私は何千人の老化を見てきましたけど、猫と人間とはえらい違いがあるなと。それは何かっていうと、猫は歳を取っても、ひがまない。若い頃は自立していたのに、今こんな姿になって情けないってひがんだり、あるいは今は飼い主が介護してくれてるけど、この先もっと歳を取ったら最後まで面倒見る気があるんだろうか、ないんだろうか。それ考えると心配で心配で夜も寝られない。試しにちょっとナースコール鳴らして試してみようか、なんてことはやらない…
認知症の問題行動というのは、人間が過去、現在、未来の時間意識を持っているということから生じていて、過去の自分と今の自分を比べる将来のことを考えて絶望する。この時間の流れを止めるっていうやり方をすることで、その心配から逃れようという一つの方法論ではないのか。長田弘さんっていう私の好きな詩人がいます。「ネコに未来はない」という本を書かれていて、猫の前頭葉はすごく小さくて、時間感覚があるのは人間だけだと。猫と同じような動物の性に戻るということで、いわば老いていくていう課題を克服しようとしてるっていうのが認知症老人の時間感覚ではないことができるんじゃないかなというふうに思っています… (4・19 時間は存在しない講演会より)
Web往復書簡「追伸:時間は存在しないのか」スタート!!
認知症と呼ばれる老人たちはしばしば過去の話を現在のように語り、我々はそれをぼけていると感じる。だが、もしも時間が存在しないのであれば、認知が歪んでいるのは彼らではなく、我々の方なのではないか?
認知症の時間に日々対峙している現場からの、経済効率や合理主義や科学という共同幻想にがんじがらめになった社会への挑戦状となるか。
科学は介護に追いつくのか…
あざみ野講演での熱が冷めない中で、今度はなんと、お年寄りの豊かさを「老人性アメイジング」と呼ぶ、介護現場から生まれた哲学者・語りべの村瀬孝生さんが合流。小林さんと村瀬さんが時間について語る、web上での往復書簡は始まった…
- 往復書簡 List
●第1通 (村瀨→小林) 【原初の時間】
●第2通 (小林→村瀬) 【介護の原罪】
●第3通 (村瀨→小林) 【繰り返し、繰り返す】
●第4通 (小林→村瀬) 【ブラック日課、ホワイトナース】
●第5通 (村瀨→小林) 【時間に左右されない安全地帯】
●第6通 (小林→村瀬) 【時間を忘れる時間】
● WEB 往復書簡 「追伸:時間は存在しないのか」
第1通(村瀨→小林) 【原初の時間】
小林くんへ
「時間は存在しない」をテーマにするなんて刺激的。しかも、小林さんとの往復書簡で深めるなんて面白そうすぎる。
介護職は常に時空と向き合っているよね。老いやぼけが深まれば「時間と空間の認知力が低下する」と社会は認識している。よって、老体と社会の間には、時空のズレが生じてしまう。介護職はそのズレを調整しながら、ご老体の生活を支えている。ひとりぼっちにならないように。
現代を生きる僕たちの骨の髄まで染みている時空観念に対して、それとは異なる概念を示すことができたなら、機能低下の地平から理解されている老いやぼけの世界が、もっと違う風景に見えてくるはず。ご老体の時空に同調することで、共に生活を創ってきた介護職だからこそ、言葉にできることがあるように思う。
記念すべき第1回は「時間が存在しない」という本丸に切り込みたいところを、ぐっと抑えて「介護に在る時間」について考えてみたい。
それは、ペース、リズム、タイミングではないだろうか。僕らはいつもタイミングをとらえることに努めてきた。食べる、出す、眠る、といった生理的要求は過去にも未来にもない。「いま、ここ」にしか生じないものだから、ご老体のタイミングを受けとめるよりない。
その人のペースに合わせて介助できれば、誤嚥、便秘、感染症、不眠を緩和すことができる。習慣というリズムを集団の中で創ることができれば、生活はより安定する。
日常生活にあるタイミング合わせで、最も高次元なのは入浴だと思う。移動、脱ぐ、浴槽に入る、洗う、出る、拭く、着る。一つひとつの行為に同調するだけでなく、ご老体がその気にならなければ成立しない。
老いやぼけが深まった体は、言葉が無効化してしまう。よって、2つの体で1つの行為を行うことが日常になる。それは縄跳びをしているご老体の懐に飛び込んで、一緒に飛ぶようなものだと思う。上手く成立させるには、「待ち」が大切になると思うんだよね。
潮時がやって来るまでじっと待つ。待っているうちに、一緒に縄跳びを飛ぶために必要な条件が見えてくる。「今だ」というタイミングは、向こうの方からやって来ることが分かる。「待ち」は時を熟成させ、最適へと導いてくれる。
もちろん、潮時のような「時」に再現性はない。だから、行為するたびに、ご老体とタイミング合わせをやり続けるよりない。繰り返していると、ちゃんと息が合ってくる。気づくと、深い信頼がある。介護にある時間感覚とは、ペース、リズム、タイミング、そして待ちが絡み合って生成されているように思う。
このような営みが、人間にとっての原初的な時間感覚を創り出したのではないだろうか。遠い遠いご先祖様に思いを馳せてみる。自然との関係において、さまざまなタイミングを合わせたり、外したりすることに奔走していたのだろうと。
動物を狩る。植物を採取する。太陽や月の満ち欠け。潮の満ち引き。巡る季節。それぞれにあるペースをつかみ、タイミングを計り、リズムを編み出す。それはやがて、周期や法則性の発見へとつながっていったのだと思う。
僕ら介護職は、人間の内なる自然である老いと向き合っている。その非言語なる存在のペースをつかみ、タイミングを合わせ、2人で1つの行為を成立させる。それは、経済や産業によって計られる「時間」ではなく、命に直結した「時」なのではないか。
そのような「時」が、介護の世界には、今もなお息づいているように思う。そんな感覚ありませんか。
<村瀬孝生>
第2通(小林→村瀬) 【介護の原罪】
村瀬さんへ
この度は「時間は存在しない」という壮大かつ無謀なテーマを引き受けてくれてありがとうございます。村瀬さんと往復書簡で深めることができるなんて夢のよう。状況依存型の生き物なので、新しい危機がやってくると、手の中の課題を放り出して次の問題に立ち回り、結果的に継続力不足な僕です。だから、囃し立て、なおかつ好きに書いて良いと言ってくれる高山さんとシネマトンさんに感謝。なんだか続けられそうでワクワクしています。
さてと、村瀬さんが書いてくれた「介護に在る時間」について僕なりに。介護現場の時間について書きまくっていけば、いつか何かに辿り着くはず。みんながそう言うので、照れずに信じてみようと思います。書きます。
介護の短大を卒業して最初に入社した老人保健施設。
その頃の僕は、なんとか介護現場の時間を乗りこなしたくてギラッギラ。かっこいい先輩達の職人芸を横目で見ながら、より速くより多く業務をこなせるようにキビキビと動く僕。当時の施設は、画一的なケアが主流の施設でした。お昼休憩が終わって先輩達が戻ってくる13時半までに、100人近い利用者を全員寝かしつけることができる職員が仕事のできる職員…少なくとも小林の目にはそう見えました。
入社2年目の9月、シルバーカーを押して歩くカネさんが、僕が他のお年寄りを寝かしつけようとしていた部屋に入ってきました。時間に追われてイライラしていた僕は、カネさんに「この部屋じゃないよ」と声をかけて急な方向転換をしてしまい…。
バランスを崩すカネさん。
シルバーカーのハンドルを握って、ふんばるカネさん。
ああ無理だな、どこか他人ごとのように思う僕。
シルバーカーがガシャンと派手な音を立てて倒れました。
呆然とする僕の耳にはカネさんの呻き声が遠く聞こえました。
大腿骨頸部骨折。
お年寄りの時間に僕の時間を押しつけた結果です。ただただ自分の時間のことしか考えていませんでした。
その瞬間から僕の時間は止まりました。世界が止まって見えて、生きているのに生きていないような感覚の毎日。欝っぽくなりながら仕事を辞める勇気もなく。1、2か月した頃、早番が終わり僕は家のソファーで泥のように眠りこみました。
すると仕事中の事故で1か月半前に亡くなった父親が夢の中に出てきました。夢の中の僕は小学生ぐらいで、父親の運転する車の後部座席で揺られていました。車のバックミラーに父親の顔が見えて、馬鹿だなあって苦笑いしながら後部座席の僕を見ていました。気づいたら目が覚めていて、僕は泣いていました。泣いて泣いて泣きまくりました。
やがて涙が出なくなった、その時です。よし、全てを受け入れてこの仕事を一生続けて生きていこう。覚悟が決まりました。
介護職としての時計の針が、再び動き出しました。
あれから僕は時間という概念についても考えるようになりました。
お年寄りにとっての時間とは何か、何がお年寄りの時間を邪魔しているのか、行きたくないお風呂に無理やり連れて行くのは、1週間で2回という予定を実現させる為。時間はここでも介護する者達を縛っています。時間という支配者は、嫌がっていても無理やり行うことを介護職に強要します。食事のときも30分という縛りがあり、その中で全量摂取という結果を出さなくてはいけなくて、無理やり食べさせる。鳥の餌くれみたいに食べさせる。またしても時間のせいです。トイレの前に車椅子で何人も並ばされる。これも「トイレの時間」のせいです。寝る時間も介護する側に決められて、起きていたら精神薬を飲まされる。時間が僕らを縛ってくる。
お年寄りの時間感覚ではなく、介護する側に仕組まれたこの時間のせいです。
介護現場に在る時間は、介護する側のものではなくお年寄りのものでないと、悲劇が生じる。転倒、骨折、誤嚥、窒息、徘徊、帰宅願望、ろう便、放尿、暴力行為、、、、
だから僕は「介護現場における時間意識」に対して、20年以上経った今でも拘り続けているのかもしれません。
ごめんなさい。
お年寄りの時間の話まで辿り着けずに。
でも、まずこの話をしたかった。
カネさんにちゃんと挨拶をして
それから始めたかったのです。
小林敏志
といっても、現地で施設を訪ねるつもりもないし、私の講演があるのでもない。ただカレーを食べ、名所を回りながら、そこに生きている人や牛やサルや犬に出会ってくるという旅だ。寄ってくる物乞いや物売り、路上生活者や野良牛に戸惑って、ホテルのベッドでウーンと考えこんだりする旅である。