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介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話

2001
2001年11月  全室個室こそ人権無視である

『ブリコラージュとしての介護』が出版されるや、「本を読んだ」という反響が、Eメールや手紙でドッとやってきた。こんなことは初めてである。  みんな、私の本を読むのはこれが初めてという人ばかりで、冒頭の「特養ホームの全室個室化反対」にショックを受けつつ納得し、全ページ読み進んだ、というものが多い。「こんな意見はこれまで聞いたことがなかった」とある医師は手紙に書いている。

それはそうだ。ジャーナリズムはほぼみんな、全室個室推進派である。朝日新聞は5月22日付の「全室個室を常識に」と題する社説で、4人部屋や6人部屋の特養の現状を「プライバシーがまったくないこんな生活を人間らしい暮らしと呼べるだろうか」と書いている。
毎日新聞も9月22日付けの社説で、全個室を推進しろと書いている。題は「人間らしく暮らす条件だ」とある。個室でやっと「人間らしさをもてる喜びを高齢者たちは味わう」とも書かれている。

そんななか、神戸の読者であるKさんから何通めかの手紙をいただいた。そのなかに「全室個室化反対」の内容に通じると思えるので、とある本のコピーが同封されていた。その本は『感性の哲学』(NHKブックス)。桑子敏雄氏の著書である。
どれも同じような核家族の住宅では、それまで日本家屋の構造に代わって洋風のものになった。畳とちゃぶ台の居間はフローリングとテーブルに変わった。障子やふすまはなくなり、壁が部屋を仕切るようになった。こどもたちには、こども部屋があてがわれて、プライバシーが確保されたといわれた。こともたちは、壁に守られた空間の中で誰にも見張られることなく、自由にふるまうことができるようになった。こうすることが自立を助けることと思われてきた。近代的な自己の自立を助けるこのような住宅が「文化住宅」と呼ばれたりした。
障子やふすまの空間では、なかの様子はのぞけるし、声は聞こえてくる。そのような空間では、壁に仕切られた空間のようにプライベートな空間の確保は難しい。だから、それは前近代的な空間だと思い違いしやすい。だが、これは根本的な思い違いである。障子やふすまで仕切られた空間では、プライバシーが存在しなかったのかというと、そうではない。この空間では、プライベートなことは、たとえ見えていても見えないことにし、聞いても聞いていないことにする。そのようにするための自己抑制が必要であった。個であることは、ハードな隔壁によって守られるのではなく、個人の抑制された振る舞いのなかにあったのである。障子やふすまの空間がなくなるということは、そのようなふるまいを訓練するための装置を失うことを意味した。(第2章「感性的体験と原風景」P.49より)

社説を書いている論説委員たちが、いかに皮相な近代主義者であるかが見透せてくるではないか。どうして彼らは個室か雑居か、という二者択一でしか問題を立てられないのだろうか。それは、近代、前近代という、それ自体が近代的な尺度でしか世の中を見られないからである。
「暮らし」なんていうのなら、人間の暮らしは、前近代とか近代なんていう表層の流れとは無関係のところで連綿と流れていることに気付くべきだろう。たとえ、個室ができて近代的自我が強制されようとも、ヒトは歳をとると自然へと回帰していくように、近代という表層から離脱していくのである。

彼らは「人間らしく」と訴える。しかし彼らの「人間」の中には痴呆性老人は含まれていない。「人間」は抽象的なものではない。雑居の生活が人間らしくないというのなら、世界中の人間のうちの大半は非人間的暮らしをしていることになるだろう。これは西欧的価値観がよくて、他の世界は遅れていると考える自己中心的なものだ。アメリカ人の考える“人間らしさ”とアラブ人の考える“人間らしさ”は違うように。
 近代的自我をもったものだけが人間なのだという傲慢こそが痴呆性老人を“問題”にしてきたのである。それがいままた、その痴呆性老人を“個室”の中に閉じ込めようとするのである。
「全室でなくても個室はあっていいですよね?」そう。私は個室があったほうがいいと思っている。 「じゃ、個室のまったくない施設が大半なんだから、全室個室の施設をいっぱい建てるべきじゃないですか」と言う人がいた。どうしてそんな全体主義的発想ができるのだろうか。
全室個室にいる老人が深い呆けに至って、個室が“孤室”になり、人の声のするほうに人肌を求めてやってきたときには、他の施設に移れとでもいうのだろうか。老いも呆けも一人ひとりにやってくるのだ。そんなとき、個室と個室の間の壁を取り壊すのか、それとも痴呆性老人のニーズよりも自分の近代的理念を大事にするのかが問われるのである。

本のコピーを送ってくださったKさんは、神戸市に建設中の特養ホームの開設準備室長である。いっしょに送られてきたパンフレットを見ると、個室と4人部屋が14室ずつ。「四人部屋にも各人ベッドサイドに窓があり、光と風が注ぎます。また各人別の間仕切りに障子を採用し、プライバシーの確保と併せて、近所づきあいのような人間関係をめざしています」とあった。 バランスがとれてるよなぁ。


2001年6月  特養ホームの全室個室化に反対する

新聞報道によると、厚生労働省は特養ホームを全室個室化する方針であるという。ほんとうに行政はつまらないことばかりするものだ。かつて、特養の一部の部屋を個室にしたいというと「ぜいたくだ」と言って認めなかったのも行政だし、いままた、全て個室にせよと言って特養の独房化を強制するのも行政である。

私は一貫して全室個室化には反対してきた。もちろん、「老人にはぜいたくだ」なんて理由ではないし、「職員が労働過剰になる」といった一方的な労働者の側に立った意見からの反対でもない。

全室個室化が、いいケアをすることを阻害するからである。つまり、老人と家族のニーズにほんとうに応えることは、全室個室では難しいからだ。

おそらく、老人問題を語りたがる評論家やジャーナリスト、市民主義者たちは、この全室個室化に賛成して「早くやれ」と厚生労働省をせっつくだろう。彼らのそうした意見を採り入れて、全室個室を売り物にした施設が全国にいくつもつくられた。

しかし彼らは「老人問題」は語れても「老人介護」には興味のない人たちである。現場の私たちは彼らを「同伴文化人」とか「便乗文化人」と呼んでいる(それにしても、かつて「同伴文化人」とは労働者運動に“同伴”する人への皮肉であったが、それが現在では老人介護で語られるようになったとは!)。

彼らには特養ホームに入所してくる老人のニーズがわかっていない。「自分が入りたくなるような施設を」なんて言って、現在の自分の意識状況、つまり、高学歴で高収入のインテリの自意識を基準にして、特養入所老人のニーズを推し計られたのではたまったものではない。

特養ホームに入所せざるをえない寝たきり老人や痴呆性老人のニーズとはどんなものか。秋田県のある特養ホームでの話である。入所した女性がたまたま空いていた1人部屋に入った。しかし、入所時についてきた娘さんたちは、4人部屋があるのを見て、「なんでうちの母だけ淋しい1人部屋に入れられるんですか」と“抗議”したという。本人も「みんなといっしょがいい」と言って、数日後、晴れて4人部屋に転室となった。

生活とリハビリ研究所の主任研究員、上野文規氏がその設計段階から関わった大阪市の特養ホームは、1人部屋、2人部屋、4人部屋があるが、入所してくるお年寄りの希望を聞きながら部屋を決めていくと、4人部屋から埋まっていったという。

こうした事実は、日本の特養入所老人が、文化人の言うのと違って、個室によるプライバシーの確保より、もっと他のものを求めていることを教えているだろう。 それは特に深い痴呆性老人への関わりを探ってきた現場の人には自明のことのように思われる。深く呆けた人ほど、個室は孤室や独房と感じられ、関わりを求めて、人の声のするところ、明るいところへと集まってくる。夜ともなると、与えられた“個室”を抜け出して、寮母室の中で3~4人がくっついて、はじめて安心して眠りにつく、なんてことが毎晩行われているのだ。

そんな介護状況を知らない行政は、痴呆性老人をケアするグループホームまで個室でなくては認めない、と言っている。現場の私たちはやむなく、役人のチェック時に個室にし、老人入所に合わせて壁を取り除く、なんていう無駄なことをせねばならなくなる。おそらく今後建設される多くの特養ホームでも、そんな膨大な無駄が生まれるだろう。

私たちは個室があることには反対しない。個室が必要な人はいる。特にパーキンソン病の人や下半身マヒ、四肢マヒの人たちは、自律神経に障害があって体温調節が難しいから、室温調整に湿度調整までできる個室にすべきだと思う。また、老いてなお近代的自我から脱却していない都市のインテリ老人たちにも個室がいいだろう。呆けに至るまでの間は。

そして私たちは、大部屋がいいなんて言っている訳でもない。雑居か個室かといった二者択一をやめよう、と提案しているのである。

日本の老人、とくに呆けた老人が落ち着くのは、何をしているかはわからない、つまりプライバシーは守られるが、人の気配がある、といった空間である。ちょうど、フスマや障子で区切られている日本の家屋がそれにあたる。

だから、先に挙げた大阪市の特養ホームを始め、私たちが介護アドバイザーをさせてもらう施設の居室のメインは、4人部屋でありながら、引き戸を引くと1人の空間になる、といった構造のものである。大阪市のその施設では4人の空間の一つひとつに外に面した窓がある。これは私たちの考えに共感してくれた熱心な設計士さんの努力のお陰である。

厚生労働省は、大部屋を強制することも、個室を強制することもすべきではない。文化人や市民主義者は、自分たちの近代個人主義という理念を大事にするあまり、特養入所老人の実態に合わない全室個室化を、行政の権力を使って推進すべきではない。

老人のニーズを知っている現場のいろいろな工夫と、家族、老人の選択に委ねるべきである。

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