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介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話

2011 ①
2011年5月  脱原発のために新聞と携帯をチェンジしよう!

~ 緊急メッセージ ~
Bricolage5月号発刊!表紙及び、「介護夜汰話スペシャル・経済より命、原発より介護」をぜひ読んでほしい。
原発と老人介護は相容れないことが明らかになったと思う。さらに6月号には、このHPで発表した「石原にこそ天罰を」に大幅加筆して「国家よりいのち」という副題をつけたものを掲載する。老人介護と国家もときとして二律背反となることは心しておこう。

原発をなくすために私がやってること、やるつもりのことを2つ報告する。
まず新聞を変えた。朝日から毎日へ。腰が引けてる朝日に対して、「浜岡を止めろ」と主張している毎日へチェンジした。サンケイや読売をとってる人ももちろん、すぐやめて毎日にしよう。契約が残ってる人は、引っ越しするからと言えばいい。

もう一つ。家族4人揃って携帯電話をソフトバンクにチェンジする予定。
孫正義の100億円の寄付に感激したのではない。そんなもの介護職の1万円のカンパのほうが立派だ。心が動いたのは彼が原発が間違いだったとはっきり表明したことだ。こんな経済人は他にはいない。
毎日新聞にも孫正義にもすざましい圧力や脅しが来てるだろう。
私たちにできることはこんなことぐらいだ。ぜひ続いてほしい。

2011年5月  還(かえ)り道の思想へ

介護夜汰話ロゴ
~経済より老人のいのち、原発より介護~
東日本大震災・津波についての衝撃は、いまだに私の心と身体の中に余震のように続いている。それは簡単に表現できるものではないように思われる。それでも私は、たくさんの衝撃の中でも、ある複雑な衝撃については早く語っておかねばならないと思っている。

それは、原発についてである。原発事故についてのテレビの報道規制の露骨さには驚いた。福島第一原発で働いているスタッフの家族からのメールが紹介された。その内容はすでに日刊紙で報じられていて、私はほぼ全文(と思われる)を知っていた。それは要約すれば「地震は天災です。しかし原発事故は人災です。それは東電の原発がここにあったから起きたのです」という内容だった。

ところがテレビ番組では「地震は天災です」まで紹介してその後はプッツリ切られていたのだ。そして、夫を心配する家族愛の話になっているのである。テレビ局は、原発を推進してきた財界と自民党と電力会社とずっとタッグを組んできた。東京電力をはじめとする全国の電力会社は最も大口のスポンサーである。東電管轄地域の人たちは、“TEPCO“のコマーシャルをさんざん見せられていたはずである。

見るがいい。テレビ番組に出てくる原子力の専門家はみんな御用学者である。かれらの「安全」を信じたばかりに、私たちはこんな目に遭っているのだ。そのうえテレビ局が率先して“節電“を呼びかける。だったら5つもある民放が、順番に 5 日に1日放送をやめりゃいいじゃないか。どうせ同じようなことしかやってないのだから。特に BS なんか、テレビショッピングしか流してないんだから全部やめればいい。節電というなら、まず自分が率先しろよ。

震災後、何人かの同世代の知人と会った。彼らもまた私と同じく“複雑な衝撃”を受けていた。私たちに共通していたのは一言でいえば自己嫌悪である。なぜあの時代に原発を止められなかったのかという後悔であり、とうとう起きてしまったことへの責任感のようなものだ。若い世代は違う。彼らは原発を当たり前のものとして育った。むしろ、地球温暖化防止の“クリーンエネルギー”(!!)だと教えられてきたのだ。

でも私たちは違う。核エネルギーを導入するにあたっては激しい反対論があり原発の建設にも地域ぐるみの反対運動がくりひろげられた。もちろん私も反対。私の反対の根拠はいくつかある。子どものころに広島で育ち、放射能の怖さを身近に見聞きしていたことも一つ。さらに最新科学である核を十分コントロールできるのかという不安、そしてそれを「安全」と言い切る科学者たちの傲慢さへの不信、政府、財界、マスコミをあげての推進という「大政翼賛会」のような、キャンペーンへの本能的反発などなど。今思えばこうした素朴で直観的な反対論こそ正しかったことがよくわかる。

それでも彼らは「想定外」と言えば済むと思っているらしい。一句つくった。「想定外、想定外で、地獄行き」想定外ではない。想像力不足だ。いや傲慢である。その傲慢さはまだ続いていく。静岡県の中部電力の浜岡原発は、今回の経験から 12 mの防波堤をつくるのだそうだ。やれやれ、津波で壊れた防波堤のコンクリートが原発にぶつかって大破するだけではないか。

テレビはもちろんだが、新聞や雑誌の報道にも私は違和感だらけだ。菅首相を揶揄する記事がじつに多い。たしかに頼りない。しかし財界や東電とベッタリで原発を推進し続けてきた自民党ならもっとひどかったことは疑いない。住民とともに総撤退して、後は野となれ山となれ、なんて可能性だって強かったと思う。東電へのバッシングも多い。テレビ局と違って東電からはあまり広告料をもらってないのだろう。たしかに東電をはじめ電力会社の体質はひどい。でも、事故の隠ぺい、データの改ざんなんか日常的で、それをいまさら批判してどうするんだ。彼らはそんなことは悪いことだとは思っていない。なぜならもっと悪いことをして原発を推進してきたのだから。

私は責めるべきは政府でも原発でもないと思う。電力会社に責任はある。原発を推進してきた自民党政府はもちろん、それを継承した民主党政府にも責任はある。しかし、私たちみんながそれを選んだのだ。私のような原発反対の人間も含めて、より安価な電力で経済力を高めるという道を選んできたのである。そしてその経済力による豊かさを享受してきたのだ。さらに、もう少しで原子力発電を「クリーンエネルギー」だと信じこまされるところまで来ていたのである。

もちろん、選んだのではなくて、無理やり選ばされたとは言える。財界と自民党は「日本が豊かさを保つのか、それとも落ちぶれるのか」という二種択一で国民を脅かすキャンペーンを始めた。原発に反対する者は“非国民”であるかのように扱った。武器は二つ。金と暴力だ。交付金、補助金、さらにワイロが飛び交った。地元の俗物有力者、議員、町内会長の順に買収されていった。それでも反対する者には暴力団を雇って脅かした。村八分もイジメもあった。もちろん反対もあった。原発賛成派の子どもがイジメられることも。不審死や自殺も多くあった。原発反対の科学者やジャーナリストも露骨に脅かしを受けたという。今では当たり前だと思われている原発エネルギーはこうして日本に定着し、今では全電力の4分の1を占めるまでになった。

こうした金力という暴力と直接の暴力とで原発はできあがった。だから彼らは、事故の隠ぺいやデータの改ざんなんか悪いことだとはちっとも思っていないのだ。「国際競争力のために安価な電力」を求めての原発推進は、たしかに自動車や電気製品、IC チップを大量に輸出したかもしれない。しかし、それは同時に、人の命や生活を安価にみなすことから始まっていたし、さらにそこへ帰着していったのが今回の事故なのである。

私たちは「日本が勝ち組になるか、負け組になるか」という二者択一的脅迫に屈するかたちで原発社会を選ばされた。しかし、そうやってつくられた社会はどんな社会だっただろうか。グローバルスタンダードについていくために効率を求められ、過酷な長時間労働のあげくの非正規労働者への転落、いじめと自殺をもたらしたのではなかったか。二者択一を迫られたときは、これはワナだと思ったほうがいい。第三の道、第四も第五もあるはずなのだ。なにより、二つに一つという想像力の欠如した問いにはのらないことだ。

原発を使わないで豊かになる方法だってあると考えないのだろうか。電力は少々高いかもしれない。しかし、日本にしかつくれない商品をつくれば少々高くても世界中で買ってくれるだろう。もっとも画一的教育を受けた日本人にそんな独創性が残っているかどうかという問題はあるけれど。いまだに原発のない国の人たちは貧困にあえいでいるだろうか。イタリアやスイスやノルウェーの人たちはどう見ても日本人よりも幸せそうに見えるじゃないか。ドイツ政府はかつて原発全廃を決めた。その後の政権交代で元に戻るのだが、今回の日本での原発事故によって二十数万人の反原発デモが起こり、原発反対を訴える党が地方選挙で躍進しているという。

なぜ日本の若者たちは反原発のデモを起こさないのだろう。ボランティアと同じくらい大切なものではないか。もっとも多くの「若者」は就活で忙しい。「正規雇用かホームレスか」という二者択一を迫られているからだ。「おじさんたちは闘ったぜ」なんて言う気はない。あれも乱暴な二者択一だった。下宿や寮の部屋に各党派がオルグ(=組織化。勧誘や説得くらいの意味)にやってくる。明日のデモに参加しろというのだ。「デモに出るヤツはベトナム人民の味方、出ないヤツはアメリカ帝国主義の味方、さあどうする?」。だから当時の若者はみんな悩んだ。気が狂ったやつも自殺したやつもいた。

原発にちゃんと反対しようと思う。もちろん二者択一じゃない形で。だって、原発の事故で避難を強制されて最も犠牲になるのは老人である。特に要介護老人だ。今回の地震・津波、そして原発事故でも多くの老人たちが死に至らしめられた。老人たちを放置して逃亡したる関係者もいた。逆に、老人を避難させるために自分を犠牲にした関係者もいたと報じられている。頭が下がる。つまり、原発が一旦事故を起こせば、犠牲になるのは要介護老人と心ある介護関係者である。

そんな原発が日本中に存在しているのだ。日本中の 54 基(原子炉)の原発から 30 ㎞圏内に無数の老人介護施設がある。その命と生活が脅かされているのだ。もっと発展を、もっと豊かにという、いきっぱなしの思想*の象徴が原発である。それらは哲学者フーコーが言ったように「死を無視することで近代は成立した」、その究極が原発事故だったと思う。死とそれに至る老いという自然にちゃんと向き合うこと、地震や津波といった大自然に勝とうなどと思わないことが求められているのだ。

すべての浜辺の原発に 20 m、それでもだめなら 30 mの防波堤を建てようなどという、どこまでいっても懲りない近代人の発想を卒業すべきなのだ。それはバベルの塔だから。原発の製造はただちにストップする。特に、東海大地震に見舞われる浜岡原発はすぐに停止し、廃炉化する。さらに、古い原発から廃炉とする。不足する電力はできるだけホントのクリーンエネルギーで補充するが、それでも足りないものは石油、石炭、天然ガスでもやむを得ない。

しかし、すでにカナダの電力使用の4分の1以上を占めている水素による発電は日本でもすぐ実用化できるはずだ。水素は爆発の危険性はあるが、放射能はばらまかない。それよりなにより、安全な電力でつくることができるだけの自動車、電気製品、電子部品をつくるということでいいではないか。目の前の金もうけに走った結果、日本製品に放射能汚染のレッテルがついて、かえって売れなくなっているのだから。

しかし、もしそうした脱原発の政策を日本人が選んだとすれば、財界はおそらく自衛隊を使ってクーデターを起こすだろう。なに、彼らにとってはそれまで使っていた暴力団が暴力装置に代わるだけの話である。経済より老人のいのちを大事にしよう。それが老いと死にちゃんと関わる還かえり道の思想に近づくことである。

*いきっぱなしの思想、還り道の思想、については『最強の老人介護』(講談社刊)の第一部を参考に。
*追伸1.浜岡原発の堤防は、その後津波の規模が判明したあと 15 m に変更された。
*追伸2.原発反対デモは行われている。しかしテレビも新聞も報じない。何しろ電力会社、日立、東芝、三菱、みんな大事な広告主である。
*追伸3.毎日新聞は偉い! 4月 18 日付で「浜岡原発を止めろ!」と主張している。新聞を毎日に変えよう。私の連載も読めるし。

撮影:園 吉洋(山形県・デイサービスめぐみ
2011 年 3 月、宮城県石巻市の風景/撮影:園 吉洋(山形県・デイサービスめぐみ)

雑誌『AERA』が防毒マスクを表紙にしたところ、危機感を煽る、とクレームが来て、謝罪した。危機感のない人、さらに電力会社、日立、東芝、三菱や財界などに丸め込まれている人にこそクレームを! テレビの広告で「デマにふりまわされないようにしよう」と言っている。そのとおり、他の原発は安全だなんてデマにふりまわされないようにしよう。


2011年4月  『一つになる』前に原発関連死の責任を問え!

私は地デジ化してもテレビは買い換えない、と宣言しているので、騒々しい世界ともあと数ヶ月のつき合いである。騒々しいのなら見なきゃいいのだが、ここ最近は必要に迫られて画面をつけっ放しにすることが多い。頻発する余震である。

私の携帯電話は古くて、「緊急地震速報」には対応していないので、テレビで知るより他にないのだ。生放送がいい。速報が出て、東京のスタジオが揺れてきたら、その直後に神奈川県東部の我が家も揺れ始めるので、食器が割れぬよう戸棚を押さえるのである。

そのテレビのキャンペーンのコトバに私はひっかかっている。「ひとつになろう」。う~ん。地震と津波の被災者を支えるためにというのなら判らぬことはない。自粛の強制やチャリティ以外のコンサートが批判されるといった行き過ぎの「ひとつ」は別にして。

しかし私たちは今、原発という問題を抱えている。それに関しては私はとても「ひとつ」になんかなろうとは思わない。それどころかこの事故の責任を追求すべきだと考えている。

大地震と津浪で多くの人命が失われた。それに比べて原発ではまだ死者は出ていないなどとは言わせない、高齢者はいっぱい死に追いやられている。

認知症老人のケア、さらに認知症にさせないケアのための7原則の最初の3つに挙げられているものを思い出して欲しい。
①環境を変えるな
②生活習慣を変えるな
③人間関係を変えるな(拙書『痴呆論・増補版』より)

福島原発周辺住民の強制避難によって変化に弱い老人たちは、環境も生活習慣も人間関係も一瞬にして変えられ、アイデンティティを失って生きる意欲を失い、死への道を辿らされているのだ。「災害関連死」という言い方に倣えばこれは「原発関連死」である。

誰が原発を誘致したのか。
当時の市町村長、原発に賛成した議員、町内会長らよ。当時もらった賄賂(わいろ)とただで飲み食いした分を避難住民に回したらどうだ。

誰が原発政策を推進したか。
自民党よ、電力業界からもらった「政治資金」という名の賄賂も福島県民に回したらどうか。もちろんそれを引きついで、「原発技術を輸出する」なんて言っていた民主党も。「ひとつ」になるのはそれからだ。

「日本は強い国です」。デリカシーがないなあ。強い国だから侵略もした。近隣の国の人達はどう思って聞くかね。軍事的に「強い国」をめざして、ひどいことをし、ひどいめに合わせてやっとそれを諦め、今度は経済的に「強い国」をめざして、輸出品を安く作るための安価なエネルギーを求めて原発に手を出してこの事故である。

この国は一度だって命を守る強い国になんかなったことはないのだ。こんな老人が死んでる事態になっているのに今だに「豊かな日本のためには原発は必要」などと言ってる輩がいる。堀江だの勝間などといった金儲けの上手いだけの連中である。彼らは金儲けのためなら老人の命なんか犠牲になっていいと言ってるようなものである。こうした「我欲」の象徴が原発なのだ。石原よ、原発に反対しろ!

「デマに惑わされないようにしよう」。これは正しい。「福島以外の原発は安全」とか「日本には原発以外のエネルギーはない」といったデマに惑わされないようにせねばならない。「原発は安全」というデマにずっと惑わされてきたのだから。


2011年4月   『ブル新』というコトバを思い出した

~地デジも見ないし、新聞もやめるぞ!~
「ブル新」というコトバがあった。「ブルジョア新聞」の略で、かっての学生活動家が使った。大学のバリケード封鎖が日常的だった頃、朝日や読売の記者が取材にきて名刺を出すと「なんだ、ブル新か」なんて言ってたものである。そう言われた記者の側も、申し訳なさそうな顔をした、そんな時代だった。

じゃ、「ブル新」つまり、ブルジョア=資本の側から広告をもらっている商業主義ではないメディアがあるのかというと、それは活動家が所属する党派の機関紙のことなのである。「解放」とか「前進」とか「叛旗」なんて威勢のいい名前がついていた。

日の丸や君が代を強制するのに反対する人たちが、じつは別の赤い旗なんかへの忠誠を強要するようなもので、そんなものはどっちにも「ナンセンス!」と言ってやればいいのである。おっと、「ナンセンス」も当時の活動家の使った相手を否定する常套句である。

その「ブル新」というコトバを久し振りに思い出した。原発をめぐる新聞報道を読んでいてのことである。やはり彼らは、電力会社、そして原発のプラントを製造している東芝、日立、三菱という資本の側の飼犬である。

スターリン並みの強制移住で老人が次々と「原発関連死」に追い込まれているのにまだ「科学の力で乗り越えられる」なんて脳天気な主張をしている。じゃ「ブル新」じゃないメディアはあるのか。ネットを評価する人はいるがどんなものか。ネット右翼というらしいが、知性も何も無い連中のタワ事ばかりが溢れているではないか。

私のようなアナログ人間はやはり活字を求める。『読書人』の4月22日号には、ジャーナリスト上杉隆の「マスメディアへの提言」というインタビューが一面トップだ。彼は今回の原発を巡る報道で”ブル新”に愛想を尽かして、引退宣言までしている。
『図書新聞』の4月23日号は、評論家の関曠野の特別寄稿がトップだ。「計算不可能な原発事故のリスク、原発はテクノロジーの名に値しない極端なアクロバットだ」とある。

2誌とも昔から続いている書評誌だ。広告主は出版社ばかり。出版社は大手数社を除けばプロレタリアートと言ってもいいような零細企業ばかり。だから「ブル新」には言えないことがちゃんと出ている。
問題は本の好きな人向きだから、独特のインテリ臭さがある点だろう。関氏の文章なんかチンプンカンプンという人が多かろうが、その主張は見出しだけで十分判る。

2誌とも週刊。本屋の雑誌コーナーの片隅にあるはずだ。反原発を抑え込むためなら、金でも暴力でも惜しむことのない”ブルジョア”に潰されてしまう前に目を通されんことを。

2011年4月  小沢と鳩山にも天罰

小沢一郎が「倒閣」を宣言したそうだ。鳩山由紀夫も同調しているという。こんな時に何をしているのだろう。いま最大の課題である原発問題は、長年、自民党が推進してきた政策の結果である。

菅政権はその尻拭いをさせられてると言っていい。小沢、鳩山両氏はその自民党の幹部だった人たちだ。二人が今やるべきことは、その政策の誤りを認め、国民、特に福島県民に謝罪することではないか。歴代の自民党党首と共に。

さらに彼らがやるべきことは、今後の日本のエネルギーのあり方についての政策を提出すべきである。そうでなければ、権力欲と派閥の論理による”管降ろし”としか思えない。

いま必要な政策とは何か。東海大地震が来れば福島の再来になりかねない浜岡原発をただちに停止すること、そして何年かかるか判らないけれど危険な原発に頼らないエネルギー政策に転換することだ。

これをぜひ超党派でやってもらいたい。いろんな政党を転々としてきた二人の人脈を生かせる最後の政治活動として。

PS.毎日新聞は偉い!3月18日付で「浜岡原発を止めろ!」と主張している。朝日を止めて毎日をとろう。私の連載も読めるし。

2011年3月  緊急発言(許転載!)石原にこそ天罰

また東京都知事の石原慎太郎が、今回の地震と津波に関してじつに馬鹿な、そして彼らしい発言をしたのはご存知のとおりだ。彼は昨年、戸籍だけが残っていて生存が確認できない高齢者の問題が起きたときにも、祖先を弔うことすらできなくなったと”我欲”というコトバを使って日本人を批判した。

しかしこの一連の高齢者を巡る事件は、それぞれに個別の事情があって、たしかに”年金”詐欺が目的のものもある。しかし11月のオムツ外し学会における評論家の芹沢俊介氏の「自分でもそうなるかもしれない」という発言のほうが、はるかに想像力のある人のものだと思う。

こうした石原発言への違和感と同じものをかつて、いわゆる「赤ちゃんポスト」問題に対する当時の安倍晋三元首相の批判的発言にも感じたことがある。それは一言で言うと、「あんたのような生活に困ったことのないものから言われたくない」というものである。

阿部や石原といったお坊っちゃまが豊かな環境に生まれ育ったのは彼らが悪い訳ではないが、せっかく豊かさを享受したのなら、豊かな想像力を持つことは責務ではないだろうか。特に政治家なんだから。しかも石原は元作家ではないか。

今日食べるものすらないとなると人間は”我欲”を発揮して当然だ。そういう状況にならないように骨を折るのが政治家ではないか。ところが日本で最も金持ちの東京都で、老人たちは群馬県の劣悪なホームに追いやられて火事で死んでいるのだ。”我欲”を批判する前に石原がやることはあるだろう。

”我欲”というなら、ナショナリズムと民族差別こそが最も醜悪な”我欲”である。もし天罰というものがあるのなら、石原にこそ下るべきである。その石原を首都の首長に選んでいる日本人の精神構造にも。

 Read Me Please! 

icon 経済よりいのち 原発より介護
安価な電力 安価ないのち
金と嘘と暴力で作った原発に さよならを
命と自然を売るな、買うな