りを楽しんで帰ろうとしたら、車中に貼り紙がくっついていました。
無断駐車するな!!と書かれていて、親父が知り合いの人と家族(ちょうど同じくらいの年の子ども達でした)に謝りました。
親父の強い姿しか知らなかったので、親父が他者に迷惑をかけて謝っている姿がショックでした。
でも今思えばダメな姿を見せてもらえてうれしかったような気もします。
虚像としての父親像しかイメージがなかったら、その理想からずっと追われなきゃいけなかったわけですから。
親父が死んでからは、母親が日焼けするからとあんなに農業を嫌がっていたのに、親父が残した畑を日焼けで真っ黒になりながら続けています。
姉夫婦は親父が残したユンボを動かせるように資格を取りに行っていました。
兄貴は、地域の普請やお祭りの時に帰省して母の代わりに出ています。
僕はというと、親父が60歳で亡くなったので、60歳で死ぬと仮定して残り半分30歳になったら独立してやりたいことやろうと思い、奥さんの実家がある栃木県鹿沼市に移住し「宅老所はいこんちょ」を立ち上げました。
地域福祉に従事しているという点では似ているかもしれません。
親父の背中を見て、残された人たちが親父のように生きているとしたら、それは「死んでいない」とも言えるのではないでしょうか。
身内の介護は本当に大変なので、簡単には言ってはいけませんが、親父の分も母親には長生きして介護されてほしいと思っています。
今月、喜寿の祝いを兄弟家族でする予定です。
父が生前に母と一緒に最後に旅行した場所へ連れて行きます。
たまたま僕の息子たちが行ってみたいと言ったので。
なんだか身の上話ばかりになってしまいましたが、こんな回があってもいいですよね。
僕なりの哀悼の意を込めて。
お母様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
<小林敏志>
といっても、現地で施設を訪ねるつもりもないし、私の講演があるのでもない。ただカレーを食べ、名所を回りながら、そこに生きている人や牛やサルや犬に出会ってくるという旅だ。寄ってくる物乞いや物売り、路上生活者や野良牛に戸惑って、ホテルのベッドでウーンと考えこんだりする旅である。