UpDate: 2022/08/15

プロローグ

砂漠が美しいのは
どこかに井戸を
かくしているからだよ
[サンテグジュペリ]
- もしも根拠があるとしたら
-
2度目でも出会えるもの
そこに楽しさがある
3度目でも出会えるもの
そこにちょっと辛さがでてくる
なかなかみえないもの
隠れていた無意識が問いかけてくるからだ
真正面が僕の位置だ
何度でも出会えるもの
そこに味わい深さがでてくる
対面してきた辛さが
かけがいのないものに転化するからだ
横に並ぶ、そこが僕の位置だ
そんなひとに
そんな本に
そんな音楽に
そんな自然に・・・
ひとつでも
そんな出合いがあれば
どこででも佇むことができる
そんな「いとおしさ」
それが僕の根拠
- 突きつけられたもの…
-
3・11以後の世界と3・11以前の世界とは物事の在り方がガラッと変わってしまったと思います。政治的などの表面的なことだけでなく、普通の生活の日常性のなかに彼岸性が侵入してきて、いつもどこかしこに、その無常性が漂っているような気がします。
大震災のドキュメント映画「無常素描」は僕の心象風景のなかに入り込みました。過剰な解説や語りが一切なく、全編を通して吹き抜ける風の音、廃墟に中の風にそよぐ花たちの揺れる様などそのシンプルな映像は、ありのままの現実を、消え入りそうな方言でぼつぼつと語る被災者の想いを際立たせていました。
「生きらされたんだから…生きるしかないよ…生きたくても、死んでいった人がいっぱいいるんだから・・・」 吹き抜ける風のなかでは、どんな言葉も測りきれない深さをもった哲学に聞こえました。 その深さを、重さをどこまで共有できるだろうか…
インドの河底に散乱するヒトや動物の白骨を連想しました。インドってその生と死のドラマのなかでなにか、湿ってる部分を乾燥・蒸発させて気化しちゃったようなところ、突き抜けたようなところがあるように思えます。やっぱりブッダが生まれた風土だからかな…
- 異和を抱えながら…
-
ひとはそれぞれ固有な悩み・こだわり・想いをかかえて生きている。 そんな「個」のニンゲンが「他者」に出会い「共同」を生きるほかないという現実のなかでいろんな問題が発生するのは自然ななりゆきだと思う。人間の関係や意識は、どこまで共有できるかという「拡がり」と、どこで断念するかという「収縮」の均衡で保ってるんじゃないかと思っている。
「拡がり」「収縮」の均衡は「受容」「断念」の均衡と言い換えてもいいと思うし、どこまで「受容」できるかということは、どこでなら「断念」できるかということと同じ意味だと思う。
ひとは「観念」と「身体」の「現実的な関数」なんだから、思いが強すぎたり、疲れすぎていたり、余裕がなかったりするとそのバランスが崩れて、日ごろから溜め込んでいた「差異」が「異和」となって時空を越えてフラシュバック的に噴出したりする。
そんな悲しいサガをもった僕たちだからこそ、すれ違ったと思ったときは、すぐ振り返ってお互いに笑いあえる関係を作りたい。 問題がおきなければ見えない世界(関係)がある。なにかあるたびに世界(関係)がもっとみえてくる。
今ある世界(関係)は、今までの自分が蓄積してきた時間・記憶の集大成なんだから、いろんな世界(関係)と出会い、時間・空間の壁を越えて、その重層的な世界を漂えることができればいいなと思う。
