illust リハ研 Rihaken        icon サイト内検索   icon はじめまして   icon 問い合わせ   fb-banner

介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話

2011 ②
2011年8月  クイズ余聞録

~1ヶ所、誤りがあるぞ~
「大震災のなかで、私たちは何をなすべきか」(岩波新書)の拙文についてのクイズに応募していただいて感謝。

正解者は少なくて、最後の「『暴力団』を『暴力装置』に変えるだけのことだから」を答の一つとして挙げる人が多かったが、これは比喩というよりは皮肉。
これについても編集者からは、官房長官の発言が忘れられても大丈夫だろうか、と心配されたが、そんなものはなくても真意は通じると思う。

だって自衛隊や警察が「暴力装置」であるのは学問的常識。だからこそシビリアンコントロールが必要なのだ。だって科学者は原発がどれだけ危険だろうが研究したがるし、軍隊は敵を作ってでも戦争したがる。

逆にこうした国家機関、行政や議会、司法まで含めて「暴力装置」であることを認識してない奴が議員になったほうがよほど問題なのである。

さて、この新書の拙文には誤りがある。もっとも本文ではない。最後の著者紹介文である。これは編集者が作ったので私の責任ではない。

「介護・理学療法の第一人者として活躍」とあるのは正しくない。介護については、自分からはともかく、他人からそう言われるのは拒否することもない。
しかし、理学療法の第一人者となると、世間のPTやOT、リハビリテーション医が文句を言うだろう。そこでここは「理学療法に皮肉を言う第一人者」と訂正をしておこうと思う。

2011年8月  菅降ろしは原発派の焦りだ

私は、原発問題に煮え切らない朝日新聞にアイソを尽かして、「浜岡原発を止めよ」といち早く主張した毎日新聞に”転向”した。するとこの毎日、面白いのだ。論説委員の署名入りの主張がよく載って、先の”浜岡”もその一つである。西部 邁が定期的に書いていて、これも小気味良い。6月29日付の「異論反論」も鋭い。

『1000年に一度の大天災が起これば、誰が首相であれ復興が(大きさと速さで)目覚しいものになるわけがない。だから菅(直人首相)降ろし」は、政治家やメディア関係者の自己不安もしくは自己不信の転嫁であろう』

その通りだ。だがその「自己不安」「自己不信」の中身については西部は、IT(情報技術)に頼る近代合理主義を批判するだけで具体性に欠ける印象だ。

私に言わせれば、その「自己不安」「自己不信」とは、原発を推進してきた連中のものである。それだけでなく、責任追及への怖れ、利権喪失への不安が「菅降ろし」という「集団ヒステリー」となっていると思う。だって見てみるがいい。「菅降ろし」をやってるのは自民党と鳩山、小沢といった元自民党、みんな原発から政治資金=ワイロをもらってきた連中とその子分ばかりではないか。

特に原発の地元では、建設費の何パーセントかは議員のふところに入るのが常識らしいから日本中の自民党議員が「原発の犬」なのである。

その連中が焦っている!なにしろ歴代首相で電力会社から政治資金を受け取っていないのは小泉と菅だけだという。なにせ菅は元左翼だけあって金では動かない。議員も財界もその菅が反原発を目論んでるらしいのでパニックになっているのが「菅降ろし」の正体だろう。

反原発でなくても左翼は嫌われる。もっとも嫌悪してるのは「幸福の科学」で、その雑誌の広告が山手線にぶらさがっている。「貧乏左翼を日本から叩き出せ!」とある。こんなのには「神がかり右翼を世界から叩き出せ!」と応じてやればいい。日本じゃなくて世界というところが左翼のグローバルなところだぜ、とも。

保守系文化人も左翼が嫌いだ。彼らは大学の教官だったころに全共闘にひどいめにあっている。団交で糾弾され、教授室は占拠された。もっとも菅は市民主義者だからそれほどのことをやってる訳ではないだろうから、私のような連中が彼らに与えた屈辱を菅に返しているのかもしれない。

しかし、「菅降ろし」の根拠に「人間性」が持ち出されるのには笑うしかない。「人間性のある政治家」なんてのは言語矛盾だ。政治家に相応しい性格は、吉田や田中のような親分肌のことらしい。つまり、ヤクザの親分が理想なのだ。悪いことをするときにはそんなタイプが上にいるといいのだろう。

だいたい市民運動家から首相になるなんてのは、相当権力欲が強いタイプなのには間違いない。それよりなりより、「人間性に問題がある」と言っている奴らの顔ぶれにあきれてしまう。石原の息子!まず、親父の人間性を問うべきだろう。もちろん自分自身も。反原発運動を「集団ヒステリー」というような人間性の持ち主である。

もっとあきれ果てたのは、田原総一郎である。テレビで見かけるタレント文化人の中で最も人間性が少ないのがこの人だと私は思うけど。でも石原も田原も「原発社会」での特権を失いたくないのだと考えれば納得がいく。

菅よ、反原発で突っ張れ!菅降ろしは原発推進派の責任逃れだと反撃してやれ!


2011年8月  介護職よ、死ぬんじゃない

介護夜汰話ロゴ
今回の大震災・津波で、老人介護現場は多大な被害を受けた。海岸沿いに建てられた老人施設は避難する時間も人手も足りないまま、老人とスタッフの多くが一瞬にして津波に呑まれた。私が 24 歳のときに就職した特養ホームは、瀬戸内海をはるかに見渡す山の中腹にあった。まだ街中に老人施設をつくらせてくれなかった時代だったからだ。

しかし介護の生活化、介護施設の社会化が叫ばれるようになり(ノーマライゼーションなんて言った)、老人たちを人里離れた山奥に隔離するのではなく、街中でケアすべきだと考えられるようになった。老人にとっては住み慣れた地域を離れなくてすむし、家族も地域の人も訪問しやすい。いいことばかりと考えられてきた。しかし今回はそれが仇あだになったような気がしてしょうがない。

要介護老人を避難させるにはマンツーマンで介護者がいたって困難である。障害老人の移乗介助、移動介助には一人ずつ以上必要だし、自立移動可能な認知症老人が従順に指示に従ってくれるはずもないから、これも一人ずつ以上いるだろう。今回のような短時間の避難はとても無理だと思える。だとしたら、たとえ人里離れていようが高地に建設するしかないのだろう。そこを一般の人たちの避難所として訓練のたびに住民が集まるようにすれば訪問する人も増えるかもしれない。

思い出してみれば、私がかつて勤めた特養ホームは、交通の便が悪くても家族の訪問は他施設の3倍もあったし、地域との交流も豊かだった。空間的距離なんか関係の力と工夫で超えられるのだ。この話、津波に襲われた地域だけの話ではない。日本中どこでも明日にでも海の近くなら起こりうると考えたほうがいい。だって神戸も新潟も予想されていない地域で大地震が起きたではないか。津波こそ生じなかったが。太平洋岸だろうが日本海側だろうが、瀬戸内海沿岸だろうが津波がやってくるかもしれないという想定が必要だろう。

大きな施設には弊害が多いとして、小規模施設が増えたことも仇になったのではないか。その多くはやはり市街地につくられていて、海岸沿いの小施設が無数にある。定員 9 人のグループホームでは、とにかく利用者を2台の車に押し込むようにして避難したという。でもそれは昼間だから可能で、夜間なら何もできなかっただろうと言っている。介護職よ、死ぬんじゃない

グループホームの火災が何度かあった。夜勤一人では何もできない。そこで、近所の人にかけつけてもらうための日頃の交流やシステムをつくり始めた。でも火災ならともかく、地震と津波では近所の人にもそんな余裕はない。

あらゆる死が悲しくいたたまれない。だが次のような死はなんとも痛ましい。あるヘルパーは在宅の利用者を車で助けに行ってその家で亡くなったという。ある施設スタッフは、何度か老人を車いすで高台に避難させ、もう一度施設に戻って帰らなかった。

私は5月号で、患者を見捨てて逃げたといわれている病院関係者を引き合いに出して、「頭が下がる」と書いた。だが頭を上げて言わねばならないと思う。こうした話を美談にしてはならない、と。かつて長野県で山崩れによって特養ホームの入所老人が多数亡くなるという事件があった。それについてある高名な施設長がこう言ったというのだ。「老人が亡くなって職員が亡くなっていないというのはどういうことだ」と。「実情も知らないでよくこんなことが言えたもんだ」と現場の人は本当に怒っていた。
あっという間の出来事だったからだ。この当時高名な施設長は、厚労省を批判するなど反体制的言動で知られる人だった。私は思った。「体制と反体制はいっしょだ」と。あたかも、「老人のために死ね」と脅迫するかのような発言は、「国のために死ね、殺せ」というのとほとんど同じである。国なんかのために死んじゃいけない、殺しちゃいけない。介護職よ、特に心優しい介護職よ、老人のためにも死んじゃいけない。

消防庁や自衛隊の人命救助のプロたちは、丈夫な身体をもっているうえに毎日のように厳しい訓練を受けている。高度に専門的な機器も装備している。そのプロたちが人命救助するときには、まず自分の安全を確保する。そうでなければ救助しないのだ。介護職は食事、排泄、入浴介助のプロではあるが、人命救助のプロではない。だとしたら、もっと自分の身の安全を優先しなければならない。

老人を助けようとして亡くなった彼らは決して死を覚悟していたのではないと思う。二人でいっしょに生きたいと思っていたに違いない。これはそれがうまくいかなかった悲劇である。美談ではない。私はあえて訴えたい。老人といっしょに生きたいという気持ちは私たち介護職には十分すぎるぐらい理解できる。しかし、それが無理だと思ったら、自分一人だけでも生きるべきだ、と。老人を放っておけないと思う人だからこそ生きてほしい、と。

それに対して罪悪感を感じなくてもいいと私は思う。感じるのは無力感だけでいい。そしてこの無力感は介護現場で私たちがいつも感じ続けてきたものである。介護職の共感とはこの無力感の共有だったはずだ。そして人間同士の本当の共感もじつはそうではないか。それに、あなたがいっしょに生きたいと思うような老人なら、危機が迫ったとき「私はいいからあなただけ逃げなさい」と言ってくれると思う。いや、そりゃわからないけど、そう思い込んでしまおう。この思い込みは許されると思うのだ。


2011年5月  経団連会長のカマトトぶり

カマトトというコトバがある。「かまぼこって、オトトで出来てるなんて知らなかった」という世間知らずのことで、苦労知らずのいいトコのお嬢さんを指すことが多かった。最近では”カマトトぶる”お嬢さんしかいないだろうけど。

広島出身の私にはこのコトバの意味がよく判らなかった。というのも、西日本では、オトトなんて言葉は使わないからだ。お菓子のオットットというのが出てきて、それで人に聞いてやっと知ったぐらいである。広島辺りでは魚の幼児コトバはタイタイである。鯛が魚の代表であるところが豊かな食生活を示しているなあ。

さて久しぶりのカマトトぶりを見せてもらった。経団連会長の浜岡原発停止要請への反応である。新聞によれば「『唐突感が否めない』と述べ、政府の対応を痛烈に批判した」とある。(5月10日毎日新聞)

米倉弘昌という人らしいが、この人は馬鹿なんだろうか。いや馬鹿ではこんな要職には就けないはずだ。だったら残るのは、カマトトぶってるとしか思えない。

浜岡原発がどれだけ危険かは建設前から語られてきたことだ。建設してからもどれだけ事故があり、それを隠ぺいし、データをねつ造してきたかも有名な話だ。唐突どころか遅すぎたという反応こそがまともなものである。

彼がそんなことを知らないはずがない。知らないならすぐにでも勉強すりゃいいじゃないか。ネットで調べりゃすぐ判ることだ。だいたい政府に「スピード感がない」とか「リーダーシップがない」なんて批判している連中こそ、こんな時には「唐突だ」「根回しがない」と言うんだから。どっちなんだよ。

米倉よ、本音を言ったらどうか。唐突だろうが、根回ししようが原発停止という政策が気に入らないんだと。「原発事故で犠牲が出ることがあっても、都会の人間が豊かな生活をするためにはしかたがない。もちろん、大企業が製品を大量に輸出して金儲けするためにはやむをえないのだ。それも想定内なんだから。

だって見てみろよ、原発のある場所を。30kmでコンパスを使えばその大半は海だろう。いざという時に避難する地域が少ないからだよ。しかも回りは農業と漁業ばかりだから補償金もしれてるし、死者が出ても高齢者ばかりの地域だからあまり文句も言われないだろうから}というホンネを。

2011年5月  私には未来が見える

じつは私、これまで誰にも言ったことはないのだが、予知能力があるのだ。といっても神秘的な超能力があるのではない。

世界にも不思議な力があると自称する人がゴマンといる。私は近代合理主義者だから、基本的にはそういうのは信じないことにしている。でも科学が万能と思うわけでもないので、信じないにしても楽しむくらいのことはしたいと思っている。

“超能力者”を見分ける方法を私は持っている。それは、その能力で金もうけをしているかどうかである。老人介護の世界でちゃんとした仕事をしながら、ときどき人生の悩みや、いなくなった飼い猫の安否に答えていて、一切金なんかもらわない、という人がいて、私はこの人の言うことには一目置いている。

しかし“超能力”で人を集め、金もいっぱい集めようとしているような人は信用しない。この手のカリスマ的神がかりのリーダーには、自分は時間も空間も超えられると自称する者も珍しくない。過去に自由に行って歴史上の人物と対話したり、未来から世界を見たりできるのだそうだ。

じゃおかしいだろう。そんな能力があるのなら、今回の大震災のような歴史的事件が予知できたはずではないか。それができなかったのだから、その“超能力”はニセモノだと言っていい。もし、予知していたけど黙っていたというのなら、それはもう人間として最低の奴だということになる。つまりその超能力者は、嘘つきか人でなしかだということだ。

私の予知能力はそんな怪しいものとは違う。人間なら誰にでも備わっており、人間にしか備わっていない「想像力」による予知能力である。
私にははっきり見える。20XX年、東海大地震によって発生した大津波が日本の太平洋岸に押し寄せるのが。

その大津波は海岸の10数メートルの砂丘にぶつかり、後から来た波と重なって砂丘を超えてすさまじい勢いで砂丘を駆け降りて、完成したばかりの防潮堤をこっぱみじんにしてしまう。その防潮堤のコンクリートのブロックが浜岡原発に直接衝突して原発が大破する。

2011年5月6日、管首相は浜岡原発停止を中部電力に要請した。私は、「管は偉い!」と思った。しかしその5分後、「管はバカか!」と思った。防潮堤が完成するまでの2年間の停止だというではないか。今回の大津波で“世界一の防潮堤”が破壊されたばかりだというのに、経験から学ぶ能力も何もないらしい。

必要なのは一時停止なんかじゃなくて、永久廃炉である。それですら今止めても10年もかかる。その間に大地震が来る可能性は約30%もあるのだ。

「あのとき2年間じゃなくて永久に停止せよと言っておけばよかった」。歴史に残る名首相になり損ねた管の後悔の表情も、もちろん予知できる。

「想定外」とは想像力不足のことだ。いや、金がかかるからと想像力を絶ってしまうことである。“安全委員会”なんかがやってきたことだ。それは人間を止めることだ。

私の予知が外れたら?それには科学的に反論する。最新の物理学によれば、未来というのはいくつもの可能性があって、どうなるかは神がサイコロを振るようなものなのだそうだ。

さらに現実は一つではなくて、いくつものパラレルワールドがあるとも言われている。私の予知はそのパラレルワールドの一つなのであると言っておけばいい。量子論は予言者には格好の言い訳を与えてくれるのだ。

2011年5月  ”テロとの戦い”というテロ

またまた大きな“異和”を感じる映像を見てしまった。やはりテレビはやめよう。精神に良くない。ビンラディンが殺害されたニュースを聞いて、星条旗を振って喜んでいるアメリカ市民の映像である。
人を殺しておいて、しかも家族まで殺しておいてあんなに無邪気に喜べるのだろうか。

言っておくが私はビンラディンの肩を持つ気は毛頭ない。あくまで報道によれば、だが、彼は同時テロを指揮していたというし、彼のものと思われるビデオでは「アメリカ人を殺せ」なんて煽っている。

アメリカ政府の政策が誤りだ、と主張するのはいいが、「アメリカ人を殺せ」というのは私たち近代人の論理ではない。もちろんアメリカ人の多数がアメリカの政策を支持しているとはいえ、地球の反対側まで送り込まれて命を落とし精神を病んでいる若い兵隊たちは、その大半が貧困のため従軍したアメリカの政策の犠牲者である。

しかしこういう輩はどこにもいる。独裁の中国政府やその政策が間違っているというのは当然だが、中国人が悪いかのような言い方をする輩だ。アメリカのような民主主義の国ならともかく、政党もない、表現の自由もない国の国民は被害者ではないか。石原慎太郎や一部ジャーナリストはビンラディンと同じなのである。ただつけ加えると、私は石原の顔よりもビンラディンのほうに知性を感じてしまう。

日本人なら極悪人が殺されたといってもあんな喜び方はすまい。いや最近の日本人はそうはいえないような気がする。ひょっとすると同じ反応をするのではなかろうか。だって世の中は凶悪犯を死刑にせよ、と叫んでいる。私のような死刑廃止論者は人間の気持ちがわからない人非人扱いである。まあ、非国民扱いや人非人扱いは覚悟で文章を書いているつもりだけれど。

私は殺人事件の被害者家族が厳罰を求めるのは判る。もちろんそうでない家族もいっぱいいて、それも判る。ただしその判り方は、死刑を求める家族の気持ちが「判る」のとはちょっと違う、複雑な「判る」である。だが、その厳罰を求める家族の気持ちを代弁して正義の味方のようにしているジャーナリズムは無責任だと思う。自分は当事者ではない、ということを忘れている。
特にテレビがひどい。さらに私は、そのマスコミに煽られて「死刑」と叫ぶ人々にも危惧(きぐ)する。私はビンラディン殺害を喜ぶアメリカ市民と重なってしまう。

彼らは何かコンプレックスを持っているのではないか。あるいは深い罪悪感を抱えてるのではないか、と私は推察している。テロリストや凶悪犯を「悪者」として声高に糾弾することでそのコンプレックス、罪悪感を抑圧し忘れてしまおうとしているのではないかと。

「テロとの戦い」はアメリカを親分とする自由主義諸国が、その自由と民主主義、人権を守るためだと言われてきた。しかし彼らは、収容所でもそして今回のビンラディンへの処置でも、容疑者は全て弁護士立ち会いのもとで裁判を受ける権利があるという人権と民主主義の基本すら自ら踏みにじっている。

これは「”テロとの戦い”というテロ」以外の何物でもない。その報道を批判もなにもしないでたれ流しにしているマスコミ、それに慣らされていく日本人。 みんな立派なテロリストの一味なのである。

 Read Me Please! 

icon 経済よりいのち 原発より介護
安価な電力 安価ないのち
金と嘘と暴力で作った原発に さよならを
命と自然を売るな、買うな