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介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話



List

認知症老人のコミュニケーション覚え書き その⑬「回想法」より「回想」を
詩人の想像力に刺激されて 鉄腕アトムの最後
認知症老人のコミュニケーション覚え書き その⑫これまでの整理をしてみよう・下
投降のススメ
過激派の魅力 ~ 映画『9月11日』考 ~
認知症老人のコミュニケーション覚え書き その⑪これまでの整理をしてみよう・上
「オムツ外し学会」へぜひ参加を!
自分自身の見当識のために
9・19 反原発集会 速報!
認知症老人のコミュニケーション覚え書き その⑩『ケースワークの原則』を読んでみる・下
近況短信
アゴタ・クリストフ追悼
原発関連死
9・19「原発さよなら5万人集会」へのアピール!

2011 ③
2011年12月  認知症老人のコミュニケーション覚え書き
        その⑬「回想法」より「回想」を

「声かけの上手な方法を教えてほしい」という質問に対して、私かどう答えるか、という設問から始まった章が、気がつけばかなりの紙幅を占めることになってしまった。いわばこれは「序章」にすぎないと思っていたのだが、本章に入る前に確認しておくべき大事な点なので長くなっているのだ。長くなったついでにもう少し「序章」を続けさせてもらおうと思う。

「回想法についてどう思いますか」と質問されることも多い。「回想法」とは何か。イメージできない人はいないだろうけれど、改めて『実用介護事典』を引いてみよう。「回想療法」で載っている。

過去の経験や出来事を思い起こしそれを書きとめ、あるいは話してもらうことによって、自分を見つめ直して再評価し喜びや癒しやゆるしを受け、人とのつながりを深くし、また生活への張りを持たせようとする高齢者向きの心理療法。

こうした質問への私の答えは、これまでこの稿で論じてきたことから推定してもらえばわかるはずである。 「回想法といった意図的、専門的な方法を取り入れるより、生活の中に自然な回想をつくるべきだ」と。「回想法」より「回想」ではないのか。

「でも回想法がそのきっかけになることもあるんじゃないですか」と反論する人もいる。それはあるだろう。しかし逆に回想法が回想を邪魔することだってあるのだ。 わざわざ「回想法」という特別な時間と空間、専門家を用意しなくても、もう老人たちは「回想」を自発的に行っているではないか。

湯舟に入ったばあさんがあまりのいい気分に「草津節」を歌い始める。すると、身体を洗ってもらっているもう一人も歌う。♪恋の病はヨ~、治りゃせぬよ、チョイナ、チョイナ♪のあとで、かっての色恋沙汰の話に入り込む。

よくあることである。もっともこの回想、話に尾ひれがついて、話すたびに尾もひれも違っているので、どこまで回想でどこからつくり話か、あるいは妄想かはわかりかねるのだけれど。 私たち介護スタッフは、いっしょに草津節を歌えばいい。いくら若いスタッフでも草津節くらいは知っているだろう。知らなければ老人に教えてもらえばいい。これは立派なコミュニケーションだ。色恋沙汰の話をひやかしたり、顔を赤らめたりすればいい。それで老人の回想が意味をもつ。

ところが、回想法をやっているとどうなるだろうか。「そんな歌を歌ったり無駄話なんかしてないで、早く風呂から出て回想法に行きなさい」なんてことになる。じつはこのセリフ、実際に老人保健施設の浴場で聞いたものである。 こういうのを「本末転倒」とか「倒錯」と言う。「回想法」があることで老人の自発的な「回想」が追いやられてしまうのである。

私が「声かけ」「傾聴」「ケースワーク」の技法について批判的に述べてきた理由はまさしくこのことにこそある。こうした意図的で専門的な方法が、自然で自発的なコミュニケーションを追いやってはいないかと。 もちろん私は、こうした専門的方法を認めないわけではない。ただし条件付きで。

大震災のあと、よく語られ書かれているコトバがPTSDである。 Post-Traumatic StressDisorder の略で「心的外傷後ストレス障害」と訳されている。外傷といっても心的外傷=トラウマのことを指す。これも『実用介護事典』からその一部を引いてみる。

災害や残虐行為など、生命や身の安全が極度に脅かされる外力にさらされたのちにさまざまな回避反応や全般的な反応の鈍麻、または過覚醒といっか症状が見られること。

このPTSDの治癒には、恐怖や無力感、罪悪感などを正直に話すことが最も有効だと言われている。このとき、精神科医や心理療法士による傾聴が必要となるのだ。 専門家でなくても回りに自分の弱みを見せられる人がいて、泣きながら話すことができればやはり効果かおるのだという。 

しかし、この世の中には自分の弱みを見せられない人がいる。社会的地位なんかにアイデンティティを見出している人たちである。そうした人たちに必要なのが専門家なのだそうだ。彼らは専門家という権威の前でやっと自分の弱みを出せるからである。

意図的で専門的な「声かけ」や「傾聴」、そして「ケースワーク」が有効だとしたら、こんなプライドの高い人たちに対してであるということになるのではないか。だとしたら、専門家とはご苦労な仕事をしているのだと思わざるを得ない。


2011年11月  詩人の想像力に刺激されて 鉄腕アトムの最後

9月25日、仙台市の国際センター大ホールで[介護元気DAそう会]が開かれた。第1部が10時から16時までで、大田仁史先生、村瀬孝生さん、それに私の講演。その後、16時15分から19時15分までが第2部で[詩と音楽のコンサート]。出演は谷川悛太郎さんとDiVa(ディーヴァ)。

なんでこんな長丁場になったのかにはわけがある。この会は昨年第1回が開かれ、今年も第1部は早くから企画されていた。大震災があったものの、[だからこそやろう]と継続して準備が進んでいたものだ。

福岡の宅老所よりあいが20周年記念集会を急きょとりやめて、震災チャリティーを目的に4月16日、谷川さんとDiVaのコンサート中心のプログラムに変更したことはご存じだろう。

[あの詩と歌をぜひ東北でも聞いてほしい]と、よりあい代表の下村恵美子さんが言い出した。すでに第1部のみのチラシは配布したあとだったので、その後に付け加えることになったという次第。つまり、この9時間以上にもなるイベントは、下村さんの熱意(=強引さ)によって実現したのだ。

参加者は約300人。大ホールの席を埋めつくすというわけにはいかなかったが、現地の人は、よく集めたと驚いていた。というのも震災後、こうしたイベントに人が集まらないというのだ。復興祭にともなう無料イベントの有名歌手のコンサートにもせいぜい100人。あるこれも有名な歌手が東京から来たが、会場に来たのは3人だったという話まで聞いた。

おまけに当日は3連休の最終日。しかも台風の影響でJRの在来線が止まっていたりしたなかでの300人は立派なものだと自画自賛。

下村さんからの強引な、いや熱心なラブコールで、仙台まで来ていただいた谷川悛太郎さんは、小学校の教科書にまでその作品が載っている詩人。説明するまでもなかろう。

DiVaは谷川賢作さんのピアノ、大坪貴彦さんのベース、高瀬麻里子さんのボーカルというバンド。谷川悛太郎さんなどの現代詩を歌う。
ジャズっぼいものから童謡っぼいものまで、音楽という広い世界を遊んでいるような自在さと、ボーカルの芯のある透明さに私は魅かれている。

コンサートの最後の曲が[さようなら]。白状すると私はこの曲を聴くと涙が出てくる。これは少年の歌だ。少女の歌もある。[とおく]がそうだろう。これを聴いて女の人部泣くかどうかは私は男だからわからない。

この2つの詩は谷川さんの詩集『はだか』(筑摩書房)に入っている。 DiVaのCDでは『詩は歌に恋をする-DiVa Best』に所収。このCD、谷川さんの詩の朗読が前後にあって、12曲が収録されている八「さようなら」は最後。「とおく」はその前にある。見事な編集だと思う。どうか、かつて少年、少女だった人に聴いてほしい。

かつて少年、少女だった人、というと世の中の人みんなじゃないか、と思わないでほしい。小さいときから、おじさんやおばさんたった人もいるような気がする。それに、「大人」になるために、少年や少女だったことを忘れたり、否定してしまった人がたくさんいる。

そんな人は、私たちが「原発反対」と言うと「原発がなくては日本経済はやっていけない」なんて言うのだ。私は思う。あんたはいつから日本経済を語る存在になったのか?経団連の会員か? 年収はいくら? と。

もちろん、地位もなく年収の少ない者が日本経済を語ってはいけないと言っているのではない。私か言いたいのは、その意見は、自分が実感し考えたことじゃないだろ、ということだ。テレビに出てくる経済評論家のコピーだろ?自分が「大人」であることを示そうとして真似しているだけしゃないか。

世の中、少年や少女ばかりじゃ困るけれど、みんながそろって「大人」になってしまったことが「原発事故」に至った原因だと思う。

さてDiVaのアンコールは「鉄腕アトム」たった。♪十万馬力だ、鉄腕アト~ム、である。作詩は谷川俊太郎さんだ。テレビアニメの主題歌は、少年少女合唱団の力強い歌声で明るい未来を指し示すかのように歌われる。

しかし今回は違う。曲の前に谷川さんの詩の朗読がある。題して「百三歳になったアトム」。そしてDiVaの歌はスローテンポで悲しそうなのだ。

「百三歳になったアトム」か。そりゃアトムはロボットだから、メンテナンスを欠かさず、部品を定期交換すれば百三年後も存在するだろう。しかしそんな想像をよくするものだ。

そういえば谷川さんには「夜のミッキーマウス」という詩と詩集(新潮社、文庫版もある)があるではないか。「百三歳」もその中にあったはずだ。世界的アイドルであるミッキーマウスが、営業時間の終わった夜中に何をしているのかと想像するだけで反社会的ではないか。ヴォルト・ディズニー・カンパニーによく訴えられないものである。

「鉄腕アトム」の十万馬力は、その身体に内蔵された小型原子炉による核エネルギーであった。詩人の想像力に刺激されて私も想像してみる。

アトムの原子炉はどうやって冷却していたのだろうか。水冷か空冷か。放射線の漏れはなかったのだろうか。漏れていてもいつも移動しているから計測は難しかろう。しかし、アトムに近しい人に被害が及ばなかったろうか。お茶の水博士はもう高齢だから甲状腺のへの影響は少ないかもしれないが、博士の孫が甲状腺がんになったなんてことがあったかもしれない。アトムもそれに気がついていて、その罪悪感が最後の行動をとらせたのではないか……。

アトムは人類の危機を救うために、自ら太陽に突入していく。それが最終回だ。「こころやさし科学の子」は、そのやさしさから自らを否定するよりなかったのだ。ああ、手塚治虫は今日のことを予測していたのではないか。

私たちは今、「百三歳のアトム」というグロテスクなイメージと悲しい歌でしか「鉄腕アトム」を歌えなくなってしまった。「科学の時代」が終わらなければならないのだ。


2011年11月  認知症老人のコミュニケーション覚え書き
        その⑫これまでの整理をしてみよう・下

ケースワークの七原則に代表されるような対人関係のおり方と介護関係との違いの1つが、介護は食事、排泄、入浴という具体的関わりの世界をもっていることだと述べてきた。その利点を生かしたコミュニケーションのおり方については後に述べることになると思う。

ケースワークの原則を介護関係にそのままもちこんではいけない理由は他にもある。その2つめは、ケースワークは特別な状態におかれた人を相手にするものだが、介護関係は日常的な生活の中で行われるものだということである。特別な状態であれば特別な関係が必要になる。専門家が関わらねばならない。

しかし介護関係は違う。専門家による特別な関係を導入することが、むしろ老人の日常性や生活的なもの、さらには生活の主体であることをおびやかすことさえあるのだ。

なにしろ専門家ほど老人を自分の専門性を発揮する手段にしてしまう傾向をもっている。ちょうどそれは、かつて看護師たちが自分たちが習った安静介護を発揮させるために老人を患者という受身的対象=寝たきりという枠の中に老人を押し込んでいたように。

ケースワーカーにもその危険性が強いことは、バイスティック自身が『ケースワークの七原則』の中で[~を疎外するもの]というテーマのもとで多く述べているはずである。

さらに3つめの違いを挙げてみよう。当然ながらケースワークはケースワーカーとクライアント(依頼者)との一対一で行われる。特別な状態を他者に打ち明けるわけだから、プライバシーは守られねばならない。[秘密保持]が七原則の一つに挙げられているくらいである。相談の中身はもちろん、ケースワーク関係かおることまで秘密にせねばならないのだ。他の関係へと発展していくのではなくて閉じた関係である。

もちろん長期的に見れば、ケースワークという特別な関係を卒業して、一般的な関係だけで生きていくことをめざすのだが、短期的には閉じることに意味かある関係だと言っていいだろう。

ところが介護関係は違う。排泄や、新しい介護では入浴も分業なんかしないで一対一で行うことは多くなってはいる。そしてこうした場面は、老人とプライベートな話をするのに適切な場面である。介護では面接室の代わりがトイレであり風呂場なのだ。

そうした関係と場面が存在するとはいえ、介護関係は基本的に一対一ではなくて、他の関係へと変化、発展していく開かれた関係なのだ。閉じてはいけない関係と言ってもいい。

もちろん介護関係でも一対一で閉じることに意味のあることはある。人間不信で誰とも関係をもたなかった人が一人の介護職には心を開いたとしたら、それは一対一の閉じた関係が一定期間意義のあるものとなるだろう。それは、関係の喪失から多様で相互的な関係へと至る回復過程の一段階としてのことだ。

ケースワークの一対一の特別な関係では、この関係を維持していくことは最も重要になる。この唯一の関係がなくなると、クライアントは自殺するやもしれないではないか。七つの原則はそのためにも提案されているのは言うまでもない。

しかし、開かれた関係の場の介護現場ではそうではない。「私、この人苦手だな」と感じたらどうするか。他の人と代わってもらうのだ。これを「受容より相性」という。あるいは、他のスタッフと分担することも考えられる。

老人にとって自分との関係がすべてではなくて一部であることをうまく使うのだ。「関係の部分化」つまり自分と老人との関係を全体の一部にしてしまうのだ。

これは大きな施設の利点である。いろんな個性的老人がいて、これまたいろんな個性的スタッフがいる。無数の組み合わせの中から最も相性のいい組み合わせを選べるのだ。さらにその組み合わせを中心に、部分化されたスタッフとの関係がクロスオーバーする。ちょうど前節で述べた「パッチングケア」のように。

もっともそうしたケアのためには、利用者の老人も、そして介護職も個性的でなくてはならないのだが。個性を殺して専門家になれという“教育”が多くないだろうか。

小規模の介護施設ではこれは難しい。小規模のケアのよさの一つは、なじみの関係ができることだと言われている。しかし”なじみ”を選べないのだ。“なじみの関係”を押しつけることになってはいないか。個別ケアができる、というのが小規模の利点だというが、こと関係づくりという点では大規模のほうが個別ケアをしやすいのである。

そこで小規模の介護現場の課題が見えてくる。関係を閉じさせないでいかに無数の相性をつくり出すかである。そのためには家族や地域住民、ボランティアの関係への参加が不可欠となる。

大規模施設のユニット化もブームだが、それによって関係の豊かさを自ら手放していないだろうか。直接ケアするスタッフは固定したとしても、”相性担当”がユニットを越えてクロスオーバーしてほしいのである。


2011年11月  投降のススメ

震災チャリティの「詩と音楽の集い」の資金集めのために“手ぬぐい”を作った。谷川俊太郎さんの「言葉」という詩が染め抜かれている。空いたスペースに私の詩じゃなくて、“ア詩(ジ)=アジテーション”も載せてもらった。

投降のススメ

【 投降のススメ 】
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ
君たちは包囲されている
悪業非道を悔いて投降する者は
経済よりいのち、弱者最優先の
介護の現場に集合せよ
(三好春樹)

ついでに、反原発デモで歌うべく歌詞も作った。リパブリック賛歌の替え歌として歌うといいと思うが他にもいい曲があれば教えてほしい。

ワイロと交付金に目がくらみ
命と自然を売り渡す
こんな日本人に誰がした
ああ情けなや情けなや


2011年10月  過激派の魅力 ~ 映画『9月11日』考 ~

映画『ただいま それぞれの居場所』」は見たけれど、『9月11日』を見たという人は少ないだろう。『ただいま』は介護関係者だけではなくて一般の人にとっても感動できる映画なので、一般の映画館でも自主的にでも上映のチャンスはいまだに多いのだが、『9月11日』はそうはいかないからである。

bunner

私にとって『9月11日』はトップクラスのおもしろさである。私はおもしろさの理由が、登場人物のほぼ全員を知っているという特殊事情にあるのではないかと危惧したのだが、この映画、介護関係者でなくても、もちろん彼らをまったく知らない人たちでも、おもしろがる人はおもしろがるのである。

そして介護関係者でもおもしろいとは思わない人もいて、そこが『ただいま』との違いだ。だから逆に『9月11日』のほうが普遍性があるのではないか、と考えるに至った。『3.11』の大震災を経験してからは特にそうだ。それについては二つの作品と同じ大宮監督による震災のドキュメント映画『無常素描』のパンフレットに文章を書いたのでそちらを見てほしい(本誌7・8月合併号に掲載)。

『9月11日』は、7人の若い介護職の男女が登場する。そのほとんどは自ら小さな介護事業所を起業したか、そこのスタッフである。彼らが2010年9月11日に広島で開いた「介護バカの集い」と、彼らの介護現場での姿をコラージュ風に映像化したものである。
彼らの発言は驚くほど率直でありながら、日常的に老いという生と死に関わっているからこその“深さ”を感じさせるものである。私にはそれが、非日常的な死と性をもたらした大震災の新しい映像(『無常素描』)と重なるところがあった。

発言は対談形式で進行していく。2人のうち1人が残って新たな相手と対談し、新しいほうが残って次の人と対談する。その対談の中で、介護関係者の興味をひく論争があった。「石井・伊藤論争」と私が勝手に名付けた。

発端は、石井が伊藤にぶつけた問題提起である。二人と同じ千葉県の仲間ともいうべき事業所で利用者の死亡事故が起きた。石井は、新しい介護を推進していくためにも、こうした事故の再発防止と説明責任が必要ではないか、と“リーダー格”の伊藤に問うたのだ。

しかし伊藤は、待ち伏せしていたテレビ局の記者に質問された経験を話し「お前らに介護の何がわかる!」と吐き捨てるように言うのである。結局二人は「責任」を巡ってかみ合わないまま対談を終わるのだが、この映画のちょっとした“山場”になっているといえる。
事実、映画を観た介護職からは、「私は石井派です」なんてわざわざ電話がかかってくることもあるらしいし、私もよく、「どう思いますか?」と質問される。

私の答えを一言で表わすと、どちらもおもしろくてしょうがない、というものである。映像に登場するのは石井、伊藤の二人の意見の相違である。でもそれとは別の相違が二つあって、私にはそちらがおもしろい。それは石井、伊藤両者自身のそれぞれの内側の相違である。
まず石井英寿。彼の認知症ケアの方法はじつに自由闊かっ達たつ、創造力と想像力に溢れている。それは『ただいま』にも『9月11日』にも見事に映像化されていて、観客、特に介護現場から映画館に足を運んだ介護職を感動させる。

でも、老人の見当識障害も人物誤認もむしろ逆手にとり、怪し気なパラオの歌を口ずさみながらともに生きる姿は、一般の人や医療関係者、いや頭の固い介護関係者には、“非常識”と映るに違いない。その“非常識”な実践が、じつは彼の社会的常識と使命感に裏打ちされているという意外さが私にはおもしろいのだ。それがアンバランスではなくて、石井英寿の中でちゃんと両立しているというのが魅力的なのである。

伊藤英樹の意外な側面が見えたのもこの映画である。『ただいま』での彼は、複数の事業所の責任者としてスタッフを教育する“人格者”のように登場する。普段の彼を見ている人もそのイメージをもつのではないか。
ところが『9月11日』では彼は饒舌で“オレには社会性なんかないんだ”と開き直っているようにさえ見える。石井をはじめとして多くの若い介護職に影響を与えた彼の実践は、じつはこうした“反社会性”に裏打ちされていたのだということがこれまた私にはおもしろいのだ。

私は「過激派」が好きである。政治的過激派はもうとっくの昔にサヨナラしたが、人生の過激派には魅力を感じるのだ。というのも過激=radicalとは、根底的という意味である。いわばものごとを常識なんかにとらわれないで突きつめるということだ。

石井英寿は実践における過激派である。伊藤英樹は観念における過激派だ。私もラディカルであろうとしているが、石井には実践で、観念では伊藤にとてもかなわない。
じゃ、実践も観念も過激ならもっと魅力的かというとそうはいかない。それは本人が生きづらいだろう、というのはさておいて、そんな奴はこれまでもいないことはなかったが、なによりもつき合いが難しいので、どうしても敬遠気味になるのである。


2011年10月  認知症老人のコミュニケーション覚え書き
        その⑪これまでの整理をしてみよう・上

これまで、「認知症老人のコミュニケーション」と題されたこの連載で私が訴えてきたことを、少し整理してみようと思う。
まず、認知症老人のコミュニケーション世界をつくりあげるための前提として、現在介護現場で語られている方法や発想を評価しておこうと思ったのがここまでの内容である。
評価しなければならないと思ったのは2つ。1つは介護現場での具体的方法として研修でもよく強調される「声かけ」と、あたかも老人が落ち着くための切り札のように語られ、ブームにまでなっているような「傾聴」に対してである。

これらへの批判は2段階になっている。まず1段階として、こうした「声かけ」「傾聴」を強調する人たちは、老人への画一的イメージをもっているのではないか、という点である。
すなわち「声かけ」では「誰からも声をかけてもらえないでいるかわいそうな老人」であり、「傾聴」では「誰にも話を聴いてもらえないかわいそうな老人」という一方的なイメージである。現場に少しでもいた人は、老人はそんな単純にはとらえられないほどさまざまで、その大半はむしろたくましい人たちであることを知っているはずだ。“かわいそう”に見えても、それを演じていたりすることさえある。

もちろん、本当に、かわいそうな老人もいる。しかし、だからといって私たちが、「声かけ」や「傾聴」をすればいいということになるだろうか。そうではない。私たちが意図的にそんな関わりをするよりも、周りの人たちとの無意識な関わりの中に「声かけ」や「傾聴」が自然に存在する日常があればいいのである。それをつくり出すことこそ介護ではないのか。

評価しなければならないものの2つめは1つめとちょっと違う。「声かけ」や「傾聴」が表層的な方法だとすると、同じ方法をともなっていてももう少し深層で私たちの関わり方やコミュニケーションのあり方に、ある型をつくっているような世界である。その代表として、ケースワーク、しかも最もよく知られているバイスティックの「ケースワークの七原則」を取りあげることにした。

『ケースワークの七原則』(誠信書房)の中の魅力ある一節を紹介しよう。

これが、社会事業とある種の他の専門職との主な相違である。たとえば、外科や歯科や法律にあっては、人間間の良い相互関係は、サービスの「完全性」のため望ましいものであるが、それはサービスの「本質」にとって必要なものではない。外科医は病床の患者の扱い方を心得ていないかもしれないし、歯科医は患者の感情には無頓着かもしれないし、弁護士は冷淡で過度に事務的であるかもしれない。しかし、もし外科医は手術に成功し、歯科医は痛む歯を治すならば、また、もし弁護士は訴訟に勝つならば、彼らは依頼された必要なサービスを果たしているのである。ケースワーカーは、そうはいかない。良い関係はすべての場におけるケースワークサービスの完全性のためばかりでなく、またその本質にとって必要である。
(「ケースワークの関係の本質」(P41?42)より)

よい関係は、他の職種にとっては不要であるとは言わないまでも、あったほうが好ましいというプラスアルファであったり、ときには手段にまでされてしまう。でもケースワークではそれこそが本質であり目的ですらあるのだ。

ここで私たちは介護という仕事にこれを当てはめてみようと思う。ここでいう「外科医」「歯科医」「弁護士」を「食事」「排泄」「入浴」に当てはめてみよう。
食事、排泄、入浴のケアを技術的にやってみせることがよい介護だと思われる傾向は昔からずっと続いている。食事を短時間で食べさせ、オムツを効率よく交換し、入浴ならぬ人体洗浄を流れ作業でこなすといった“介護”は残念ながら現在でも多く見うけられる。
そうではなくて、一人でゆっくり食べられることを工夫し、トイレでの排泄を援助し、家庭的浴槽にゆっくり入ることを実現しようという新しい介護が起こってきた。

旧態依然たる“介護”では、「よい関係」も何も望むべくはない。一方的介護者と一方的被介護者、つまり片方は主体、片方は客体でしかない。しかし主体とは主体との交互的関係の中で主体となるのであって、相手が受身的客体であるときの主体は主体と呼ぶにふさわしくない。「傲慢」とか「権力」と呼ぶべきだろう。

しかし問題は、介護が新しい介護、つまり老人を生活の主体にするための媒介になろうというような、コトバの本当の意味での介護に転換したとしても、この課題は残るという点である。
食事も工夫し、トイレにできるだけ通い、家庭的入浴をやっていたとしても、それが施設の方針でイヤイヤやらされている介護職では、これまた「よい関係」と呼べないのだ。なにしろ介護者が受身的で主体になっていないのだから、そこでは老人との間に交互的関係は望めない。

つまり、どんな介護であれ、それをとおして「よい関係」がつくられていなければそれはいい介護とは言えないし、たとえ新しい介護はやってなくても、(もちろん今ではそれは怠慢だと言っていいくらい介護の世界は変わっているのだが)、「よい関係」がつくられていれば、それは許容範囲だと言えるのである。

どうやら介護職は、一人の中に、バイスティックが対比して見せた「外科医」「歯科医」「弁護士」と「ケースワーカー」の両方をあわせもっていると言える。
どちらも介護である。じつはそこに「外科医」「歯科医」「弁護士」でもさらに「ケースワーカー」でもない強みをもっている。

それは、食事、排泄、入浴をとおして「よい関係」に至る方法と、逆に「よい関係」からよい介護に至る方法、(実際はそれらは混在し融合している)をもちうることである。
ケースワークという人間関係と介護関係との大きな違いの一つはそこにある。ケースワークの原則を強調し見習うべきだという人たちの中には、その最大の強みに気づかない人たちがいる。

食事、排泄、入浴という具体的なケアとは別のところで「よい関係」を築こうとしているのだ。それは介護職のやり方ではないし、何よりもったいない。さらに、食事、排泄、入浴をケースワークより価値のない領域と思っているのならそれは大きな誤りである。


2011年10月  「オムツ外し学会」へぜひ参加を!

「学会」といっても会員制ではありません。参加資格はただ一つ「先生と呼ばれないとムッとする人はお断り」。かって病院から特養にやってきた老人たちを、シロウトの寮母集団がオムツを外し笑顔を取り戻す「人間復帰」を実践してきました。「オムツ外し」は、こうした生活の場だからこそできる方法論の象徴です。

今年は私は23日の午前中2時間ほど「認知症老人のコミュニケーション」と題して話す予定です。老人とのコミュニケーションというと研修会は花ざかりです。でも多くの人たちは老人介護を第三次産業=サービス業だと思っています。だから「接客」を教えようとするのです。でもこれは根本的に間違っています。

老人介護は、じつは第一次産業なのです。農業や漁業と同じく自然を相手にする仕事です。「老い」という自然、「人間」という自然です。認知症という自然の一部も含めて。

そうなるとコミュニケーションは、消費者を相手とする「接客」なんかではないことは当然です。ではいったいどうあるべきなのでしょう。その方向性を示せればと思っています。

私のプログラム以外は、私が実際に見たり、聞いたり、体験して「面白い」と感じた講師ばかりで作りました!3つの会場のどこに行くべきか大いに迷って下さい。早い者順です。昨年は椅子を持って移動する人もいるくらいでした。

22日の映画と講演の後、出演者も含めて安くて旨い池袋のインド料理店になだれ込むことも考えています。宿泊予定の人は池袋のホテルが便利ですよ。


2011年8月  自分自身の見当識のために

~佐々木中の講演録と本~
震災以来、本が読めない。文が書けない。でも、”「介護夜汰話スペシャル」を書いているではないか”と言われそうである。ホームページの「介護夜汰話番外地」にも名指しも含めた批判をいっぱい書いてるじゃないか、とも。

いや、反射的には書けるのだ。でも深い文は書けない。デジタル化を拒否したせいでテレビがないから、夜は時間が余っていて、原稿用紙を前に座ってみるものの、書けないのである。どうやら躁と欝が同時にやってきているようである。震災のPTSD(心的外傷後ストレス障害)であろう。

思想としての3・11 なんとか自分を取り戻そうとして、これまた反射的に関連本を読んできた。その中で評価できるのは『思想としての3・11』(河出書房新社1600円+税)。特に巻頭の佐々木中(あたる)の講演録には心を打たれた。2008年に出版した本の受賞記念講演がちょうど震災の1ヶ月後で、彼は震災と原発を巡る状況の中で、坂口安吾論を語っているのだ。

切りとれ、あの祈る手を 『落ち着きましょう。ここにいる人達はたぶん被災者ではない。最前線にいる人たちじゃない。躁になったり欝になったりしている場合ではない。そんな資格はない』
私は自分が諭されてるような気になった。佐々木中とは何者だろう。私より23歳も歳下の1973年生まれ。東大文学部卒。私と同じ点もある。高校中退。

本屋で彼の2冊めの本を発見した。『切りとれ、あの祈る手を~〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』。(河出書房新社、2000円+税)
私は自分がどこに位置しているのかがほんの少し判るような気がしてきた。こんな感じは中沢新一の本を読んだとき以来である。

Bricolageの読者よ。介護とは関係のない本だと思わないで、自分自身の見当識を求めているならぜひ読むべきだろう。もし毎月の読書会を続けていたなら、次に読む本として強く推したのは間違いない。

佐々木中の発言集が3冊も

HP及びBricolageの1-2月合併号の書評で取りあげる『切り取れ、あの祈る手を』(河出書房新社)の著者、佐々木中の発言集が3冊も出ている。「アナレクタ」(=拾遺録)というシリーズで、①が3月、②が6月に、そして③が10月に発行されている。

アナレクタ ① 足ふみ留めて アナレクタ ① 足ふみ留めて

アナレクタ ② 昨日のごとく アナレクタ ② 昨日のごとく

アナレクタ ③ 砕かれた大地に、ひとつの場処を アナレクタ ③ 砕かれた大地に、ひとつの場処を

私が彼を知ったきっかけとなった『思想としての3・11』に載った受賞記念講演は、③に全文が収録されている。

文庫になったとはいえ、とても読めそうにはない『夜戦と永遠』(河出文庫・上下)に比べて、こちらの3冊なら、雑誌に書いた短文や、ヒップポップのアーティストとや女優との対談などもあって読めそうである。各2000円(税別)。

『切り取れ、あの祈る手を』に何かを感じた人や、『思想としての3・11』が手に入らない人はぜひ。

2011年9月  9・19 反原発集会 速報!

速報!画期的!日本初!全国から介護職、介護関係者が反原発デモ。原発と介護は両立できない!介護者の給料を上げろ!とシュプレヒコール!

反原発デモ

反原発デモ

反原発デモ

反原発デモ

反原発デモ
もっと見たい方 SlideShow
もっと読みたい方 さようなら原発集会 「原発より介護集会」緊急レポート


2011年9月  認知症老人のコミュニケーション覚え書き
        その⑩『ケースワークの原則』を読んでみる・下

前号で私は、バイステックの主張する「受容」の根拠とするものが、狭いキリスト教的イデオロギーであることに違和感をもっていると書いた。ちょうどそれは、マザーテレサへの戸惑いに似ているとも。

はたして私のこの違和感は、私や私たち日本人が非キリスト教的文化の中にいるから生じているのだろうか。いやそんなことはあるまい。西欧やアメリカでも若い世代、といってもビートルズを聞き1960年代後半の反体制運動を体験した以降の世代にとっては、どの先進国であろうと私の違和感は共有されるに違いないだろう。

「原則Ⅳ受容」の章の後半の「受容の障害になるもの」を読んでみよう。「自己決定」のときの「障害になるもの」は4項目だったが、こちらには8つの項目が並んでいる。挙げてみよう。

1.人間の行動様式についての不十分な知識
2.自己のうちにある要素を受容できないこと
3.みずからの感情をクライエントに転嫁すること
4.偏見と先入観
5.保証の裏づけのない口先だけの元気づけ
6.受容と是認との混同
7.クライエントへの敬意の喪失
8.過剰同一視

私が驚くのは、「受容」のためにケースワーカーに求められる大変な厳格さである。これはまさにイエズス会的厳格さだ(また偏見と先入観が出てしまった)。
「受容を障害するもの」は、「自己決定」のときのような外的、歴史的制約ではなくて、もっぱらケースワーカーの資質にあるというのだ。「自己覚知」という言葉が強調される。ケースワーカーは自分自身の問題点を把握しておかなければよい関わりはできないというのである。
これではまるで、ケースワーカーは、非審判的で受容的に関わるために自分自身が審判されているようなものではないのか。そのケースワーカーを審判する役割がスーパーバイザーと呼ばれる人たちなのだろう。

うーん、これはかなわんなあ、精神的に追い詰められるだろうなぁ、というのが私の率直な気持ちである。ところが介護の研修に行くと、肩書きのある先生が「介護職は専門家なんだから、どんなお年寄りであろうと、共感的に受容できなくてはいけません」と説教をしている。私なんかは専門職の風上にもおけないとでも言わんばかりなのである。

でもそんなこと言われたってねぇ……この爺さんは苦手、とか、この婆さんとは顔を合わせたくもない、という人はいるのである。おそらくそれは私自身の自己覚知の不十分さに原因があるのであろう。しかし、どんなお年寄りでも受容できるように自己覚知の努力をして一体何年でそこまで行けるのであろうか。一方で著者はこのようにも書くのである。

(ケースワーカーが是認できないものを)受容という技術的な意味において受容するのである。(p140)

したがって受容は、一つの技術的用語である。……医師が患者の身体の健康について少しでも関連のある情報を受け容れるのと同じように、ケースワーカーは、同じような仕方で、クライエントの心理、社会的健康について関連のあるあらゆることを受け容れるのである。(p141)

現在ではこの「受容の原則」は、ケースワーカーの倫理ではなくて、対人関係の技術として教えられ、解釈されることが多いようである。上記の部分がその根拠とされているようだ。さらに、「相手の言うことを肯定も否定もせず、オウム返しにすることが受容である」なんてハウツーにまでされている傾向さえある。

しかし、バイステックの考えも、実際に行われている有効なケースワークも、単なる技術であるはずがない。なにしろ彼は「クライエントへの敬意」を強調し、それは「彼の自己覚知と人生哲学の結果である」と言うのだから。ある著名な心理療法家が、「相手への共感がなければ治療は成功しない」と言ったというが、そのとおりだろう。関係が技術になったのでは世も末なのである。

では私たちのような覚知力も哲学的信念もない者はどうすればいいのか。介護現場の私たちには救われる方法がある。私の場合には、苦手な老人からは逃げるのだ。逃げるのは無責任だと思わないでほしい。逃げるのではない。もともと関係が成立していないのだから。
私が内心「苦手だな」と思っていると、まず十中八九、相手も私のことが嫌いのようで目なんか合わせてもくれないし、言うことも聞いてないのだから。

もちろん逃げるだけではない。ちゃんと他の人に代わってもらうのだ。すると、私には苦手な老人を苦手とは思っていない介護職がちゃんといて、当の老人もその人には目を合わせているのである。無理に受容しようとするのは互いのためになっていないのである。

私は『受容より相性』という格言をつくった。この「相性」は説明が難しい。相性がよい、悪い、には因果関係も理屈もないからだ。互いの過去の人間関係が投影されているのか、生まれついてのものなのか、それとも血液型のせいか……etc。

エビデンスなんかどこにもないのだが、この「受容より相性」は、大きな老人施設ほど有効である。なにしろ、無数の人間関係(老人と介護職、老人同士)の中から最も相性のよい組み合わせを選べるのだ。どんな頑固な爺さんでも、ひねくれた婆さんでも、1人くらいは気の合う人が見つかるからだ。

小規模ではそうはいかない。小規模のよさは、なじみの関係がつくれると言われるのだが、その“なじみ”も選べないのではしょうがない。“なじみ”を押しつけているのが実情ではないか。もちろん小さな規模の介護事業所の利点はたくさんあるのだが、空間の狭さが人間関係の狭さにならないような工夫がスタッフに求められていることは間違いないところだ。

さて、方法はもう一つある。自己覚知と哲学をもった専門家がいなくて私たちのような凡人ばかりでも「受容」できそうな方法である。それは、「みんなで受容する」というやり方である。老人の周りのみんなの、不十分な自己覚知や若干の哲学を無意識に、そしてちょっと意識的にもち寄る方法である。
そうした方法を、西川勝は、彼の著書『ためらいの看護』(岩波書店)の中で「パッチングケア」と名づけている。パッチングとは“パッチワーク”と言われるように「つぎはぎ」の意味だ。

認知症ケアの現場の夕方の光景が描かれている。すばらしい文章なのだが、少々長いので、ぜひ読者に直接読んでほしいと思うので私が要約する。
「もう私、帰らせていただくわ」と言い出した女性への、無意識的で少しだけ意識的な関わりが描かれている。著作は、説得しようなどとは思わない。ただ、にっこり笑うだけ。夜勤のスタッフが「食事ですよ」と誘う。他の老人の家族が「ごいっしょにどうですか」と声をかける。他の老人が食事を始める。そしてようやく女性が箸を持って食べ始めるという話である。

この場面、誰かが特別に彼女をケアしたというわけではない。ぼくや夜勤者、家族さん、他のお年寄り、いろんな人が、切れ切れのような言葉を掛けて、食堂は夕食の匂いが充ちてきて、隣りの席ではスプーンが優しい光を反射して、ゆったり座る椅子が足の力を抜いて……。

小さな数えきれないケアのかけらが、彼女の周りに積み重なっていったのだと思う。上手な演技や説得がなくとも落ち着いたとき、「たそがれ」が温かい色に染まっているようだ。パッチングケアは相手を息苦しく包み込んでしまわない。小さなケアが、それぞれの意図を超えた模様をパッチングしている。こんなケアの光景をもっと大切にすることが、相手を理解や操作で翻弄しないケアになる。

自己覚知できた専門家によるアプローチが功を奏することはもちろんあるだろう。しかしそんな専門家がいなくても、凡人が少しずつ「受容」して老人が落ち着くというのは、いい介護現場がもっている「雰囲気」のようなものだと思う。

ワーカーとクライエントという閉じた狭い関係で成り立つ方法論を、介護現場、つまり日常生活の場という、「他の人」や「みんな」へと開かれた場の方法論へと変えていくこと、それが私たちがやってきたことではなかっただろうか。

※ readme please!
 負け惜しみ、皮肉、そして希望としての介護
 『私のテロリスト宣言』

2011年8月  近況短信

地上アナログ放送の停止と共に、わが家のテレビは映らなくなった。NHKから書類が送られてきて「テレビが見られない理由を述べよ」という欄があったので「見られない」の「られ」を消して「見ない」にして「テレビを見るとバカになるから」と書いて送った。

日本国民は全てテレビを見るものだという大前提を押しつける、これは立派なイデオロギーである。

おかげで、民放のレポーターのわざとらしい表現やかん高い声、“24時間テレビ”や芸能情報に悩まされることもなくなった。その代りに音楽が聴けるし本が読める。音楽はなぜかJAZZを聴きたい心境、本は「大震災・原発」関連の本を読みあさっている。

その本のなかで、テレビを見るのを止めたもう一つの理由に気付かされた。『思想としての3.11』(河出書房新社、1600円+税)の中の、哲学者、小泉義之の文章である。ちなみにこの本、数多く出版されている関連本の中では最も読み応えのあるものだった。おすすめしたい。

『三陸の海岸地域を写しだす高画質の報道写真を見て、そこに見ているものは、明晰ではあるが判明ではないものであると気づかされた。(略)それは麻薬や顕微鏡によって異様に鮮明にされた感覚(知覚、ではない)に似ている。』(注より)

テレビ番組の中身への嫌悪だけではなくて、あの高画質画像への異和が私のどこかにあって、それが地デジを遠ざけたのだと気付いたのだ。どうも、日本人みんなが“麻薬”のよる過覚醒状態を欲しているように思える。その過覚醒と同じだけの、うつ状態も深く進行していて直接見えないだけに怖い気がする。

『躁になったり、うつになったりしている場合ではない。そんな資格はない。それだけです。』同じく『思想としての3.11』の巻頭にある佐々木中(あたる)の講演録からの引用である。この坂口安吾論はすごい! テレビを消して読むべし。

2011年8月  アゴタ・クリストフ追悼

作家、アゴタ・クリストフの冥福を祈ります。彼女の『悪童物語』『ふたりの証拠』『第三の嘘』(ともに早川書房)の三部作は、ドストエフスキーの『罪と罰』とともに、私を圧倒した文学でした。秋の夜長に読み返そうと思います。

2011年8月  原発関連死

認知症ケアの7原則というのを提案している。(『痴呆論増補版』雲母書房)そのうちの最初の3つが、①環境を変えるな、②人間関係を変えるな、③生活習慣を変えるなである。

逆に言うと、環境、人間関係、生活環境の変化に老人たちは弱いということである。なぜならこれらは老人のアイデンティティそのものだからだ。でも老人の環境を変えざるをえないことはある。施設入所もその代表的なものだ。

そんなときに私たちは、せめて人間関係と生活環境を変えないように腐心してきた。これは認知症老人が落ち着くための方法であると共に、認知症にならないための介護の基本でもある。

2011年、原子力発電所の事故による強制避難について考えてみよう。原発50km圏にまで及ぶ地域には多くの在宅、施設の要介護老人がいて、彼らは一度に、環境、人間関係、生活環境の激変にさらされることになった。

認知症に追い込まれているだけではない。アイデンティティを失った老人たちは生きる意欲を失い死へと追いやられているのだ。原発事故で死者は出ていないなんて言わせない。これは「震災関連死」という言い方に倣えば「原発関連死」というべきである。

原子力による安価な電力で競争力のある工業製品を輸出して豊かな日本を作ったつもりが、老人たちの命を安価にしてしまったのである。日本人のエゴの犠牲が「原発関連死」なのだ。

全国の原子力発電所から30km、いや50km圏内の老人施設よ。圏外の2つ以上の施設と契約を結ぼう。互いに何かあったときには利用者やスタッフを引き受け合うという契約を。

震災後、「デマにまどわされないようにしよう」という公共広告が流れていた。そう、福島以外の原発は安全なんてデマに惑わされないで準備をしておこう。

2011年7月  9・19「原発さよなら5万人集会」へのアピール!

私は合理主義者である。近代的な人権なんていう概念を大切だと思っている。もちろん「人権」がときに観念的になってしまって、具体的な一人のニーズを把み損なうことは多々見てきたけれど。例えば認知症老人に個室を強制してしまうような。

近代的人権という立場からは、親は親、子は子である。親が悪いことをしても子が罰せられることはない。それが近代個人主義による法のあり方だ。親が犯罪者なら子まで収容所に入れられるなんて話は、今だに北朝鮮あたりには残っている。とんでもない話である。

その近代合理主義の立場、つまり、親は親、子は子という立場に立った上で、石原は親子ともにひどい。親は、津波を天罰だと発言した石原慎太郎、子はあの“天気予報”じゃないほう。

そもそも子は親の七光り、親は弟である裕次郎の七光り、なんていうのも近代的ではない発想かもしれないけれど。それくらい言ってやりたいじゃないか。

だって、石原(子)は、反原発の運動を「集団ヒステリー」だと言ったんだぜ。これよく国際問題にならないなあ。ドイツ、スイス、イタリアの国民に謝罪すべきじゃないのかね。もちろん我々にも。

安価な電力に目がくらんで狭い日本に50以上もの原発作るほうがよほど集団ヒステリーじゃないか。それに比べて、少しくらい電気代が高くなっても、命と自然を大事にすべきだという反原発のほうがはるかに理性的である。

でもいい。彼らから見て私たちの運動が「集団ヒステリー」に映るのなら、そのヒステリーのエネルギーで石原親子を世界から叩き出そうではないか。

9月19日、明治公園に集まろう!
この日は敬老の日だけど、ほんとに老いという自然を大事にしたければ反原発集会へ!そもそも日頃から老人を大事にしている人は、こんな特別な日だけわざとらしいことはしなくていいはずなんだから。

●右翼、国家主義者たちよ

おい、右翼と国家主義者たちよ。SAPIOとかWiLLを読んでる連中、つまり、日本に生まれたという偶然に、それ以上の意味を見出さないといられないほどアイデンティティのない連中たちよ。

しっかりせんかい!あんたたちの大事な日本の領土が喪失させられているじゃないか、なぜ怒らん、抗議せんのだ!

尖閣とか竹島とかいった役にも立たない”領土”=占領した土地にあれほどこだわって弱腰外交などと非難しているくせに福島の豊かな土地と海が放射能で失われているのになんで東電と財界と自民党を非難しないのか。

それでも右翼か、国家主義者か。それとも「国のため」「民族のため」という古びた大義名分を揚げているけど、戦後、右翼、国家主義者が軍の物資の買占めに走ったように、本音は権力にすり寄って金儲けするだけに過ぎないのだろうか。
恥ずかしいと思ったら9月19日明治公園に集合しなさい。

●新スローガン決定!

9月19日の「原発さよなら5万人集会」に私たちが手にするスローガンが以下5つに決まりました。白い紙に印刷します。気に入ったのを持ってパレード(ディズニーランドじゃないんだからデモと言えよ!)に参加してください。
  ● 経済よりいのち 原発より介護
  ● 安価な電力 安価ないのち
  ● 原発推進こそ 集団ヒステリー
  ● 金と嘘と暴力で 作った原発に さよならを
  ● 命と自然を 売るな、買うな

 Read Me Please! 

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金と嘘と暴力で作った原発に さよならを
命と自然を売るな、買うな