illust リハ研 Rihaken        icon サイト内検索   icon はじめまして   icon 問い合わせ   fb-banner

介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話



List

クイズ余聞録
さて クイズの問題です
菅降ろしは原発派の焦りだ
介護職よ、死ぬんじゃない
認知症老人のコミュニケーション覚え書き その⑨『ケースワークの原則』を読んでみる・中
ハートに伝わるようなセミナーをしたいんだよ!
映画「無常素描」のおしらせ
「介護のコトバ」番外編
認知症老人のコミュニケーション覚え書き その⑧『ケースワークの原則』を読んでみる・上
経団連会長のカマトトぶり
私には未来が見える
”テロとの戦い”というテロ

2011 ②
2011年9月  クイズ余聞録

~1ヶ所、誤りがあるぞ~
「大震災のなかで、私たちは何をなすべきか」(岩波新書)の拙文についてのクイズに応募していただいて感謝。

正解者は少なくて、最後の「『暴力団』を『暴力装置』に変えるだけのことだから」を答の一つとして挙げる人が多かったが、これは比喩というよりは皮肉。
これについても編集者からは、官房長官の発言が忘れられても大丈夫だろうか、と心配されたが、そんなものはなくても真意は通じると思う。

だって自衛隊や警察が「暴力装置」であるのは学問的常識。だからこそシビリアンコントロールが必要なのだ。だって科学者は原発がどれだけ危険だろうが研究したがるし、軍隊は敵を作ってでも戦争したがる。

逆にこうした国家機関、行政や議会、司法まで含めて「暴力装置」であることを認識してない奴が議員になったほうがよほど問題なのである。

さて、この新書の拙文には誤りがある。もっとも本文ではない。最後の著者紹介文である。これは編集者が作ったので私の責任ではない。

「介護・理学療法の第一人者として活躍」とあるのは正しくない。介護については、自分からはともかく、他人からそう言われるのは拒否することもない。
しかし、理学療法の第一人者となると、世間のPTやOT、リハビリテーション医が文句を言うだろう。そこでここは「理学療法に皮肉を言う第一人者」と訂正をしておこうと思う。

2011年8月  さて クイズの問題です

校正というのは誤字や脱字のチェックのことで、出版の際には出版社の編集者と著者がやります。でも大きな出版社には、校閲部というのがあって、ここが”校閲”をします。

大震災のなかで これは文章の内容まで立ち入ってチェックする作業で、誤りはないか、表現が不適切ではないかまで目を光らせます。この校閲がすごかったのは新潮社でしたね。原稿にいっぱい鉛筆で?が入ってました。こちらもこっちの見解を書き加えて送り返したりするのは楽しかったのを覚えています。

今回、岩波の校閲もさすがに細かいのですが、特に比喩表現に?が入ったのが特徴でした。さて、6月21日発売の『大震災のなかで -私たちは何をすべきか』 岩波新書、内橋克人編)の中の私の文章のどの比喩表現にチェックが入ったでしょう。2ヶ所あります。

さてチェックの入った2か所はどこでしょう?

(クイズは岩波新書『大震災のなかで -私たちは何をすべきか』33数人の著者の一人である三好春樹の文章を巡って出題されますので、 まずは本を書店で購入して下さい。)


●--------------クイズの解答発表

わざわざ新刊の本を買ってまで応募して頂いて感謝、感激。
岩波新書の私の文を読んで青土社という出版社から、斉藤環監修の精神医学系の「imago(イマーゴ)」という雑誌から「大震災と認知症」というテーマで原稿依頼が来ました。そちらにも面白い文を書いたので刊行したらお知らせしますね。

さて解答は次のとおりです。

① 90ページ 「まるでスターリンのやった強制移住ではないか?」。

ヨーロッパではこうした形でヒトラーを引き合いに出すとよく批判される。その程度のことを「ヒトラーのようだ」というのは、ヒトラーの悪業を免罪するものになるからというのだ。なにしろスターリンは民族ごと強制移住させたのだからスケールでは比にならない。

しかし私の発想は違う。スケールで見るのは歴史的大局的な見方だ。しかし老人介護から学んだことは、一人一人の人生の側から見るという視点だ。そこから見ればヒトラーもスターリンも、福島原発も、老人を群馬に追いやって火事で死なせている石原も等価である。

② 91ページ 「現代のバベルの塔である」。

校閲者による「広辞苑」の引用では「実現の可能性のない架空的な計画」なのだそうだ。それはちょっと広辞苑がおかしい。「神や自然に抵抗しようとする人間の愚かしさの喩(たと)え」が本当だろう。編集者も同意見でそのままになったという次第。

応募者の中から抽選で本をお送りします!応募に感謝!

2011年8月  菅降ろしは原発派の焦りだ

私は、原発問題に煮え切らない朝日新聞にアイソを尽かして、「浜岡原発を止めよ」といち早く主張した毎日新聞に”転向”した。するとこの毎日、面白いのだ。論説委員の署名入りの主張がよく載って、先の”浜岡”もその一つである。西部 邁が定期的に書いていて、これも小気味良い。6月29日付の「異論反論」も鋭い。

『1000年に一度の大天災が起これば、誰が首相であれ復興が(大きさと速さで)目覚しいものになるわけがない。だから菅(直人首相)降ろし」は、政治家やメディア関係者の自己不安もしくは自己不信の転嫁であろう』

その通りだ。だがその「自己不安」「自己不信」の中身については西部は、IT(情報技術)に頼る近代合理主義を批判するだけで具体性に欠ける印象だ。

私に言わせれば、その「自己不安」「自己不信」とは、原発を推進してきた連中のものである。それだけでなく、責任追及への怖れ、利権喪失への不安が「菅降ろし」という「集団ヒステリー」となっていると思う。だって見てみるがいい。「菅降ろし」をやってるのは自民党と鳩山、小沢といった元自民党、みんな原発から政治資金=ワイロをもらってきた連中とその子分ばかりではないか。

特に原発の地元では、建設費の何パーセントかは議員のふところに入るのが常識らしいから日本中の自民党議員が「原発の犬」なのである。

その連中が焦っている!なにしろ歴代首相で電力会社から政治資金を受け取っていないのは小泉と菅だけだという。なにせ菅は元左翼だけあって金では動かない。議員も財界もその菅が反原発を目論んでるらしいのでパニックになっているのが「菅降ろし」の正体だろう。

反原発でなくても左翼は嫌われる。もっとも嫌悪してるのは「幸福の科学」で、その雑誌の広告が山手線にぶらさがっている。「貧乏左翼を日本から叩き出せ!」とある。こんなのには「神がかり右翼を世界から叩き出せ!」と応じてやればいい。日本じゃなくて世界というところが左翼のグローバルなところだぜ、とも。

保守系文化人も左翼が嫌いだ。彼らは大学の教官だったころに全共闘にひどいめにあっている。団交で糾弾され、教授室は占拠された。もっとも菅は市民主義者だからそれほどのことをやってる訳ではないだろうから、私のような連中が彼らに与えた屈辱を菅に返しているのかもしれない。

しかし、「菅降ろし」の根拠に「人間性」が持ち出されるのには笑うしかない。「人間性のある政治家」なんてのは言語矛盾だ。政治家に相応しい性格は、吉田や田中のような親分肌のことらしい。つまり、ヤクザの親分が理想なのだ。悪いことをするときにはそんなタイプが上にいるといいのだろう。

だいたい市民運動家から首相になるなんてのは、相当権力欲が強いタイプなのには間違いない。それよりなりより、「人間性に問題がある」と言っている奴らの顔ぶれにあきれてしまう。石原の息子!まず、親父の人間性を問うべきだろう。もちろん自分自身も。反原発運動を「集団ヒステリー」というような人間性の持ち主である。

もっとあきれ果てたのは、田原総一郎である。テレビで見かけるタレント文化人の中で最も人間性が少ないのがこの人だと私は思うけど。でも石原も田原も「原発社会」での特権を失いたくないのだと考えれば納得がいく。

菅よ、反原発で突っ張れ!菅降ろしは原発推進派の責任逃れだと反撃してやれ!


2011年8月  介護職よ、死ぬんじゃない

介護夜汰話ロゴ
今回の大震災・津波で、老人介護現場は多大な被害を受けた。海岸沿いに建てられた老人施設は避難する時間も人手も足りないまま、老人とスタッフの多くが一瞬にして津波に呑まれた。私が 24 歳のときに就職した特養ホームは、瀬戸内海をはるかに見渡す山の中腹にあった。まだ街中に老人施設をつくらせてくれなかった時代だったからだ。

しかし介護の生活化、介護施設の社会化が叫ばれるようになり(ノーマライゼーションなんて言った)、老人たちを人里離れた山奥に隔離するのではなく、街中でケアすべきだと考えられるようになった。老人にとっては住み慣れた地域を離れなくてすむし、家族も地域の人も訪問しやすい。いいことばかりと考えられてきた。しかし今回はそれが仇あだになったような気がしてしょうがない。

要介護老人を避難させるにはマンツーマンで介護者がいたって困難である。障害老人の移乗介助、移動介助には一人ずつ以上必要だし、自立移動可能な認知症老人が従順に指示に従ってくれるはずもないから、これも一人ずつ以上いるだろう。今回のような短時間の避難はとても無理だと思える。だとしたら、たとえ人里離れていようが高地に建設するしかないのだろう。そこを一般の人たちの避難所として訓練のたびに住民が集まるようにすれば訪問する人も増えるかもしれない。

思い出してみれば、私がかつて勤めた特養ホームは、交通の便が悪くても家族の訪問は他施設の3倍もあったし、地域との交流も豊かだった。空間的距離なんか関係の力と工夫で超えられるのだ。この話、津波に襲われた地域だけの話ではない。日本中どこでも明日にでも海の近くなら起こりうると考えたほうがいい。だって神戸も新潟も予想されていない地域で大地震が起きたではないか。津波こそ生じなかったが。太平洋岸だろうが日本海側だろうが、瀬戸内海沿岸だろうが津波がやってくるかもしれないという想定が必要だろう。

大きな施設には弊害が多いとして、小規模施設が増えたことも仇になったのではないか。その多くはやはり市街地につくられていて、海岸沿いの小施設が無数にある。定員 9 人のグループホームでは、とにかく利用者を2台の車に押し込むようにして避難したという。でもそれは昼間だから可能で、夜間なら何もできなかっただろうと言っている。介護職よ、死ぬんじゃない

グループホームの火災が何度かあった。夜勤一人では何もできない。そこで、近所の人にかけつけてもらうための日頃の交流やシステムをつくり始めた。でも火災ならともかく、地震と津波では近所の人にもそんな余裕はない。

あらゆる死が悲しくいたたまれない。だが次のような死はなんとも痛ましい。あるヘルパーは在宅の利用者を車で助けに行ってその家で亡くなったという。ある施設スタッフは、何度か老人を車いすで高台に避難させ、もう一度施設に戻って帰らなかった。

私は5月号で、患者を見捨てて逃げたといわれている病院関係者を引き合いに出して、「頭が下がる」と書いた。だが頭を上げて言わねばならないと思う。こうした話を美談にしてはならない、と。かつて長野県で山崩れによって特養ホームの入所老人が多数亡くなるという事件があった。それについてある高名な施設長がこう言ったというのだ。「老人が亡くなって職員が亡くなっていないというのはどういうことだ」と。「実情も知らないでよくこんなことが言えたもんだ」と現場の人は本当に怒っていた。
あっという間の出来事だったからだ。この当時高名な施設長は、厚労省を批判するなど反体制的言動で知られる人だった。私は思った。「体制と反体制はいっしょだ」と。あたかも、「老人のために死ね」と脅迫するかのような発言は、「国のために死ね、殺せ」というのとほとんど同じである。国なんかのために死んじゃいけない、殺しちゃいけない。介護職よ、特に心優しい介護職よ、老人のためにも死んじゃいけない。

消防庁や自衛隊の人命救助のプロたちは、丈夫な身体をもっているうえに毎日のように厳しい訓練を受けている。高度に専門的な機器も装備している。そのプロたちが人命救助するときには、まず自分の安全を確保する。そうでなければ救助しないのだ。介護職は食事、排泄、入浴介助のプロではあるが、人命救助のプロではない。だとしたら、もっと自分の身の安全を優先しなければならない。

老人を助けようとして亡くなった彼らは決して死を覚悟していたのではないと思う。二人でいっしょに生きたいと思っていたに違いない。これはそれがうまくいかなかった悲劇である。美談ではない。私はあえて訴えたい。老人といっしょに生きたいという気持ちは私たち介護職には十分すぎるぐらい理解できる。しかし、それが無理だと思ったら、自分一人だけでも生きるべきだ、と。老人を放っておけないと思う人だからこそ生きてほしい、と。

それに対して罪悪感を感じなくてもいいと私は思う。感じるのは無力感だけでいい。そしてこの無力感は介護現場で私たちがいつも感じ続けてきたものである。介護職の共感とはこの無力感の共有だったはずだ。そして人間同士の本当の共感もじつはそうではないか。それに、あなたがいっしょに生きたいと思うような老人なら、危機が迫ったとき「私はいいからあなただけ逃げなさい」と言ってくれると思う。いや、そりゃわからないけど、そう思い込んでしまおう。この思い込みは許されると思うのだ。


2011年7月  認知症老人のコミュニケーション覚え書き
        その⑨『ケースワークの原則』を読んでみる・中

バイステックの「ケースワーク七原則」をはじめて知ったとき、私には疑問があった。七原則のうちの「受容」と「非審判的態度」が重複していて、どちらか一つでいいではないか、という疑問である。

「非審判的態度」は「受容」のなかに含まれているはずではないか。それをわざわざ特別に取り上げているのはなぜか、不思議だったのだ。
それも、前回、「自己決定」の原則で検討したように、歴史的背景の中で考察していくと納得できるような気がしてくる。ヨーロッパで長い間、“審判的態度”を引き受けてきたのはキリスト教の聖職者たちである。彼らは懺悔室で告白する信者に、聖書や教会の教えに基づいて審判するのが大事な仕事の一つであった。

そして社会福祉の大半はそのキリスト教の活動としてはじめられたのである。だから「未婚の母親をモーゼの十戒の第六の戒律を犯したものとして」(P.148)審判してしまうようなことは普通であったと思われる。

しかも著者であるバイステックはキリスト教、それもイエズス会の神父である。イエズス会は厳格であることで知られる宗派である。ま、そうした見方は、バイステックが「受容を妨げるもの」として挙げている「偏見と先入観」にあてはまりそうである。でも私は、その彼が「非審判的態度」を訴えていることを評価したいのである。もっとも審判すべき立場にいる人がそれを訴えているのだ。自己否定的な勇気ある提言だと思う。

「審判的態度」には、「賞賛」や「是認」までふくまれていることを知らない人が多い。彼は賞賛と是認を「審判のもっと微妙な形式」であるとし「彼(クライアント)は、自分の好ましい面だけを見せるようにして、ケースワーカーの愛顧を受けていたいと、思わざるを得ないかもしれない。非難と賞賛とは、クライアントには同一の結果をもたらすであろう。すなわち、自分の一面を無理にかくすようにさせてしまうかもしれないのである」
介護だけでなく、子育てに関わる人にとってもよく頭に叩き込んでおくべき言葉だろう。ほめて育てりゃいいというわけではないのだ。

では、その「非審判的態度」も含めたものとして「受容」という原則について検討してみたいと思う。
私は先ほど、バイステックが「非審判的態度」を原則としたことを、「自己否定的な勇気ある提言」と評した。ところが「受容」の章を読んでいくと、彼のそれとは逆の面が見えてくる。
それは「受容」を説明するために彼が選んだ多くの引用文に顕著に現われる。例を挙げてみよう。
ほとんど百年のあいだ、弁証法的唯物論が伸び拡がり、……われわれを取り囲むにいたった。人間の尊厳は、われわれと、われわれを飲み込もうとしているものとの間に立っている唯一つの、最も重要な概念である。……この観念こそは、ムッソリーニやヒトラーのような全体主義者の侵入を阻止するため、われわれに命を投げうたせたものである。またこの観念こそは、クレムリンの策略に堂々と挑戦し反抗する勇気と決意をわれわれに与えてくれるものである。

1955年の論文からの引用である。この論理の延長上にアメリカによるベトナム戦争があったのは間違いのないところである。現在なら、ソ連と社会主義の象徴であるクレムリンの代わりにイスラム教や、私のような無神論者まで名指しされているのではないかと思えてくる。
『そして人間の尊厳は、……神を原型とした、想像における創造主の受肉化から生まれたものである。』
引用だけではない。本文でもバイステックはこう断言している。
 
これらは「受容の法則」の根拠である「人間の尊厳」を説明するための文章である。だから特定のイデオロギーをもった人間の尊厳を認めないと言っているのでもないし、受容しなくていいなんて乱暴な主張でもない。でもそう誤解しかねない、いや、そうなりうるのではないかという疑惑を感じるのは私だけではないのではないか。

2011年の1月、私は6度目のインドではじめてカルカッタのマザーテレサの「死を待つ人の家」と本部に足を運んだ。家の前で記念写真を撮る気にはなれなかった。私のような信仰心なき者がそんなことをすると罰があたりそうな気がするのだ。

別の言い方をしてみよう。私にはマザーテレサの実践への尊敬と畏怖がある。だがその実践を支える強烈な信仰というものへのわからなさがあるのだ。共感と違和が同じだけ心の中にあると言えばいいだろう。
私の『ケースワークの七原則』の著者への態度も、そのマザーテレサへの戸惑いに似ている。

2011年7月  ハートに伝わるようなセミナーをしたいんだよ!

伊藤英樹さんがサプライズ参加
映画『9月11日』と私の講演というセミナーを各地で開いています。

同じ大宮監督の『ただいま、それぞれの居場所』と違って、過激な内容の『9月11日』で“興行”を成り立たせるのは難しいのですが、しかも私の講演のテーマが「大震災、原発と介護」だったりする札幌のセミナー(7月24日)に、120人も集まってくれるのは、有難いというか、自分の思いが通じてるのがうれしくてしょうがない。

ちなみにこのセミナー、伊藤英樹さんがサプライズ参加、しかも、「羊ヶ丘の郷」の菅原君の発表がじつに面白い!ブリコで紹介するつもり。

懲りないで今後も各地でこうしたセミナーをやって行くつもり。だって、ハウツーばかりに人が集まるのは当然とはいえ、どこか淋しいじゃないか。金にも資格にもハウツーにもならないけれど、ハートに伝わるようなセミナーをしたいんだよ!

映画を見ようよ。『9月11日』はDVDで売り出される。ぜひ私の分ののっているパンフレットといっしょに買ってほしい。東京のオムツ外し学会の前夜祭でも上映予定。ぜひ全国から。

***---- 映画『9月11日』サイト
   http://www.911kaigobaka.com/

2011年6月  映画「無常素描」のおしらせ

映画「無常素描」
『ただいま それぞれの居場所』と『9月11日』という介護現場の画期的映画を創ってきた大宮浩一監督が、東日本大震災の被災地をスケッチした映画を創った。

被災地のようすを見聞きしておくためだけでなく、この映画は見るべきである。というのも、前2作との共通性があるのである。だから介護関係者ほど見て欲しい。

この映画にあるのは突然圧倒的に非日常な津波に襲われて死と生にさらされた人間の、その無力感と突きぬけた楽天主義のような世界である。それが伝わってくる。
私たちの介護現場は、日常的に生と死にさらされた世界である。その無力感と楽天主義に裏うちされた哲学が2つの映画、特に『9月11日』には表現されていたと思う。

私は試写会に招いてもらって、パンフレット用に短い文章を書いた。おそらく観客はみんな沈黙のまま映画館を出るだろうが、できたらパンフレットを買って拙文を読んでほしい。

●-- 映画『無常素描』公式HP
   http://mujosobyo.jp/

2011年6月  「介護のコトバ」番外編

現在毎日新聞に連載中の「介護のコトバ」は、「あ」から始まって、「わ」さらに「ん」まで行って終る。その後、講談社から1冊の本になる予定。その単行本化のため、新たに10本の原稿を追加した。そのうちの何本かを紹介していこう。まず最初は、「も 妄想」である。新聞連載ではここまでは、という中身。

● 「も 妄想」

2011年は、作曲家マーラーの没後100年にあたっていて、コンサートがたくさん開かれている。ファンの私にはうれしい限りだ。でも大地震、津波、そして原発事故の衝撃は私の心と体に余震のように続いている。そんな状況で聴くマーラーはまた特別なものである。

彼の歌曲や交響曲は”死”を連想させるとよく評されているが、それがストレートに伝わるのである。なぜマーラーが好きなのか、とよく問われる。ベートーベンならその緊張感、マーラーなら危機感が魅力だと言えばいいだろうか。それはあたかもその後のユダヤ人の運命を予知していたかのようである。
ところどころに、ホットする旋律や美しい楽章が登場する。しかしそれは、危機が去った後の安堵や平和、希望であるとはとても思えない。むしろ、絶望の果てに生み出した妄想、あるいは、死の直前に見えるという美しい幻覚ではないか、というのが私に解釈だ。

そうすると、認知症老人によく出現する妄想は、手足を抑制され薬漬けにされた絶望の中で必要としたものではないのか。さらに精神機能が死の間際になって、必然的であるかのように生じるのが幻覚ではなかろうか、と思えてくる。

もちろんこれは私の仮説である。一般的には老人の妄想も幻覚も、あってはならない、治療の対象とされている。しかし、異常と断定し、化学物質=薬で消してしまおうとするのではなくて、マーラーの楽曲の一部だと思って受け止めてみることはできないだろうか。

そういう受け止め方をするだけで、認知症老人が少し落ち着いてくれるような気がするのだ。もちろん、ちっとも変わらない認知症老人もたくさんいる。でも薬の副作用で、問題行動すらできない状態にしてしまって自己嫌悪に陥るよりはいいと思う。

2011年6月  認知症老人のコミュニケーション覚え書き
        その⑧『ケースワークの原則』を読んでみる・上

私は「自己決定より共同決定」とか「受容より相性」といった表現で私たち介護職の関わり方を訴えてきた。あたかも、現在当然のこととされ大学で教えられていることを、揶揄(=ひやかし)しているかのように思われるかもしれない。かつて「三好は所詮、アンチテーゼ」なんて評されたこともあった。

たしかに、権力をもっている奴になびいていく精神の全体主義という伝統をもった日本人の中では、私なんかはいつまでもアンチテーゼや皮肉として存在せざるをえないのかもしれない。それなら、その役割を引き受けたいと思う。

しかし、いつまでも異端に甘んじていては困る。異端から少数派へ、そして“全体主義”を流動化する存在にならねばならぬ、と考えて私は『実用介護事典』を編集し、なんとそのなかに「相性」も「共同決定」も、ちゃんと掲載したのである。受験対策用だけじゃなくて、こんな項目こそ読んでほしいんだけどなぁ。

さて、バイステックの書いた『ケースワークの原則』(誠信書房)を読んでみよう。そうすると「共同決定」という私の造語が、アンチテーゼとしての皮肉ではないことがわかるはずである。それどころかバイステック自身がそう言っているのだ。いや、私の解釈ではそうとしか思えないのである。

私たちは本を読むとき、特に古典や専門分野で権威とされているような本を読むときには、その本の内容は客観的に、時代や場を超えて存在しているものと思いがちである。しかし、どんな本も、特定の時代の特定の場で特定の人によって書かれたものなのである。
蛇足になるが、私がそのことを思い知らされたのは、吉本隆明の『マチウ書試論』によってであった。マチウ書とは聖書のマタイ伝のこと。彼は聖書すら、時代と空間と無名の著者の心理に引きつけて評論してみせたのだ。

では、バイステックが「自己決定の原則」を訴えねばならなかった時間、空間とはどんなものだろうか。本書のアメリカでの出版は1957年、イギリスはその4年後である。
1531年に始まるイギリスの救貧法は、社会福祉の原点と呼ばれているものの、その実態は貧困者を犯罪者として扱って矯正しようとするものであった。少しずつ改定はされるものの、この救貧法は1948年まで続くのである。

いわばこの本が書かれた時代的背景は、法律は近代化したものの、状況も人々の意識も“救貧法的”なものから脱却しきれていないものだったのだ。
「(ケースワーカーたちは)さまざまな理由で実際に(自己決定の原則を)適用することは困難であるか、あるいは不可能であると考えた。社会経済的状態、とくに多数の読み書きのできない無学の移民、30年代初期の経済的不況……」とバイステック自身による記述がその時代をよく表している。

そんななかで、彼が「自己決定の原則」を訴える根拠が2つある。1つは人権という概念(これにはキリスト教が大きくからんでいることは次回に述べる)。もう1つ根拠があってこれがいい。
「またこの認識は、クライエントがみずから決定と選択を行ったときにのみケースワークの治療が真に効果的であるという実用主義的な観察により確認されたのであった」
高邁な理念なんかより、こういう実感に基づく根拠のほうが私は好きである。さらに、本書を読んで私がバイステックを好ましく思ったことがある。

それは、「七原則」を教条化して何が何でもそうでなきゃ、と思っている人が多い(といっても日本人しか知らないが)のに対して、彼自身は、原則というよりも、向かうべき方向性を示しているという点である。救貧法的発想から脱却して、少しでも当事者が主体となる方向へ向かうべきだと訴えているのである。

それがよくわかるのが「原則VI:クライエントの自己決定」の項の最後に述べられている「自己決定を制限するもの」である。彼は現実に「自己決定の原則」がうまくいかないことをよくわかっていて、その理由をいくつか挙げている。一番に挙げているのは「クライエントの能力」である。2つめは「法による制限」、3つめは「道徳による制限」と続く。

1つめについては、バイステックも、この本の訳者たちも希望をもっていた。世の中が豊かになり教育が充実することで、当事者は自己決定能力をもつようになるだろう、と。
現在の私たちは思う。その希望は半分はあたり、半分ははずれた、と。

1つは「老い」である。豊かになった世の中ほど長生きできるようになり老人が増えた。戦後豊かになった世の中の代表である日本では高齢者の割合は急速に増え続け、認知症老人を大量に生んだ。皮肉なことに、バイステックが「自己決定能力」を高めることを期待した世の中の進歩が、認知症を増やし自己決定が難しい人たちを生み出してしまった。

さらに、現在の私たちは思う。高度な教育と豊かな生活を保証された認知症ではない私たちが行う「自己決定」の中身は正しいものだろうかと。高度資本主義社会の中で消費者として飼いならされ、孤立化した現代日本人に自分の運命を決める能力があるのだろうかと。その一例は、自己決定によって自殺を選ぶ人の異常な多さである。

もちろん、私は「自己決定の原則」に対して旧態依然とした一方的、管理的なやり方や、パターナリズム(父権主義)に戻るのがいいと思っているのではない。バイステックが「自己決定」という形で示した方向性を受け止め、それを含めてさらに深めて「共同決定」という方向性を提起したいのである。

さて「自己決定を制限するもの」の2つめと3つめは、当時から論争の的になっていたようである。
『ビスノーは、本書の著者が人間を理性的な要素と動物的な要素に二分することや、自然道徳の立場に立って、クライエントには道徳的に正しくない決定をする権利はないという議論のような、宗教上のまたは哲学上の前提は、多くのソーシャル・ワーカーたちにはその職務の上では、受け容れられないだろうと指摘している』という形で。

それに対して訳者は『これでは子供の教育やしつけももってのほかとなりはしないだろうかと思われる』とビスノーに反論しているが、これは、ひいきの引き倒しというべきであろう。教育やしつけは、親や教師がその時代の常識を規範として行えばいい。

しかし、ケースワークは特別な状況にある人への関わりである。常識はもちろん、法や道徳といった枠から外されざるをえない人も珍しくはないだろう。そうすると、バイステックの枠はいささか狭いと思わざるをえないのだ。

『人間の幸福とは何であるかを明らかにすることは、ソーシャル・ワークの前提でなくてはならない』 これも『訳者あとがき』の言葉である。つまりこの本では、関わる側の人生観、価値観が前提とされているのである。

バイステックが意識しようがしまいが、バイステック自身が自らの幸福観を前提として、つまり「共同決定」として関わっているのだ。「共同決定の原則」を対置する私たちはそのことに自覚的なだけだと言っていいだろう。その枠の狭さは、「受容の原則」の項を読むとよくわかってくる。それは次回に。

2011年5月  経団連会長のカマトトぶり

カマトトというコトバがある。「かまぼこって、オトトで出来てるなんて知らなかった」という世間知らずのことで、苦労知らずのいいトコのお嬢さんを指すことが多かった。最近では”カマトトぶる”お嬢さんしかいないだろうけど。

広島出身の私にはこのコトバの意味がよく判らなかった。というのも、西日本では、オトトなんて言葉は使わないからだ。お菓子のオットットというのが出てきて、それで人に聞いてやっと知ったぐらいである。広島辺りでは魚の幼児コトバはタイタイである。鯛が魚の代表であるところが豊かな食生活を示しているなあ。

さて久しぶりのカマトトぶりを見せてもらった。経団連会長の浜岡原発停止要請への反応である。新聞によれば「『唐突感が否めない』と述べ、政府の対応を痛烈に批判した」とある。(5月10日毎日新聞)

米倉弘昌という人らしいが、この人は馬鹿なんだろうか。いや馬鹿ではこんな要職には就けないはずだ。だったら残るのは、カマトトぶってるとしか思えない。

浜岡原発がどれだけ危険かは建設前から語られてきたことだ。建設してからもどれだけ事故があり、それを隠ぺいし、データをねつ造してきたかも有名な話だ。唐突どころか遅すぎたという反応こそがまともなものである。

彼がそんなことを知らないはずがない。知らないならすぐにでも勉強すりゃいいじゃないか。ネットで調べりゃすぐ判ることだ。だいたい政府に「スピード感がない」とか「リーダーシップがない」なんて批判している連中こそ、こんな時には「唐突だ」「根回しがない」と言うんだから。どっちなんだよ。

米倉よ、本音を言ったらどうか。唐突だろうが、根回ししようが原発停止という政策が気に入らないんだと。「原発事故で犠牲が出ることがあっても、都会の人間が豊かな生活をするためにはしかたがない。もちろん、大企業が製品を大量に輸出して金儲けするためにはやむをえないのだ。それも想定内なんだから。

だって見てみろよ、原発のある場所を。30kmでコンパスを使えばその大半は海だろう。いざという時に避難する地域が少ないからだよ。しかも回りは農業と漁業ばかりだから補償金もしれてるし、死者が出ても高齢者ばかりの地域だからあまり文句も言われないだろうから}というホンネを。

2011年5月  私には未来が見える

じつは私、これまで誰にも言ったことはないのだが、予知能力があるのだ。といっても神秘的な超能力があるのではない。

世界にも不思議な力があると自称する人がゴマンといる。私は近代合理主義者だから、基本的にはそういうのは信じないことにしている。でも科学が万能と思うわけでもないので、信じないにしても楽しむくらいのことはしたいと思っている。

“超能力者”を見分ける方法を私は持っている。それは、その能力で金もうけをしているかどうかである。老人介護の世界でちゃんとした仕事をしながら、ときどき人生の悩みや、いなくなった飼い猫の安否に答えていて、一切金なんかもらわない、という人がいて、私はこの人の言うことには一目置いている。

しかし“超能力”で人を集め、金もいっぱい集めようとしているような人は信用しない。この手のカリスマ的神がかりのリーダーには、自分は時間も空間も超えられると自称する者も珍しくない。過去に自由に行って歴史上の人物と対話したり、未来から世界を見たりできるのだそうだ。

じゃおかしいだろう。そんな能力があるのなら、今回の大震災のような歴史的事件が予知できたはずではないか。それができなかったのだから、その“超能力”はニセモノだと言っていい。もし、予知していたけど黙っていたというのなら、それはもう人間として最低の奴だということになる。つまりその超能力者は、嘘つきか人でなしかだということだ。

私の予知能力はそんな怪しいものとは違う。人間なら誰にでも備わっており、人間にしか備わっていない「想像力」による予知能力である。
私にははっきり見える。20XX年、東海大地震によって発生した大津波が日本の太平洋岸に押し寄せるのが。

その大津波は海岸の10数メートルの砂丘にぶつかり、後から来た波と重なって砂丘を超えてすさまじい勢いで砂丘を駆け降りて、完成したばかりの防潮堤をこっぱみじんにしてしまう。その防潮堤のコンクリートのブロックが浜岡原発に直接衝突して原発が大破する。

2011年5月6日、管首相は浜岡原発停止を中部電力に要請した。私は、「管は偉い!」と思った。しかしその5分後、「管はバカか!」と思った。防潮堤が完成するまでの2年間の停止だというではないか。今回の大津波で“世界一の防潮堤”が破壊されたばかりだというのに、経験から学ぶ能力も何もないらしい。

必要なのは一時停止なんかじゃなくて、永久廃炉である。それですら今止めても10年もかかる。その間に大地震が来る可能性は約30%もあるのだ。

「あのとき2年間じゃなくて永久に停止せよと言っておけばよかった」。歴史に残る名首相になり損ねた管の後悔の表情も、もちろん予知できる。

「想定外」とは想像力不足のことだ。いや、金がかかるからと想像力を絶ってしまうことである。“安全委員会”なんかがやってきたことだ。それは人間を止めることだ。

私の予知が外れたら?それには科学的に反論する。最新の物理学によれば、未来というのはいくつもの可能性があって、どうなるかは神がサイコロを振るようなものなのだそうだ。

さらに現実は一つではなくて、いくつものパラレルワールドがあるとも言われている。私の予知はそのパラレルワールドの一つなのであると言っておけばいい。量子論は予言者には格好の言い訳を与えてくれるのだ。

2011年5月  ”テロとの戦い”というテロ

またまた大きな“異和”を感じる映像を見てしまった。やはりテレビはやめよう。精神に良くない。ビンラディンが殺害されたニュースを聞いて、星条旗を振って喜んでいるアメリカ市民の映像である。
人を殺しておいて、しかも家族まで殺しておいてあんなに無邪気に喜べるのだろうか。

言っておくが私はビンラディンの肩を持つ気は毛頭ない。あくまで報道によれば、だが、彼は同時テロを指揮していたというし、彼のものと思われるビデオでは「アメリカ人を殺せ」なんて煽っている。

アメリカ政府の政策が誤りだ、と主張するのはいいが、「アメリカ人を殺せ」というのは私たち近代人の論理ではない。もちろんアメリカ人の多数がアメリカの政策を支持しているとはいえ、地球の反対側まで送り込まれて命を落とし精神を病んでいる若い兵隊たちは、その大半が貧困のため従軍したアメリカの政策の犠牲者である。

しかしこういう輩はどこにもいる。独裁の中国政府やその政策が間違っているというのは当然だが、中国人が悪いかのような言い方をする輩だ。アメリカのような民主主義の国ならともかく、政党もない、表現の自由もない国の国民は被害者ではないか。石原慎太郎や一部ジャーナリストはビンラディンと同じなのである。ただつけ加えると、私は石原の顔よりもビンラディンのほうに知性を感じてしまう。

日本人なら極悪人が殺されたといってもあんな喜び方はすまい。いや最近の日本人はそうはいえないような気がする。ひょっとすると同じ反応をするのではなかろうか。だって世の中は凶悪犯を死刑にせよ、と叫んでいる。私のような死刑廃止論者は人間の気持ちがわからない人非人扱いである。まあ、非国民扱いや人非人扱いは覚悟で文章を書いているつもりだけれど。

私は殺人事件の被害者家族が厳罰を求めるのは判る。もちろんそうでない家族もいっぱいいて、それも判る。ただしその判り方は、死刑を求める家族の気持ちが「判る」のとはちょっと違う、複雑な「判る」である。だが、その厳罰を求める家族の気持ちを代弁して正義の味方のようにしているジャーナリズムは無責任だと思う。自分は当事者ではない、ということを忘れている。
特にテレビがひどい。さらに私は、そのマスコミに煽られて「死刑」と叫ぶ人々にも危惧(きぐ)する。私はビンラディン殺害を喜ぶアメリカ市民と重なってしまう。

彼らは何かコンプレックスを持っているのではないか。あるいは深い罪悪感を抱えてるのではないか、と私は推察している。テロリストや凶悪犯を「悪者」として声高に糾弾することでそのコンプレックス、罪悪感を抑圧し忘れてしまおうとしているのではないかと。

「テロとの戦い」はアメリカを親分とする自由主義諸国が、その自由と民主主義、人権を守るためだと言われてきた。しかし彼らは、収容所でもそして今回のビンラディンへの処置でも、容疑者は全て弁護士立ち会いのもとで裁判を受ける権利があるという人権と民主主義の基本すら自ら踏みにじっている。

これは「”テロとの戦い”というテロ」以外の何物でもない。その報道を批判もなにもしないでたれ流しにしているマスコミ、それに慣らされていく日本人。 みんな立派なテロリストの一味なのである。

 Read Me Please! 

icon 経済よりいのち 原発より介護
安価な電力 安価ないのち
金と嘘と暴力で作った原発に さよならを
命と自然を売るな、買うな