●「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /
経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
(三好春樹)
●「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
(方方)
● 介護夜汰話
- 2014
-
- 2014年12月 加担しないでただ生きる
~『悪童日記』の双子のように~
映画はめったに見ない。なにしろ金がかかるし、たとえ無料でも時間が必要だ。時間と金という最も大事なもの2つを失うとなるとそれに見合うだけの内容かどうか確証がないと見る気にはならないのだ。ちなみに、ショッピングが好きという人がいるが、時間と金の両方を失うことがなぜそんなに好きなのか、私には理解が難しい。だから、時間が余ってしようがなくて金がかからないときには映画を見る。長い間、機内にいるときがそうだ。
最近見たのは、往路が『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』。インドの風景から、あの日差しやにおいまで伝わってくるようだった。ご都合主義的なストーリーではあるが、人間も社会も描けている上質の娯楽映画だった。復路が『ハンナ・アーレント』。『全体主義の起源』の著者である哲学者、ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』の連載、出版によって引き起こる騒動を映画化したもの。
ナツィ(ナチをアンナはこう書くのでそれにあわせる)の戦犯のアイヒマンだけは実録の白黒映像が使われているのも話題になった。ナツィの国家主義を根底から批判する彼女は、ユダヤ人の側の国家主義=シオニズムにも一切加担したりしない。そこで同じユダヤ人たちから厳しい非難を受けるのだ。でも彼女は一切動じない。見事な生き方だ。
新聞の映画の広告を見ていて驚いた。『悪童日記』が上映中だという。「あんな小説が映画化されるとは!」と驚いたのだ。原作はアゴタ・クリストフという、ハンガリーからフランスに亡命した女性作家の同名の小説。続編の『ふたりの証拠』『第三の嘘』を含めた3 部作(いずれも早川書房・ハヤカワ文庫)である。私はこの3作を夜を徹して読んだ。中学2年のときの『罪と罰』以来のことだ。
ああ、ヨーロッパの20世紀とはこんな世界だったのだ、と思い知った。ナツィがやってくる。そして『解放軍』という名のスターリンの軍隊が代わりに占領する。その中で双子のきょうだいが生き抜く話だ。おそらく20世紀後半の代表的文学作品として後世に残るだろう。
介護以外のことでの質問や相談がよくある。人生相談がくることもある。かなり破綻した人生の私に相談してどうすると思うのだが。政治や社会問題についての質問もよく受ける。最近は「朝日新聞の誤報問題をどう思います?」というのが何人か続けてあった。まず、誤報が問題なのではない。誤報はいくらでもある。松本サリン事件ですべての新聞が何を書いたか思い出せばいい。というより、すべての報道が誤報だと言ったっていい。
現場にいた当事者にしかホントのことはわからないのだから。ただ、朝日新聞の体質には問題がある。それは一言で言うと「反権力という名の権力」である。反権力とか弱者の味方になるためなら事実と違っていようが、手段は問わないという体質である。私も多くの取材を受けたが、いかにもジャーナリストっぽい記者ほど、記事の結論は先にあって、私はそのための材料にすぎない。
「現場が疲れ果てているのは国の福祉政策が貧困だからだ」という“正しい” 結論が先にあるので、私がいくら「介護ほどおもしろくて深い仕事はないですよ」と言ってもそれは記事にはならないのだ。確かに「朝日」がそういう傾向が一番強かったと思う。「反権力」は「権力」を意識するあまり、自分自身も「権力」を孕んでしまうのだろう。そのことに無自覚だというのが朝日新聞をはじめとする「進歩的」と言われる人や政党の問題点だろう。
一方、この朝日新聞を非難する側はどうか。「週刊文春」「週刊新潮」「週刊ポスト」それに「夕刊フジ」などの陣営である。これはもう話にならないほどの問題だらけだ。彼らは朝日新聞の誤報を、鬼の首を取ったように騒いで、慰安婦問題そのものまで存在しなかったかのように書き立てている。それどころか、侵略すらなかったと思っているかのようである。ま、本心では「侵略ではない」と思っている人物を首相に選ぶような国だから、その国のマスコミがまともな訳はないが。
朝日が「反権力という名の権力」なら、こちらは「権力の犬」がぴったりだろう。飼い主( 現政権) にシッポを振って、近所にむかってキャンキャン吠える。だいたい「売国」とか「反日」なんてコトバを恥ずかし気もなく使うところがどうかしている。自分の国が専制国家なら「売国」こそ正しいではないか。日本政府の政策が間違っていたら「反日」を選ぶのが正義だろう。政治家が平気で使う「国益」も恥ずかしくないのかなぁ。「国益」なんか主張し合ったから戦争が起き、地球温暖化の危機にもなってるんじゃないか。建て前でもいいから「人類の利益」とか「地球のため」とか言ったらどうか。もう21世紀なんだから。
かつて吉本隆明( よしもとばななのパパです) は、進歩主義者やその思想のことを「ソフトスターリン主義」と呼んだ。反権力だったはずのマルクス主義が、スターリンという独裁権力をつくり出したのだから、言い得て妙な表現ではないか。となると、朝日対反朝日の対立は、スターリンとヒトラーの戦争に喩えられるかもしれない。国家主義、民族主義丸出しの反朝日陣営は、もうほとんどナツィの思想と変わらないように見える。
さて、私たちはどんな立場に立つべきだろう。特に介護職の私たちは。『悪童日記』の双子のきょうだいのように、どちらにも加担せず、ただ生き抜くことだ。ヒューマニズムのような高尚な理念をもっている人たちは、知らず知らず、権力的になってしまうことがあることに自覚的でなくてはならない。「反権力」より「脱権力」「非権力」へと向かうべきなのだ。厚労省などの権力にすり寄って介護業界で金もうけしようとしている人たちは信用しないほうがいい。彼らは、国家が危機になったとき、真っ先に弱者、介護者を切り捨てようとするが、そのときそれに加担するに違いないから。
どこにも加担せず、ただ生きる。これが難しい。まして、その真っ当な生き方を思想として主張し続けるハンナ・アーレントのように生きるのはもっと難しい。- 2014年12月 マズローもいいことを言っている
今回のブリコ特集は画期的だ。「介護現場での看護職」や「看護と介護の冷戦」といった従来の問題に終止符を打っていいと思える内容である。特に鳥海房枝さんの講演を起こした文章は読みごたえがあったのではないか。
私はこのテーマに、自分自身のPT という立場から、看護職のあり方を重ねてみたいと思う。A.H. マズローといえば、人間の欲求を、基本的欲求からより高次の、たとえば「自己実現の欲求」へと段階化したことで知られる心理学者だ。
老いや死に関わる私から見るとマズローは、発達至上主義のグローバリズムにふさわしい人間観としか思えない批判の対象である。しかし、彼の大著『人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ』(産業能率大学出版部)を読むと、現在の科学の専門家に対する批判がじつに的確で、そのいくつかを引用することで今号のテーマへの応援にしたいと思う。
マズローは専門家に「手段中心的傾向」があると指摘する。PT や看護職の知識や技術は、問題を解決するための手段である。ところがその手段のほうが目的とされてしまうのだ。フロイトはそれを「メガネを磨くのに夢中になってメガネをかけて物を見るのを忘れているような人」と言ったと紹介されている。
手段中心的科学者は、問題に技術を合わせるのではなく問題を技術に合わせてしまう傾向がある。彼らが最初に問うのは、自分が今知っている技術や設備を使って取り組めるのはどんな問題なのかということになり、どんな問題が多く存在するのかとか、その中でどんな問題が最も差し迫っているのか、自分が従事できる最29も重大な問題は何なのかということではない。
「手段中心的科学者」を「PT、看護職」と読み替えてみよう。目の前の老人が生きていく気力を失っているときに、その問題に自分がどう関われるかではなくて、PT なら関節可動域に、看護職なら血圧にばかり興味を示している姿が思い浮かぶだろう。さらにマズローはこう書いている。
自分の財布を、落とした所ではなく、「ライトが明るいから」と街灯の下で捜しているかの有名な酔っ払いの話や、自分が治療法を知っている唯一の病気に自分の患者の全員を見たててしまう医者(中略)…………。
PT とは何かと私は考える。身体機能に関わる専門職ではなくて、身体機能を入口にして一人ひとりの生活と人生に関わる専門職であるべきだろう。とすれば介護職はもっと豊かで有効な人生に至る入口をもっている。言うまでもない。食事、排泄、入浴である。PT は、身体機能はわかっていてもその人の入浴介助法はわからない。「生活」へと至る道が見えていないのだ。もったいないではないか。ましてや「人生」への道は遠い。
その点、介護職はすごい。宅老所よりあいの応援誌『ヨレヨレ』に連載中の「看取りの合宿」のようなことを自発的にやってしまうのだから。PT なんかより、看護職のほうがもっともったいないと私は思う。ともに「生活」と「人生」に踏み出そう。- 2014年11月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その42 おわりに さて、「認知症老人のコミュニケーション覚え書き」の最後に、1冊の絵本を紹介することにしたい。私には老人介護の仕事をするうえで、大いに参考になった領域が2つあった。それらは、ほとんど歴史のない介護に比べて、長い経験を重ねた世界であった。
1つは精神の領域、もう1つは子どもの世界である。前者は古くはR.D レイン、新しくは「べてるの家」の実践から、後者は芹澤俊介さんの著書や発言に、老人介護と通底する地下水脈を掘り当ててきた。
児童文学者で、『ゲド戦記』(岩波書店) の訳者として知られる清水真砂子さんの講演会に参加させてもらった。その“地下水脈”を感じさせる予感があったからだ。それは、現代社会の問題については、その大半はすでに児童文学の世界でちゃんと取りあげられているという内容の話であった。そこで何冊かの絵本が紹介された。
その1冊が、マリー・ホール・エッツ作・絵の『わたしとあそんで』(福音館書店)である。もちろん、門外漢の私には初めて聞く作者と絵本である。しかし、いつもの大きな書店に行くと、絵本コーナーにエッツの棚があり、何冊もの本が並べられていた。実は、私の家にも1冊エッツの絵本があったのだ。
その、私の家にあったのが『もりのなか』(福音館書店)である。彼女のロングセラーだ。これも清水さんが紹介してくれた。紙帽子をかぶり、ラッパを持った「ぼく」は森の中に入っていく。そこで、いろんな動物と遊ぶ。ライオン、ゾウ、クマ、カンガルー、サルたちと、“はんかちおとし”や“ろんどんばしおちた”で遊ぶ。
最後に、かくれんぼをして、動物たちは草や木の陰に隠れてしまう。隠れなかったのはウサギだけで、そこにお父さんが「ぼく」を迎えに来て、隠れたままの動物たちに別れを告げて家に帰っていく、そういう話である。清水さんは最近になってやっとこの絵本の正しい解釈にたどり着いたという。
この動物たちは「ぼく」の幻覚・妄想なのだと。森に入る「ぼく」は不安のあまり、心の中で仲間をつくりあげた。本当にいたのは隠れなかったウサギだけ。不安を克服するために幻想をつくり出し、その幻想から抜け出して、父親のいる現実の世界に帰っていくのだ。
幻想の中にいて抜け出せなくなると、これは病気である。でも、幻想があってはならないという世界はどこか管理されたみたいで息苦しく、やはり病気のような気がする。私は「ぼく」の幻覚・妄想を、自分自身の中の非同一性とのつき合い、あるいは、人生に絶望してしまわないための賢い対処法として受けとめた。
さて『わたしとあそんで』に戻ろう。こちらの主人公は女の子だ。「わたし」は、はらっぱへ遊びに行く。
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「ばったさん、あそびましょ。」わたしが つかまえようとすると、ばったは ぴょんと とんでいってしまいました。
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「わたし」は、かえるにも、かめにも、りすにも、かけすにも、うさぎにも、へびにも手を出そうとするが、みんな逃げてしまう。しかたなく、
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いけの そばの いしに こしかけて、みずすましが みずに すじを ひくのを みていました。
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すると、ばったが戻ってき、かえるも、かめも、りすも、みんな近づいてきて、しかのあかちゃんが「わたし」のほっぺをなめてくれるのだ。
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ああ わたしは いま、とってもうれしいの。とびきり うれしいの。なぜって、みんなが みんなが わたしと あそんでくれるんですもの。
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清水さんは、母親も保育士も、子どもに働きかけることがよいことだと思い込んでいるけれど、決してそうじゃない、それは、子どもの世界を壊していることになっていないのか、という訴えとしてこの本を紹介しているそうだ。
私たちの介護の世界にもぴったりと当てはまる話ではないか。私はこの連載の最初を「ことばかけ」への批判から始めた(2010 年10 月号)。「上手な声かけのしかたを教えてほしい」という問いに「用もないのに声をかけるな」と答えるという話を思い出してほしい。
コミュニケーションとは認知症老人の世界に介入し、論理とことばで支配することではない。それは、絵本の「わたし」が、ばったやかえるを捕まえようとしているのと同じである。そうではなくて認知症老人の世界にこちらが入り込むことだ。森の中でじっとしていた「わたし」のように。
もちろん老人の幻覚・妄想の世界にまでちゃんと入り込むことである。ちょうど、「べてるの家」が毎年「幻覚&妄想大会」をやっているみたいに。現場の介護職が「赤ん坊が泣いているから家に帰る」と訴えるおばあさんに話を合わせて荷づくりを手伝うように。
子ども、それは大人にとっての非同一性である。いや、子どもとは、人回が本来もっている非同一性を大人のように抑圧したりしないで体現している存在だ。その子どもとのコミュニケーションのためにつくられた絵本という世界には、子どもだけでなく、自分自身との、そして高齢者、認知症高齢者とのコミュニケーションについての本質が含まれている。
介護現場に絵本を置いてほしい。遊びリテーションを「子どもだましだ」と批判する人たちは絵本に対しても同じ反応をするだろう。彼らはコミュニケーションがとれない人たちであろう。子どもとも、老人とも、そして自分自身とも。 子どもと認知症老人に関かっている私たちは、そのおかげて自分自身とも出会えているのである。
§----------------- 連載終了にあたって ------------------§
「認知症老人のコミュニケーション覚え書き」というテーマで42回にわたって連載してきた。なんと4年間である。「覚え書き」のとおりに、体系的にというのではなく、筆や気の向くまま、寄り道し、脱線して書いてきた。
でも、どんな人生経験でも介護には役立つことがあるように、寄り道も脱線も、むしろそちらにこそ本当に役立つことがあるのではないか、と思う。
最後に、興味深い絵本に出合ってこの連載を終えることになる。これはもちろん、寄り道でも脱線でもなく、ちゃんと出発地に回帰してきたのだ。同じところに帰ってきても、ちゃんと旅をして帰って来だのだから、出発するときの自分とは何かが変わっているはずだ、という思いで筆を置くことにしたい。
長期のご愛読に感謝。 なお、近く、連載はまとめて1冊の本にしたいと思っている。そのときはまた!
§---------------------------------------------------------§- 2014年11月 希望としての「べてる」
インドツアーもそうだが、毎年、べてるツアーに全国各地から30 人も集まるのがすごい! 今年は、鹿児島県の屋久島、串木野をはじめ、鳥取、徳島、山形まで。兵庫県からの2人はたしか3回連続参加じゃなかろうか。
なにがこんなに私たち介護職を引きつけるのだろうか。「統合失調症」とは、“健常者” から見ると最も“異質” な存在だろう。老人は長生きすれば誰でもなるし、認知症もそういう見方をみんなするようになってきた。しかし「精神病」となるとそうはいかない。“健常” な自分とは最も縁のない世界、人たちと考えられている。
その「精神病」を「♪いいじゃありませんか精神病」(「べてるのズンドコ節、3番の歌詞)と笑い飛ばすこの大胆さ。「驚くことばかりで、日常に帰って、ゆっくり整理したい」というのは参加者の一人の感想だが、こんな異質なものを、健常者中心の日常の中にヒョンと持ち込まれるのだから、常識人はかなわない。
「硬い研修かと思って来てみたら、旨いものを食べて飲んでばかりですね」というのも参加者の感想。そのとおり、1日めは「静内ケアセンター」の見学と、スタッフ、地域の人たちとのバーベキュー大会。社長の下川さんは、ロマンと金の動かし方の両方をもっているという珍しい人。
ロマンに生きる人は金は軽べつしているし、金の世界の人にはロマンなんかない。「金を持っている人をどう動かすかだ」と、彼は、金なんかなくてもいい事業はできる、と力説する。
べてるも不思議だ。ロマンをもちながらも現実的。「差別、偏見大歓迎」なんてスローガンもそうだ。「地域」「地域」とかけ声ばかりの介護界だが、べてるにとっては、この浦河という町こそが地域なのだ。
町民がみんな理解している訳ではない。なにかあると「べてるの連中じゃないか」と、ささやかれたりするという。でも、ちょっと“異質” な人が町をブラブラしていて、「ぶらぶら」というカフェまである、そんな町がこの日本に生まれている。これは希望である。- 2014年11月 リハビリの心と力
~かかわりがあなたを変える、生活を変える~
私はかつて稲川さんの講演を聴いていて涙したことがある。彼が講演中に歌った「アンパンマン」の歌に泣いてしまったのだ。ターミナルと言っていい状態が続いている在宅のおばあさんの話だ。介護している家族も主治医として往診している彼にも、この人が生きている意味は? 介護する意味は? と感じ始めていたという。
そんなある日に稲川さんはまだ小さかった長男を往診に連れていく。長男は率直に「おばあちゃん生きてるの?」なんて言う。「生きてるよ。何か歌ってあげてくれる?」そこで歌ったのが「アンパンマン」だ。
どうか歌詞を思い出してほしい。人が生きている意味、介護する意味はこの歌詞で十分ではないか。難しい哲学なんかいらないよ。
稲川さんは異色の経歴をもっている。理学療法士の養成校で私と同期だったが、働き始めるや「医者になりたい」と言い出して医大に合格し医者になってしまった。そもそも、九州大学の農学部を卒業して銀行に就職が決まっていたのを断って、PT になるために養成校にきたのである。
いわば、人生のレールに乗っては降り、乗っては降り……。しかしそのおかげで彼は、PT がわかる医者になった(じつはそんなリハビリ医はほとんどいないのだ)。さらに口腔ケアからターミナルまで、人生に関わる医者が登場した。
彼の最新刊である本書は、そうした人生に関わるリハビリという思想と方法論として読むことができる。だが私がそれ以上に興味をひかれるのは、彼自身の人生に関わる部分である。
なぜは母親を泣かせてまでこの世界に入ってきたのか。認知症となった祖父のこと、シベリアに抑留されていた父のこと、医学生時代の苦労話、大田仁史先生との出会い、私の名前も出てくる。
RC サクセションの忌野清志郎の最後にリハビリ担当医として関わっていた話も出てくる。稲川さんは清志郎から「親方」と呼ばれていたらしい。私の涙腺はゆるみっ放しである。NHK 教育テレビの「にっぽんリハビリ応援団」で落合恵子さんとともに進行役で登場しているのが稲川さん、いや稲川先生である。講座と本書は見逃せない。ぜひ!
著者: 稲川利光
発行: 学研メディカル秀潤社
サイズ: B6変型判 240ページ
定価: 本体1,700円(税別)
発行年月: 2014年11月28日発行
ISBN_10: 4-7809-1166-4
- 2014年10月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その41 気を変える方法Ⅴ 「ピダハン力」と「スケベ力」 認知症老人とのコミュニケーションが成立するためには、コミュニケーションを難しくしている“気”を変えることが必要だと述べてきた。その気を変える力の一つは「自己対象化力」とでもいうべきものだ。「問題老人」という表現を「問題職員」や「問題介護」へと変換できる「自虐力」と言ってもいい(自虐こそが理性だ。現在の日本人はその理性を失いつつある)。
それを、5月号で述べた。二つ目は「想像力」だ。老人のちょっとしたコトバというより口調、あるいはコトバのない人なら表情からその精神状態を想像する力が問われている。静かで深い共感力といってもいい。これは6月号。さらにその想像は外れていたっていいと述べた。恋愛を例にあげ、たとえ妄想であろうとコミュニケーションを拓く力になるのだと。それが7月号の「妄想力」。
こうなったら続いて「○○力」という表現で論じていこう。コミュニケーションが成立している職場には他にどんな力があるだろうか。私が「ピダハン力」と呼んでいる力、いい職場にあるのはこれだ。『ピダハン』とは、本誌の「介護夜汰話すぺしゃる」(2012年10月号および11月号)で私が紹介した本の名前である。著者はダニエル・L・エヴァレット、みすず書房刊。
ピダハン ~「言語本能」を超える文化と世界観~
著者:ダニエル・L・エヴェレット
訳者:屋代 通子
発行:みすず書房定価:3,400円+税
アマゾンの奥地のピダハン族を言語人類学者の著者が紹介したもので、私がこの10年間で最大の衝撃を受けた本である。詳しくはバックナンバーを読んでいただくといいのだが、簡単に紹介すると、ピダハン族は直接自分が体験したことしか信じないし語らない。いつも“今、ここ”なのだ。だから創成神話もないし神もいない。
抽象語はないから、右、左という表現すらない。じゃ右手、左手はどう区別するのか。「上流にある手」「下流にある手」と表現するのだ。身体の向きを変えればもちろん逆になる。いつも具体的状況の中でしか語らない。この自分の目で見、耳で聴き、身体で感じたことだけを信じるという姿勢こそが、いいコミュニケーションの条件なのだ。
私はその例として、「宅老所よりあい」の下村恵美子と村瀨孝生のそれぞれの最新著書を紹介して取りあげた(『生と死をつなぐケア』下村、『看取りケアの作法』村瀨、いずれも雲母書房)。見て聴いて感じたことだけを信じるということは、別の言い方をすると、こうあらねばならないといった理念から老人を見たりはしないということだ。それが「ピダハン力」だ。
チームワークというと、それぞれの職種がその専門性をもち寄って形成していくなんていわれているが、それはそれぞれの理念をもち寄っているに過ぎない。そんな先入観をもっていては老人は見えない、感じられない。
「ピダハン力」はそんなセコいチームワークという専門の枠を外してみせるのだ。だって目の前の老人が泣いた、笑ったといったことより説得力のあるものはないではないか。そこでは老人とはもちろんだが、各職種間のコミュニケーションもじつにうまくいっている。老人の今、ここという共通の出発点があるからだろう。
職員間のコミュニケーションがうまくいっている職場に共通していることがある。医者がスケベな人が多いのだ。いや医者に限らない。リーダー的役割の人が、男女を問わずスケベであることが多いのだ。たとえば、……と書き始めると終わらなくなりそうだし、抗議が来ても困るから実例は皆さんの想像にまかせることにしよう。
あれはなぜだろうか、とずっと疑問に思ってきたのだが、そうか、職種間の理念と理念の空中戦に対して、「ピダハン力」が老人の「今、ここ」という共通基盤を提示するのに対して、色気という誰もがもっている人間同士の共通基盤によって職種や一人ひとりの理念の枠を越えていくということであるらしい。これを「スケベ力」と名付けよう。
ということは、○○先生も、○△保健師も、×○看護師も、そういう戦略に基づいてスケベを演じていたのか。感心なことだ。いや、もともとなのかもしれないが。- 2014年9月 ルネ・ジラール、どの本を読めば…
前回、毎晩読んでる「ルネ・ジラール」について、どの本を読めばいいかという質問を受けた。
『暴力と聖なるもの』(1982年、法政大学出版局)が代表作とされているが、なにしろこの本は高い。(6000円+税!)それに難解。
私のおすすめの1冊は『サタンが稲妻のように落ちるのが見える』(2008年、新教出版社)。これも高いが(3000円+税)前著を紹介した後だから安く感じる。訳も判りやすく活字も大きめで読みやすい。
ぜひ感想を聞かせてほしい。- 2014年9月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その40 気を変える方法Ⅳ 「おばさん力」 認知症老人とのコミュニケーションとは、バリデーションやユマニチュードを推進している人たちが考えているような、1対1の対人関係技術を上達させることではない。むしろそれは特別の人間関係にのみ認知症老人を閉じ込めることではないか。
必要なのは、特別ではない、生活的な、たとえば同じ高齢者同士との豊かな人間関係があることなのだ。私たちは、乏しくかつ、一方的な人間関係しかない状態を「関係障害」と名付けてきた。その「乏しい」を豊かな関係に、「一方的」を、相互的関係に変えていくことを、私たちは「関係づくりの介護」と呼んで実践してきた。
その「相互的」ということについては、先に挙げた2つの関係技術論はどうだろうか。相手の反応を引き出して、相互的関係づくりのきっかけとなるだろうことは否定しない。特に私たちが「遊離型」と名付けているタイプの認知症老人については、きっかけとなることがありそうである。
しかし認知症にはいろいろなタイプがある。それを、単一の方法論でアプローチしろというのには無理がある。たとえば、目と目を合わせると、視野を邪魔されて不機嫌になるタイプの人、あるいはそうした状態の人はめずらしくない。スキンシップも音楽も嫌がる人はたくさんいる。それぞれ個性的な認知症老人に関わるための多様性に欠けていると思わざるを得ない。
その点、私たちがつくり出そうとする仲間同士の人間関係は多種多様である。本人の訴えに涙を流して共感する人もいれば、反発する人もいる。ただただ黙っている人もいて、なぜかこれが役に立っていると思わせることも多い。ときには、ケンカだってある。それが豊かで相互的な関係である。
バリデーションやユマニチュードは、彼らの確立した方法論の対象としてしか認知症老人を見ないという点で、「一方的」なのではないか。運よくそんな方法と相性のよかった、たとえば「遊離型」の一部の老人を除いて。
認知症老人とのコミュニケーションとは、認知症老人からのコミュニケーションを私たちが受けとめていないということから始めるべきだと訴えてきた。なぜ受けとめられないのか。何しろ、私たちは老人の非言語的表現を、「問題行動」とか「BPSD」と呼んで、受けとめるどころか、それを抑圧している。
薬で問題行動すらできない状態にしてしまうことを典型として。では、どんな医療、介護現場が抑圧的で、逆にどんなところが受けとめを可能にしているのかを、「上品なおばあさん」などを例にして述べてきた。そして、コミュニケーションを成立させるために、私たちに必要なものを(もちろん、対人関係技術ではなくて)、「自己対象化力」「想像力」そして「妄想力」だと述べてきた。
それもまた「特別な対人関係技術」と同じように、特別な能力ではないか、と言われてしまうかもしれない。そこで、「“想像力”と言われても……」という人のために提案したいのが、「おばちゃん力」である。「あつ、それなら私にもありそう。“自己対象化”とか言われてもわからんけど」という人は多いだろう。
ある特養ホームでのケース検討会でのことだ。この日はFさん(86歳女性)のことについて。会議はいつもの形どおりに、司会進行役の生活相談員のFさんの生活歴の紹介から始まったものの、すぐにスタッフみんなの“うんざり感”が充満してしまう。特にこの2週間ほど昼も夜もFさんの問題行動に振り回され続けているのだ。
いつもは、精神科入院には慎重なスタッフが、それもやむを得ないか、といった雰囲気になってきたときだ。Tさんが口を開いた。Tさんはパートのおばちゃんである。「でもFさんにはいいとこあるのよぉ。この間、ちょうど掃除で部屋にいたら、隣の部屋のMさんが部屋を間違って入ってきたのよね。
私があら、Mさん、部屋が違うわよ”って言うと、Mさん、表情がかたくなったんだけとFさんが“まあ、遊んでいったらええよ”って言ってね。Mさん二コッと笑って出て行った。あれには感心したね」と。
そういえばFさんは、われわれ職員にはきつくあたることが多くても同じ入居者、特に認知症老には優しいのだ。「そうそう、私もね……」と、他のスタッフも同じようなエピソードを話し始める。するといつのまに「入院」の方針は消え去って、「もう少しなんとかするか」という、積極的あきらめの気分になっているのだ。
職場の雰囲気が全員一致で何か決まりそうになると(ここではFさんの入院という方針になりそうになると)、Tさんは別の介護方針を提示するのではなく、Fさんのエピソードを語るのだ。これが、雰囲気が一定に秩序化していくのを一瞬にしてカオス(混沌)化するかのようである。これを「おばちゃん力」と名付ける。
もちろん、その役はおばちゃんでなくてもできる。施設長や医師や師長がそんな役を果たしている現場を私はたくさん知っている。しかし圧倒的に、資格はないが人生経験だけはある、というおばちゃんが多い。ぜひ、そんなパートのおばちゃんにケース検討会に参加してもらおう。ただ、話が本題からずれると、なかなか元に戻らないことがあるのでそれは覚悟しておこう。
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▼ Read Me Please
介護やっててよかった!
対談 【金田由美子×下山名月】
かねだ・ゆみこ
老人病院の看護助手、特養ホームの介護職を経て、民間デイ「生活リハビリクラブ」に。立ち上げから関わり、下山名月さんとともに、今も語り継がれる「元気の出るケア」をつくりあげた。ケアセンター成瀬、愛媛県在宅介護研修センター、在宅サポートセンター生田を経て、今夏からフリーとして活動再開。介護職向けの研修はもとより、一般の方々に介護の話をわかりやすく伝える講師として、活動の幅を広げていきたいと燃える。いも焼酎を愛する東京生まれのB型。著書に、『介護の声かけ&コミュニケーション』(ナツメ社)『介護不安は解消できる』(集英社)など。
しもやま・なつき
民間デイの草分け「生活リハビリクラブ」の創始者。オールラウンドワーカーと名乗っての老いを支えるケアが各界から注目を浴びている。共同通信配給による新聞連載「元気が出るデイケア」が全国で話題に。「安全な介護☆実技講座」のメイン講師を務めるほか、施設内研修等の実地指導で全国を飛び回る毎日。酒にめっぽう強い年齢不祥のO型。著書に『安全な介護』(ブリコラージュ)、NHKラジオでの三好春樹との対談を所収した『新しい老人ケア』(雲母書房)、上野文規、三好春樹との共著『遊びリテーション学』も大好評。
§---------------------------------------------------------§- 2014年9月 FBが、フェイスブックの略なのだそうだ
何も判らずFBを始めた。「著名人」とあるのは自分で名乗ってるのではなくて、一般と「著名人」の2種しかないのだという。
一般のものは「友だち認証」をして仲間どうしのコミュニケーションをするもの。それに対して「著名人は」公開型で誰でも見られ、コメント参加もできるもの。「友だち認証」の代りが「いいね!」ボタンで、これを押すと、私の投稿が自動的に送付されるらしい。
しかし、人気のあるFBだと、コメントで変な商売や宗教に誘導されることもあるのでチェックが必要になる。私のFBも、「e-かいごナビ」のインフィックがちゃんと管理してくれているので、ネトウヨからの攻撃にも安心だ。
という訳で、パソコンからでも見られるのでのぞいてほしい。紙の媒体=ブリコラージュとの役割分担についても触れている。
- 2014年8月 この間読んでいる本は…
この間読んでいる本は、ルネ・ジラールという人のものです。日本で出版されているものはほぼ全部、くり返して読んでいます。
ルネ・ジラールはカソリック教徒です。でも古い護教派なんかではありません。逆に、過激なカソリックです。カソリック恐るべし。この歳になってカソリックに魅かれるとは思ってもみませんでした。
でも、先進国の中で日本にのみ残る死刑の執行も、未開人に残る残酷な自己拷問も、カースト制度や部落差別、いじめや虐待まで、それをちゃんと説明してくれるのは、ルネ・ジラールの「ミメーシス(真似)論」と「供儀(犠)論」だと思うようになりました。
イエス・キリストについて、これだけの”聖書”(公認された4つの福音書だけでなくそれ以外のものも含めて)が書かれ、読みつがれていることの意味を、ルネ・ジラールが教えてくれているのかもしれない。
ぜひ一読を。- 2014年7月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その39 気を変える方法Ⅲ 「妄想力」 印象と直感なんかを根拠にした介護方針なんかアテにならないじゃないか、という批判や疑問は当然だろう。私もそれが本当に当たっているかどうかには自信がないのだ。しかしこうしたやり方で、いわゆる“介護困難老人”が落ち着いたり、“問題行動”がなくなることが驚くほど多いのだ。
それは私の印象と直感、たとえば前号のケースなら「彼は絶望し、人生を呪っている」という仮説が当たっていたということを意味するのだろうか。じつはそうではない。あとで判明してみると、そうした介護職側の仮説が当たっていて成果が出たケースももちろんあるのだが、「当たってはいなかった。だけどちゃんと成果が出た」ということが多いのだ。
後者が前者を上回っているほどである。当たっていなかったということは、想像力が及ばなかった、間違っていたということだ。だとすれば、それは「想像力」よりは「妄想」に近い。でも効果があるということは、この「妄想」がちゃんと力をもっているということだ。
どんな異性を好きになるかというアンケートはいつの時代でも行われているし、みんな興味がある。異性に好かれるにはどうすればいいか男も女も大きな関心ごとだからだ。かつて、女性の恋愛対象の男性が「3高」と呼ばれたことがあった。高学歴、高収入、高身長の3つのことだという。
現在ではこんな高望みはしなくなったというのだが、ハンサムで背が高いなんていうのは、男性を好きになるときの有力な条件だろう。男性が女性を選ぶときの、美人でスタイルがよくてなんていう外見の占める割合はもっと大きいだろう。でも、現実にどんな異性を選んでいるかという実態を調べてみると、これらをはるかに引き離した強力な条件が存在していることがわかる。
それはいったい何か。男女とも、「自分のことを好きだと言ってくれる人」が断然トップなのである。ハンサムや美人とかいうのは、いわば「個体還元論」である。好きになる条件を一人ひとりの個体に求める。しかし、「好きだと言ってくれる人」というのはいわば「関係論」ということになる。実際にはこの「個体論」と「関係論」の絶妙なバランスで好きになる相手は決まっているようだ。距離が遠ければ遠いほど「個体論」の割合が増える。
つまり、テレビでしか見ないアイドルを好きになるのは外見といった「個体」によるし、具体的な恋愛や結婚となるほど「関係」が重視されてくる。恋愛感情は、あとから考えてみるとほとんど妄想だったと思えるものである。しかしその妄想が相手の感情を呼び起こすことがあるのだ。
だとしたら、介護職の側の正しいとは言えない思い込み、つまり妄想に近いものが、老人の気持ちに変化をもたらすことも不思議ではないではないか。介護職の妄想は恋愛感情ではない。しかし人は、自分に興味や関心をもってもらっているとうれしく感じるし、その人に特別な関心を払うようになる。
もちろんこれは、施設介護職がスタッフルームのモニター画像で老人に“関心”をもっているというやり方では生じてはこない。片方が見るだけ、片方は見られるだけという一方的な関係では妄想は決して生まれない。相互的な関係とは、私たちが老人を見ている目を老人に見られているということだ。
その目はどんな目か。興味も関心もない単なる作業者の目か、それとも、なんとか理解しようとする好意的な好奇心にあふれた目か、それを要介護老人は敏感に感じ取る。だから、たとえ間違っていたり、ピントが外れていたとしても、仮説、あるいは思い込みをもって積極的に、いや積極的まで行かなくても、逃げないで関わろうとするだけで、老人の気持ちを動かすことができるのだ。
さあ、あなたも、好きな相手に、言葉や態度でそれを伝えてみよう。相手の気持ちを動かすことになるかもしれない。ただしストーカーにはならないように。カール・マルクスは『経済学・哲学草稿』で次のように警告している。
……もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である
(第三草稿「貨幣」より)
「最後に愛が勝つ」なんてことはない。個体還元論に負ける愛も、無力な愛もあるのだ。- 2014年7月 2015インドツアー早くも申し込み続々!
2015年2月と3月のインドツアーに早くも続々と申し込みが来ている。2月の3泊5日の方はすでに定員の半分を超える勢い。2泊4日は余裕がある。
やはり、ヒンドゥー教の聖地、ガンジス河での沐浴もできるヴァラナシを訪ねる3泊5日が人気のよう。
しかし2泊3日も私はおすすめ。移動距離が短いのでスケジュールに余裕があるし、デリーからアグラまでの鉄道の旅がセールスポイント。駅にはインドの日常が凝縮している。
さらに[3泊5日]がエアインディアの飛行機なのに対して[2泊4日]はJAL。帰国の便にソバが出たりするのはやはり嬉しい。
さあ早めにご検討を!もちろん私は両方とも参加する。- 2014年6月 「ヨレヨレ」の創刊第2号が出た!
第1号もそうだったが、これも無茶苦茶!(もちろん最大限の褒めコトバ)
福岡の「宅老所よりあい」の”セワニン”(=世話人)の一人が編集し大半の文章を書いているという、ブリコどころではない自分勝手な雑誌。
巻頭の「よりあい運営激突史#2」は「広島死闘編」である。まるでヤクザ映画のタイトルだ。広島でのオムツ外し学会での、資金作りのための”行商”のてん末が紹介されている。20数年前の私の写真もある。
次はいつ出るか、いつまで出るか判らない雑誌なので、定期購読するのはBricolageにして、毎号購入しよう。売上は、今も続いている資金作り(500万が億単位になっているが!)に回されるので、一部といわず数部注文すべし。友達にあげるときっと喜んでくれると思うので。
創刊号目次 創刊2号目次
- 2014年6月 Bricolage 6月号が大好評!
「7つのゼロ」をめざす、東京・駒場苑の改革報告が施設関係者はもちろん、デイサービスやグループホームスタッフにも刺激を与えている。私の講座や講演会場でも売り切れが続いている。
ついでに私の連載にもぜひ目を通してほしい。「痴呆症老人のコミュニケーション」というテーマで、今回は「気を変える方法② 想像力」と題している。
私のコミュニケーション論は、技術やハウツーではなく、相互的コニュニケーションが成立する条件づくりについて語ってきた。次号の「気を変える方法③」は「妄想力」だ。
妄想がなぜコミュニケーションを切り拓くのか、ぜひ定期購読して読んでほしい。ブリコの宣伝でした。- 2014年6月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その38 気を変える方法Ⅱ 「想像力」 定年のつもりで事務所を閉めた現在でも年150回ほどの介護職向けの講演をして歩くのが私の仕事だ。それに比べると数は少ないが、現場のスタッフとケース検討会をするということもある。この仕事、私のアドバイスがそれほど役に立つわけではない。何しろ私を呼んで介護をチェックしようというぐらいだから、それなりの介護レベルの事業所である。
しかも、日頃からケースの老人のことを知っているのは現場のスタッフである。記録だってちゃんととっている。私は仕事が終わる数時間前に現場に着いて、業務終了後に話し合うケースの老人を教えてもらい、さりげなく様子を見る。ほとんど第一印象程度の接触である。
じつはこれに意味があるのだ。毎日現場にいる人たちはケアマネからの書類や本人の生活歴、そして日々の記録といったものを材料に、分析的に問題を明らかにしようとする。なかには、5分おきに記録をとれという方法論まである。現場にそんな時間があるかよ、と言いたくなるし、そんなことをするより、スキンシップの一つでもするほうがよほど有効ではないかと思う。
とはいえ、そうした細かい分析で見えてくることがあるかもしれない。でも私のケース検討会でのやり方は違う。まず、第一印象にすぎないぐらいの、本人に会ったときの印象を大事にする。そこで感じたもの、これも直感に近いものだが、それをもとにしてその人の人生や現在の気持ちを想像するのだ。
じつはこれ、現場の人たちと私との任務分担である。私には日常的な細かい分析はできない。しかしそうした分析が細かくなればなるほど、印象や直感といったものは感じられなくなる。分析でわかることがあるように、この直感があたっていることも多いのだ。
だから現場に毎日のようにいる介護職に加えて、非日常的にしか来ない外部の人がケース検討会に加わるといい。特に人生経験豊かな人が、印象力、直感力、想像力に優れていると思う。私は多少、偏ってはいるが人生経験は豊かだ。何しろ留置場にだって入っていたことがある。多くの個性的な、つまり奇人や変人の友人の人生にも関わってきた。印象力、直感力、それに妄想力ぐらいはあるかもしれない。
この日の検討会で話し合われたのは、3週間前から週4回デイサービスに来ているMさん(81歳)という男性である。5年前から視力が低下し現在ではほぼ失明状態。同居している妻から介助を受けているが暴言や暴力まで現れ、デイに通い始めたものの、他の利用者と関わろうとはせず、妻の願いでケアプランになっている入浴も拒否したままだという。
スタッフの話し合いは、どうすれば入浴を受け入れてくれるかについての協議がほとんどだった。しかし私はこう思った。「彼は自分の人生に絶望している」と。「絶望している人に、風呂に入るかどうかはどうでもいいことではないか」。
それは、彼の表情、態度、そしてボソボソと語る周りへの反発のコトバ、それらはそう思わねば説明がつかないように思える。私たちがすべきことは、誰かがその絶望を共有することだろう。妻の話では、無口で働き者だった夫が、失明が進行していくなかで変わっていったのだという。彼は自分の運命を呪っているのだ。
もちろんそれを本当に共有することなんかできない。だがそれを察して、つまらないことをしないことぐらいはできる。スタッフが入浴させようとアプローチしているのは、ケアマネから指示されたケアプランを守ろうとする「仕事」にすぎない。絶望した人生、呪っている運命を前にしたら、“つまらないこと”ではないか。
そのうえ、「コミュニケーションがうまい」なんて職員には、うんざりするだけだろう。そうした自分の職務に熱心であるということが、本人の絶望や呪いを無視することになってはいないか。
私はハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(みすず書房)を思い起こした。平凡で陳腐な官吏が、上司の評価を気にし自分の出世のために“職務”をこなすことが、ユダヤ人やロマ、性的少数者、障害者らの抹殺につながったということを論じた、あの本である。
もちろん、大げさな想起であるという批判は承知のうえで。介護保険制度下で、自分の職務を熱心に行うということが、本当に関わらねばならぬことを忘れさせているのではないか。
「絶望し呪いながらもこうしてデイサービスに出て来てくれているだけでも大したもんだと思う。何もしなくてもいいからそういう思いで受け止めてくれる人が誰か一人でもいることが大事だと思う」
私のアドバイスには即効性はない。しかし、ケアプランや業務は、やらねばならぬことばかりを意識させるあまり、本当にやるべきことを見えなくさせてしまう。本人への想像力がそんな私たち介護職を相対化、対象化してくれる武器の一つだろう。- 2014年5月 紙芝居と介護がむすびついた
5月25日は紙芝居と介護がむすびついた歴史的な日となった。ふたつの世界を近づけたのは遠山昭雄さん。私もそのきっかけになれたと思う。
当日のセミナーの参加者は全国各地から250人。介護職が半分、他はボランティアを含む紙芝居の関係者。関西からは紙芝居作家の、”サワジロウ”さんも登場。男性だと思っていた人たちを驚かせ、見事な演者ぶりにも感心。
懇親会には、街頭紙芝居の人間国宝ともいうべき梅田佳声さんも参加、交流を深めた。
私が紙芝居の世界の人たちに感服するのは、威張ってる人がいないこと。介護の世界は一般社会に比べればマシだけど、威張ってる人、威張りたい人がいっぱいいる。紙芝居界と触れ合うことで、その非権力的な体質を伝染させたいものである。
書籍コーナーでは、紙芝居が飛ぶように売れた。それもあって主催者の雲母書房は大阪での開催も決めた。もちろん私も参加する。
决定次第、Bricolage誌上で。- 2014年5月 近代人の自意識過剰を
生活リハビリ講座2014が、福岡、広島、大阪、名古屋、東京の順に幕が開いた。介護技術に驚きの声が挙がる。講座を開いて28年めにもなるというのに。
近代人は真似をしない。真似することは自分を失うことだという、セコいプライドを持っているのだろう。
どんどん真似をしてほしい。だから、ビデオ撮影OKとしている。近代的個人の自意識過剰を乗り越えなくては、いい介護は広まらない。この近代人の最大の病気である「自意識過剰」はどうすれば治癒できるか。
私にとっては、老いや認知症に関わることと、インドに出会ったことである。- 2014年5月 「週刊東洋経済」の5月17日号の特集が
「週刊東洋経済」の5月17日号の特集が「誤解だらけの介護職~もう3Kとは言わせない」ときた。 「劣悪」を告発するばかりのマスコミによってイメージが悪くなるばかりと腹立たしかったが、ようやくまともな情報を出すところが出てきた。
宅老所・井戸端げんきの加藤正裕さんやNPO法人グレースケアの柳本文貴さんといったBricolage読者のよく知っている人も写真つきで紹介されている。
「介護ロボット」のページは例によって”冗談”としか思えないし、ケアマネのルポは「悲痛な叫び」という従来と同じ紋切り型。
社会福祉法人の特養の課長クラスで年収800万(30代)とか、デイの自営で手取り600万(30代)、フリーのケアマネ(20代)で450万といった収入実態を紹介してくれればもっといい特集になったのに、と思う。
ちなみにこの年収、私の回りの人達への取材の一部。ブラック企業にひっかからないでそれなりの資格、立場があればちゃんと生活できる収入である。しかも安定している。
「東洋経済」に続くマスコミが出てくることを期待する。
雑誌情報はこちら- 2014年5月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その37 気を変える方法Ⅰ 「自分たちの介護を対象化する」 「異質」なものを「異常」と見なすところではコミュニケーションは成立しない。何しろ、相手が「異常」ならこちらは「正常」なのだから、そこには相互性はない。「異質」を「異文化」ととらえようと訴えてきた。そこでは、相手から見ればこちらもまた「異文化」だから、それを理解するためには自分自身を相対化しなければならない。
この自分を対象化するということがコミュニケーションの出発点だ。知性のと言い換えてもいいだろう。日本人はいまやこの知性を失いつつあるが、介護はこの知性、それもやわらかい知性で行うものだ。老いや認知症といった「異質」なものにふれたとき、自分を対象化できるやわらかさである。
「問題老人」という言い方はよくないと言われ始めて久しい。子どもに関わる人たちの世界での「問題児」も同じように疑問が投げかけられてきた。代わりに使われているのは「介護困難老人」という表現だ。子ども世界ではなんと言うのだろう。「育児困難児」か?単に言い換えただけじゃないかと思われるかもしれない。
でも、「問題老人」というと問題は老人という個体の側にだけあるかのようだが、「介護困難老人」なら、介護する側の力量や技術、個体ではなくて老人と介護者との関係、たとえば相性だとかに問題があるのではないかというニュアンスを含んでいるからこちらのほうが適切だろう。
しかし、私は「問題老人」の代わりに「問題職員」と言い換えたほうがいいと考えている。「問題職員」とすると「問題老人」と同じく個体の問題になるので、たとえば「相性」といった関係に目が向かないという問題点はある。さらに、すべてが職員の問題だとして倫理主義的になってしまい、それが管理主義につながっていく危険性もある。
それでも「問題職員」がいいと思うのは、その自己対象化のインパクトの強さである。介護がうまくいかなくて、その原因を老人の側ばかり求めている思考に転換を迫る力をもっている。「問題行動」という表現も使われなくなってきた。これは「BPSD 」と言い換えられている。「すぐ英語を使いたがる奴は信用するな」というのは現場の合言葉だ。
でも大学の先生をはじめとする人たちの、現場の人間にコンプレックスを与えてコントロールしようという戦術にのせられないために、「BPSD 」ぐらいは知っておこう。
Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia の略で「認知症に伴う行動、心理症状」と訳されている。でも私はこの言い換えには賛成できない。この表現だと、認知症と判定された人のいわゆる“問題行動”は、すべて認知症のせいにされてしまう。
何しろ〈of Dementia 〉なのだから。でも現場の私たちが解明してきたように、認知症老人の“問題行動”の原因は便秘が最も多い。ついで脱水といった身体の不調である。さらに、今日の夜勤は誰かといった人間関係。そして人生の中にある。
ところが〈of Dementia 〉だと、それらが脳の問題にされてしまいかねないのだ。しかし「BPSD 」のD をDementia ではなくて、Drag だとすれば当たっているのではないか。何しろ、医療的色彩の強い現場では薬の効きすぎや副作用が最も“問題行動”を生み出しているのだから。
では、「問題行動」に対しては何を対置するのがいいだろうか。私は「問題介護」がいいと思う。BPSD ではなくてBPSC 、つまり、〈of Care 〉である。もちろんこれも、倫理主義や管理主義にならないことを前提とする。そうすると自分たちの介護を相対化し、対象化する力をもっていると思う。
すぐに薬に頼ってしまうケア、トイレかオムツかという二者択一の排泄形態、作業のような機械浴といった問題介護を相対化せねばならないのは言うまでもない。しかし大切なのは、それなりのレベルの介護を介護保険制度のもとでそれなりの経営状態で行っている、いわばごく普通の介護現場が「BPSC 」つまり、「介護にともなう行動心理症状」を生み出しているということである。
介護を介護保険制度にともなう仕事として普通に行っていることが老人を“問題行動”に追いやっているのではないかと考えてみたいと思う。きっかけはある現場の勉強会でのスタッフからの相談である。- 2014年5月 「痴呆論」がリニューアル 5月15日発行
雲母書房から私の新刊が出た。といっても「痴呆論」をリニューアルして『認知症介護』という新しいタイトルになった本である。
ただ巻頭に『PTSDとしての認知症~人体から人生へ』を書きおろした。
『増補版』で巻末に付け加えた文章を『見当識障害の中身を見よう』と改題して、これも巻頭の第1部に入れた。
特に旧版を持ってる方は、この機会に買って読んでほしいと思う。
本の装丁は軽やかになって気に入っている。これまでと同様、認知症ケアとしては最も売れ続ける本になるだろうと確信している。 詳細情報はこちら- 2014年5月 駒場苑、東京でのセミナーや学会を利用してぜひ!
6月号のBricolageが特集する、駒場苑(東京都目黒区)を、それに先立ってマスコミが取り上げている。
「介護現場、進む『排泄ケア』見直し」と題して共同通信が配給、信濃毎日新聞(4月22日付)などに掲載されている。私の「排泄ケアセミナー」も取り上げてもらっている。
6月号を読めば判るけど、ここは入浴ケアも画期的!東京で見学したい施設はなかなかなかったけど、東京でのセミナーや学会を利用してぜひ!- 2014年5月 大阪でインドツアー参加者の集い
4月末、大阪で、インドツアー参加者の集いが開かれた。これは、ビーエス観光の添乗員、宮島さんが会社を辞めたので”送別会”をやろう、というので、私の大阪での仕事の日程に合わせてもらったものだ。
山形、鳥取、富山、愛媛、東京などから23人が集合。宮島さんは最初の添乗が私たちのツアー、感極まって泣いて、参加者が成田空港で胴上げしたというエピソードの持ち主。私たちといっしょに、インドを体験し、面白がってきた人で、私と同じく、ヴァナラシが大好きという人。
旅に同行した大阪のミード社会館(日本で介護職養成校の草分け、かって私が特別授業をしていたこともある)のスタッフが中心になって実現した。宮島さん、できたら来年のツアーに、参加者として同行したいそうだ。
それにしてもこの会の盛り上がり!インドを体験したもの同士の共感としか言いようがない。これはとてもコトバでは伝えられない。だから、毎年、回りの人を誘ってインドに連れていっていると言ってもいいだろう。2015年の2月と3月のツアーも発表された。あなたもぜひ!- 2014年4月 認知症は"異常"ではなく、"異文化"として理解を
~介護研修は北欧よりインドへ~
数年前から、介護職の人たちと毎年インドに行っているんです。なぜってインドは異質だらけですから。異質なものを異常として切り捨てるのは、文化の抹殺です。かつてヨーロッパの人々がアフリカ大陸やアメリカ大陸の異質な人々に出会ったとき、野蛮だとかいって無理やり服を着せたり…。
それに対してフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、ブラジルの奥地で裸で暮らす民族と共に暮らし、西洋とは違う科学、異なる文化があることを著書『野生の思考』の中で明らかにしました。異文化を理解するには、こちらの常識・感じ方を変えなきゃいけない。こちらが自分を相対化したとき初めて、コミュニケーションが成立するんです。
介護職は、認知症や老いという"異文化"に囲まれています。だからこそ、北欧よりインドに行って異文化理解を深めてほしいですね。
~医療は「客観性」介護は「関係性」~
私は24歳のとき12回目の転職で特別養護老人ホームに就職、天職と直感しました。初めて出会った認知症老人は明治生まれのおじいさんで、外出(徘徊とも言う)する前には帽子をかぶるので分かります。職員が『どこへ?』と聞くと『ちょっとロシアへ』。
夜中に毎回一緒に歩くのも大変なので、ある職員が『いま、ロシアに行って見たら、留守だったよ』。すると『じゃあ仕方ない、明日にしよう』と落ち着いて部屋に戻られた。この方法、誰がやってもうまくいくわけではない。医療には客観性がありますが、介護には客観性がない。代わりに"関係性"がある。つまり誰が関わったら、こうなりましたということで、人によっては逆効果の場合もある。これが介護の面白いところです。
おばあさんもよく外出します。『うちへ帰る』と言われるんですが、ふだんは伝い歩きなのに目的があると速い!『何しに?』と聞くと、たいてい『子どもが泣いているから』『飯を炊かにゃあいけん』。認知症の人は人生でいちばん輝いていたときに帰るんですね。こういう行動を異常として薬で止めたり、閉じ込めたりしてはいけません。
『ロシアは留守』みたいな"場面転換"で解決しましょう。自分の心を空っぽにして、おじいさん、おばあさんの心の声を聴いてあげてください。
介護は人生に関わる仕事です。目の前のお年寄りの残りの人生が、どうしたら幸せになるかと考える。そこで『何をしたい?』と聞く。『20年ぶりに故郷に帰りたい』。『でも往復6時間掛かるから体力をつけないとダメだよ』。その日から、おばあさんはご飯を食べるようになった。
医学では説明できない奇跡のようなことが起こります。3K職場「きつい、きたない( 臭い)、危険( 給料安い)」なんて言う人もいますが、私に言わせれば『感動・健康・工夫』の3K。環境や生活習慣をできるだけ変えないで、異文化を理解するようにコミュニケーションを!- 2014年4月 機内で見た映画とは
映画『ハンナ・アーレント』を見た。1泊3日の弾丸無法インドツアーのJALの機内サービスの映画である。(ついでに前田敦子主演の映画も見た!?)
この映画、Bricolage1・2月合併号の『介護夜汰話スペシャル」で私が紹介したものだが、その私には見る機会がなかったのでラッキーだった。
『イェサレムのアイヒマン - 悪の陳腐さについての報告』の映画化とでもいうべきもので、ハンナ役は俳優が演じているのだが、アイヒマンは記録映画の本物が使われている。
彼女は「世界の知性」と呼ばれていた哲学者ハイデガーの弟子にして愛人で、そのハイデガーがナチに接近していくなか、アメリカに亡命したユダヤ人である。
彼女はもちろんナチズムを許さない。『全体主義の起源』は、そのナチズムが西洋的知性の産物ではないかという深部から指摘した大作である。
しかし彼女はシオニズムをも許さない。国家なき民であるユダヤ人がその国家を求めてイスラエルを建国しようとする(ここでパレスチナ人への虐殺、抑圧が始まる)のがシオニズムだ。
イスラエル国家はアイヒマンを反ユダヤの極悪人として処刑しようとする。だが彼女はそのイスラエルの国家主義に真っ向から挑戦する。そのためにユダヤ人から激しいパッシングを受ける。しかし屈しない。
凡庸な人間が自分の仕事に熱心であることによって大虐殺という悪を成す、その事のほうがほんとうに怖いことではないか。「あいつが悪い!」と言ってればいいとはならないのだ。私も、誰でもそうなりうるのだから。
映画を見た人はぜひ本も!本を読んだ人はぜひ映画も。それにしてもハンナはよくタバコを喫う人だなあ。今ならそれだけの理由でパッシングされそうである。- 2014年4月 カースト制度を批判できるか?
~私が読んできた本 わが家にテレビがなくなって以来、夜中に目が覚めると、ベッドサイドに積んである本の中から一冊を取り出して読むのが習慣になった。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』もその代表的一冊(上・下二巻だから正式には二冊)である。私のは中央公論社の版だが、他にも中公クラシックス版の新書もある。
同じ本を何度か読んでも、幸か不幸か、すっかり忘れていて、またちゃんと楽しめることも多い。でも、ときには、その間の私の新しい体験と思考が新しいものに興味をもち、引きつけられることもある。
なんとレヴィ=ストロースはこの本の中で、インドについてふれているのである。インド旅行を始める前には気づいてなかったか、おそらく読んでも関心がなかったのに違いない。
第四部〈土地と人間〉の、15群衆、16市場、そして第九部〈回帰〉の中の、39タクシーラ(15、16、39は通し番号。全部で40の思想的旅行エッセイで構成されている)がインドについて書かれた章である。まだイギリスの植民地だった時代で、東西パキスタン(東パキスタンはその後バングラディシュになった)もインドと総称されていた。
――カルカッタで、牝牛に取り囲まれ、窓は禿鷲の止り木になっているホテルから出るたびに、私は一つのバレエ劇の中心になってしまう。略)
靴磨きが私の足もとに身を投げる。鼻声の小さな男の子が走り寄ってくる。略)発育不全の部分をよりよく見せて商売するために、ほとんど裸でいる不具者。客引き……。(略)
彼らを笑ったり彼らに苛立ったりしたくなる人は気を付けるほうがいい、あなたが冒涜者を前にしているように。これらの馬鹿げた仕草、人を嫌な気持にするやり方、そこに一つの苦悩の徴候を見ずにそれらを批判するのは虚しく、嘲けるのは罪であろう。彼らにつきまとって離れない唯ひとつのこと――飢え――それがこうした絶望的な振舞いを思い立たせるのだ。――
(「15群衆」より)
今、観光客の日本人は、当時のヨーロッパ人ほど珍しくはないし、飢えの程度も緩和しているかもしれない。でも一度でもインドの、特に私たちのツアーなら、ヴァラナシやオールドデリーの街角を歩いてみた人なら、この「バレエ劇」の描写は思い当たるに違いないし、彼の忠告の的確さにハッとするだろう。
あの評判の悪いカースト制度についても論じられている。もちろん、人権無視もはなはだしい前近代的制度だ、といった型通りの論とはほど遠い。インドは日本の10倍近い人口と、数え切れない民族と言語、そして複雑多岐な宗教を抱えた国である。しかも、この本の記述によれば、インドの28の州の一つのベンガル州は、レヴィ=ストロースがフィールドワークをしたことのあるブラジルのマッソ・グロッソ州の3000倍の人口密度だという。
こうした状況で社会が成り立つにはどうしたらいいか。彼の説は「ある思想家たちの天才」が「人間集団を、彼らが並び合って生きてゆく」ためにつくった制度だというのだ。「カーストが異なっているが故に平等であり続ける」「みな人間として、だが違ったものとして、互いに認知し合いながら共存すること」を目指したのだという。
だがそれは「人間という種の一部に人間性を認めない」という「身分制度」へと転化したという。彼はこれを「インドの大失敗」と呼んでいる。だがここからがすごい。この試みは「南アジアが一千年か二千年、われわれより早く経験したものであり、われわれも余程の決意をしない限り、恐らくそこから逃れられないだろうと思われるのである」
多様で異質な人間同士がどう共存して生きていけるかという課題は、これからヨーロッパが直面するというのである
ヨーロッパでは中東からの移民への反発が強まっているし、アフリカから押し寄せる難民への対応も意見が割れている。このままではインドの「大失敗」を繰り返すどころか異質なものをそもそも受けつけず排除することになるかもしれない。差別しながら包摂するカースト制度とどちらが人間的であろうか。
さて、詳しくはまたどこかで述べたいと思うが、この日本は今や、“差別といじめ社会”から“差別といじめ国家”へと転化してしまった。ヘイトスピーチのデモが公然と行われている国に、多民族の祭典であるオリンピックを開催する資格はないだろう。われわれ日本人はインドのカースト制度を批判する資格なんかないのである。
- 2014年4月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その36 気が違う"ということⅢ 「目には見えないが人間を追いつめ狂気にまで至らせるもの、それが『気』である。雰囲気の気だ。家父長制、権力主義、男尊女卑、人間を追いつめる『気』が最も弱い者に顕在化して『気違い』として表れる」
私は前号でこう書いた。私たちから「気が違う」としてとらえられるものは、本人にとっては私たちが形成している「気」への違和、恐怖、抗議、混乱、絶望の表現だと思う。かつての共同体ではその成員の一人ひとりが少しずつその責任のようなものを感じていたはずだとも書いた。だからみんなが参加してそれを治癒する儀式があったのだと。
かつて認知症の早期発見法で名の知られた精神科医がいた。その彼が「認知症の原因は家族だ。家族の対応がまずいから生じている」という旨の発言をしたことがある。「認知症家族の会」はもちろん反発した。「認知症は脳の病気であって家族のせいではない」と。
私はこの精神科医の発言は暴言、妄言だと思う。「医者や看護婦が呆けさせているほうが何倍も多い」と私の著書でも書いた覚えがある。こんな異論や偏見に介護家族が怒って反論するのは当たり前だとも思う。
しかし私はあえて言いたいのだ。この医師の発言に同調する気はまったくないのだが、介護家族も、「ひょっとして自分も呆けさせている原因になっているのではないか」という気持ちをもっているほうがいいのではないかと。もちろん介護職に対してはそのことをずっと訴えてきたつもりだ。しかし介護家族には言いにくい。
何しろ、介護職と介護家族では立場が違う。まず家族は給料をもらっていない。『介護職よ、給料分の仕事をしよう』(私の発言集の題名/発行:雲母書房)とも言えない。まさか「家族だからケアするのは当たり前」といった時代錯誤の意見の持ち主でもないし。
介護職のように休日もない、交替性でもない。しかも、認知症の問題行動は、もっとも身近で頼りにしている人にこそ強く表れるというのだから、家族に同じことを言うのは酷である。
2014年3月に『認知症介護が楽になる本』(講談社)という本が世に出た。多くの本を出版させてもらってきたが、この本は私にとっては画期的なものだ。何しろ、その介護家族の方との共著なのである。
この本の「序にかえて 家族のケアと介護職のケア」でも、なぜ私が介護職相手ばかりで、家族や一般の人向きの講演をしないのかという理由を書いている。
――家族にとっては「困惑」から始まる介護も、私たち介護職にとっては「好奇心」から出発していたりします。だから介護職同士では笑い合える冗談も家族には通じないことがあります。通じないどころか、認知症老人を笑いものにしていると叱られそうになったりするのです。――
そんな立場の違っている介護家族の方との共著が実現したのは、共著者の多賀洋子さんからの編集者への手紙がきっかけである。私が『痴呆論』(雲母書房)と『完全図解 新しい認知症ケア』(講談社)で老人の「暴力」について述べてきた部分への感想は、この共著本の「結び」で多賀さんが次のように書かれている。
―― 夫の埋葬がすんで少し落ち着いたころに、私の前作を刊行してくださった講談社の編集者・髙月順一さんから一冊の本をいただきました。三好春樹著、東田勉編集協力『完全図解 新しい認知症ケア 介護編』(講談社 二〇一二年)です。読み進めるにつれ自分の介護のあれこれが思い出され、気持ちが揺れに揺れました。
別のやり方があったのではないか、と気づかされたのです。中でも、「介護という暴力」の記述が私の胸に突き刺さってきました。暴力には2 種類あります。「行為としての暴力」と「存在としての暴力」です。後者は、叩いたりつねったり(行為としての暴力を)しなくても、児童に対する親や教師のように、存在しているだけで暴力的な威圧感を与えることをいいます。認知症のお年寄りに対する介護職もまた、存在としての暴力です。
多くの家庭で起こる認知症の人と介護する家族との関係悪化は、私自身体験し、身に沁みています。夫とぎくしゃくしていた初期のようすを「暗黒の三年」と表現して、私が被害者であるというような思いをにじませていたのでした。
認知症の人と家族との関係悪化の原因を「介護という暴力」であると喝破した人に、それまで出会っていませんでした。三好さんのこの記述に衝撃を受け、自分を愧じたのです。夫が亡くなったあとですから、胸の中で生き続けている夫に向かってただ頭を垂れるしか、なすすべがありません。(後略)――
あっ、私たちが、ただ若くて、健常者として存在しているというだけで、高齢者、統合失調症者、認知症者にとっては「暴力」ではないのか、という訴えが、介護家族にも通じた! それがこの本をつくる原動力になったのだ。
さあでは、前号の最後の課題にもう一度戻ろう。その暴力性、脅威を無化するにはどうしたらいいのか、と。
※多賀洋子さん:2000 年頃、夫がアルツハイマー型認知症を発病。2011 年に看取った。著書に『ふたたびのゆりかご』『認知症介護に行き詰まる前に読む本』(講談社)。)
- 2014年3月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その35 "気が違う"ということⅡ 自分を罰するために、自分の頭を殴り続ける女性を、くすぐることで止めさせる、この方法が、薬物投与よりはるかに優れていることは言うまでもない。何より医療費がまったくかからない。
その単純さもいい。身体で起こっていることは同じ身体へのアプローチで解決しようとするのだ。これを過去のトラウマによる深層心理のせいだなんて考えると、心理療法士やカウンセラーによる専門的アプローチに委ねなくてはならなくなるし、そもそも、今ここで起こっている事態には対応できない。
私たちもこの単純さで多くの問題を解決してきた。生活の中に原因があるのならその生活を変えればいいのだ。認知症老人の問題行動の原因、少なくとも直接のきっかけは、まず便秘、ついで脱水症、発熱などである。
脳細胞に原因があると考えていたのでは、薬は副作用や効きすぎで生活破壊をもたらすし、何より、便秘や脱水症などを見逃すことになってしまう。人生の中に原因があるのではないかと思えるケースもある。過去の人生はもうどうしようもないと考えるかもしれない。でも、新しい人生体験をしてもらうことで、解決までいかなくても深刻な状況を改善することぐらいはできるのではないかと私たちは考えている。
人間関係の中から生じたものも人間関係を変えることで解消させることができる。認知症高齢者に多い、「物盗られ妄想」や「嫉妬妄想」も、一方的で受身的関係の中にいる老人の後ろめたさを一発逆転する秘策としてとらえることで、それが解消するケースを経験している。(『痴呆論』参照)
統合失調症を含む精神病の多くも、実は人間関係によって生じたものではないのかと考えられている。かつて日本で多く発症した“狐つき”も、その多くは、家父長制の下で夫や姑から抑圧され続けた嫁に現れた。ほとんどの場合それに貧しさが加わっていた。
こうした症状を呈した人や状態を、かつては「気違い」と言った。この言葉は、現在では差別用語の典型とされて使えなくなったが、「気」が違うという表現は、それが関係の問題であることを示した的確なものではあるまいか。
目には見えないが人間を追いつめ狂気にまで至らせるもの、それが「気」である。雰囲気の「気」だ。家父長制、権力主義、男尊女卑、人間を追いつめる「気」が、最も弱い者に顕在化して「気違い」として現れる。「気違い」という表現の有効性は、それに対する豊かなアプローチを切り拓くことだ。気が違っているのだから、気を変えればいいのである。
かつて日本の共同体はそうした方法をもっていた。村落の一員が“狐つき”になると、「あの嫁さんはよその土地からやってきて、習慣が違うから大変で、姑さんはきついし、夫は威張っているしきつかっただろうなぁ。みんな知っているけど助けてやらなかったよなあ」なんて思っている。一人ひとりが、「自分のせいじゃないか」という罪悪感を少しずつ感じているのだ。
だから共同体には儀式がある。満月の夜や闇夜に村落の広場に全員が集まる。“狐つき”の人を中心に輪をつくり、歌い踊り、トランス(変性意識状態)に入る。それから戻ると症状がなくなっている、という方法である。
これは共同体のみんなが、少しずつ責任を感じている当事者として、“治ってほしい”という“まなざし”を向ける。当人はそれを感じとって症状がよくなるという方法論だ。実はこの“治療法”、今でも“未開”と呼ばれている民族だけでなく、日本の南西諸島でも行われていて、ある調査では近代的な精神科治療よりも治癒率が高いというのである。
私たちはこの「気違い」という発想と、そこから生まれる方法論を復活したいと考えている。ところがそれは簡単ではない。なにしろ、病者を追いつめている「気」の権力性、差別性の一端を「専門家」である私たちがつくりあげているのだから。
いや専門家でなくても、精神障害者にとっては健常者というだけで、老人にとっては若いというだけで、「脅威」になりうるのだ。いや若くはないあなたも、老人からみれば相対的に若い。そんな、自分たちが意識していなくても存在そのものが刻印されている「脅威」を無化するものは何だろうか。(つづく)
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▼ Read Me Please
紙芝居を芸能に!
紙芝居師・梅田佳声さん(インタビュアー:遠山昭雄)
▼ Read Me Please
2つの「変革」がシンクロする介護紙芝居!
遠山昭雄
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- 2014年3月 「よりあい」にまなぶ痴呆性老人ケア
老いとの関わりを学びたければ北欧に行くより日本のケアの実践から学べ、と私は主張してきた。自立した個人を価値あるものとする北欧や西欧と相互依存文化の日本とでは、老人から求められる関わり方が違っているからだ。特に、近代的自我 を前提とする北欧の方法論は、痴呆性老人のケアには向いていないように思う。なぜなら、痴呆とは近代的自我が解体されて「生き物」という自然に回帰していくことなのだから。
家庭の育児力が低下している、といわれている。親による子への虐待が社会問題化している。しかし、では育児ロボットをつくればいいじゃないか、と言う人は一人もいない。育児の本質は人と人との関係だということをみんな知っているからだ。
ところが、老人介護についてはどうだろう。介護力が足りないなら、介護ロボットをつくればいい、と平気で言ったりする。介護は介護力の問題だとしか思われていないからだ。そんな考え方こそが「老人問題」を生み出してきたのだと私は考えている。老人問題は、老人世代に私たちの世代がどう関わったらよいのかという関係の問題なのだと私は思う。
私はかねてから「痴呆ケアを学びたいなら福岡へ行け」と言ってきた。今年10周年を迎えた「宅老所よりあい」と「第2よりあい」の実践から学ぶべきだ、と。「よりあい」は、通って泊まれて住める老人施設である。施設といっても福岡市の住宅街の一角にある借家である。
第2よりあい代表の村瀬孝生さんは、利用者の女性(74歳)をめぐって同僚と張り合っている。そこへ風格のある元副社長の利用者が現れ、三角関係が四角関係に…という小説風のエピソードから始まるのが、村瀬さんが書いた『おしっこの放物線 老いと折り合う居場所づくり』(雲母書房)である。
おしっこの放物線
~老いと折り合う居場所づくり~
村瀬孝生 文・絵
定価 本体1600円+税
判型 四六判・並製 208頁
発行 雲母書房
「私のおなかに、どうも赤ちゃんがおるごたる。 産んでもよかろうか」と、入所者の女性から相談を受けたのは、よりあい代表の下村恵美子さん。 これは下村さんが書いた『九八歳の妊娠』(同)のタイトルになったエピソード。下村さんはまじめな顔で「父親はだれ」とおばあちゃんに問いただすのだ。さて、どうなるか…。
98歳の妊娠
~宅老所よりあい物語~
下村恵美子+谷川俊太郎[詩]
定価 本体1800円+税
判型 四六判・上製 280頁
発行 雲母書房
ここでは痴呆性老人は介護される対象ではなくてエロス的関係の主体であり、客体である。エロスとは男と女が互いを求めることだけではなくて、母と子が、さらには人間と人間が互いのことを求める人間関係の基本である。
老人ケアはエロス的世界の行為でもあるのだと私は思う。そのことが介護の現場からイキイキと表現される時代が来た。最近出版された2冊の本には日本の老人ケアを変えるヒントがある。
【12月14日、西日本新聞に掲載】
◎関連お薦め書籍
介護基礎学
竹内孝仁 著
定価 本体2200円+税
判型 B5判 224頁
発行 医歯薬出版
18坪のパラダイス
~デイセンターみさと奮闘記~
田部井康夫 著
定価 本体1600円+税
判型 四六判変形 168頁
発行 筒井書房
痴呆性老人からみた世界
~老年期痴呆の精神病理~
小澤勲 著
定価 本体3000円+税
判型 四六判・上製 260頁
発行 岩崎学術出版
- 2014年3月 インド弾丸ツアー無事に行ってきました!
2014年3月11日から13日、1泊3日というインド弾丸ツアー、無事帰国!デリー到着後、ガイドのアローラさんの自宅で家庭風インド料理を頂き、夜の11時ホテル着。
恒例の夜と朝のオールドデリー散策、さらに2日め午前中のオールドデリー散策とサイクルリキシャ乗車。午後からは地元のマーケットにも行き、その日の夜の便に搭乗して3日めの早朝成田着。
「3日目の夜勤には入れます」なんて言ってたけど、ホントにその日夜勤という人が2人もいたのには驚き。でもインドでのハイテンションで乗り切ろう。
さてこの1泊3日、こんなツアーは法律違反だとか。個人が片道づつチケットを買って乗るのはいいのだが、団体ツアーでは国際的な航空会社の取り決めで認められないのだそうだ。サッカーの弾丸ツアーは航空機チャーターだから特別だとか。
ということでこの前代未聞のツアー、今回が最初で最後。添乗員含めた27人は歴史的快挙を成し遂げた無法人ということになった。
でもこのツアー、参加者にも好評、なんとか同じ格安で2泊4日のインドツアー〈オールドデリーとタージマハール?〉を密かに計画中。
恒例の3泊5日コース(2015年2月)はブリコラージュ4月号で日程発表!早めに問い合わせ、申し込みください。- 2014年2月 2014「生と死を見つめる旅」第一弾報告
まず、ハプニングが一つ。デリー空港を出たところでツアーの常連の二人が迎えてくれたのだ。「なんでこんなところにいるの!」と驚いたが、じつは直前にツアー参加を決めて私には内緒で添乗員まで含めて「ドッキリ」をしかけたのだ。
ということで参加者は添乗員も入れて28人となっていたがホントは30人。当日朝の雪で集合を心配したが全員無事成田着。2時間遅れで出発したもののデリー着は1時間だけの遅れですみ、その後は順調。
ずっと天気も良好で心なしか排気ガスも減ったのかデリーで星が見えた。
ガンジス河から出る朝陽はこれまでになく美しくみんな感激。夕刻の火祭り、翌日の沐浴(希望者のみ)と多い人は3回も聖なる河に向かうという濃い旅である。
特に体調を崩す人も、迷子になる人もなく珍しく無事にツアー終了。
来年もこうありたいものです。
2014「生と死を見つめる旅」写真集
- 2014年1月 絶望を共有することから
~私が読んできた本 11月10日、在宅サポートセンター生田(神奈川県川崎市)での第80回(!)定期セミナーに呼んでいただいた。テーマは『認知症ケアのために介護職が読むべき本』。私の家の本棚から20冊以上の本を、旅行用バッグに詰め込んで宅配で送り、テーブルの上にズラリと並べて紹介するというスタイル。かつてこの「スペシャル」で取り上げた本が中心である。
『野生の思考(』クロード・レヴィ=ストロース)、ピエール・クラストルの『グアヤキ年代記』、NHKで放映されて話題になった『ヤノマミ』、これは文庫本にもなって求めやすくなった。それに、中沢新一の「カイエ・ソバージュ」のシリーズ5冊、特に3・11以降、私の思考の軸を示してくれている佐々木中の代表作『切りとれ、あの祈る手を』。もっともこれを代表作と私が呼ぶのは、哲学書の『夜戦と永遠』は理解が及ばないし、何作かある彼の小説は読みづらいからなのだが。
ここでは、この間紹介してきた本以外のものを紹介したいと思う。まずは『ピダハン』がおもしろかったという人へのオススメの一冊が『亡びゆく言語を話す最後の人々』という新刊。ピダハンを紹介した映像が、NHKの「BS世界のドキュメンタリー」という番組になっていて、著者のダニエル・エヴァレットも登場してくる。この本は現代言語学の主流派を揺るがすものだった。
チョムスキーを代表とする主流派は、言語は人間の認知本能によってつくられると考え、世界中の言語はそれぞれ違っていても文法の共通性があるのがその証拠だとする。ところが「ピダハン」の言語はその普遍文法にあてはまらない。ダニエルたちは、言語は本能ではなく、文化がつくるのだと主張したのだ。映像にはこのチョムスキーも登場してくる。
彼は言語学者でありながら政治的発言をする人でそのアメリカ政府批判は痛烈かつ的確で私はファンだったのだが、“ピダハン”への彼の対応は典型的な権威主義者のもので失望してしまった。
『亡びゆく言語を話す最後の人々』は、ダニエル・エヴァレットへの心強い応援の書である。いわば、言語は人間の脳から生まれるという「個体還元論」に対して「文化」という人間と環境との関係、人間と人間との関係の中から生まれるのだという「関係論」からの反論になっていて、門外漢の私には納得できる説である。と同時に、一つの言語が死滅すれば、そこに生まれた固有の文化=人間の智恵が永遠に失われるのだという著者の主張が心を打つ。
「竹島も尖閣も鳥のものである。どんな国家も占有すべきではない」という私の主張に共鳴する人にオススメの本が『ゾミア~脱国家の世界史』だ。ピエール・クラストルは『国家に抗する社会』(水声社)で、国家を形成しないのはそこまで進歩していないのではなくて、国家なき文化の選択であると、南アメリカでのフィールドワークをもとに主張した。
それを南アジアで実証しようとしているのが本書である。ゾミアとは中国南部から東南アジアの山岳地帯の少数民族が住む一帯の総称で、彼らは平地の国家に組み込まれないという選択をし続けてきたというのだ。彼らは国家を拒否しただけではなく、かつてはもっていた文字も意図的に捨て去ったようだと著者は主張している。書かれた言語=文字が権力をつくり出すことを知っていたのだろう。
死刑という制度で人を殺し、戦争によって人を殺せと命ずる国家悪の最大のものが、ナチスによるユダヤ人、そしてロマ(かつては“ジプシー”と呼ばれていた人たち)、性的少数派などの大虐殺であろう。その絶望と反省からヨーロッパの諸国は死刑を廃し、さらにECからEUへと国家を廃していく道を探り始めた。絶望も反省もしていないのが日本人である。
そんな日本人が読むべき本が『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』ではないか。ドイツからの亡命ユダヤ人女性、ハンナ・アーレントによるアイヒマン裁判についての著書である。「ハンナ・アーレント」というタイトルの映画も各地で上映されている。彼女とともに絶望を共有することから始めたいと思う。
- 2014年1月 認知症老人のコミュニケーション覚え書き
その34 "気が違う"ということⅠ 「リハビリテーションよりコミュニケーション」。これは「べてるの家」の活動を知るきっかけとなった、向谷地生良さんのレジュメにあったことばである。それについてはこの連載の18回目(2012年6月号)に書いたとおりだ。
私はそこから、リハビリテーションだけでなく、病院という場にはコミュニケーションが成立していないということを、病院から特養ホームに入所してきた“上品なおばあさん”を紹介しながら論じてきた(連載18~23)。
急病や重病のときには入院したほうがいい。精神疾患でも発作が起きていれば入院するのは一つの方法である。バザーリア法※ のあるイタリアでも急性期の人を収容する施設は存在している。しかしそうではない場合の入院はコミュニケーションが成立する前提を破壊してしまう。そのことは、「べてるの家」が実践している内容を知れば知るほど痛感せざるを得ない。
※ バザーリア法:180 号法。イタリアの精神医療・福祉に関する法律。1978 年5 月13 日に公布された世界初の精神科病院廃絶法である。イタリアで精神科病院の廃絶を最初に唱えた精神科医フランコ・バザーリアにちなむ。
一昨年には、「井戸端げんき」の伊藤英樹さんを団長として「べてるの家」訪問ツアーを実施した。さらに、昨年からは「三好春樹と行くべてるツアー」と題して毎年恒例化されることになった。私たちは何を見に行くのか。
べてるのミーティングが開かれる事務所やグループホーム、発祥の場となった教会を訪ねたりはする。でも肝心のものは、精神障害者たちが“仲間”とともにいるということを見に行くことにある。「幻覚・妄想発表大会」や「当事者研究」もまさしくそのことの集大成といってもいいだろう。
そのことがよくわかる事例を、数例あげて紹介したいと思う。かつての職場の上司の顔が50倍にもなって目の前に現れるという青年がいる。現在、この日本で働くということは大変である。営業職のような成果が数字=金で表れる世界だと、ノルマを達成するまでは果てしない残業、上司からの人間性を否定される叱声を浴びなくてはならない。
ノイローゼ、うつ、自殺が蔓延する社会になっているのは承知だろう。「介護の仕事がきつい」なんて今では甘えた言い方になってしまっているほどだ。彼もそんな職場でがんばり続けて、ある日、幻覚で“上司”が出現したのだ。ふつうなら薬物療法、症状によっては入院となるが、べてるのやり方は違う。
“上司”が現れるという夕方になると何人かが彼のそばにいて、「出た」というと「もう辞めてるんだから出てこないでくれ」といっしょに訴えるのだという。そうすると彼の幻覚も少しずつ少なくなっていくというのだ。まるで幻覚の訴えは、自分がかつてこんなひどい体験をしたんだということを私たちに訴えているかのようではないか。だから仲間がそれを共有してくれることで、幻覚が必要でなくなるのではないか。
アパートにひとり暮らしをしている青年は、夜中に大声で叫ぶので近所から追い出されかかっている。寝ていて目覚めると、天井が落ちてきて押し潰されそうになるからだという。仲間たちはアパートに泊まりに行く。そして「落ちてきた」と彼が訴えると、持参した巻尺で天井までの長さを測り、「昼間と同じだから心配しないでいい」と伝えるのだという。
11月号の「べてるツアーレポート」の私の文章のケースも紹介したい。~世界で起こる事件は自分が原因だという妄想をもった女性が、自分を責めるため、自分の手で自分の頭をボコボコ殴り始める。そのたびに彼女は入院して強い薬を投与されていたというのだが、車に同乗していたメンバーの、ある方法でピタッと止まるのである。しかも笑いながら……(これが最大のヒント。謎解きはしません)。
ここで謎解きをしてしまおう。向谷地さんが運転する車の助手席に乗っていたのが妄想の持ち主の女性。後ろの席にも女性が3人乗っていた。そこで発作が起きたのだが、そのときの向谷地さんの反応がすごい。「せっかくだからビデオで撮っておいて」と自分の手持ちの動画撮影機器を後ろのメンバーに渡すのだ。「どうしよう」「厚手の帽子ない? あったら頭にかぶせよう」。これらは映像といっしょに収録されている後席の女性たちの声である。
そのうちの一人が「くすぐってみようか」と言って、後ろから手を伸ばし、彼女の脇の下をくすぐると、彼女は笑いながらその手を払おうとして頭を殴るのを止めたのである。(次号に続く)
- 2014年1月 年末年始のことども
Bricolageの読者の方々をはじめとして多くの賀状を頂いた。毎年のように言い訳しているが私には賀状を出す習慣がなく、この欄で代替させて頂いている。
2013年はお世話になりました。2014年もよろしく!
Bricolageの最後の12月号で「東京オリンピックの破綻の6つのシナリオ」を発表したとたん、猪瀬の5,000万円ワイロ事件が発覚し7つめのシナリオが加わってしまった。いったい石原はいくらもらったのだろうか!?
さらに安倍の靖国参拝まで加わって、日本政府はますます世界の常識から離れ孤立を深めているので、私のシナリオの予測が当たる可能性は深まるばかりである。
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年末は家族でスキーだった、というと「まだ滑ってるんですか」と驚かれる歳になった。でもいいよ。スキー場は昔と違ってガラガラだし、なにしろシニア料金で格安で1日滑れるんだから。といってもガンガン滑るわけじゃないから安い訳でもないんだけど。回数券より高くついていたりする有様。
まっ、この歳になったらどう着地していくかが課題で、共に歳をとる同年代の人たちと、続々登場している個性的な若手の介護職の中で自分の存在を少しづつ限定していこうと考えている。それが2014年初頭の志というところか。