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介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話

2002 ~ 2005
2005年6月  石原慎太郎の痴呆のタイプは?

「目クソ、鼻クソを笑う」、その後の日中の問題を巡る応酬をこの一言で要約できる状況になってきた。中国の首脳が過去の日本の国家悪を批判すれば、日本の保守的マスコミが、チベット侵略や文化大革命での死者をあげつらう。相手の罪悪を言いたてることで、自らの国家悪を免罪しようという、さもしい心根同士である。

どっちもひどいもんだ、というのが正しい判断である。21世紀にもなって東アジアにはいまだに前近代性を克服できない2流、3流国家が残存しているということだ。 北朝鮮なんていう3流国家があるから日本は少しはマシに見えるだけで、平和憲法によって国家的なものから脱却していく方向性を持っていた日本は、いまや、それを投げ捨てて「普通の国家」に成り下がろうとしている。

戦争放棄はもとより、政教分離まで投げ捨てるのだからこれはもう2流にも留まれそうにはない。政治と宗教がくっいてはい家ないというのは、日本人が歴史から多大な犠牲を払って手に入れた教訓だったし、世界の民主国家の原則である。それを守ってこそ、”一神教国家”である中国を批判できるのだ。

石原慎太郎となると笑えないピエロである。南鳥島の岩にキスしてみせたりしているのを見ると、政治家とは「大衆の劣情と結託してパフォーマンスする人」と定義したくなる。彼がもし中国に生まれていたら中国々旗を手に尖閣列島に上陸していただろう。北朝鮮に生まれていたら、家庭に入り込んで「金正日の写真を飾っていない」といって処分するに違いない。なにしろ日の丸を揚げない、君が代を大声で歌わないといって処分する人なのだから。そう、彼がその行動の根拠としているのは日本に生まれたという偶然でしかない。何の根拠もないもんだ。

ああいうタイプは呆けるだろうなあ。国家という共同幻想に自己を同致させているタイプは、老いには弱いもの。だって老いたら共同幻想の側はすぐに見捨てるもの。すでにそのズレは始まっているみたいだけどね。激しい葛藤型から回帰型に到る、というのが私の見立てである。ただ憎めないところがあるから女性の介護職には「かわいい」と言われるだろう。本人には屈辱だろうけど。

北朝鮮はもちろん、中国も日本も現在の政権を打倒せねばならないのだ。もっとも打倒したからといってましな政権ができるとは思っていないけどね。だってあんな小泉や石原に日本人は票を入れるんだから。よほどアイデンティティがなくて国家と自己を同一化したい人が多いんだね。でも、国家的なものに抵抗することに意味があるんだよね。


2005年5月  二流国家同士のケンカ

~ 日中問題の本質とは何か ~
私が責任編集している月刊誌BRICOLAGEでの連載に、「外国人労働者導入反対の根拠」(4月号)、「近代主義者には困ったものだ ー領土問題と老人問題ー」(5月号)と2回連続して時事問題に触れたものを載せた。これを面白がる人が多くて、他の政治や社会問題についても、三好ならどう考えるのか、という質問が寄せられるようになった。

「近代的なナショナリズムから自由な立場からは、現在の日本と中国の間の問題はどう捉えるのですか」というのは、あるグループホームのスタッフからのものである。ここまで来ると老人介護とは直接関係なくなってくるので、BRICOLAGEではなくて、ホームページに回答を載せることにした。
日中間の問題は、一言で言えば、二流の国家同士のケンカである。5月号で私は国家をヤクザに喩えた。ヤクザに叱られるかもしれないな、と思いつつ。どんなひどいヤクザでも国家がやるような大量殺りくはしないものなぁ。

国家の課題はヤクザ的でなくなることしかない、と書いた。ところが日本も中国も、もっとヤクザ的になろうとしている国家でしかない。日本が何よりもダメなのは小泉の靖国参拝である。中国や韓国が反発するのは当然だが、だからダメなのではない。これは近代国家としての原則を破壊するものだからダメなのだ。
政治と宗教の分離は近代国家の原則である。政教分離は、基本的人権や三権分立と並んで、国家が少しでもヤクザ的でなくなるための歯止めである。小泉個人がどんな宗教に熱を入れようがそれは自由である。彼が個人として、オームの信者になろうが、どこの神社仏閣、イワシの頭に参拝しようが文句を付ける筋合いはない。

しかし国の代表が特定の宗教に肩入れするのはどう考えても憲法違反である。非宗教的施設を作って参拝すべきだ、というまっとうな答申が出てるにも関わらず、この国は無視し続けている。小泉とそれを選んでいる自民党、日本の有権者は民主主義の基本を自ら踏み外しているのだ。

ところで中国政府はといえば、これが日本の憲法に違反しているからけしからん、とは言えないのだ。なにしろ、中国の国家こそ宗教国家だからだ。社会主義という宗教と政府が政教一致していて、他のものは認めないという前近代国家なのである。日本が政教分離の原則を侵したといって非難すれば、おまえたちのほうがもっとひどいじゃないかと言われかねないからだ。

だから彼らは、宗教施設への参拝そのものではなく、その施設に戦犯が祭られているから、というのを批判の根拠にしている。しかし、たとえ戦犯が祭られていなくたって、これは民主主義の破壊なのだ。でも中国政府は「民主主義」を理由に批判はできない。この国には政党政治も報道の自由もないのだから。だから”国民感情”をその根拠にするよりないのである。
ただこの”国民感情”は当然のものである。第2次大戦での各国の戦死者数を見てみるといい。中国の死者は日本の比ではない。日本が勝手に始めた戦争で、何の罪もない人が大量に殺され、国土を荒らされたのだ。

「欧米の包囲網によって戦争するよりなかった」と開戦を正当化する人もいるが、国際社会から非難、包囲されるようなことを韓国や中国大陸で長年やってきたからではないか。それに「戦争」という絶対悪以外の選択肢はいくらでもあったのだ。
いったい戦争はどこで行なわれたのか、第2次大戦の末期を除けば、日清戦争も日露戦争も含め、すべて日本の国境をはるかに離れたところで行なわれている。日清や日露の戦争を日本が近代化する過程であると美化する史観すらあるが、とんでもない話だ。勝手に戦場にされた人々の立場からこそ評価すべきであろう。

この国では昨今、犯罪者の人権ばかりが大事にされてきた、として、被害者の人権を守れという声が出ている。ところが戦争については、加害者の側の一方的意見が教科書に載ったりしているのだ。加害者に犯罪(戦争)を語る資格はない。 私が文部大臣なら、歴史教科書の近・現代の記述は、ユネスコのような国際機関に依頼して書いてもらうことにするね。それが最低限の倫理だろう。

韓国と中国の立場が感情的だとして批判するわけには行かない。この感情には歴史的根拠があるからだけじゃない。小泉政府の側も感情を根拠にしているにすぎないからだ。政教分離の原則を破り、さらに司法の側からの憲法違反との意見にも耳を貸さない、つまり三権分立さえ無視して行われている靖国参拝の根拠は”国民感情”以外にない。”国民感情”を大事にしたいのなら、まず被害者の側の国民感情を大事にすべきなのだ。歴代の総理は何よりまず、韓国や中国の戦没者にこそ参拝すべきだろう。

私なら、むこうから、もう来なくていい、と言われるまではやるべきだと思う。そうすれば私は、韓国も中国も、戦犯も含めた参拝にも反対なんかしないと思う。なにしろ近代の戦争は国民を総動員するものだから、どこまでが戦犯かはっきりしない。戦争を止められなかった日本人みんなが戦犯だと言ったってもいいのだから。

国家の課題はヤクザ的でなくなることしかない、と書いた。そんな国や徴候があるのか、と聞かれたら、私はポーランドの「連帯」の運動や、EUに注目したいと思う。EUは国家が自己否定していこうとするものではないか。もしそうだとしたら、それはヨーロッパの絶望が原動力だと思う。当時としては世界で最も民主的だったワイマール体制のドイツがナチスを生み、ユダヤ人虐殺を作り出した。その絶望だ。

絶望が足りないのはアメリカだ。民主主義の国が民主的に大量殺りくを始めている。しかし救いなのは、それに反対する人たちの言論や行動の自由があることだ。どこかのように小泉政権の政策に反対だというだけで「反日分子」と言われるような、全てを同じ色にしてしまおうとするような国とは違うのだ。同じヤクザでも余裕がある。
絶望が足りないのは日本だ。戦前の日本には民主主義はなかった。だからあの戦争は、国民の意思ではなくて、一部の軍国主義者のせいだとされてきた。
しかし私は、もし戦前に参政権があって、報道の自由があったとしても、同じことをやったと思うね、だって今のマスコミの報道を見てみよ。ナショナリズムそのものではないか。

まことに、近代国家とマスコミの成立はセットであることがよく判る。ワイドショーで中国のデモを見ていた女性経済評論家が「日本人をナメンなよ」と言っていた。「ナメンなよ」と言いたいのは、国境を越えてやってきた日本人によって戦争被害を受けた人たちが小泉に対していいたいコトバだよ。あんたは家計簿の話をしてりゃいいの。
いつもは反権力的な発言をしている(いかにも権力的な)コメンテーターが「中国の人たちも日本の商品をほしいんだったら、こんなことはやめるべきだ」と発言していた。

おいおい、物質的幸福のためならプライドを捨てろと言ってるのと同じじゃないか。日本人はいつからこんな鈍感で無神経な人間ばかりになったのか。救いはある。反日デモの最中に、日系スーパーの開店にやってくる中国のおばちゃんたちだ。韓国で反日気運が盛りあがっているのに韓流ブームで男優に会いに出かけていく日本のおばちゃんたちである。外交にも政治にも興味がなくて、ナショナリズムのマスコミなんかに振り回されたりしない”意識の低い”人たちこそ救いである。”意識の高い”人による反戦運動なんかより、彼らの国家との距離の長さ、政治への無関心と、自分の生活だけへの関心が戦争の抑止力だ。

マスコミと言えば、ホリエモンに支配されそうになったときのフジテレビ関係者が急に「ジャーナリスト精神」なんて言い出したのには驚いてしまった。ライブドアになったらテレビが”ジャパネットたかた”みたいになってしまう、といって批判し、ジャーナリズムを守れ、なんていうのである。よく言うよ。女性アナウンサーに軽薄なことをさせるのと、フジサンケイグループ全体でのナショナリズムの片棒をかつぐだけのジャーナリズムなんか、なくなったって誰も困らないぜ。
それより一日中音楽を流してたり、”ジャパネットたかた”みたいな通販を24時間やってるチャンネルのほうがよほど生活者の役に立ってるよ。

『国は滅びても商売は残る』。私の好きなコトバである。商売のほうが歴史的には国家よりはるかに古い。つまり人間にとって普遍的なのだ。ましてや近代国家なんぞ。
二流の国家に私たち国民が振り回されるのはえらく迷惑である。しかし、「国民」という形でしか地球上に存在できそうにない歴史的制約を嘆くより他にあるまい。
二流の国家の三流の官僚たちに介護現場が振り回されるのも、嘆くより他にないのだろう。それにしても、回廊式施設、天井送行入浴システム、全室個室、ユニットの強制、そして筋トレと、厚労省の誤りはいつまで続くのか。


2005年5月  外国人労働者導入反対の理由

「日本政府とフィリピン政府は、フィリピン人の看護職と介護職を日本に受け入れることを決めた」、昨年、テレビや新聞がこう報じて驚いた人も多いのではないか。なにしろ、介護の現場を大きく変えるかもしれないことが、突然、国同士の外交交渉で決定されてしまうのだから。

かたちのうえでは、外国人労働力を受け入れるけれど、その条件を厳しくして実際にはほとんど入れないという、日本がよくやるごまかしだから心配ないという人もいる。なにしろ、日本での資格取得が条件だというのだから、日本語の習得も含めてハードルは低くはない。しかしすでに、商社あたりが、日本語の勉強と資格が取得できる学校を計画しているというのだ。

まず心配するのは、介護職である私たちの地位と待遇のことである。アジアの国々と日本との賃金格差を考えれば、外国人介護職は今よりずっと安い給料で雇うことができ、経営者はこぞって雇用しようとするだろう。将来ともに日本で生活していく私たちは、今でさえ安い給料がもっと安くなるのではとても仕事を続けてはいけなくなるのではないか、と。

介護を受ける側の老人にとってはどうだろうか。「コトバも文化も生活習慣も違う外国人に日本の老人のケアはできない」という理由で反対する意見が多い。しかしそれは説得力に欠けていると私は思う。
私が講演でよく話をする藤田ヨシさんが一晩中歌い続けていたのは『美しき天然』という歌である。でもこのタイトルを聞いてもほとんど誰も知らない。歌ってみせると思い出す人はいるが、歌詞を知っている人は少ない。人は18 歳から20 歳の頃に聞いていた歌、歌っていた歌を一生歌い続けると言われている。最も感受性が豊かな頃で、恋愛なんていういい思い出のあった時代だからだろう。
介護している私たちが少しでも老人と共感できるためには、彼らといっしょに歌ぐらい歌えなきゃいけない。90 歳の人が相手なら70 年前の、80 歳の人なら60 年前に流行した歌を知っておく必要がある。

でも、とても無理だろう。なにしろ介護職は20 代が中心で、ついに実習に平成生まれが入ってきたくらいだから。 輪になっての肩たたき体操で歌う「山田のかかし」という歌を知らない人がいるというので、私より上の世代の人は驚いたものである。今では驚くにあたらない。知っている人のほうが少なくなった。若い人は「カカシ」はもちろん、稲の穂すら見たことのない人も珍しくない。

元芸者のトワさんがヘルパーにいつも教えてくれる〈都々逸(どどいつ)〉がある。 「都々逸、下手でもやりくりゃ上手 今日も ななつやで誉められた♪」 代表的な都々逸だが、「ななつや」の意味を誰も知らない。トワさんに共感できる人がいないのだ。山岸のじいさんの楽しみは、雑音だらけのテープを聞くことである。「江戸っ子だってねぇ、神田の生まれよ」という広沢虎造を「いい声だねぇ」と目を細めている。しかし若い職員は、そもそも浪曲というものを知らないし、当然、この森の石松の登場する名場面も知らないのだ。

つまり、同じ日本人同士である私たちと老人の間にこれだけ大きな文化の断絶があるのだ。もちろん生活習慣にも大変な違いがある。ひょっとしてそれは、国の違いによるギャップよりも大きいのではなかろうか。でもコトバは通じるじゃないか、と言うかもしれない。しかし、老いとか痴呆というのは、言語的世界から非言語的世界へと回帰していくことだ。高齢で痴呆のある人ほどコトバの占める割合は少なくなっていく。

私はむしろフィリピンからやってくる看護職、介護職に、日本人はかなわないのではないかとさえ思う。一般に彼女たちは日本人より素朴で明るい。家族に送金するために勤勉に働くだろう。日本のじいさんはもちろん、ばあさんたちにも人気が出るのではないか。ばあさんたちが彼女たちに楽しそうに日本語を教えてやっている姿が思い浮かんでくる。

だからといって私は外国人労働者の導入に賛成しているのではない。「外国人にはできない」という理由での反対論に反論しているだけである。私も外国人労働者の導入には反対である。まず、介護現場で労働力が不足しているわけではない。むしろ介護の仕事に就くのは難しい。若くて明るくて資格をもっていないと採用なんかしてもらえないくらいだ。

それを、貿易のアンバランスの是正のためというので突然労働力を入れろと言われるのは理不尽である。貿易で利益をあげている商社が現地で仕事をつくったらどうか。日本の産業社会が発生させた廃棄物を船に乗せて外国に「輸出」して捨てたというので国際問題になったことがある。日本社会がつくり出した問題を、外国の環境を犠牲にすることで「解決」しようというのはあまりにエゴイスチックで倫理的に問題があるだろう。

老人問題もまた、日本社会が生み出した問題である。それを外国の安い労働力で「解決」しようというのはエゴではないのか。日本の社会が生み出した問題は日本人がどうにかすべきである、そうでなきゃ、それを生み出している社会そのものを変えていくことはできなくなるぜ、というのが私の反対の根拠である。


2005年4月  近代主義者には困ったものだ

~ 領土問題と老人介護と~
「三好さんがよく批判する“近代”ってなんなの?」 高口光子さんからの質問である。彼女のよいところの一つは、こうした率直さだ。なにしろ東京大学の上野千鶴子の研究室で「“ ジェンダー”って何ですか」と聞いて、秘書にあきれられたという。
ま、私たちが知らないのは不思議でもなんでもないが、東大なんかでは信じられないことらしいよ、読者の皆さん。
近代とは、私たち現代人がすっぽりはまってしまっている感じ方や考え方のパターンの一つだと言えばいいだろう。いつも吸っている空気を意識しないように、当たり前だと思っている感じ方や考え方が、実は歴史的には百数十年前からの近代という時代の特殊なものでしかない。それを、人類史上ずっと続いている「老い」や「死」にあてはめようとするのは無理だよ、というのが私の近代批判である。

国家とか国民とかいう概念も近代的なものにすぎない。にもかかわらず、世界中を国家の領土に分割してしまわねばならない、と考えているのも近代的思考でしかない。
竹島( 独島) を“ 日本固有の領土”などと言っているが、“固有の領土”なんてものはありはしない。それはせいぜい百数十年前に近代国家が成立した時に宣言したというだけのものだ。早い者勝ちなら、近代国家への道を目指さなかった地域は植民地化されるよりない。 中東やアフリカの国境線を見てみるがいい。直線である。早く近代国家となった国々が、民族も言語も無視して領土分割したからで、そのことがいまだにイラクの混乱をつくっていると言ってもいい。

“ 固有の領土”というならもっと歴史をさかのぼってみれば、北海道はアイヌのものだし、アメリカも原住民のものだ。もっとさかのぼれば、竹島は鳥のものである。あとは竹島を漁場にしてきた日韓の漁民の生活の場である。そのことさえ保証されれば、どの国家にも所属しないのが一番いい。尖閣諸島(釣魚島)も鳥のものだ。資源があるなら両国で話し合えばいい。
いわば国家というのはヤクザ集団のようなもので、領土紛争はヤクザの縄張り争いだ。縄張りの中で生活しているからといってヤクザと自分を同一化することはない。“固有の領土”などと言って日本領土であることを疑うことすらしない日本のマスコミは、近代という狭い思考に閉じ込められているのだ。

ついでに言うと、日本のはるか南の沈みゆく岩にセメントをぶち込んで、無理矢理に、領土にしてしまおうなんていうのはみっともないだけじゃなくて、最悪の環境破壊ではないか。誰もこれを問題にしないのはなぜだ。ナショナリズムを疑うことすらしないマスコミは、大衆を戦争に動員した戦前の体質と本質的に変わってはいないのだ。

さらについでに言うと、私は日本の国連常任理事国入りなんてアホらしいと思っている。ヤクザ会の幹部になるのがそんなにいいことかね。ヤクザに課題があるとするなら、ヤクザらしくなくなることである。つまり国家の課題は国家であることを自己否定することだ。だいたい、日本が常任理事国になっても、アメリカ票が2票になるだけじゃないか。何の意味がある? だから中国が反対するのもわかる。しかし、報道の自由も政党政治もない国が常任理事国だというのはもっとおかしいんだけどね。

“ 自立した個人” こそ価値があるのであり、それを目指さねばならない、というのも近代的思考である。そんなものが可能なのは、近代の恩恵を受けている階層の人で、しかも、若くて元気であるという条件がついている場合だけである。
子ども、病人、老人、障害者は、“自立した個人”には含まれない。近代の側はそれを見ないようにするか、矯正の対象にして、 “自立した個人”に近づけようとした。 筋肉トレーニングもその一つである。本誌4月号に「パワーリハビリの功罪」というレポートが載っている。このレポートが優れているのは、近代的思考の枠を出たところからなされていることだ。

私自身も筋力増強訓練の報告を私の処女作である『老人の生活ケア』(医学書院刊)でしている。そこには筋力増強の効果があったケースが出てくるが、それがその人の生活にとって意味があるためには、どんな条件が必要かについて語っている。20 年も前の私は間違っていないなあ、と思って読み返した。

老人施設を全室個室にして、どんな老人にも個室を強制するのも、また近代的価値観を至上のものとして老人をそれにあてはめるものである。 「自分が入りたい老人ホームを」なんていう自己中心性がこれをつくり出した。若くて元気で近代の恩恵を受けられている“近代的個人”としての自分を標準にすることに疑いすらもっていないのだ。
数日でもいいから、痴呆の老人を最後までケアしようとする施設で働いてみるがいい。自分たちが考えてきた「人間」像がいかに特殊なものだったかを痛感するだろう。「自分が入りたい老人ホーム」ではなくて「いちばん深く呆けても落ち着いていられる老人ホーム」をつくらねばならないのだ。

参考文献を2冊。近代国家がいかにでっちあげられたものにすぎないかを論じたのが『想像の共同体』( ベネディクト・アンダーソン著、NTT 出版刊)、近代個人主義と国家主義がじつはセットであると論じる『死産される日本語・日本人』(酒井直樹著、新曜社)。いずれも目からウロコである。


2004年10月  コトバを換えたってキリがない

~ 厚生労働省の愚行~
9月3日付けの新聞によると、厚生労働省が「痴呆」に代わる名称を6つの中から決めるため、ホームページで一般の意見を求めているという。怒るのを通り越して、憐れみさえ感じてしまう。私にも新聞記者が意見を聞きにきたが、「認知症」「もの忘れ症」「認知障害」「記憶症」「記憶障害」「アルツハイマー」の6つのどれがいいか、と尋ねられても答える気になるはずがない。そもそも「痴呆」という表現を言い換えようとすることそのものがおかしいのだから。

「精神分裂病」を「統合失調症」と言い換えて差別や偏見が少なくなったか。とってつけたような「目の不自由な人」とか「耳の不自由な人」なんて言い方は、「顔の不自由な人」とか「頭の毛の不自由な人」といったひやかしを生み、結局、差別的表現を増やしただけではないか。

かつて私は介護職に「敬語を使え」と説教する左翼的な人たちに「コトバの強制は強制労働より悪質だ」と批判してきた。その経過と私の主張は『正義の味方につける薬』(雲母書房)に載っているので、ぜひ読んでほしい(おっと、“左翼”といっても若い人には何のことかわからないだろう。「理想の社会をつくろうとして、北朝鮮のような地獄をつくった人たち」のことだ。つまり、いまだに左翼でいることは、現実から学ぶという認知能力に重大な障害をもっている人ということになる)。

私の考えは当時から一貫している。「差別用語」があるのではない。差別的現実があるのだ。その差別的現実のなかではどんなコトバも「差別用語」になるのである。 だから、差別用語をなくすには、差別的現実を変えるより他ないのである。痴呆老人が落ち着いて笑顔で生活する方法論を創り出し、痴呆に対する差別的現実を変えているのは介護現場である。

私が『痴呆論』で示したアプローチを参考にした実践が学会でも発表し始められている。厚労省にできることはその現場を応援することだ。ところがやってるのは全室個室やユニットの強制によって痴呆老人の多様なニーズを押しつぶすという現場の邪魔ばかりなのである。

ドフトエフスキーの『白痴』という題の小説がある。これも「精神発達遅滞」などと言い換えるのだろうか。「白痴」にはピュアな者というイメージがある。私には「精神発達遅滞」のほうがよほど差別的だと思う。なぜなら標準は私たち正常発達の側にあって、そこからの尺度で遅れていると言っているのだから。
でも「白痴」は、そうした尺度そのものを疑い、ひっくり返す力があるコトバなのだ。かつて、織田信長に対して投げつけれられた「痴(し)れ者」というコトバは、常識や秩序をひっくり返そうとする者へのおそれが表明されたものだったろう。

「痴呆」の“呆”も悪いコトバではない。寝呆ける、と呆ける、なんてよく使うし、遊び呆ける、なんていいなあ。子どもの頃、遊び呆けた人ほどいい老年期を迎えられる、というのは私の説である。興味のある人は『男と女の老い方講座』ビジネス社)を読んでほしい。
「痴呆」というコトバの差別性をなくすには、痴呆への現実の差別をなくすというのが基本である。しかし、差別性を薄めるための方法はなくもないのだ。それは「痴呆」を普遍化することである。「痴呆」を言い換えて使わせないのではなくて、逆にどんどん使うのだ。

介護職相手に、仲間内でしか通用しない医学用語を使いたがる医者やPTは「専門性痴呆」。老人を訓練して家に帰そうという「中間施設」(=老健施設)をつくったものの、家から特養への中間施設になってしまったことを反省もせず、“筋トレ”なんて言っている厚労省役人は「官僚性痴呆」。現場の声は聞こうとせず、その厚労省の顔色ばかり見て「様付呼称」を強制する「施設長痴呆」。もちろん「左翼性痴呆」も重症の痴呆に分類されるだろう。
「こんな痴呆に比べれば「老人性痴呆」なんてちっとも大変じゃない」というのが、介護現場の実感である。そう、この介護職の実感が一般の人に普遍化されたとき、「痴呆」の差別性は無化されるのである。 つまりホームページでの公開は、いかにも民主的で開かれた印象を与えるための儀礼らしい。「民主主義」とは「大量殺戮などの国家悪をいかにも民衆の自発性によるものだと思わせるためにつくられた巧妙なしくみのこと」というのが私の定義である。
今、来年の発行をめざして『実用介護事典』を執筆しているので、なんでも定義するクセがついてしまった。


2004年9月  介護職はなぜ辞めるのか?

~いま介護の意味が見えなくなっている~
高口光子私は、老人病院、特養ホームを経て、現在は「老健ききょうの郷」で企画教育推進室室長を務めるかたわら、介護アドバイザーとしてさまざまな施設に関わっています。今日は、その介護アドバイザーとしての経験から見えてきたことをお話ししてみたいと思います。

■人はなぜ仕事を辞めるのか

人が仕事を辞める原因の一つは生活習慣です。人は生活習慣が乱れると仕事を辞めます。ケアの現場で働く者にとって、生活習慣は重要です(図参照)。
説明図

生活習慣は自分との関係、つまり自分の心と身体を大切にする行為、または特定の人物との関係、つまりご家族や恋人であるとか固有名詞が明らかになっている人、大切な人を大切にする行為。それから不特定な人物との関係で、職場とか学校とかの社会的交流を大切にする行為。それぞれが生活習慣です。

職員が涙をためて、疲れ果てて、私のところにやってきます。「もう私だめです。辞めます」。私は「まずあなたの心と身体を大切にしなさいよ」と言います。「え、いいんですか?」とその疲れ切った職員が聞き返します。「いいさ。自分の心と身体を大切にできない人が、なんで人様を大切にできる?」と私は言います。「その次にあなたのご家族やお友だちを大切にしなさいよ」と言うと、「いいんですか?」とまた聞いてきます。「いいよ。そして仕事を大切にしなさい」と言うと、フ~ッと肩の力が抜けていきます。

この3つのバランスがとれている状況が生活習慣が安定しているという状態で、このとき人は仕事を辞めたりしません。このバランスが1つくずれただけなら何とかなります。しかし、2つ重なると厳しい。3つだとアウトです。

最初に心と身体、うつ病とかぎっくり腰が出ますね。介護職は夜勤もしますし、勤務中の動きも激しい。心や身体を痛めるという理由が1つ。

それから就職したときには想定できなかった家族条件が変わるということがあります。旦那がこんなに頼りにならないとは思わなかった、子どもが病気がちだとか、家計が不安定になるなどの理由が2つめ。そして、3つめが職場の人間関係がうまくいかないなどなど。

この3つのバランスに沿って一つひとつ解決することができるか?
たとえば、しばらく休んだらどうか?
ご家族も一緒に一度話し合ってみようか?
常勤からパートに変わってみたらどうかなど、そういう配慮で解決できます。ただし、気づくのが遅くて、3つが同時に崩れると、もうにっちもさっちもいかないということになります。

この3つのバランスのなかで一番取り替えやすいのが「不特定の人との関係(仕事)」です。自分の心と身体はそう簡単には変えられない。旦那や子どももそう変えられない。そうすると職場を変えるのが一番手っ取り早いかなという判断になるわけです。女性の多い職場ですから、結婚、妊娠、出産もあるでしょう。反対の順序の人もいますが。

この図はじつは、現場にいる職員たちにはとてもわかりやすいのです。私たちのサービス提供がこの図そのものだからです。自分の心と身体を大切にすることを主目的にサービス提供するのが病院、不特定の人間関係が施設、特定の人間関係が在宅です。因みに、本来は在宅(家庭)にあった特定の人間関係をあらかじめ要求される事業がグループホームでありユニットケアです。この成り 立ちに注意が必要です。特定の「この人」のために私財を投げ打ち、家族を巻き込んで事業展開していくという、たとえば民間デイなどであれば、「特定の人間関係」というニーズはあらかじめ満たされます。

ところが、たとえば介護保険にのっとって始められたグループホームでは、先に「特定の人間関係ありき」というわけではありませんから、この要求に職員は辟易してしまいます。共に生きる、寄り添うケア、私のおじいちゃん、私のおばあちゃん、などと、あらかじめ想定されるこれらのサービス提供に職員が疲弊するという現象が、最近見られるようになってきています。

■私たちの仕事の基本は何だ?

病院、施設、在宅、医療、保健福祉、あらゆる分野にいる看護、介護、リハビリ、ソーシャルワーク、栄養・調理の職員たちの共通の目標は何でしょうか。リーダーはすぐに答えます。QOLの向上です。何でケアプランを作成しているの? QOLの向上です。何のためにカンファレンスしているの? QOLの向上です。何でお風呂に入れているの? QOLの向上です。便利な言葉です。QOLとは何か?
生活の質と訳されています。なんだか意味不明な日本語ですね。私自身は日ごろから、「QOL」を連発して、すべてを説明しようとする人は少しまゆつばものだと思っています。皆さんも気をつけたほうがいいです。もう少し現場らしい言葉でいきましょう、となると「その人らしい生活」です。

「その人らしい生活」を手づくりして、守り抜くのが私たちの仕事だということです。「その人らしい生活」はどう構成されているのか? ベースにあるのは当たり前の生活です。

当たり前の生活とは何か? 夜寝るということ。朝目が覚めるということ。今日はどこに行こうか、誰に会おうかと身づくろいすること。お腹をすかせてご飯を食べること。おしっこ、うんこをしたいと思うときにすること。顎までお湯に浸かって、ああやれやれ、気持ちいいな、さっぱりしたと言うこと。そして、「ああ寝るのが一番」と言って床に入ること…。これが当たり前の生活です。

医療、保健福祉であろうと、病院、施設、在宅であろうと、看護、介護、リハビリ、栄養・調理、ソーシャルワーカー、あらゆる職種の仕事の目標は、患者、地域住民、利用者など、さまざまな名称で呼ばれる目の前の人物に、まずは当たり前の生活をきちんとつくることです。これが私たちの仕事の基本です。

そして、それぞれにその人の特徴が出てくるわ けです。その人ならではの生活習慣、こだわり、です。私は朝目が覚めたらすぐ歯を磨きたい。いや、私は朝ごはんを食べてから歯を磨きたい。お風呂にはタオルをつけて、耳の後ろをこすりたい。いや湯船にタオルをつけるなんて絶対に嫌だ、というふうにその人ならではの生活習慣やこだわりがあります。

■生活のしにくさにアプローチする介護

これらのことを総称して「その人らしい生活」となるわけですが、この「その人らしい生活」を脅かすものが機能障害、いわゆる疾患または障害です。目が見えない、耳が聞こえない、手足が動かない、息子の顔がわからない、おしっこがわからないというものです。この機能障害が「その人らしい生活」を脅かしていきます。それならこの機能障害がなければいいではないかという考えがあります。これが「医療モデル」です。

なくしてしまおう、という立場ですから、目標は治癒・回復、そして方法論はキュア、方法は処置、訓練または治療です。生活モデルの方法論はケアです。そして方法は支援、援助、介助。

「医療モデル」における重要な仕事は、治せる病気はしっかり治すということです。医学の進歩に伴って、昔だったら死んでいた人が生きられるようになりました。それはすばらしいことなのですが、生きるほうに引き上げられた私はこんな自分でどう生きていけばいいのかということに向き合わなければならなくなったのです。

治らない機能障害をもって生きていく人たちにとって、治らない機能障害がその人らしい生活に受け入れられたとき、それは個性になっていきます。ここで重要なことは、あらかじめ機能障害が“個性である”というのではなくて、“個性になっていく”ということです。

機能障害が個性になっていくプロセスにおいて、その機能障害が本人を苦しめる時期があります。それが生きにくさ、生活のしにくさで、これが生活障害ということです。日本で一番有名な身体障害者、というのも申し訳ないのですが、乙武洋匡さんという人がいます。
両手両足欠損。かなり重篤な障害をおもちです。しかし今の彼に向かって、手が生える薬を飲まないか、足が伸びる手術をしないかと言う人はいないでしょう。彼の身体の障害といわれるものは、今彼の個性となり、その活動ぶりは人に感動さえ呼び起こしています。機能障害が個性になっていく。そのプロセスに触れたとき人は感動を覚えます。それをエピソードと呼びます。その生きにくさ、生活のしにくさを問いかけるということが私たちの仕事になります。

目が見えない、耳が聞こえない、手足が動かないというように、人が年をとったらふつうに起こりうること、または、誰でも生きていれば障害をもつことは起こりうること、そういうことの何があなたをそんなに苦しめているの? それを私に教えてというのが生活の場のアセスメントの基本姿勢です。

「治癒・回復」は耳ざわりのよい言葉ではあるけれども、治らない病気や治らない障害をおもちの方に、そのことだけを望むのは、今のままのあなたでは駄目だということを繰り返しメッセージすることです。私たちの立場はそうではありません。
目が見えなくても、耳が聞こえなくても、手足が動かなくても、あなたがあなたであることが大切、そのことを私たちはとても大切に思っているのだ。これが介護の基本的なスタンスなのです。つまり、生活障害にアプローチすることが私たちの仕事の方向性です。これを生活モデルといいます。

■何があなたをそんなに苦しめているの?  それを私に教えて

「何がそんなに悔しいの?」「足が動かんからだ」と、ばあちゃんが言いました。「足が動かないと、どうして悔しいの?」「桜が咲いても一度も外に出て見られんだった。つつじも見られんだった。この調子じゃもう紫陽花も無理じゃろう」。足が動かないから、季節を味わえないから悔しいと言ってばあちゃんは泣きました。

それを聞いた職員が「車いすある?」と聞きます。そんなものはない。じゃケアマネジャーさんに言って調達してもらおう。社協から借りよう。ただ車いすをもってきただけでは駄目です。その人の体型や障害にあった車いすを用意する、ベッドから車いすへ乗り移りできるように高さを調整する、手すりをつける、玄関前をスロープにして段差が解消できるように工夫をする…。そんな物的環境の整備が必要になります。

どんなに立派な車いすを準備したとしても、押す人がいなければ意味がありません。その押す人に望まれるのは知識、技術、人間観です。車いすを準備してもブレーキ操作などの知識・技術がなければ車いすの操作はできません。

そして人間観です。人間を何だと思っているのだということです。一日中家の中にいたら本当に病人になっちゃうさ、桜を見なくちゃね、人間だものと思うか、年寄りのくせにごそごそしないで、怪我したらどうするの、家の中にいなさいと思うかです。そこが人的環境として問われてきます。

そして、関係性。立派な物的環境を準備して、確かな知識や技術をおもちで豊かな人間観があっても否定的な関係なのか、受容的な関係なのかということがここで問われます。

たとえば、ショートステイです。“あのじいさんがまた来るってよ。肺炎になったんだって。だから長くかかったみたい…あのじいさんさえいなけりゃ、今日の夜勤は安泰なのにねぇ”で始まるショートなのか、“あのじいちゃんが戻ってくるよ。肺炎だったんだって。もう会えないかと思ったけど、今晩また会えるねえ”で始まるショートなのか、同じショートでも全然違うということです。これが生活障害の構成内容です。介護職はここに関与するのです。

■医療職のコンプレックスと罪

トンチンカンな人はこう言います。「生活モデルが介護職、医療モデルが看護でしょ。もっといえば、生活モデルが介護だとかソーシャルワーカーたち。医療モデルがナースとか医師とかリハビリあたりでしょ」。違います。

生活モデルにおける看護、介護、医師、リハビリ、ソーシャルワーク、栄養・調理の動きがあります。医療モデルにおける医師、看護、介護、リハビリ、ソーシャルワーク、栄養・調理の動きがあります。そのことをリーダーがきちんと具体的に組み立てて指示を出すことができないと、現場は混乱します。そのあおりが看護、介護のけんかというかたちであらわれます。こういうところに介護職はいません。

生活モデルの場においては、治せない病気がいっぱいあります。当然です。しかし、そのことが看護職や医療職には不安な気がするようです。治せない医療を背景に置いて、自分の居場所を見い出せない医療職が根拠もなく威張るのです。病気を治せない医療職の焦りや居場所のなさのとばっちりを受ける介護職。このときも介護職は嫌になってきます。

医療モデルと生活モデルの切り替えができない医療職は、生活障害でさえ原因と結果で説明できると思っているのです。だからチームワークは関係ないのです。原因が明らかになって、訓練、処置が施されると結果が出ると思っています。介護福祉士が国家資格であることは十分ご存知です。

ご存知だけれども従来の管理体制の概念を越えきれない。ですから医師とナースの世界以外は受け入れられない。このような方が生活支援施設のリーダーになると大変なことになります。職員は丁稚以外の何者でもないです。

それでも働いているうちに、この施設は治療じゃなくて、生活なのかなとボンヤリ考えてくれるようになりますが、今度はコンプレックスがあるわけです。医療モデルは一流で、生活モデルは二流だというわけです。
自分のしている仕事をつまらない、くだらないと思って、そのイライラを現場に持ち込んでしまう。介護職はわけがわからないです。一流・二流の根拠もわからないし、なんでナースがそんなにイライラするのかもわからない。医療職のこの屈折したコンプレックスに接したとき、介護職は辞めたくなります。

■ターミナルケアをしない施設は腐る

0歳から20歳まで機能向上して、その後下降して80~90歳でお亡くなりになる。この当たり前の人間発達を支えきろうということが生活モデルの 重要な仕事になります。

昨日今日出会った人の命を見とどけるところが病院のすごさです。施設や在宅支援の現場は、昨日今日出会った人の命を支えることはできません。しかし、訪問・通所・短期・施設入所などのサービス提供で培われた人間関係のなかで逝かせてやりたい。このニーズに応えられるのが、生活モデルにおけるターミナルケアです。

立派な医療機材も、立派な専門職もいいけれど、どこにいても命の長さが同じなら、生活のなかで培った人間関係のなかで大切な人を逝かせてやりたいというこの本人・家族の希望に応えることは、ある日突然にはできないのです。

ターミナルをしない施設、サービスは腐ります。ターミナルを経験しない介護職は伸びません。人が死ぬということを知らずして、なぜ生きるということを支えられるかということです。お年寄りは身体を張って“人は死ぬのだ。だから生きることは大切なのだ”ということを今の若い者たちに教えてくれるのです。
お年寄りが伝えようとするこの大事なメッセージ・場面が、業務の組み立て、指針のとらえ方をとり間違えることで台無しにされているという現実があります。

ある施設でのことです。失語症のおじいさんが車いすでカウンターまでやってきました。カウンターの前で、指を2本一生懸命動かします。誰が見てもタバコなのです。しかし、若い介護職は「ちゃんと口で言って」と言います。おじいさんは不自由な言葉で一生懸命「タバコ、タバコ」と言いました。タバコだけでは許してくれないのです。「“タ・バ・コ・く・だ・さ・い”と言いなさい」というのです。

カンファレンスで失語症の人には自発語の誘導が必要だという話になったらしいのです。70、80、90歳にもなったおじいさんが、若造から「タバコください」と言えとカウンターの向こうから言われるのです。おじいさんは、一生懸命「タバコください」と言います。「タバコね。今日は3本出ているからもう駄目」。

たたいてやろうかと思いました。このじいさんが明日死んだらどうするんだ、おまえ一生悔いが残るぞと言うのですが、彼には全然ピンとこないのです。若い介護職たちに平気でそういう仕事をさせる、人の死を知らない生活支援施設はいつまでたっても二流だということです。

個人においては生活モデルと医療モデルの統合性が求められているのです。まさにここに看護と介護の連携が求められているということです。お年寄りが亡くなったとき、若い介護職たちはしゃがみ込んで泣きます。先輩のナースが泣き崩れる介護職の背中をさすりながら言います。

「悲しいね、悔しいね。人は自分が生きていたことを老いて、病んで、肉体が朽ち果てることで忘れ去られることがとてもつらくて、寂しいのだよ。私たちにとってとても大切なことは、あなたを忘れないということなんだよ。あなたがあのおじいさんにしてさしあげたかったことを、明日出会うお年寄り一人ひとりにお返しすることが、そのおじいさんの最も深いニーズに、あなた自身が応えたことになるのだよ」。

このターミナルケアを共に過したところから、お互いのすごさを納得し合った本当の看護と介護の連携ができあがるのです。そのための場面設定をお年寄りがしてくれているのに、自分の能力不足が原因でせっかくの機会を捨ててしまう。こういうところでは介護職はいずれ何のために仕事をしているのかわからないと言って辞めていくでしょう。

■リーダーの役割

医療モデル、生活モデルの方法論提示とかその統合性とかいったことはリーダーの仕事です。リーダーがいないところでは、まず介護職はいつかないということになります。
医療モデルにおけるサービス提供の形態と、生 活モデルにおけるサービス提供の形態は違うのです。医療モデルでは、主体性とか個性の尊重などと言ってられない。
血まみれで救急車で運ばれてくる人が対象だったりするわけですから、あなたの主体性と個性を大事にして、輸血にしますか?
何にしますか、などと言っていたら死んでしまいますからね。医療に対する基本的信頼をベースにして、主体性を委託してサービスを受けることになります。

生活モデルはそうではありません。生活モデルでは、生活者、主体であるお年寄りが介護職を振り回します。私たちは振り回されてなんぼの仕事だと腹をくくります。

お部屋に迎えにいきます。「飯はいらん」と言われます。「どうして?」「いらん、いらん!」「部屋にもっていくよ」「いらん!」何であんなに怒っているのだろうと介護職は思います。しばらくすると、「誰もわしを飯に連れて行かん!!」と先のじいさんが怒り始めます。どうすればいいの、このじいさん…。

家の前がすごい急な坂なんだって。階段の幅も狭くて、すっごい太っているんだって。お金に執着があって、はんぱ呆けで、ものを投げるんだって、大声出すんだって、家族もイライラしていてね、どうする? …受けましょう。

つまり、医療モデルと生活モデルの専門性の違いをここで明らかに強調できるリーダーがいないと駄目なのです。私たちはお年寄りから選ばれることはあっても、お年寄りを選んではならないのです。困った人を見捨てて、何のための私たちの事業所なのということです。困った人を見捨てない、ここから一歩も譲らない、それが生活支援の場における専門性だということです。

「決してこの人を見捨てない」と言えるリーダーがいるかどうか。ここを譲ってしまうと、介護職たちは何のために仕事をしているのかわからなくなり、フラフラし始めます。

■うんこを一緒に喜べるか?

おばあさんが重たい口を開いて、「本当はオムツは嫌だ」と言いました。それを聞いた介護職ははりきって、ポータブルトイレを準備したり、トイレ誘導のタイミングを考えました。

うまくいくはずだった“排泄の自立”が、下剤で下痢便、ベッドベトベト。ずり落ち転倒、家族カンカン。気がつけば、そのおばあさんに「ごめんな…」なんて言わせてしまってる。「協力するよ」と言ってくれた他の介護職も「無理なんじゃない?」と言い出す始末。

こんなことなら、もうやめちゃおうかなと思ってたときに、そのばあちゃんが、「ちょ、ちょ、ちょ」と呼びます。「どうした? ばあちゃん」と言うと、「見てみ」とポータブルトイレを指差します。そこにはとぐろを巻いたうんこがありました。

もうやめちゃおうかなと思ったそのときに、ばあちゃんがうんこをしてくれた。そんじょそこらのうんことは違う、黄金のうんこです。すぐ詰め所にもって行きます。「見て、見て! ばあちゃんのうんこだよ!」

それを受けた職員が「あんた、3日、4日もうんこしてなかったら、これくらい出るわよ。汚いわね、こんなものを詰め所までもってきて」と言ったときに、その職員の心のなかをヒューと風が吹くわけです。人のうんこを見て喜んでいる私って、おかしいのかしらと思うわけです。

職員はお年寄りと心が通わないということで介護職を辞めようとは思いません。むしろそれは課題になるからです。しかし、一緒に働く仲間と共に喜び合えなかったり、共感ができなかったときに、ふと辞めてしまおうかなと思うのです。

ここで先輩がきちんと言わなければいけない。人のうんこを見てうれしいということは、その人が生きていてくれてうれしいということだよ。傾眠レベルのばあちゃんの肩を揺らして「ばあちゃん、ばあちゃん」と呼んで、やっと口が開いて一 口食べてくれた。
その一口が一日の必要消費エネルギーに何の意味があるのだなんてことを介護職は言わないです。一口食べてくれたということは、その人が生きていこうとするその思いに触れることができたようで介護職たちはうれしいのです。

このよき体験が、よき関係をつくっていきます。このダイナミクスが理解できないところ、つまり、栄養補給と汚物の除去と人体洗浄だけで介護現場はまかなわれているのだと思われているところでは介護職たちは仕事を続けられません。
その人のうんこがうれしい、その人の一口がうれしい、お風呂上りに一緒にさっぱりしたと思えるということは、そのお年寄りにとって“私の”食事、排泄、入浴があるということです。目が見えなくても、耳が聞こえなくても、手足が動かなくても、ここには私の食事、排泄、入浴がある。私には生きていく方法があるということです。

■存在不安に応えられる介護職という仕事

夜中に目を覚ましたお年寄りはろくなことを考えません。ここにいてもいいのかな? 私はどこに行こうとしているのだろう? 自分のことを嫌だと思っているだろうな、死んだほうがましかな…なんてことばかり考えています。

これはお年寄りや身体の不自由な人だけが考えることかというと、決してそうではないのです。2~3歳くらいの自我が芽生え始めた子どもが母親にする質問があります。
「私はこの家の子? お母さんの子?」お母さんが言います。「あんたは橋の下のバナナ籠に入っていたんだよ」。子どもは「この家の子じゃないんだ」といって泣きだします。そうすると、母親が「うそだよ。おまえは母ちゃんの子だよ。この家の宝の子だよ」と言って、ぎゅっと抱きしめてくれます。
人はこれを一生繰り返すのです。自我が芽生え、自己の存在に気づいたときからもちあわせる存在不安を最も親しい、近しい人に問い合わせながら人は生きていくのです。

老いることや身体が不自由になることは時に悲しみではあるかもしれません。しかし真なる不幸は、老いて、病んでもなお、私はここにいてもいいの? ということを問いかける人さえいないことです。
私たちの仕事は、たとえ言語や意識の障害があっても、食事・排泄・入浴の方法をもって、言葉や意識を超えて、あなたはひとりではないということをお伝えすることです。

お年寄りと介護職のよき関係づくりのために 組織ができること

生活支援の場で最も重要な職種は看護職や介護職たちです。なぜなら直接お年寄りに接し、最も近しい関係をもっているからです。ということは、お年寄りと最も近しい関係をもてなければ、この職種は意味がないということになります。

このお年寄りと、直接処遇者と呼ばれる看護職や介護職たちがより近づき、より豊かな関係性をもつために組織・管理体制は組まれていきます。そのために上司がいるのであり、そのために専門職の知識、技術が生かされていくのです。
このことが理解されていないところでは、介護職たちは単なる作業人です。風呂入れ作業人、飯食わせ人、汚物除去要員でしかない。これでは辞めるでしょう。 どのような全体像を職場の上司がもっているかということが重要なのです。

毎日繰り返される食事、排泄、入浴の視点整理、よき関係の紡ぎとしての意味づけ、これらのことが今日の現場で今このときに、あなた方自身のな かにあるのだということがきちんとフィードバックできているかどうか。だからあなたが大切なのだ。あなた方は数や量ではないということを職員に伝えているかどうかです。

一年間を振り返って思い出す日はほんの数日です。そのよみがえる日の周りには思い出されもしない普通の日々が無数にあります。思い出されもしない普通の日々を職員とお年寄りが紡いでいくのです。そのたおやかな日常をつくり上げた者同士だけが迎えられるかけがえのない日、これをつくりだすことを仕事にしないで何を仕事にするのかということです。

よく管理者の皆さんは、お前たちのやりたいことを言いなさい、したいことをやっていいのだと言います。それで、介護職からお年寄りと一緒に桜を見に行きたい。パチンコをしたい。一緒にお泊りをしたいなどいろいろな企画が出てきます。ここをつぶしたらもう駄目です。
日頃、やりたいことをやりなさいと言っておきながら、この人と一緒に何かをしたいという介護職の素朴な思いを取り潰してしまう。そうなると職員は何のための食事、排泄、入浴なのかわからなくなります。現場における介護の意味、人が人を支えるという仕事の展開、これが読み取れない現場では介護職たちは辞めていくでしょう。

■アホな経営者のいるところもアカン

そしてもう一つ、経営者がアホなところは駄目だと思います。トップに求められるものは、人間性、専門性、それから社会性です。人柄のよさとか、もともと職業としているところの知識・技術の高さとか、経営者としてのバランス感覚、この3つを全部兼ね備えている人はいないと私は思いました。こんなトップは100年待っても来ません。

優れた経営者はいない。だったら今この与えられた条件のなかで、自分にできることを精一杯やってみようではないかと思う人がいるかいないか、それが現場を決めていきます。

■あなたの辞めどき、がんばりどき

「介護職はなぜ辞めるか」というテーマをいただいて、今私が話したことは皆知っていることです。
職員が自分や家族を大切にできて、医療モデルから生活モデルに切り替えて、専門職たちの横行を抑えて、きちんと看・介護の意味づけをするリーダーシップを育んで、そして優れた経営者とはいわない、普通の経営者でいいから当たり前に経営をしている、これさえ実現できれば何ら問題はないはずなのです。
しかし、今これだけ介護職たちが辞めていく状況を見ていると、じつは組織は辞めさせたいと思っているのではないかと思うくらいです。

介護職は若くて、かわいくて、よく気のつく子がよいと言う理事長がいました。なるほど、対人援助の現場だから、心細かくお年寄りに接することができる子がいいのだなと思ったら、違いました。そういう子のほうが結婚して、さっさと辞めていくからというのです。
そうすると、どんどん人が入れ替わって、給料が安くてすむからだというのです。「介護職はなぜ辞めていくか」という テーマではなくて、「よい介護職はどうして居つかないのか」というほうがテーマとしては正しかったのではないかと思ってしまいます。

介護職の条件は決してよくありません。それを承知でこの世界に入ったのならば、本当に自分がやりたいことをやり通してみようという気持ちが続く限りは、やり通していってもいいかもしれない。
今日私が話したことを自らと照らし合わせて、よしここで一丁やってみるかという気持ちをおもちのうちは働き続けられればいいと思います。

しかし、もう何をやったらいいかわからない、何をしているのかわからない。私のせいではない、国のせいだ、経営者のせいだ、リーダーのせいだ、現場のせいだ、と思い始めたら辞めたほうがよいと私は思います。
すべてが「他者のせい」で、私は恵まれないと思い始めたときが辞めどきではないかと思います。
きっとここが一つの境目だと思います。

(2004年6月18日、いらはら診療所職員研修での講演に加筆・修正しました)


2003年11月  介護の専門性とはなにか

カ愛不二 「カ愛不二」とは「愛を持ったカこそ真の強さである」の意で、著者がかって習っていた少林寺拳法で覚えさせられた言葉だという。当時の彼は、将来、老人介護の世界でその言葉を唱えるようになるとは思いもしなかったと言う。 

著者、青山幸広はフリーの介護アドバイザーである。老人施設を定期的に訪問して泊まり込み、スタッフに介護を直接指導する仕事だ。介護は誰にでもできるものだと思われてきた。現在でも「介護福祉士」や「2級ヘルパー」といった資格さえ持っていればいいと考えられている。しかし、在宅にも老人施設にも「介護」があるとは言い難い。 

特に医療の世界の人たちが介護のことを何にも知ろうとしないでつくった「老人保健施設」がひどい。彼はそんな「老健」に介護長として就職し、医者と看護師との闘いの日々が始まるのだ。 

なにしろ彼らはトイレヘ行けない老人にオムツは当り前だと思っている。自立行為が「危険行為」と映るのだ。車いす老人なら機械浴が当然と思い込んでいるし、食欲がなくなれば点滴するのは無条件によいことで、それを外す老人を抑制することに疑いすらもっていない。 

医療や看護の専門性が、病気という緊急時にシロウトにはできないことをするものであるのに対して、介護の専門性とは、誰でもできることをちゃんとやる、ということだ。なぜなら介護とは生活の専門家だからだ。 

だから青山幸広は、何年もオムツをさせられてきた老人を説得してトイレへ連れていく。立てない人でも、“天ぷら揚げ機”のような機械ではなくて、家庭と同じ個人浴槽で入浴してみせる。食欲がなければ、点滴して手を縛るより、好きなものの出前を取り、外食に出かける。抵抗を受けながらの、そのしつこさには感心させられる。そこまでやる確信はどこにあるのか。 

それは保育士と特養スタッフとしての挫折体験、偶然知った「生活リハビリクラブ」でボランティアをするため、津軽を離れて川崎市でのタクシー運転 手、といった人生経験こそが生み出したのだろう。そんな回り道人生を語る文章は軽快でユーモアたっぷり。涙も出そうだ。介護とは何か、ということだけでなく介護が単なる仕事ではなくて人生にまでなっていくことを教えてくれる感激本である。

              『ケアマネジャー』(中央法規出版)
                 2003・11 「Bookshelf」 より

『カ愛不二』
著者: 青山幸広
発行: 雲母書房
定価: 本体1800円+税


2003年10月  「一緒に共有する」ツールとしての遊び

遊びリテーション大事典老人介護現場で行われているレクリエーションやゲームを見て、「幼稚だ」とか「子どもだまし」と言う人たちがいる。私は「現場を知らない人だな」と思う。少なくとも、深い痴呆(私は“重い"と言わずに“深い”と表現している)の人にかかわったことがないか、ひょっとするとそうした人は「人間」だと思っていないのかもしれない。

特養の全室個室化を主張する人たちが、プライバシーを求めるような近代的自我を持った者だけが「人間」だと考えていて、毎夜のように体をくっつけてやっと落ち着く痴呆老人がいることなど考えもしないように、私たちが「遊びリテーション」と呼んでいるアプローチで生き返った老人がいることを知らないのだろう。  

今田トクさん(91歳)は、誰が声をかけても反応せず、独り言を繰り返す、竹内孝仁氏による痴呆3分類の「遊離型」の典型といっていい老人だった。自分で自分の名を呼んで自分で返事をし、一人で笑っているという人だ。  

この人を私が担当していた「遊びリテーション」の「風船バレー」に連れてきた。すると、目の前を赤い風船が動くと、視線が動き、手が出るではないか。風船を打てば周りが喜ぶのがわかると、約45分間、風船を追い続けたのだ。  

その夜、変化が生まれた。独語が消えたのではなくて、その内容が変わったのだ。一晩中「あの風船叩きは面白い」と繰り返したのだ。翌日、私が「今日も風船叩き行きませんか?」と声をかけると「おお、行こう」とトクさん。現実的な会話の世界への復帰だった。  

同じ痴呆でも「葛藤型」には「風船バレー」は逆効果だろう。「俺を馬鹿にしているのか」と言われるに違いない。しかしトクさんのような「遊離型」や、子どもの時代に戻っている「回帰型」には、どんな“療養”なんかよりはるかに効果的である。

『遊びリテーション大事典』は、すでに『極楽遊びリテーション』(雲母書房)を世に出し、老人レク界の第一人者である坂本宗久氏の実践の集大成ともいうべき本だ。彼はほぼ同時に『介護職人スーパーテキスト』(オフィスエム)も主著者として出版するという精力的な活動ぶりだ。

老人ケアの武器を手に入れたい人、現場感覚に触れたい人のための一冊。

              『ケアマネジャー』(中央法規出版)
                 2003・10 「Bookshelf」 より

『遊びリテーション大事典』
著者: 坂本宗久
発行: 関西看護出版
定価: 本体2,310円+税


2003年10月  ブリコラージュインタビュ『あなたに逢いたかった』

今回の三好春樹の対談相手は大田仁史先生です
~終末期リハビリテーションを担う中心は介護です~

リハビリテーションとはなにか

――リハビリテーションというと機能回復訓練と思ってしまいますが、先生がおっしゃっているリハビリテーションは違うように思われます。

リハビリテーションの“ハビリス”が重要な意味をもっていると思いますね。ハビリスは、「適している」という意味の形容詞ですが、「何に適しているの?」ということになります。  主体的に生きていることに適しているという考え方なのか。
これまでのリハビリテーションの流れのなかで重視されてきた意識性、すなわち「自分で自分の存在をきちんと認識できて、自分の意思を表示できる意識レベル」に適しているのがリハビリテーションだとしたら、痴呆の人はどうなるのか、植物人間になってしまった人たちをどうするのかということになってしまうんです。

だから、僕はもっともっと幅を広げていって、そういう人たちも「人間の姿としてふさわしい状態」にすることをリハビリテーションといっていいと思うんです。治りえない重度の障害をもつ子どもたちも含めて。僕はそれを「終末期リハビリテーション」と言っているのです。

――終末期といっても、いわゆるガンの末期などに使われるターミナルとは違うのですね。

確かに「終末期」ということばは子どもには向かないとは思っています。ここで終末期というのは生きている人間の人間らしい姿形のことです。
自分を認識するという意識性はなくなっても「身体としての人間らしさ」というのがあるでしょう。そう考えればご遺体が人間らしいかどうかまできちゃいますからね、最後は。だから勝負はご遺体。評価はご遺体がすればいいんです。

床ずれがいっぱいできているようなご遺体は、エンドオブライフのケアが悪かったということになるし、骨が曲がっていて棺に入らないから折るみたいなことは、やはりプロセスが悪いんだということになって、明快じゃありませんか。

終末期リハビリテーションと介護

――そうすると、リハビリテーションは介護と深く関わっているというように思いますが。

介護の世界が中心なんですよ。終末期リハビリテーションではPTやOTがやるよりも介護の世界のほうがはるかに比重が大きくかかってくる。
そこに、身体として非人間的な状態をつくらないという思想があれば、介護の技術がもう少しリハビリテーション的になるんじゃないかと思う。それが予防的介護。 介護を受ける人がもっと安楽になるような介護です。
もうちょっと前の段階が生活リハビリですよ。生活をしていると思えない人がいっぱいいるじゃないですか、たとえば植物状態の人。その人たちはどうするのかということです。

――そのためには、介護の世界がリハビリテーションの考え方やその手法をもっと取り入れるべきだということでしょうか。

リハビリテーションには手法があります。リハビリテーションの歴史のなかで十分にでき上がった手法があるから、リハビリテーションの側はそれを介護の世界に移入すべきだ。介護の世界はそれをとるべきだ。で、どこまでオーバーラップするのかを明確にしたほうがいいんじゃないかということを提言しているのです。

そのためには「終末期リハビリテーション」という言葉をつくっておいたほうが、リハビリの連中を引きづり込んでいくためにはいいんじゃないか。地域リハビリ、生活リハビリと同じ手法です。現場で働く介護職の人たちも、そういうことをやることが大事なんだ。それがリハビリテーションなんだって考えてほしい。

――リハビリテーションと介護との協働とすみわけ。それはどういうかたちになるのでしょうか。

リハビリテーションの側に言っていることのひとつは「きちんと技術を開発しなさい」。もうひとつは「リハビリテーションの技術を移入するために、介護に対してこれはリハビリテーションの手法を使えば完全にできるということを明確にしなさい」。それから「一般の人が賢くなるように教育しなさい」と。

介護という領域があるんだから、そこでお年寄りがレ・ミゼラブルな姿形にならないために、安楽に介護ができるような技術を導入しなさいということです。オムツをするのにも、普段から股関節を柔らかくしておけば、一人で短い時間にできるじゃないですか。

それが「予防的な介護」で、時間を節約し、労力を節約し、本人が安楽になるような、そういう介護手法を確立しなさいということです。そのために既存のPT・OTたちのもっている技術のなかで、どこを導入すればいいかということをきちんと勉強しなさいと言っているんです。

医療の光と陰、陰の部分をどうするか

――「終末期リハビリテーション」というご本をお書きになりました。それは、やはり、そのことを今、訴えなければならないという強い思いがあったということだと思います。

僕が勤務する茨城県立医療大学付属病院には子どものベッドもあります。医療が進歩して、今は300gくらいの赤ん坊でも助かるのです。
医療の光の部分と陰の部分だから仕方がないけれど、そうして助かった命の4分の1の子は障害をもっています。そういう障害のある子を、光が当たってすくすく育った子たちは背負っていくべきだというのが、僕の主張なんですよ。お互いに一生懸命やっていかなければならないと思うんですが、やってないです。救命救急ばっかり進んでる。

――医療の光と陰の部分。その陰の部分は陰のままという、そういう現状に対する危機感なのでしょうか。

在宅での生活をどう組み立てるのか。そのために病院で何をやらなければいけないのかというのが、僕の基本的なスタンスなんです。

医療というのは病気が発生して、それを治して帰すという上からの流れとしてありますね。急性期があって慢性期があって、リハビリで言えば維持期というのだけれど、介護はその最後にあるわけでしょう。その介護側からみて医療は役立っているのか? そういう視点です。

急性期医療は命を助けなければいけません。それですら、助けた命がどうあるべきかということに関心をもってほしいということを問いかけている。それは子どもたちを見ているとわかります。助けていただいた命は大変ありがたいけれども、その命がどうなっていくのかということにも、助けた人は関心をもってほしい。手を出さなくてもいいから…そういう思いが僕にはあります。

――いわば川下にある介護、それはエンドオブライフと関わる部分と言っていいと思いますが、そこが手薄になっているということですね。その部分に医療が十分に関わっていない?

病院でやるのと違う、在宅だとか素人の立場でできる、そういう立場に立って素人を賢くしなければいけないし、役に立たなくちゃならない。それは川下から川上に向って求められていることでしょう。でも、医療は川下をちゃんとしていないから、川下は洪水です。

リハビリテーションだって、急性期、回復期、ときて、川上のほうの流れはよくなりました。でも維持期に入ると在宅だったらPT・OTが行く頻度だけを見てもすとんと落ちています。病院からソフトランディングなんて冗談じゃない、蹴飛ばして突き落とすみたいな、ハードランディングもいいところ。

訓練してADLが少しよくなって家に帰っても、からだソコソコ心ウツウツといっているわけでしょ。気持ちの問題だとか、うつ傾向、そんなのは全然よくなっていない。だから閉じこもり傾向は進む。

オムツは「高齢者の尊厳」そのもの

――ところで、厚生労働省の高齢者介護研究会から「2015年の高齢者介護」という報告書が出たようですが、その大目標が「高齢者の尊厳を支えるケアの確立」です。高齢者の尊厳とはなんでしょうか。

そんな難しいこと言わないで、もうちょっと具体的なことを言ってくださいと言いたいですね。高齢者の一番の尊厳はオムツですよ。オムツを当てるくらい尊厳を傷つけることはありません。

「高齢者の尊厳を支えるケアの確立」ではなくて「高齢者にオムツを当てないケアの確立」と具体的に言えばいいと思うんですけどね。 僕の母親は95歳になるんですが、絶対にオムツはいやだって、夜中でも家族がトイレに連れて行っているわけ。

あるとき、トイレに行けないと言うから、姉がオムツを当てたの。そしたらおしっこが出ないと言う。僕が「どんな具合?」って姉に聞いたら「少しは出てるようよ」って言うのです。
「何時間出ないんだ?」って聞いたら、朝の6時から夕方の6時まで。「それは出てるんではなくて、おしっこが漏れてるんだよ。看護師さんに連絡して導尿してもらわないとパンクしちゃうよ」。
で、「おかあさん、今から看護婦さんにきてもらって管を入れるからね」って言ったら、母親はびっくりして管はいやだ、どうしてもトイレに行くって2人がかりでトイレに連れて行ったら、すごい勢いで出て、それからすぐ普通の生活に戻りました。オムツぐらい人の尊厳を傷つけるものはないと思うね。

自立できなくてもいい

――この報告書にも多々出てきますし、われわれも高齢者の自立、自立した生活など、自立という言葉をよく使いますが、リハビリテーションはそれを目指すものではないのでしょうか。

それを否定はしないんだけれど、僕は、自立をあんまり強調してくれるなと言っている。自立を強調すると、自立しえない人を切り捨てることになる。これは非常に危険だと思っているんですよ。自立しえなくてもいいんだということを認めるような社会をつくらなければいけない。

南雲直二っていう心理学者が「2つの苦しみ」ということを言っています。1つの苦しみは、障害があったり、身体が不自由だったりして「自らが自分を苦しめる苦しみ」。
だけど、ハンセン病などで見るように「社会が苦しめる苦しみ」もあるわけです。いくら努力したってしょうがないことはあります。でも、本人にばっかり努力を強いている。
障害の受容なんてそうですね。本人が受容するよう努力しなければいけない。それは大事だけれど、余計なお節介。心の問題だからね。

――問題は、そういう人々を社会が受け止めているかどうかということですね。

自立は大事だけれど、できない人にどうするかが問われているのです。僕は「総支えの思想」をもつべきだと思うんです。子どもの教育だってそうだ。子どもが社会のなかに入っていけるようなところまで、体勢を整えてきちんとやるということ。それは社会も変えなさいということです。そこまで行かないといけないと思うんですね。

お年寄りの場合は、もう先がないんだから、死ぬまできちんと総支えですよ。どんな姿形になっても。介護が支える部分がある。家族が支える部分がある。そういう人たちがきちんとできなくちゃいけない。

国民皆3級ヘルパーを提案したい

――国民全員がヘルパー3級をとろうとおっしゃっていますが、それも「総支え」というお考えからのことですか。

ヘルパーが足りない、介護福祉士も足りない。日本が急激に高齢化を迎えたということが、事実として現れている。でも守りきらなければならない。問題だ、問題だと言ってても解決にはならない。それで国民全員がヘルパー3級をとろうじゃないかと提案しているのです。

介護を学んでいると介護されるほうもされやすい。そういう介護を勉強することで「介護予防」を学んでもらう。それは大事なことですよね。そういう状態にならないようにね。もしそういう状態になっても介護ができるし、介護が受けやすくなる、そういう状態をつくる。第一、人のことをお世話すると、人が優しくなるって僕は言っているんです。

『新しい介護』出版の意味

――このたび、三好春樹さんと『新しい介護』をお書きになりました。

『新しい介護』は、実はあれが進んでいくと「終末期」になる。介護というのはどちらかというとそちらに近いから。急性期、回復期、維持期ときたら、終末期。あれ自体、全体がそうだ。

お年寄りに限定して言えば、人生の最後を迎えつつある人に対するリハビリテーションを介護という切り口でいけばああなりますよ。終末期のことを少し書いておきましたが、足りないのは意識のない人をどうするかという部分でしょうか。いわゆる植物人間のような人の介護を完璧にするにはどうすればいいのかというようなね。

ああいう本がこれまでなかったというのが不思議だね。大手の出版社(講談社)が目をつけるということは、ますます介護が必要になってくるということですね。

「寝たきりになら連」

――さて、大田先生は、失語症をもつ人の海外旅行への同行、徳島の阿波踊り、松山の野球拳踊り、青森ねぶた祭りなどの「寝たきりになら連」はじめ、当事者を直接支援する活動を長くされておられますが、それには、どんな思いが込められているのでしょうか。

海外旅行は、STの遠藤尚志君が主催する失語症の人たちのもので、医者がいないからっていうので僕は付いて行っただけ。そこから学んだことはいっぱいあるけどね。
阿波踊りに「ねたきりになら連」が参加するようになったきっかけは、三好君と一緒に徳島に行ったとき、阿南市の石川富士郎さんというお医者さんに、「徳島に阿波踊りがあるのに、年寄りが出られんというのはおかしいんじゃないか。そういうのをつくってあげたら」と言ったら、石川先生が計画してくれて、始まったのです。
もう11年になります。 松山野球拳踊りはその翌年から。それが青森のねぶたにも繋がって、ほかにも尾道とかいろんなところに広がっていきました。

先ほども「2つの苦しみ」の話をしましたが、その「社会が苦しめる苦しみ」は社会が変わらなければ取り除けません。その社会が変わっていくプロセスが社会や地域のリハビリテーションということになるのです。僕は地域リハビリテーションと言っていますが、「寝たきりになら連」もそうなのです。

――毎回、たくさんのボランティアの方が参加されていますね。その方たちにとって、ここに参加することとはどういうことなんでしょうか。

何か学ぶべきことがないとね。単にお手伝いするとか、お祭りだから行って楽しめばいいとかいうレベルでは、みんなお金出してくるのがいやになってしまう。何かを得ているはずなんだけれど、それを認識できているのかどうか心配ですね。
イベントというのはわかりやすいんですよ。お年寄りや自分一人では何もできない人がいて、その方たちのお世話をさせてもらって、感動したり興奮したりする。それが、お年寄りの存在をどう考えるかということなんです。

車いすを押していると、車いすに乗っている人のことを考えるんです、そのときは不思議に。ふだん、自分のことしか考えていない人でも純粋に他人のことを考えられるというのがあるということを発見してほしいですね。

――いわばイベントいう非日常のなかで得たものを、介護現場でのお年寄りとの日常的な関わりのなかに生かしていくということにもなりますね。

自分一人では何もできない人、いろんな人がいて、死んでも悲しんでくれる人がいないような人もいっぱいいるわけでしょう。それに関わる人が、関わり方のなかで状況や関係性をつくり上げる。そのなかで自分が心を動かせるのかどうか。そういうことをつくれるのかどうかということが、日常に引き寄せたときのプロの感性でしょうね。

だって、毎日毎日の仕事が楽しいわけはないでしょう。そんななかで、ときどきでいいから自分の心が動くようなことを体験してほしいんです。99回いやなことがあったって1回いいことがあったら困難なことにならない。そういうことを学んでほしい。

――介護職の人たちにアドバイス、あるいはエールをお願いします。

感性のみにとらわれてはいけません。感性のみだったら、それをもたない人は介護ができないことになります。天性のものをもっている人もいますが、そんな人はそれほど多くはない。技術は環境と学習で習得できるものです。人に対する技術だって同じです。勉強しましょう。

介護は発展途上。医療、リハビリその他からいろいろなものを取り入れて完成させていくことが必要。そのためには「介護とは何か」という議論をもっとしていくべきです。
介護職は誇りをもてと言いたい。終末期を中心的に担うのは介護なのですから。


2003年7月  『死ぬ』と『死ぬる』

~老人介護の完結とは何か~
老いを支える古屋敷 現場で身を投げ出すようにして老人を介護している人たちは、文章なんか書かない人が多い。私のように介護の本をたくさん書いている者は、そうした介護職に比べると、老人とちょっと距離を置いた、冷静で客観的に観察している人、ということになる。それは、冷ややかで他人事として見ているということだ。

距離なんか置かず、ときには一心同体になり共感的にかかわれる介護職にとっては、目の前の老人の現実こそがすべてで、それを言語で表すことには興味がなさそうである。それは健全なことだ。

著者である中矢暁美さんも、そんな健全な人である。だから彼女の実践がこうして活字になって私たちを唸らせるに至るには、彼女の不思議なパワーに引き込まれて何回も松山まで足を運び、話を聴いて文章化した編集者の存在が必要だった。その編集者が最も大変だったというのが、中矢さんの伊予弁だという。「編集と翻訳を同時にやった」そうだ。

看護職だというのに自らヘルパーをやっていたという彼女が始めた託老所は、築100年の古屋敷である。段差だらけだが彼女は気にしない。「みんなそんな家で生きてきたんやから」と。

託老所の名前の「あんき」は「のんびり」とか「楽に」といった意味の伊予弁。「のんき」とは少しニュアンスが違う。彼女の口ぐせがある。「あんたも死ぬるところを作っとかんと」。この「死ぬる」が編集者には新鮮だったという。彼女と同じ文化圏である広島で育った私には違和感はない。

標準語なら「死ぬ」で「死ぬる」とは言わない。「死ぬ」が「生まれる」に対応しているのに対して「死ぬる」は「生きる」に対応しているコトバである。
「死ぬ」は一瞬だが、「死ぬる」は時間に幅がある。
「死ぬ」は客観的だが「死ぬる」は関係的だ。
「死ぬ」が生物学的なのに対して「死ぬる」には人の意思が感じられる。

おそらく古語が残っていると思われる方言の「死ぬる」に、「死ぬ」にはない豊かさを感じるのは私だけではないようだ。この本の最初から最後まで、標準語と都会が失った、その豊かさが溢れている。
あなたはどう“死ぬる”か。

              『ケアマネジャー』(中央法規出版)
                 2003・07 「Bookshelf」 より

『老いを支える古屋敷』
~託老所 あんき物語~
著者: 中矢暁美
発行: 雲母書房
定価: 本体1,600円+税


2003年1月  「介護という暴力」を考えさせる一書

~誰が『母』を引き受けるのか~
bookこの本の題名は「母という暴力」であって、「母の暴力」つまり、母による虐待のことではな い。母という存在そのものが孕む暴力という意味なのだ。

その根源は、子どもを一方的に産んだということにあるのだ、と著者はいう。子どもの側からいえば、「頼みもしないのに生みやがって」ということだ。この根源的受動性を著者はイノセンスと呼び、それが暴力を孕んでいるという。いわば、母という暴力ヘの対抗暴力である。

泣いたり、すねたり、わがままを言い張ったりするのはこうした対抗暴力の発現であり、それらは、〈母〉によって受け止められることで解消する、というのが著者が『現代子ども暴力論』 (春秋社)以来展開しているイノセンス論である。それが受け止められないことが少年犯罪に結びついているとの著者の指摘は、いつも具体的例証を伴って説得的である。

とすると、「介護という暴力」ということが成り立つはずではないか。それはもちろん、介護者の暴力ではなく、介護することそのものが孕む暴力のことである。
なぜなら、老いと深い痴呆は、いわば“最終的受動性”だからである。多くの老人はそれに耐えられず暴力を孕むに至る。

介護拒否、暴力行為、そして介護者、それも熱心な介護者ほど「泥棒」呼ばわりされるのは、介護という暴力に対する対抗暴力だと考えれば納得できるではないか。
痴呆性老人が最後に求めるのは〈母〉である。嫁やヘルパーを「母ちゃん」と呼んだりする。

なぜだろう。痴呆は、自分が誰か、ここがどこかも判らない悲惨な世界だと思われている。しかしそれは赤ん坊のときと同じである。
赤ん坊のとき、泣けば応えてくれる〈母〉さえいれば、決して悲惨ではなかったはずである。ならば、痴呆性老人が〈母〉を求めるのは当然だろう。

介護者は〈最後の母〉なのだ。だから”母という暴力”をも孕む。 〈母〉と母親は違う。「母親は〈母〉の第1候補」だと著者はいう。その母親が〈母〉から降りようとしている、とも。
介護者はもちろん、母親ではありえない。しかし〈母〉の第2候補にはなり得るだろう。
各地で第3候補の若い男性介護職が老人の〈母〉を引き受けようとしているのをみると、日本も捨てたものではない、と私は思う。

              『ケアマネジャー』(中央法規出版)
                 2003・01「Bookshelf」より

『母という暴力 』
著者: 芹沢俊介
発行: 春秋社
定価: 本体1,680円+税


2002年12月  ”老いに対して医療が出しゃばりすぎる”

~人々の生活に分け入り、在宅ケアに取り組む医師からの提言~
『たかね先生の地域医療論 』医者にはなんであんなに威張っている人が多いのか。もっている権限や地位に比べて中身が乏しいのを埋め合わせるためだろう、と私は思っている。
何しろ、人間を「人体」として見る目はあっても、「主体」とか「生活者」として見る日はもち合わせていないようだし(ケアマネジヤーも大変な権限をもっている。果たして中身はどうだろう。ケアを知っているからといってケアマネジメントができるとは限らない。しかし、ケアをまったく知らないケアマネジヤーが大量に生まれてしまって、他人事ながら私は心配している。今のところは、保険の見積りやら給付管理みたいなものだからいいけれど、言葉本来の意味でのケアマネジメントが問われるようになったらどうするのだろうか、と)。

でも、私にも大好きな医者はいるのである。決して威張らないで、率直に“中身”で勝負する医者である。

病院長を辞めて、村営住宅を改造した診療所の所長とな り、ヘルパーとともに浴槽を家に運びこんで在宅ケアを始めた医者がいる。
この本の著者である矢嶋嶺氏、村の名は信州の武石村(たけしむら)である。村中を駆け巡る診療活動のなかで、寝たきりや呆けの老人と家族の実態を肌で感じた先生は、2年間の診療所の黒字を背景に、村長にデイサービスセンターの設立を提案する。

こうして県下で初めての通所施設が完成し、往診とデイサービスによって在宅死亡率は3割から7割に上昇する。当時の先駆的実践は、1993年に銀河書房から『家で生きる』と題して出版され、全国にデイサービス、デイケア、 在宅介護を急速に広めることとなる(この本は絶版となっていたが、今回、本書とともに『たかね先生の在宅介護論』として加筆再版された)。

氏は生活の場から次のように訴える。「老いに対して医療が出しゃばりすぎる」と。医者はケアマネジャーには向いていない、とも書いている。そして、老人施設で「血圧が高いから入浴は中止」などと言う医師や看護婦には「余計なお世話」と批判する。そりゃそうだ。生活の場でいちいち血圧測定して風呂に入る人はいないだろう。

だから、現場で介護する我々はたかね先生に拍手喝采する。文中に頚椎症で入院した先生を追っかけて入院してくる リウマチ患者さんがいたが、介護職の間でも先生の講演会に押しかける“追っかけ”が出現しているのも納得である。

              『ケアマネジャー』(中央法規出版)
            2002・12「ケアマネジャーの本棚」より

『たかね先生の地域医療論 』
著者: 矢嶋 嶺
発行: 雲母書房
定価: 本体1,800円+税


2002年8月  2002・徳島の夏!「寝たきりになら連」阿波踊り!

~身も心も動いてしまいました~ (リハ研事務局 発)

思い・執念・感動って伝染するものですね。 「なら連」の方々の晴れ晴れとした笑顔が、 リハ研事務局および腰痛もちの僕の身も心も元気にしてくれました。

阿波踊り参加
手つきが結構サマになっているよね!

阿波踊り参加 踊り終了後、すみやかに入浴・食事を済ませたにもかかわらず、夜遅くまで盛り上がっていました。
ちなみに僕も寝たのは3時過ぎぐらい…





阿波踊り参加 翌朝、みんなスッキリした顔をしてました!
来年の夏になればまた踊れる、 みんなに会えると思うだけでわくわくしてくるような感動が起こりました。

「なら連」、なにわ老人ケア研究会の皆さん、そして参加された多くのボランティアの皆さん!ご苦労様でした。 元気をありがとう! ( 担当N.S )

2002年7月  流行にとらわれず現場から創る管理運営論

仕事としての老人ケアの気合 高口光子女史の講演を開いたことがあるだろうか。会場は最初、シーンとしている。こんなきわどい冗談に笑っていいものだろうか、と戸惑っているのだが、やがて苦笑が爆笑に変わる。彼女の「本音ワールド」に引きずり込まれるのだ。
あまりに辛らつな看護職への批判に、途中で怒って帰る人を私は何回か見たことがあるが、最近では、ターミナルケア、それもケアプランの中にそれを位置づけての実践報告 に、海千山千(と言っては失礼か)の婦長連中を泣かせるほどに“芸”が上達している。

その高口さんが本を出した。前著『いきいきザ老人ケア』 (医学書院)も、すごい衝撃だった。訓練室で老人が、障害や境遇など、どちらが不幸かを競い合うようすを描いた「不幸くらべ」に大笑いした。彼女はその後、病院のPT科長の職を捨て、介護の世界に入る。特養ホームの寮母長を経てデイサービスセンター長も経験する。

その畑違いの分野を見事に自分の領域にしてしまったのが今回の本である。題名とは違って、きわめてまっとうな施設の介護論である。特に、婦長、寮母長、主任といった中間管理職にとっては、これまでどこにもなかった共感のできる運営管理論になろう。

介護保険の開始に伴って、施設の運営は盤石のものになっ たかに見える。しかし施設介護の現場は逆に自信を喪失しつつあるように思える。「ユニットケア」なんていう流行に飛びつくこともその自信の無さの表れだろう。
「ユニットケア」にすることでいったいどんなケアをしたいのか、という肝心の中身が見えてこないのだ。個別ケア?それはユニットケアでなくてもできるんじゃないの。むしろ、人間関係の個別化は、無数の組み合わせの可能な非ユニットのほうが可能ではないのか。

家庭的ケア?「家庭的雰囲気を壊すから」と重い呆けを追い出すグループホームを見ていれば、「家庭的」がいかにギマン的か判りそうなものじゃないか。

施設スタッフがこれまで経験してきたことをこそ大切にし て、新たな介護管理論を創り出そうとする著者の姿勢はそんな流行を吹き飛ばす。デイやショートの運営についても語られており、施設はもちろん、地域のケアマネジヤーにも必読の書。

              『ケアマネジャー』(中央法規出版)
            2002・07「ケアマネジャーの本棚」より

『仕事としての老人ケアの気合 』
著者: 高口光子
発行: 医歯薬出版
定価: 本体2400円+税

2002年4月  いいケアは自分でつくれ

~地に足をつけた仕事をするために~
あなたが始めるデイサービス私は『老人の生活リハビリ講座』を18年間開いてきた。「生活づくりの介護」「関係づくりの介護」などをテーマにした、A~Eまでのそれぞれ2日間のセミナーである。

開催日は土・日の2日間だ。職場からの出張でなくても個人で参加できるようにしている。実際、受講者の大半は、自分の休みを使い、決して安くはない受講料を自分の金で払ってやってくる熱心な人たちである。

「熱心さのあまり職場では浮いている人が多いでしょう」と 私が言うと、爆笑する人や苦笑する人がたくさんいる。
「でも“浮いてる”と思っちゃダメですよ。周りが沈んでるんだと思って頑張らなきゃ」と言うと、こんどは明るい笑いが返ってくる。

そんな受講者のなかには、病院や施設勤めを辞めて、自分で事業を始める人がたくさんいる。東京で受講した下山名月(なつき) さんは、川崎市で生協の協力を得て「生活リハビリクラブ」 というデイサービスを始めたし、大阪会場まで通っていた五藤万里代さんは、愛知県一宮市の借屋で「お達者くらぶ」を 始めた。いずれも、老人や家族から利用料をもらっての苦しい運営だった。

 私は介護保険という制度にも運用にも多くの批判をもっている。しかし最大のよい点は、民家を借りたり、自分の家を使ってのデイサービスにも報酬が支払われるようになったことである。

お寺の敷地内の築60年の借屋で始められた福岡の「宅老所よりあい」は、昨年末、10周年集会を開いた。記念に出版さ れた『九八歳の妊娠』(下村恵美子著・雲母書房)は、「日本の痴呆性老人のケアの神髄がここにある」と話題になっている。

下村さんたちもまた、管理的な施設に見切りをつけて辞め、 自ら事業を起こし、日本の老人ケアを変えるに至ったのだ。 「職場でいい介護ができないのなら、自分で職場をつくればいいのですよ。つくり方はこの本に書いてありますから」言うと、受講者の表情が変わる。この本とは、『あなたが始め るデイサービス』だ。本屋でもよく売れているらしい。

本誌の読者で、職場だけでなく、介護保険という情況下で浮いている人がいないだろうか。そんな人には、足が地に着いた仕事へ向かうきっかけになるだろうと思う。

              『ケアマネジャー』(中央法規出版)
                 2002・04「Bookshelf」より

『あなたが始めるデイサービス 』
著者: いらはら診療所+日本生活介護 共著
発行: 雲母書房
定価: 本体1,800円+税

2002年3月  個室の強制にどう対応するか

客人 「新型特養ホーム」の設計段階で、県の担当者の頭が固くて困っている。ユニットを厳格に分けろと言うし、個室も引き戸で開くのはダメで完全な個室にしろとか。
三好 かつて痴呆性老人の施設を、老人が徘徊しやすいように回廊式にしろ、なんて強制してましたよね。今じゃ、誰もそんなものつくろうとしないでしょ。だって、痴呆性老人のニーズは自由に徘徊したいということじゃないですものね。ユニットも個室も、10年経ったら「なんであんなバカなことをしたんだ」と言われるようになるのは目に見えてますね。
客人 三好さんの予想はよく当たるものなあ。かつて「MDSなんてすぐすたれる。誰がこんなものを現場に押しつけようとしたか覚えておこう」なんて書いてましたよね。そのとおりになった。
三好 もうMDSなんて言っても何のことか誰も覚えていないんじゃないの(笑)。
客人 でもその「全室個室」を押しつけられている側はどうすればいいんでしょうね。
三好 個室というのは、近代的自我に対応しているんですよね。みんな近代的自我を確立しなきゃいけないっていうんで、子どもに個室を与えたでしょ。で、どうなったっかっていうと、反省が起こっているんですよ。子育てで失敗したことを、1回りも2回りも遅れて介護の世界でやろうとしているんです。
老いは、近代的自我が崩壊していく世界です。 痴呆となると、自我が消えて、自然に回帰していく世界です。そんな人たちにまで、近代個人主義 というイデオロギーを押しつけようというのが「全室個室」です。
人恋しくて夜中に個室から出てくる人、互いに添い寝をして落ち着ける人たちのために、そんなコーナーを予め用意しておくべきですね。 スタッフ室の近くに、畳でも置けるようなコーナーをね。また、何室かに1室、個室にしては広い部屋をつくっておくとかね。そこにベッド3台ぐらい入れて、痴呆性老人のニーズに応えるんです。広い理由は何とでもつけられるでしょう。
客人 なんだか正規のケアに対して、ゲリラ戦みたいなケアですね(笑)
三好 そうそう。それでも、近代主義者たちはザコ寝させてるなんて、老人の「人権を尊重していない」なんてケチをつけるだろうけど、現場で老人のニーズの多様性を身体で知っていない人たちは放っておけばいいんです。
客人 たしかに個室がいい人もいるし、大部屋で落ち着く人もいる。フスマや障子で区切られているくらいがちょうどいい人もいますもん ね。
三好 同じ人でも、個室がいい状態のときとみんなと一緒にいたいときが交互にくる人だっ てあるし…。
客人 近代主義者って発想が画一的ですよね。
三好 そう。そもそも近代というのが画一的なんです。「人権」なんていう抽象的レベルでしか人間を捉えないから、人間がみんな同じに見えてしまう。実際には、人間は多種雑多だし、若い人と老人はちがうんです。痴呆性老人はもっ とちがうのにね。
客人 「1万人委員会」で活動している女性と議論したことがあるんですよ。彼女の実母は痴呆で特養ホームにいるんです。それで介護に興味をもったっていうんですけどね。当然、特養の全室個室化には賛成なんです。私が、現場のいろんな老人の話をして反論すると、最後には本音を言ったですね。
『たしかに、母はぼけていて(母が)個室がいいなんて言った訳じゃない。しかし、特養に預けている私としては、大部屋の施設に入れてるより、個室に入っているほうがいい』って言うんです。
つまり、老人のニーズではなくて、自分の側のニーズだということなんですよ。
三好 特養ホームに入れていることへの罪悪感とか世間体のための個室なんですよ。特に、戦後の生まれで近代個人主義を信じて育った団塊の世代の自己満足だと思いますね。
客人 だから「介護を知らない1万人委員会」 なんて現場から揶揄されるんですよ。
三好 えっ、そう言われてるの?
客人 そう。「高齢者介護から逃げたい女性の会」とかね。彼らの「全室個室化」の主張は間違っているだけじゃなくて、それを行政権力と結びついて現場に強制するのがもっとひどいと思うね。
三好 介護現場に影響力をもっていないから、 権力と結びつくんだよね。行政のやるべきことは選択の幅を広げることですよ。何を選ぶかは、 介護保険料を払っている人たちが決めればいいんです。でも、この人たちは大衆をバカにしているから、自分たちが“正しいこと”を強制してやらなきゃと思っているんですよ。
客人 家族主義を強制する古い権力と、近代個人主義を強制するちょっと新しい権力という構図ですね。
三好 現場はどっちにも加担しないこと。幻想なんかもたないこと。それが大切。個室化に代表される近代化は、新たな問題のはじまりにすぎないのだから。

2002年2月  Mさんよりのメール

昨年11月 三好春樹の主宰する生活とリハビリ研究所の介護施設研修ツアーに参加しました。
image北海道、東京、広島から募集されたメンバーが広島に集まり、広島誠和園にバス2台で向かいました。三好春樹を信奉し、その理論を取り入れた介護を実践している村上園長さんの楽しさのあふれ出る語り口はちょっと福祉的な篤志家のそれとはまるっきり違った弾むような流れ方がありました。

古い建物の活用やそれを吹き飛ばすような職員さんの元気いっぱいの挨拶(ちょいと元気すぎ?)、新しいグループホームの建物、設備の目を見張る豪華さ。玄関からはこれが施設? まるでちょっとした料亭のようなたたずまいでした。管理しやすいようにこの1点に立てばすべてが見渡せる・・なんていう場所はまったくありませんでした。

最後に参加メンバーで記念写真・・となったのですが、園長さんの軽妙な撮影で全国から集まった者が一体になったように感じました。ちなみに村上園長さんのお年寄りを撮った写真集は一見の価値があります。この写真集だけで施設(利用者)に対する前向きさが伺えるように思います。

2日目 福岡に移動し、宅老所「よりあい」の10周年記念セミナー「ぼけても普通に暮らしたい」
image○よりあい主宰の下村恵美子さんの情熱あふれる10年の回顧録
○相変わらずの三好春樹の愉快で活力あふれるトーク
○対談「老いて出会う、いのち」森崎和江&谷川俊太郎 進行役三好春樹
学生時代にちびっとかじった森崎さんの本とはまた印象が違い、不思議な新鮮さでした。いろいろと考えさせられた対談でした。
○詩とピアノのセッション 谷川俊太郎&賢作(親子)
初めて息子さんのピアノを聞きました。わあっもうちょっと聞きたいと思いましたが、残念ながらここはジャズライブショーではなかったのでした。本当にもりだくさんのライブショーでした。
 
3日目 その宅老所「よりあい」の見学です。昨日の下村さんの話の中にあった「ゆったり」が実践されている空間です。古い日本家屋の中で職員もそのお年寄りの側にあって一体化していました。何か我々見学者がドシドシと見学してまわるのが悪い気がするほどでした。(いや ホント申し訳ありませんでした。)しかし 私がやりたいグループホームはこの古い日本家屋です。

imageバリアフリーな最新設備も良いかもしれませんが、私は古いものに落ち着きや安心感を・・・・(今は)そのことが優先されるべきだと思っています。俊太郎さん作詞の「よりあいのうた」の一節「いまはむかしで むかしはいまで」のまんまの生活感が実現できれば最高・・ではないでしょうか?

しかし このようなツアーは初めての経験でした。
広島からの移動の新幹線の中で、たまたま隣り合わせた女性と話していたら、私などよりもずっと三好春樹について詳しくて、いろいろと教えてもらいながら、私の想いを話していました。博多に着く頃になって「実は私の夫は県知事なんです・・・・」と言われてビックリ。すっかり 親身に話しておりました。だからどうじゃ・・と言われて構えてしまうのは我が身のつたなさかもしれませんが、その後もすっかり相談など聞いてもらいました。このことも大きな経験でした。

10周年記念セミナーの昼食は近くの公園で食べたのですが、アフリカの太鼓を抱えたご夫婦のようなカップルが犬と戯れながら、練習というか、ただ遊んでなのか、たたく太鼓の音が静かにとても気持ちよく、響いていたのが印象的でした。

何だかバラバラで参加し、最後もバラバラで解散し、博多駅に向かいました。
後ろ髪を引かれながら、もっといろいろ話したかった・・・
某県知事夫人を始め、福井から参加の方、名古屋からの方、あの人たちは・・などと
思いをはせながら
さあて 明日から頑張るド・・・と日常に戻る覚悟を・・・
しながら帰路についたのでした

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安価な電力 安価ないのち
金と嘘と暴力で作った原発に さよならを
命と自然を売るな、買うな