私は何千人の老化を見てきましたけど、猫と人間とはえらい違いがあるなと。それは何かっていうと、猫は歳を取っても、ひがまない。若い頃は自立していたのに、今こんな姿になって情けないってひがんだり、あるいは今は飼い主が介護してくれてるけど、この先もっと歳を取ったら最後まで面倒見る気があるんだろうか、ないんだろうか。それ考えると心配で心配で夜も寝られない。試しにちょっとナースコール鳴らして試してみようか、なんてことはやらない。 <三好春樹>
- 往復書簡List
●第1通 (村瀨→小林) 【原初の時間】
●第2通 (小林→村瀬) 【介護の原罪】
●第3通 (村瀨→小林) 【繰り返し、繰り返す】
●第4通 (小林→村瀬) 【ブラック日課、ホワイトナース】
●第5通 (村瀨→小林) 【時間に左右されない安全地帯】
●第6通 (小林→村瀬) 【時間を忘れる時間】
● WEB 往復書簡 「追伸:時間は存在しないのか」
第3通(村瀨→小林) 【繰り返し、繰り返す】
小林くんへ
介護職は誰しも十字架みたいなものを背負っているよね。「あの時、背後から声をかけなければ……」「あの時、もっとゆっくり食事の介助をしていれば……」といった具合に。僕にも同じような体験が山ほどある。
エミさんという99歳の婆さまを僕の食事介助で死なせてしまったんじゃないか。逆さまつげに悩んでいて、いつも目ヤニだらけの人だった。「申~し、申~し、切手を下さい」と言って、よく事務所にやって来ていた。胸の深いところに刻まれていて、忘れたことはない。
介護する側には、禁断の果実があると思う。してはいけない行為。
「縛る」「閉じ込める」「薬漬け」「たらい回し」
僕にとっての禁制は、この4つ。それを実現するには、対人援助技術を高めるだけでは限界があって、その技術を支える態勢を整える必要があった。そのことを抜きに、ご老体の時間に沿うのは難しい。
僕が最初に体感した老いの時間とは、100人が暮らす特養の隔離部屋にあった。盲目のハツさん。すぐ怒るウイチさん。足が達者なチヨノさん。ハツさんは、ひれ伏すような姿勢で「カミタマ村には~」と言い、ウイチさんは寝っ転がって「ほう、なるほどね~」と呟く。チヨノさんは「すっととん、すっととんと通わせて~」と歌いながら、狭い部屋を回遊した。
3人が隔離されたあの部屋は、いつ行っても同じ風景。僕にはそれが、山河であるかのように感じた。「悠久とは、こういうことをいうんだなあ」と感じ入ってしまった。儚さを生きる一個体が、あのような大自然的時間感覚を、醸し出すことができるだろうか。
ひたすらに同じことが繰り返され続けている。しかも、平然と。それが僕の時間認識を混乱させているのだと思った。3人は時間にバグを生じさせているが、僕にとってはとても居心地のよい部屋だった。
あの時、感染したんだと思う。ぼけの世界に。
皮肉だよね。隔離されることでバグが矯正されることなく、バグのままでいられるなんて。あの部屋がなかったら、現代の時間が3人を薬漬けにしてしまっていただろう。
自然界においては、僕ら(社会)の時間軸がバグなんだと思う。彼らの悠久は、隔離された空間にあっても自由を感じさせた。一方で、現代の時間軸は人から自由を奪っている。やっぱり、人のいのちは、社会がバグ扱いする「ぼけの世界」にあるのだと感じる。
繰り返し、繰り返されることに、繰り返し付き合う。そのようなタイムラインが介護現場、いや、生活には必要なんだろう。
「さいなら~」
夕方になると、決まって家に帰ろうとする婆さまがいた。最初は何とか、引き留めようとするのだけど、抗いが強まるだけだった。結局のところ、帰り着くなんて、できるはずもないから、歩き疲れて一緒によりあいに帰る。次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。
繰り返し、繰り返し、僕らは何をやっていたのだろう。たぶん、結果的に「家に帰れない現実」を受け止めることになっていたのだと思う。帰りたいのに帰れない。そんな、やるせなさを癒せるだけの魔法を僕らはもち合わせていないし、婆さまだって、そう簡単に諦められない。そもそも、どんなに歩いても、帰り着かなかった昨日を憶えていなかったりする。
だから、仕方なく一緒に歩く。あの一緒に歩く感じは、まるで、行先の分からないバスに同乗している心地だった。でも、繰り返しに付き合っていると「帰ろう」としなくなる。
過去から現在に至り、未来へと向かう時系列の記憶によって、現実を理解する原理が作動しづらい婆さまだ。どうやって「帰れない事実」を受け止めたのだろうか。過去の経験が文脈となって、帰らないことを選択したという判断が生じたようには思えない。
きっと、「帰れない」という事実を受け止めたわけでも、理解したのでもない。ただ、帰る気がしなくなったのだと思う。
よく分からないけど。理由が特定できない着地って、同じことが起こらない唯一無二の「いま、ここ」を、婆さまと職員たちで繰り返し続けたことと、関わりがあるんじゃないだろうか。
繰り返し、繰り返されることに、繰り返し付き合う。僕はそっちの方が楽です。
<村瀬孝生>
第4通(小林→村瀬) 【ブラック日課、ホワイトナース】
村瀬さんへ
村瀬さんも十字架みたいなものを背負っていると聞けて安心しました。僕だけじゃなかったんだって。お年寄りは死と隣り合わせ、そりゃそうですよね、長生きしてきた身体なのだから。そこに沿わせてもらうということは、幸せであり仕合わせ。生活と死がゆらゆらと折りあいながら過ぎる時間。
書きながら改めて介護は凄い仕事だと思います。介護福祉士の専門学校で講義とかしているけど、資格なんか本当はどうでもいい 。誰でもいつでも始められて、続かなくても、何度でも始めることができる。そこにこそ介護のすばらしさが詰まっていて、僕は好きだなあ。
介護は……業務独占資格を目指すべきじゃないと思う !だってだって介護の良さが消えてしまうし、ただでさえ人手が足りないのに拍車をかけてしまう。名称独占資格でお願いします。(なぜ僕は…村瀬さんに頼んでいるのだろうか)
話は飛びますが、
「縛る」「閉じ込める」「薬漬け」「たらい回し」
村瀬さんが定義する“介護する側の禁断の果実”。
禁断の果実であるからには、村瀬さんでも時には強く誘惑されたことがあったり、一度始めると中毒してしまいそうな怖さがある…ということでしょうか。そしてなるほど。全ての項目で近代的な時間や空間が関与してきそうな気配がプンプンしますね。
さらに、村瀬さんは反転までさせてしまう。もう!!!!まいりました。
「閉じ込める」=隔離=良くないこと
この概念を禁断の果実の1つにエントリーされるほどよく知る村瀬さんの前に現れた特養ホームの隔離部屋の光景。3人のお年寄りが織りなす世界。時間と空間が隔絶され、一般人と合わせられない人たちが閉じ込められているはずの、時代遅れなはずの、虐待的なはずの、隔離部屋で目にした光景とは。それは何と!(自分の言葉で書き直すのを諦めました。村瀬さんからの前回の手紙を読み直してください)
隔離部屋を良いものとしてはいけないんだけど、「じゃあどんどん隔離だ」なんて言い出す人がいたら絶対に許せないんだけど。でも村瀬さんが目撃した「隔離部屋の奇跡」は現場の実感として凄くわかる気がします。僕にもありました。
前頭側頭型認知症(以下ピック病)のミエさんというお婆さんがいます。ミエさんは、コロナ禍でのステイホームをきっかけに認知症が深まり、はいこんちょを利用するようになりました(コロナと隔離でも閉じ込める話をしたくなりましたが、ここでは省きます)。
日に日に不安は強まり、週2日の利用でしたが、デイサービスに来ない日は毎日10件以上僕に着信が入るようになり「今日はデイサービスお休み?」と確認するので、家族とケアマネと相談し毎日利用するようになりました。
数カ月後のある晩、娘さんから電話が来て、「もう限界です。はいこんちょで夜も見てもらえませんか?」切迫性を感じ、そのまま迎えに行き、お泊りがスタートしました。家でも毎日同じ事を聞いていて、家族関係は限界だったようです。
それから毎日が悪夢でしたね、もちろんはいこんちょが。
ピック病のお年寄りは、常同性を好みます。日課が代わったミエさんは、昼間のはいこんちょは良いのですが、夜になると「なぜ家に自分がいないのか」について、納得がいかなく暴れ狂うのでした。包丁やナイフを持ち出したり、モノを壁に投げて穴開けたり、鍵を壊したり、職員を叩いたり。
はいこんちょという組織をたった一人で壊滅状態にする姿は、まるで鬼滅の刃で炭治郎が町で炭を売って家に帰って来たら家族全員が鬼に襲われて絶滅していたあの感じです。
このままでは他のお年寄りも介護できなくなってしまう危機を感じた僕は、ケアマネさんと家族さんにお願いして精神科に僕ら介護職のレスパイトとして短期間の入院を提案した。ありがたいことに了承してくださり、2週間の入院が決まった。どうにかしてこの2週間で組織を立て直し、新たな対策を考えなくては。
精神科の病室は、隔離部屋で刑務所みたいな感じ? 外から中がのぞけて、トイレまで見られちゃう。動物園に近い。ミエさんにごめん、と心の中でつぶやいた。必ずまた受け入れられるように体制整えとくからと誓う。
病院の婦長さんに許可を貰い、様子を伺いに行く。婦長さんいわく「最初は食事を窓ガラスにぶちまけたりして大変でしたが、だいぶ落ち着きました」とのこと。よく施設で見ていましたねと労ってくださる。共感してもらえて嬉しかった。ちなみに窓は強化ガラスだから大丈夫みたい。
「落ち着いてきた」理由は他者との交流がゼロになったからだという。もちろん精神薬を飲んでいたが、その影響で穏やかになったのではないと思う。理由は、落ち着いてきたからと他の人たちと一緒に過ごしてもらうようにしたら、すぐに喧嘩して個室に連れ戻したらしいので。実にミエさんらしいミエさんだ。つまり全然落ち着いてはないやん。
このエピソードから僕は、真剣に、はいこんちょでも隔離室を用意できないか、考えた。南京錠ならいけるだろうか。いやだめだ。病院でしか許されへん。介護が悪いほうへ向かっていく予感もした。でもこのままでは、僕らはご近所からも追い出される。ピンポンをならしまくり、タバコに火をつけたまま怒ってご近所を走り回ったりしていた。ところでいつから僕は関西人に?
なにかないか、小林。考えろ、絶対に僕らなりの回答はあるはずだ。
ミエさんちはどうやって今まで乗り切ってきたのだろうか。
そうだ、「昼間は自宅にいなかった」からだ。
退院後の僕らは、ミエさんが自宅で過ごしてきたときと同じように、毎朝「はいこんちょ」へ向けて出発した。はいこんちょからはいこんちょへ。1日ドライブして過ごし、夕方「はいこんちょ」へ戻る。ただいまと言って「はいこんちょ」から帰ってきた体裁で。
ミエさんは、日に日に落ち着いていった。
自分だけの時間と空間が「車の中」にできたからだと思う。
そして、新たなピック病のお爺さんの利用が始まり「1人」じゃなくなったことも落ち着いてきた理由だと思う。運転手として僕ら介護職は同乗していたが、二人っきりよりも後部座席の隣に「誰か」乗っていたほうが落ち着いていた。二者関係よりも三者関係のほうが豊かな関係を築けるからなのだろうか。いや、ただただ運転手の僕らが1対1だと不安で、誰か乗ってくれていたほうが安心してドライブしていただけかもしれないけど。
誰かに合わせられない人のために作った日課が、
誰かに合わせられない他の人の為の日課にもなっている。
ねえ?これからどこにいくの?
はいこんちょです。
うそばっかり。
ねえ?これからどこにいくの?
ミエさんちですよ。
そうやって1回も連れて行ったことないじゃない。
ねえ?これからどこにいくの?
黙ってみる。
聞こえないふりして、私を騙すつもりでしょ。
なに言っても怒られる笑。
でもそれでいい。
1人じゃ喧嘩もできないから。
小林敏志
といっても、現地で施設を訪ねるつもりもないし、私の講演があるのでもない。ただカレーを食べ、名所を回りながら、そこに生きている人や牛やサルや犬に出会ってくるという旅だ。寄ってくる物乞いや物売り、路上生活者や野良牛に戸惑って、ホテルのベッドでウーンと考えこんだりする旅である。