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介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話



List

嬉しい会話でした!
緊急メッ セージ 第2弾!
緊急メッセージ
JR認知症事故
私の願いは、旅人のエゴだろうか
APAホテルには泊まらない
日本はとっくに死んでいる②
日本はとっくに死んでいる
「日本死ね!」への反応に反響!でも…
宅老所いしいさん家」に行ってきました!
5/15発行!リニューアル Bricolage!
消費者から当事者へ
時代遅れの誇り①
  「措置」から「契約」へという進歩? 欺瞞?

北欧よりもインドへ行こう!
幻想の後に来るものは何だろう
身体介護こそコミュニケーション
卑屈と傲慢
新年のはじめに


※ ただいま、「ALL LIST」「年度別記事」を作成中です。各記事の確認は、上記の「年度別」のボタンをクリックしてご確認ください。各リストは、年月日順になっています。

しばしお待ちください

2016 ~ 2015
2016年11月  嬉しい会話でした!

「11年ぶりに三好さんの話を聞きました」
「いつも同じ話で申し訳ない」
「たしかにそう。でも、違ってるんですよ」
「何が? 忘れているだけじゃないの(笑)」

嬉しい会話でした。32年間、ずっと同じことを訴えてきた。でも、マンネリと言われないで、「三好はブレない」と評価されるようになった。さらに、深くなってるとしたら、講師冥利につきる。

「表情も柔らかくなりました」
「人間ができてきたのかな。いや、齢をとったということか(笑)」

2016年4月  緊急メッ セージ 第2弾!

Sアミーユ事件をめぐってのマスコミの報道はひどいものだ。

これじゃあ、介護という仕事が、ストレスばかりで、人を犯罪に駆り立てるもの みたいじゃないか。そりゃ、介護がわかってなくて「作業」をさせているブラック企業ならそうだろう。 しかし、ちゃんとした介護現場なら、大変さをはるかに上回る喜びがあるはずだ。

私が、運送会社の現場事務から特養ホームに転職した時、ストレスははるかに小さくなった。もちろん、昔と今は違うだろう。 でも、異業種から介護に入ってきた人たちにアンケートを取ってみればいい。ストレスが少なくなった人のほうが多いはずだ。

介護業界の離職率は決して高くない。宿泊、飲食業、娯楽業のほうがはるかに高い。それに離職の理由に「収入が少ない」を挙げているのは17%だけだ。多いのは「運営への不満」と「人間関係」で、その「人間関係」も、先輩から、旧態依然とした安静介護を強制されることへの反発がほとんどだ。

私たちの介護現場を、Sアミーユのようなブラック企業と同じに扱わないで欲しい。私たち介護職を、事件の容疑者と同列に扱わないで欲しい。介護のイメージを低下させるような、司会者やコメンテーターの発言をやめて欲しい。

容疑者は犯人と断定された訳ではないし、彼に責任能力があったのかどうかも確かではないことを念頭に入れてメッセージを送ります。


2016年3月  緊急メッセージ

Sアミーユでの事件で、介護職のイメージを低下させるような報道を許すべきではない。 「介護職にメンタルケアが必要だ」と言った識者の発言も含めて。

介護職が殺人を犯した、のではなくて、抵抗できない弱者に手を出すような人間が介護現場に潜伏していたのだ。

そんな、弱者に手を挙げる人間はたくさんいる。子どもを虐待する大人はその典型だ。「しつけのつもりだった」と言うが、 抵抗できないものに暴力を振るう人間にこそ「しつけ」が必要だろう。

働く者をこき使うブラック企業もまた、人を、ノイローゼ、鬱、自殺に追い込んでいる。直接手をくださないだけ、この事件 の容疑者より悪質かもしれない。そしていまや、ブラックじゃない企業を探すのが難しい時代になっている。

「万人が万人の手段」になってしまった時代の犯罪の一角、であるように私には映っている。

『あれは自分ではなかったか』を 緊急販売します!
あれは自分ではなかったか2005年に石川県で起きたグループホーム虐待致死事件は介護界に大きな波紋 を起こした。事件を受けて開いた緊急セミナーの講演録。GHだけでなく多くの福祉施設で夜勤は苛酷だ。この事件から何を 学ぶのか、介護界をリードする3人の白熱の議論が大きな共感を呼んだ1冊。
●著者・監修:下村恵美子・高口光子・三好春樹
●価格 本体1,200円
★ 申込先 七七舎
 メール brico@nanasha.co.jp
 TEL→ 03-5911-0770
 FAX → 03-5911-0771


2016年3月  JR認知症事故

そもそも、家族を告訴するJR東海がおかしい。
認知症の人がたくさんいることは常識なのに、安易に線路に出られるようにして、老人の命を奪ったとして、逆に訴えられるべきじゃないのか。

社長が原発推進派なのも感じ悪いし。ま、関係ないか。でも、認知症老人なんかに、定時運行=経済効率を妨げられてたまるか、という体質はつながってる気もする。  【参照 認知症と列車事故訴訟】


2016年3月  私の願いは、旅人のエゴだろうか

次男が、受験勉強が終わって「被災地を見たい」というので、私の仕事に付いて陸前高田に同行した。
一関からようやく気仙沼に着いた。ここで海の幸の駅弁を食べようと思っていたのだが、駅にはコンビニがあるのみで、売っているのはどこにもあるコンビニ弁当だけなのだ。コンビニが早々と復活して生活を助けているのはいいことだ。

しかし、地元にしかない弁当屋さんが復活してこそ復興ではないのか。その思いはBRT(Bus Rapid Transit)に乗りかえて陸前高田について、もっと強くなった。この町では、山を崩して市街を床上げする工事が続いている。大堤防工事と並行して。

はたして、そこに人々は帰ってくるのか?界隈性のない人工的な街が作られることが復興といえるのだろうか。結局、もうかったのはゼネコンだけで、共同体は消えて、グローバリズムだけが進行したということにならないか。

コンビニ弁当ではなくて、郷土ならではの駅弁を食べたい、という私の願いは、旅人のエゴだろうか。

2015年5月  APAホテルには泊まらない

毎日新聞の日曜版のコラム。これ、APAホテルのこと。あのビジネスホテルの部屋で、シングルに3万も取る。まったく、人の足下を見て!もともと、経営者が、右翼の田母神なんかに資金を提供するような会社だ。あの政治資金を私物化した人物だ。田母神や安倍が“取り戻す”という“日本”とは、こんなえげつない世界らしい。

まったく、右翼的な奴は、権力に弱くて金に汚い。左翼は「人間の尊厳」なんていう抽象的なものに弱いけど。APAには泊まらないよう訴えます!景気が悪くなるか、外国人観光客が減ったら、真っ先に潰れると思うけど。

2015年5月  日本はとっくに死んでいる②

もう65歳だというのに、子供二人が大学生だ。学費の高いこと!国立だってひどいものだ。この国は、介護にも保育にも、教育にも金を出さない。長男が留学していたブラジルでは、国公立の大学は学費は無料だ。

私がよく行くインド(写真)は、差別と貧困の国だと思われているが、指定カースト出身者が大学に通れば、学費は無料で、生活費まで支給するという。いったいどっちが先進国だよ。

アメリカでは、莫大なローンを背負って大学を出るという。日本もそうなりつつある。学生の時から資本主義に組み込んでしまおうというのだ。資本増殖の奴隷ばかりの国は、死んでるとしか思えない。

2015年5月  日本はとっくに死んでいる

「保育園落ちた、日本死ね!」が話題だ。私は日本はもう死んでると思う。この国は経済成長にしか金は出さない。

オリンピックなんかやるもんだから、介護も保育にも人が来ない。東北の復興さえ進まない。介護保険料を取られてるのに、要介護5でも特養に入れない。特養を建てても、職員がいない。大学も専門学校も、介護科がつぎつぎに閉鎖されている。

介護なんていういい仕事にみんなが見向きもしないというのは、この日本が死んでるという何よりの証拠だ。「命より金」が日本中に浸透しているということだ。「介護離職ゼロ」とは、経済成長を支える企業戦士が、老人介護なんていう価値のないことのために辞められちゃかなわない、ということだ。

だから介護に金なんか出すわけがない。でも、介護現場はすごい。いい仕事をすれば、「命より金」という価値観をひっくり返せるんだから。介護という、「老い」という自然に関わる世界は、この日本の中でなんとか生き続けている。

2015年5月  「日本死ね!」への反応に反響!でも…

「保育園落ちた。日本死ね!」への反応で「日本はとっくに死んでいる」を投稿(3月11日)したら、4万人にリーチされて驚いた。コメントも続々。ただ、気になる内容もあった。「高齢者の年金より、こどもに回せ」というものだ。それはダメ。

年金は国の約束事だ。それが守れないなら国への信頼は完全になくなってしまう。高齢者とこどもを対立させるのは、為政者を喜ばせるだけ。高齢者も、こどもも、でなくては。

それをやるのは簡単だ。政府が「消費税は福祉にだけ使う」と言った約束を守るだけでいい。なぜこの国では、こんなに簡単に約束が破られるのか、写真の本(日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか)を読むとよ?く判る。

やはり、日本はとっくに死んでいる。この頃、日本を自画自賛する気持ちの悪い本や雑誌があふれてるが、こんなの作ったり読んだりしてる人は、よほどコンプレックスがあるに違いない。


2015年4月  宅老所いしいさん家」に行ってきました!

宅老所いしいさん家 映画『ただいま、それぞれの居場所』では見たけど、現場は初めて。

狭い民家にすごい人。
いろんな人種のスタッフ、赤ちゃん含めた子供、お客さん…すごい人口密度だ。
そういえば利用者の老人もいるじゃないか、という感じだ。

それぞれの居場所
私はいろいろ感じること、思うことがあって、Bricolageの夏号に書くつもり。
この機会にぜひ定期購読を。

それぞれの居場所
 映画『ただいま、それぞれの居場所』


2015年4月  5/15発行!リニューアル Bricolage!

リニューアルのBricolage リニューアルのBricolageは、5月15日発行。前号から2ヶ月以上の間があって、購読者には申し訳ないが、進行中の中身は乞うご期待。

老人の「オムツ外し」に、子どもに関わる人達から「オムツなし育児」をやってると連絡があり話を聞いてみるとこれが面白い。

「オムツ外し」がじつは我々が考えていたよりずっと深い意味を持っていたんだということに気付かされている。そんな、活字メディアに相応しい、深みを感じられる特集になっている。

新・地下水脈
なお、私の連載は「介護夜汰話」から昔に戻して「新・地下水脈」となる。これも深みをめざします。


2015年3月  消費者から当事者へ

そしてグローバリズムなんだそうです。なんでも、ヒト、モノ、金が、国境を越えて自由に行き交うようになることをめざしているらしい。その結果、世界が豊かになるというのだが、結局、ヒトもモノも金も、大金持ちのところに吸引されていくだけだというのは、ピケティ先生の本を読まなくてもわかりそうなものではないか。

グローバリズムは「金もうけ主義」の別名で、貧富の差が拡大するだけだというのは常識だ。でも、もともと金のない者にとってはどっちみち貧乏なのに変わりはない。でも、それでも問題なのは、その「金もうけ主義」が私たちの人間関係を破壊してしまうということである。もちろん、私たち介護職と要介護老人との関係をも変質させてしまう。介護家族ともそうだ。

グローバリズムの下では、万人は万人にとっての金もうけの手段になってしまう。その手法が介護の世界に入ってきたのが介護保険という制度だ。世の中の側はとっくにグローバリズム花盛りで、いわば介護という遅れた世界を変えてやろうという使命感で進出してきた。そのあげく、長時間労働、低賃金、ノイローゼ、うつ、自殺と、ようやく介護も世間並みになったという訳だ。

介護が「サービス」と呼ばれるようになった。サービスの語源は「奴隷」だそうで、金をもらった分だけ奴隷になります、ということだ。ここには相互的な関係はない。高齢者や家族はすべてサービスを買う“消費者” になった。

「賢い消費者になれ」なんて言われているが、それは介護職がサボってないか監視し、クレームをつける存在になることだ。ここにも相互的な関係はない。

「消費者」ではなくて「当事者」になれないか。家族という最も老人に近い「当事者」に。「サービス提供者」ではなくて、やはり「当事者」になれないか。老人の晩年を家族から託されている「当事者」に。

家族と介護職、そして文字どおりの当事者である老人本体とで人生の難局を乗り越えたとき、私たちは「戦友」になれる。いや「共犯者」と言った人がいたなぁ。


2015年3月  時代遅れの誇り①
  「措置」から「契約」へという進歩? 欺瞞?

「私たちは介護には興味はあっても、介護保険制度には興味はありませんでした。だから会って飲む度に、“互いに時代遅れの介護をやっているなあ” と笑い合っていたものです。でも私たちは、その時代遅れであることに誇りをもっていました」

――これは、昨年9 月に亡くなった松井俊雄さんへの私の弔辞の一部です。今回から、介護保険制度下の介護の課題について書いていきます。

「介護の社会化」が、介護保険制度をつくるときの大義名分として声高に叫ばれたものだ。ただそれは、マスコミなどが一般社会に向けて流したもので、私たち介護現場にとっては介護保険という新しい制度の意味や意義は、それとも少し別のところにあった。

「いまさら社会化ねぇ」というのが、当時、養護老人ホームや特養ホーム職員だった人たちの気持ちである。ちゃんと社会人として介護という仕事をして給料をもらって生活しているのだから、自分たちにとってはとっくに介護は社会化されているのだ。

もっとも在宅では事情は違っていた。ホームヘルパーは、まだまだ「家庭奉仕員」なんてイメージのままで、給料が安く、専門性も求められてはいなかった。だから「介護の社会化」に在宅の介護関係者は新鮮なものを感じたに違いない。

しかし当時介護に関わっていた圧倒的多数は、養護、特養、そして軽費という施設関係者だった。

その施設関係者が、新しい制度になることで関心があったのは、「介護の社会化」よりもむしろ「措置から契約へ」のほうだった。何しろそれまでは「措置」だったのだ。「措置」を辞書で引いてみると『うまくとりはからって始末すること』とある。うーん、障害老人、呆けた老人を病院や地域から特養に入れて“始末” しているのか。

いや、実際にその“始末” としか思えないような仕事しかしていない施設がいっぱいあったことは確かだ。

もっとも辞書には②として『社会福祉において、要援助者のために法上の施策を具体化する行政行為、及びその施設の総称』とあるのだけれど(「大辞林」三省堂)。ともあれ、「措置」が「契約」に変わる。要援助者である老人は「始末」される対象から、契約する主体になる。契約するかどうかも含め、要援助者の自己決定、選択の自由が尊重されるのだ。これは大きな変化ではないか。

もちろん、介護保険制度が始まる前からそうしたとらえ方をすべきだという主張はあった。バイスティックが提唱した「ケースワークの七原則」の中には有名な「自己決定の原則」があって、それは施設長や職員の研修でも強調されていた。

さらに医療関係者からは、日本の医療界に伝統的な医師と患者との家父長制的な関係(パターナリズム)を変えようとして、「患者」を「消費者」(コンシュマー)と呼ぶ運動もあった。

でも、介護保険はそれを制度としてやろうというのだ。いわばこれは、遅れた「前近代的方法」を「近代的方法」に変えようという大きな進歩なのだ。@と、思われていた。いや、そう思いこませようと厚労省やマスコミはしたと言ったほうがいいだろう。現状はどうか。かつては、本人はイヤイヤだったにせよ、特養に入所する自由はあった。今ではそれすら困難だ。要介護度が高くて、本人家族に経済力がなければ入所はできない。

「契約」と同じく「近代化」の目玉とされた、特養の「個室化」がそれに拍車をかけた。個室の割増金を徴収するのだ。

特養に入るのが難しくなったがために在宅で生活し続ける自由もなくなることになった。家族は何年も待たないと特養に入れないため、まだ家で生活できているうちから特養の申し込みをする。順番がくると、ここで入所しないとまた何年も待たされるからと、すぐに入所させてしまうのだ。ちゃんと在宅で支えているというのに。

通所介護もヘルパーの派遣も、選択の自由とはほど遠い。何しろ空いているデイ、余裕のある訪問介護事業所は限られていて、そこしかないのが実状だ。利用者が選択できるほど定員未満のデイや、時間を持て余しているヘルパーがいる事業所はまずない。運営できないからだ。

いくら「措置」から「契約」になったといっても、これでは自己決定する余地なんかどこにもない。だとしたら「始末」とどこが違うのだろうか。

今でも養護老人ホームでは措置制度が続いている。そこは「前近代的」な遅れた世界なのだろうか。そんなことはない。現代の養護ホームでもかつての特養でも「措置」だからといって行政が一方的に決定してしまうなんてことはありえない。本人が嫌がれば強制するわけにはいかないのだから。

だから、心ある行政マンと施設関係者は、措置の時代であろうと「自己決定」を大事にしてきた。もっとも、純粋な「自己」なんてものは存在しないから「自己決定」ではなくて「共同決定」と言うべきだが。

むしろ、形式上の決定権が行政の側にある分、責任を負う覚悟で仕事をしていたような気がする。現在では「契約」という美名のもとで、担当者の責任感はかえって薄らいでいるのではないか。本当は、老人を「始末」しているのに、「これは契約だから」と自分に言い聞かせてはいないか。

2015年2月  北欧よりもインドへ行こう!

2月7日、今年の第1回めのインドツアーに出発です。添乗員さん含めて31名。フェイスブックで報告するつもりですが、初めての海外からの投稿、うまくいくやら。

毎年参加のSさん、昨年1泊3日(!)に参加された四国のAさんら、リピーターが多いのがこのツアーの特徴。そうそう、高2の私の次男も参加します。小6,中3に続いて3回めです。因みに私は今回で12回め、3月で13回めになります。

同じコースに何回も行って何が面白いのか、と思われていますが、行ってみないとその訳は判らない。

来年の予定も決定。
2016年1月9日(土)成田発の3泊5日(1月13日朝成田着)で、ワラナシ、アグラ(タージマハール)、オールドデリー徘徊の日程(今年の2月出発と同じ)の1回のみです。

2015年2月  幻想の後に来るものは何だろう

作家の富岡多恵子さんが亡くなった。私の本棚にはいまだに彼女の多くの本が並んでいる。

『丘に向ってひとは並ぶ』や『当世凡人伝』は、30代の私のロマン主義という人間への幻想に一撃を与えた。

30年後のいま、ルネ・ジラールによって、最後の一撃を喰らっている。富岡多恵子には、破られた幻想の後に楽天主義があった。
だが、「イスラム国」の出現という現代には、幻想の後に来るものは何だろう。
 丘に向ってひとは並ぶ   当世凡人伝

2015年1月  身体介護こそコミュニケーション

~福辺節子さんとの対談~
【福辺節子】 私は、これまで「認知症」に特化したセミナーをやったことがありません。認知症のあるなしで介助方法が変わるとは思っていないからです。でも、「タクティール」や「ユマニチュード」などの、外国の取り組みの紹介を見た福辺流介助術(以下、福辺流)のセミナー受講者から、「福辺流で、声かけ・ふれるは当たり前にやっていることなのに、外国の実践というだけで取り上げられるのはおかしいね」と言われて、福辺流をもっと知ってもらうためにも「認知症」を前面に出したセミナーをやってみてもいいのかなと考えました。三好さんは、最近の動向をどのように思われますか?

手段化されているコミュニケーション

【三好春樹】 「コミュニケーションが大事」などという言い方にすごく抵抗を感じます。コミュニケーションが大事じゃないと言う人はいないでしょうが、コミュニケーションが大事と声高に言う人は大体、抽象的で具体性がないですね。いかに自分の思いどおりに相手をコントロールするか、どうやって時間内に風呂に入れるか、いかに抵抗なくオムツ交換をさせてもらえるかみたいな感じで、対人関係技術の一つになっている。このコミュニケーションは、こちらの業務を達成するための手段です。

典型的なのは、コミュニケーションを大事にしなきゃいけないというので、「吸収のいいオムツを使って、オムツ交換の回数を減らして、残った時間でコミュニケーションしましょう」というヤツ。これは本当に頭にきました。だって、排泄ケアが一番のコミュニケーションでしょう。排泄ケア・食事ケア・入浴ケアそのものがコミュニケーションなんだけど、それとは別にコミュニケーションがあると、みんな思っている。あれはおかしな話です。

【福辺】 そうですよね。現場はオムツ交換を手早く済ませて、時間をつくらなきゃみたいな感じになっています。「寄り添いましょう」「尊厳が大切」という言葉には具体性がない。その人にとって何が大切なのか、その人生や生活を支えるためにできることも、対象者一人ひとり違います。そこを具現化できなければ、ただの壁の標語、絵に描いた餅にすぎないのです。

【三好】 よく「声かけをして、力を合わせて介助しましょう」と言いますが、「1、2の3」と声かけをして介護職は力を入れるけど、そのとき老人の力はまだ入ってない。大体4か5なんだよね。「1、2の3」と声をかけたあと、実際に老人が力を入れたときにこちらも力を入れるようにしないといけないんです。人は力を入れるときは呼吸を止めるので、その気配はわかるはずなのです。それを「声をかければいいんだろう」と、自分の声に相手を合わせようとしている、これはもうミュニケーションではありません。相手が主体として登場するまで待つことができないんですね。

【福辺】 ええ、セミナーでも「声かけをしたからって、すぐに介助しないで。一呼吸置いて、もう一回、“じゃあね”と言うくらいで介助して」と言っています。あと、介助される側のモデルと介助する側とのペアで練習するのですが、最初は自分で動いてしまったり、反対に動かなかったりで、とてもモデルになれません。

【三好】 それは想像力が届いていないからでしょうね。ふだん、介助される人がどういう気持ちで、どういう身体状況なんだろうということに思いを馳せないまま介助しているから、介助される側をやれと言われるとどうしていいかわからない。だから健常者のまま動いたり、あるいは丸太ん棒みたいになるかなんでしょうね。

福辺流は難しい?

福辺さん

【福辺】 介助する人・される人という役割をペアで繰り返すことで感性は磨かれていきます。最初はまったく自分の動きがわからなかった受講者が、少しずつ動き始めます。短いセミナーの間でできることは、「できたときの感覚」をつかんでもらうこと。福辺流のセミナーでは、私とマンツーマンで一つひとつの介助ごとに「できた」ときの感覚を覚えてもらいます。あとは、帰って、何十回、何百回練習して、身体で覚える。

【三好】 職人系だね。福辺さんのセミナーに参加した人は大体厳しいと言う。アスリートが腹筋やランニングをやるように、身体が基本を覚えるためには繰り返ししかないというわけですね。

【福辺】 スポーツや楽器やお稽古ごとと同じように身体で覚えるものだと思います。次に何をするのか順序を考えている間は、相手を感じることはできません。歩いたりご飯を食べるようにすでに習慣になっている現在の自分の介助を変えようと思うと、毎回意識して練習するしかない。

【三好】 なぜできないんだろう?

【福辺】 相手を自分と同じ人間と思っていないからではないかと思う。自分がやられたらどうなんだろう。お年寄りが「痛い」「怖い」と言う。介助を拒否する。意欲がない。言葉が通じない。できるときとできないときの差が大きい。上手くいかなかったら介助される側の問題にしてしまう。本当は介助者側の問題です。相手は違うのにいつも同じ介助をしている。

【三好】 そういう意味でいうと、マニュアルに沿った介護は、こちらが機械になっているということでしょうね。こちらはサービス提供者で、相手は消費者という具合に規定してしまうと、その場で見て感じて、何をするのかという発想にならない。どうすべきかが先にきてしまうから。

【福辺】 介護者は自分だけが“やる人”“動く人”だとコミュニケーション10 座右の銘にしたい!! “恋人と手を離すような気分で別れの名残を惜しむ”「パーソンセンタードケアつれづれ」で出合ったこのフレーズ、琴線にふれました。(岩手県Y・S)思っている。自分が主役で、相手は、してもらう存在だと。どちらも当事者と思っていなければ、関係は成立しません。

【三好】 相手を当事者と思っていないから、介護はたいへん、じゃ、ロボットを入れようという発想になるんだな。よくあんな発想をすると思うね。機械が動いた瞬間、老人が怖がって動いたらどうするんだろうね。きつく抱き締めたら骨はポキポキ折れるだろうし、瞬間に判断して柔らかく動くなんてロボットにできるわけがない。

【福辺】 だけど、機械のほうが虐待とかしないからいいかもしれないですよ(笑)。 福辺流は難しいと言われますが、この介助は基礎です。下手くそでも、マニュアルでもいいから、福辺流でやってみてほしい。100%じゃなくてもいいです。10%できたら御の字だし、5%できるだけで介助される人は変わります。福辺流が当たり前になってほしい。世界のスタンダードになって、福辺流という名前は消えて欲しいと思っています。

【三好】 親切な職人だなあ。私は福辺さんのように積み重ねていく職人系は駄目なんです。わからない人はどうやってもわからないよ、と思う。

【福辺】 できない人は介護をやめたほうがいいんです。

【三好】 あ、やっぱり親切じゃないんだ(笑)。私よりもっと割り切ってる。

関わりは認めてもらうことから

【福辺】 でも、誰でもできるようになります。できるところまで引っ張っていこうとするから、厳しいと思われるのかも。 具体的な話をすれば、たとえば、声かけ。多くの人の声かけをする位置が近すぎます。セミナーで、私が椅子に座って目を閉じて、「このあたりで“福辺さん”と声かけてね」とお願いするのですが、ほとんどの人が「福辺さん」と言いながら近づいてきたり、お願いした位置より近いところまで来て声かけをします。

私は目を閉じているので、いきなり、そばで「福辺さん」と言われてびっくりする。来るとわかっているのにびっくりしますよ。 人には安心できる距離というものがあるわけで、存在を認めてもらってから相手のテリトリーに入っていかなければいけないと思います。近すぎる声かけは、「こんにちは」も言わないで、いきなり寝室までズカズカ上がってくるようなものです。

【三好】 距離の話もそうだけど、まず相手が私を認知して、「私はあなたに用事があります」ということが伝われば、言葉は要らないと思うんです。耳がこっちに向いているかどうかが一番大切なこと。それは視野の問題でもない。ユマニチュードなどでは「視野の中に入って」とか言うそうですが、そういうことでもなくて、要するにあなたに興味・関心がありますよということが伝わっているかどうかでしょう。

【福辺】 おっしゃるとおりです。福辺流では「耳の聞こえない人も認知症の人も言葉がわからない人も、すべての人に、伝わる声かけを」と言っています。伝えるものは、「私(という存在)はここにいます。今○○をしようとしているんですけど、いいですか? 一緒にやってね。」というこ11とです。「オーイ。ここにいるよ」という感じ。

【三好】 声かけが先の人もいるし、あとの人もいる。そういうことも含めて、相手に興味・関心があるということが伝わるかどうかでしょう。それをやらないでいくらテクニックが上手でも駄目ということでしょうね。

三大介護はコミュニケーションそのもの

【福辺】 結局は、相手とどう向き合うのかということなのでしょうね。対等な人間として関わるのか、無遠慮に踏み込んでいくのか。どういうふれ方・声かけをするかで、その人が協力してくれるかくれないか、見事に分かれます。

【三好】 認知症老人にどんな身体介護を行うのか、どうふれるか、どう関わるかで落ち着くか落ち着かないかが決まります。身体介護こそが認知症老人を落ち着かせる最も有効なコミュニケーションなのです。つまり、コミュニケーションを図る一番いい立場にいるのが食事・排泄・入浴に関わる介護職だということです。次が、身体をさわるPTでしょうか。医者も昔はさわったんだけど、今はコンピューターの画面しか見ないから。

一番身体にふれる介護職には、究極のコミュニケーションであるスキンシップ場面がいっぱいある。スキンシップをとおして構築されたいい人間関係は、未熟な介護技術をカバーしてくれます。さらに、いい介護技術をとおしていい人間関係に入っていくこともできるのです。「この人に介助してもらったら安心だ」「この人は変なことしない」という安心感があって、そこから人間関係がつくれるというのは大きいよね。

【福辺】 双方向ですよね。介護者の資質も同じ。心は介助に表れますが、介助から心や思いを築いていけると思っています。do(行動)からbe(有り様)への変化です。それを信じて私は介助のセミナーをやっている。

ベクトルはこっち

【三好】 データにならないものは意味がないとされる時代です。マニュアルに沿って自動的に方法が決まるという発想になっているから、自分をまっさらにして感じることに従っていくことは、時代的にはものすごく難しくなっている。このおばあさんと私の「今」「ここ」を「この場」でどう考えるかという仕事は、もう介護ぐらいしかないのではないでしょうか。

しかし逆に、この閉塞的状況のなかで、ここしか帰るところはないとなっているのかもしれない。ヨガが流行ったり、自分の身体感覚に沿うことがブームになっているのはその表れかもしれません。だとすれば、介護がそういう意味で見直されてくる可能性もあるかもしれない。

【福辺】 大声で叫んでいた人の表情が穏やかになったり、ぎゅーっと握っていた手がフッと緩んだりする。いい介助ができて相手とつながることができた瞬間の「なに?」「今の!」「これ!?」という感動を介助する人に経験してほしい。こんな楽しい、おもしろい、幸福な瞬間はそうそうないと思います。介助の醍醐味を味わって欲しい。でないと介護のおもしろさは半減します。

【三好】 単なる肉体労働になるからね。【福辺】 医療もそうだけど、介護はライブでじかに相手の身体を通じてわかる仕事なんです。その感覚をみんなに味わってほしいと切に思っています。



2015年1月  卑屈と傲慢

~プライベートな話題から~
私には男の子が2人いる。下はまだ高校2年生だ。64歳だというのに。再婚してやっと子どもをもつ気になった。下の子が保育園に通っていたときには、PTAの役員をやらされた。一番年配だからだ。よく保育園に行くので園児に顔を覚えられていて、ある日、年中の子が「あっ、祥ちゃんのお父さんだ。お父さんだけどおじいさんっぽい」。見事な表現力である。

私はかつて、中高一貫の私立の男子校に入学したが、2人の子どもは、公立の共学校に進ませるつもりだった。あまりいい記憶が残ってないからである。しかし、わが家のマンションの窓からすぐ近くに見える公立の中学が荒れているというので、長男は急遽、私立の一貫校に進むことになった。といっても進学校でもないし、男女共学である。その長男が楽しそうに通学しているものだから、親も本人も当然のように思って、次男もそこに入学した。

その次男が高校生になって強く希望して入部したのが、日本一になったこともある、運動部よりハードと言われているある文化部である。入ってみると、上下関係の厳しさは噂以上で、学校の内でも外でも、先輩がいると走っていって、米つきバッタのようにオジギしなければならないのだという。先輩に会わなくてすむようにと、1時間近く早い電車で通学するなどしていたが、練習に励み、中心メンバーになる。

ところが2年生になった途端、「退部する」と言い始めたのだ。もうすぐ3年生は部活から卒業する。そうなれば2年生の天下ではないか。せっかく1年間耐えてきたのになぜやめるのかと、周りはみんな訝いぶかしがった。次男の言い分は「後輩として我慢するのはいい。だが、一緒に我慢した同級生たちが2年になった途端、後輩に威張り始めたのが許せない」というのだ。周りからかなり引き止められたらしいが、彼の意志が変わることはなかった。

卑屈か傲ごう慢まんか、とるべき人間関係がこの二者択一しかないというのが、多くの部活動、特に運動部系の特徴のようだ。上の人に対しては卑屈、下に対しては傲慢という態度、これは日本人の歴史の中にかなり古くから続いているに違いない。

最も典型的だったのが大日本帝国軍隊で、その伝統は敗戦と民主主義によっても変わらず、こうした部活や、会社組織の中に受け継がれているといえよう。日本人の美徳とされる、「礼儀正しさ」や「おもてなしの心」も、実は卑屈さの表われにすぎず、何かをきっかけに、すぐにも傲慢さに転化するのではないか、と私はにらんでいる。

この、卑屈か傲慢かという精神構造は、介護の世界にも無縁ではない。かつて私は、「奉仕の心」を強調する福祉関係者の大半に、傲慢さを感じたものだった。その人たちは、介護保険制度になった今、今度は「ご利用者様」なんて呼んで卑屈の側に転じている。どちらも、まともな人間関係のとりかたではない。いや、そもそも関係というものが成立していない。

介護すること、されることの最大の難しさもここにあるのではないか。卑屈にもならず、傲慢にもならずに介護することが難しい以上に、卑屈でもなく、傲慢でもなく介護を受けることは難しいだろう。卑屈になった人を介護する私たち介護職は、堕だ落らくする一歩手前にいると思ったほうがいい。また、介護職や介護する嫁に対してわがままと思える要求をする老人の多くは、卑屈さの裏返しであることが多い。

卑屈と傲慢、これは人間関係ではない。関係が文字どおり相互的なものだとすれば、これはむしろ関係を破壊するものだ。ここから関係を始めるにはどうすればいいのか。「卑屈と傲慢」を変革するという方法もある。でも根は深すぎて、高校の部活の体質一つ変えるのも不可能に見える。

「卑屈と傲慢」から外れるという方法もある。そして、卑屈でも傲慢でもない、言うなれば、相互的な、横並びの人間関係をつくりあげることだ。大規模施設を辞めて自分で事業を始めた人たちと話してみると、ケアのあり方についての疑問が語られることが多い。でもその背後にはこうした構造への違和感があっただろうと私は思っている。彼らが今、かつてよりイキイキしているとしたら、「卑屈―傲慢」という構造から脱け出して、本当の関係がもてるようになったからなのかもしれない。

ついでにつけ加えると、こんな体質をもった日本の企業が、世界経済についていけるはずがない。「卑屈と傲慢」では一人ひとりの能力が発揮されるはずもないし、チームワークも組めない。数字の操作で誤魔化そうとするアベノミクスのメッキもはげてきた。日本に本当に必要な構造改革とはこうした精神構造の改革なのである。



2015年1月  新年のはじめに

新年の第一報です。
2014年は、ルネ・ジラールという思想家に圧倒された1年でした。年末・年始はそのしめくくりとして、『<個人>の行方』ルネ・ジラールと現代社会(西永良成著・大修館書店)を読みました。

<個人>の行方 ジラールの本は難解でしかも高い!この本を読めば、ジラールの思想が第1章で見事に解説されている。さらに第2章では、ジラール理論によって夏目漱石が取りあげられている。

私が深く納得したのは第3章の、深沢七郎の「樽山節考」に対する解釈である。芹沢俊介さん以来の見事な解釈で、ここでもジラール理論に圧倒されてしまう。

近代個人主義とグローバリズムという異常な時代を見通すジラールの思想に影響を受けて、私は、3月号以降のBricolageで連載を書いていくことにする。



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