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介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話



List

地下水脈 「睡眠」をADLの項目に加えない訳
レシピ紹介 民間ディのつ<リ方
老・病・死の見方、感じ方 ~谷川俊太郎+下村恵美子+三好春樹~
地下水脈 「倫理」や「人格」を経由しないケア ~特別講座の印象から~
三好春樹インタビュー 倫理主義を脱けj出すこと ~インタビュー 茂木敏博
村上廣夫が教えましょう 三好春樹攻略のためのQ&A
  ~新刊『ねたきりゼロQ&A』を中心として

老人には堕落する権利がある ~木村松夫さんへの公開書簡
地下水脈 老人介護Q&A・番外編③
死の関係学 鳥取赤十字病院医師 徳永 進
地下水脈 老人介護Q&A・番外編② icon

1996 ~ 1995
1996.12月 「睡眠」をADLの項目に加えない訳

生活リハビリ講座のプログラムAIで、ADLの項目を確定するグループ討議のなかから、次のような意見が出てきた。 『「眠る」というのが抜けていませんか。大事な項目だと思うんですけど』 確信のある声だった。ベテランのやり手の看護婦さんからである。

講座に参加された方はご存じのように、生活リハビリ式ADL評価法に、「睡眠」という項目は入っていないし、講座の中身でも触れることがない。昼間と夜間の両面で人の生活が成り立っているというのに、これでは片手落ちではないか、と言われかねない。

だが私は、「睡眠」を語っていない訳でもないし、゛夜″を無視しているのでもない。ただ、゛夜″を゛昼″と切りはなして考えるべきではないと考えているのだ。 夜、老人が眠れないのはなぜだろう。身体や精神にストレスがあれば、たとえば痛みがあれば眠れないから、これは原因を取り除いたり、それが無理なら対症療法するよりなかろう。

だが、そうした特別な理由がない場合、老人が夜眠れない原因の90%は、゛昼″にあるのだ。施設あげての運動会やクリスマス会のあった日の夜勤がどれだけ楽か。何しろナースコールが鳴らないのだ。みんな熟睡している。一晩中尿器を入れたり出したりしているTさんもいびきをかいているし、決められた9時になる前に睡眠薬をくれと、つきまとうYさんも、なんと9時になる前に寝入っているではないか。

在宅のNさんもそうだった。毎晩3~4回は奥さんを起こすそうだが、デイサービスでの温泉一泊旅行では、ビールをグイグイやったせいもあって、朝まで熟睡してしまった。 宿直の巡回時、何人かの老人が起きている。「どうしたの」と聞くと「しっこ」という答えが最も多い。でも尿意を感じて目が覚めると思ってはいけない。逆だ。目が覚めるから、尿意を意識してしまうのである。

心地よく疲れるくらいの゛昼″があれば。゛夜″は保証されるのである。つまり、睡眠というADL項目は、食事、排泄、入浴、そして遊ぶ、かかわるという昼間の生活行為が、生きいきすることに因るのである。 つまり私は、講座でも講演でも、昼間の生活をあたたりまえに゛生活″と呼べるものにすることを訴えてきたが、それこそが、じつは、睡眠を語ってきたことになるのである。

もちろん、夜、眠れないそのとき、どうかかわるかという問題はあるだろう。光刺激が多すぎないようにとか、物音を立てないようにとかいったことだ。それらも大切ではあるが、これはいわば゛局所療法″でしかない。 床ずれを治療するのに、゛寝たきり″という生活状態をそのままにして、いくら最新の局所療法を施行しても意味がないように、昼間の生活づくりをしないで、不眠そのものを治そうとすれば、結局は薬に頼るよりほかになくなるだろう。

だいたい昼間活動的に過ごして疲れていれば、物音があったって人は眠ってしまうものだ。 それにしてもどういうことだろう。いまだに褥瘡の治療といえば、どの雑誌が特集しても局所治療のオンパレード、おまけに製薬会社の主催する治療法セミナーには看護婦さんがつめかけている。

座る生活をつくってごらん。褥瘡だけじゃなくて、尿路感染も肺炎も治ってしまうから。もちろん、急性期や終末期の安静を必要としている場合には局所治療も必要だから、知識や技術はもっていて欲しい。だが、コロコロ変わる最新治療法を追いかける必要はない。たとえ急性期や終末期だろうが、生活のなかでつくられてきた人間関係こそが、局所療法の効果さえ決めていくのだから。

そこでは、私たちの専門的知識や技術は、あたかも゛小手先″に過ぎないかのように感じられるではないか。昼間の生活づくりに比べれば、夜、眠ってもらうための知識や技術は゛小手先″である。 さて、この文章は、睡眠と活動、夜と昼について語ってるが、じつは、死と生について語るためのプロローグである。つまり、私が「死」について語らないのは、ちょうど同じように「死」が「生」によってこそ決まっていくと考えているからなのだが、それはまた次号で。


1996.12月 レシピ紹介 民間ディのつ<リ方

【食材は「やる気」一つだけ】

まず「やる気」を1つだけ用意してください。 1つでいいんです。つまり、やる気のある人が1人いればいいんです。 この「1人」は大切なんです。1人より2人、2人より大勢いる方がいいと思っている人が多いようですが、決してそうではありません。

「仲間を大勢集めて」なんていうと耳障りはいいのですが、逆に「1人ではできない」と思っているから人数に頼ろうとするんですね。 1人で決断し、1人で責任を取る気になってください。それが最初です。 こうした新しいことをやろうというときに、「民主主義」はダメです。大勢集まるほど、足を引っ張る人がいて、いつまでたっても一歩も足を踏み出せません。

とくに、市民運動的センスで何かやろうなんて人と一緒にやってはいけません。彼(女)らは、「老人問題」を語ることはお好きですが、老人介護そのものにはちっとも興味はないのですから。 「民主主義」が、自分の決断と責任を回避するため使われることって多いですよね。「チームワーク」もそう。自分で責任を取る気のない人ほど、チームワークつていうでしょ。個人プレイのできない人が集まってチームをつくったって、いい仕事ができるわけがありません。

【基本方針という味付け】

ということで、「やる気」を1つ。 このやる気は、それまでの職場への不平、不満や、不全感によってつくられるものが多いようです。もちろん個人的不満じゃなくて、かかわっている老人に対するすまない気持ちがその原因ですけどね。ですから、つくろうとするデイサービスは、こうした罪悪感や不全感をもたなくていい内容でなくてはいけません。

つまり「呆けも寝たきりも大歓迎」という基本の味付けが必要となります。「やる気」の中身がこの方針です。「呆けてきたからお断わり」「寝たきりだからお断わり」なんてことをしなくていいケア、これができないなら、わざわざ民間でデイをはじめた意味はありませんね。

【次に仲間と古家探し】

さて、「やる気」に基本的味付けが決まったら、そこから仲間と場所を探しましょう。やる気と味付けを共有できる仲間がいれば、それが一番ですが、「呆けも寝たきりもなんてとても無理だよ」なんていう、中途半端な現場体験者が一番困りものです。

゛制度″で仕事をするという、悪しき公的デイの体質がしみついているのです。 むしろ、老人介護の体験のない人をパートで雇うかたちの方がいいでしょう。代表者のやる気さえしっかりしていて、具体的方法をちゃんと教えてあげれば、ついてきてくれるからです。

場所はどこでもかまいません。「生活リハビリクラブ」は、使っていない生協の配送センター、「いこいの家・まごの手」は、住職のいないお寺、福岡の「宅老所よりあい」は築60年の借家、山形の「あべさん家」や豊橋の「ヤモリクラブ」も古い一軒家を借りています。名古屋の「はじめのいっぽ」は今は一軒家ですが、以前は狭い木造アパートの一室でした。

こんなところに人が住めるの、と思われるようなボロ屋でも大丈夫。少し改装して人が出入りすれば、ちゃんとしてくるから不思議。 こんなボロ家に老人を預けようと思うかね、なんて思う必要はありません。まず、老人の大半は、豪華で近代的な建物より、こうした古い日本的な家で落ち着いでくれますし、もっといい建物でなきや、と思うような外見で判断するような家族は、そもそも民間デイなんて利用しないでしょう。

【やってるから応援してくれる】

さて、周りからの応援は不可欠です。人手と金です。これは、自分たちがいいケアをやっていれば周りから集まってくると思ってください。まちがっても、応援組織や資金援助体制をつくってからはじめよう、なんて考えないように。「こんなことやるから援助してくれ」とクチで言うだけで金を出してくれる人は、よほど金が余っているか、ほかに何か目的がある人だけです。

いいケアをやっていれば、応援してくれる人が出てくるものです。そしてやっていることに対してカンパも集まってくるのです。 福岡の「宅老所よりあい」は、ケア研のメンバーをはじめとして多くの現場の介護職や看護職が手伝いのために出入りしていますし、バザーにも多くの物と人が集まります。

遠方からやってきたスタッフが「博多の人って、いい人ばかりなんですねえ」なんて言っている横で、代表の下村さんが「悪い奴もいっぱいおる」なんて言っていますがね。つまり、人のいい面を引き出すような役割をするんです。

 もちろん、いいケアをやっているだけじゃなくて、いつも外に向かってアピールし、訴える、金もうけのテクニックだって必要なんだけど、そこは下村さんに伝授してもらうとして、でも、基本にやる気と「呆けも寝たきりも大歓迎」という方針があるから、みんな、引きつけられてくるし、金も出すんですよね。周りが認め、マスコミが取り上げると、行政さえ補助金を出さざるをえなくなっていますしね。

【民間デイのやめ方】 さて、民間デイづくりを私か煽っていると言われていますが、私は何かの目的、たとえば、国や社会を動かすために民間デイをやろうなんて思っているのではありません。それ自体が、じつにいい仕事だからやろうよ、と言っているのです。 

ですから「やらねばならない」ものではありません。おもしろくなくなったらやめる、これが私たちの原則です。生活が苦しくなっても、いつやめても、いいと思っています。周りの人は、せっかく応援してるのになぜやめるんだ、なんて言わないこと。言うくらいなら自分がやれ!


1996.11月 老・病・死の見方、感じ方
  ~谷川俊太郎+下村恵美子+三好春樹~

三好 谷川俊太郎さんとの出会いは昨年12月、浜松市で行われた「新しい老人ケアセミナー」でした。そのとき、最前列で口をあけて谷川さんをポーツと見ていたのが、福岡の「宅老所よりあい」の下村さんです。それまで谷川さんをほとんど知らなかったそうですが、いっぺんに惚れ込んでしまったというのはどういう印象だったんですか。

誌上再録・オムツ外し学会西日本版

下村 あのときは2時間くらいお話を聞いたのですが、それが15分か20分くらいに思えるほど、顔と声、それから読まれる詩のムードというのでしょうか。ああ、色気のあるじいさんやなと(笑)。

谷川 オウ、ありかとよ。いずれはおたくに行きますからね、よろしくお願いします(笑)。

三好 色気のあるじいさんですか。今回、福岡にぜひということで来ていただいて、そればかりか、いわゆる痴呆性老人と呼ばれているお年寄りの前で詩を朗読してもらおうというとんでもないことを企画しまして、昨日「よりあい」に行っていただきました。(ブリコラージュ49号参照)老人の前で詩を読んでもらおうなんて、よくも思いついたなという気がするのですが。

【詩とぽけとのふしぎな関係】

下村 浜松のセミナーで「鉄腕アトム」と「死んだ男の残したものは」が谷川さんの作詞だということを初めて知って、帰ってきてからいろいろな詩を読みあさりました。 あんなふうに色気のある読み方をされたり、あんなふうに淡々と、あんなふうにリズム感よく読まれたりすると、お年寄りはうたったり、身体で表現したりということがきっとあると思ったんです。

谷川 ぽけた人の前で朗読するのは、実はぼくにとっては2度目なんです。ぼくのつれあいのおっかさんが老人マンションに入っているんですが、お見舞いに行ったときに、そこでぼくの詩を一生懸命読んだら、ひとりのぼけたばあさんが「あんた、上手やねえ」と言ってくれた。それがすごくうれしかったの。

だから、「よりあい」にうかがったときも調子のいいもののほうがいいんじゃないかと思って、「かっぽかっぱらった/かっぱらっぽかっぱらった」なんてやっていると、けっこうお年寄りが身体を動かしてくれたんですよね。

下村 身体を動かしてリズムにのって、谷川さんが読んでくださる、そのうえから「アチャチャチヤ……」とやってましたね(笑)。

谷川 全然そっぽ向いている人がいたから、ぼくは頭にきて「こっち向け~」と言ったけど、通用しなかったね。

下村 そっぽ向いても、手はちゃんと拍子をとっていたんですよ。

三好 痴呆というのは、いわば言葉の世界からずっと後退していく世界でしょう。そこに詩人を連れていって読ませるなんて、ぼくはとんでもないなという気がしたのですが、谷川さんはそういう抵抗感みたいなものはなかったですか。

谷川 ぼくの友人で波瀬満子さんという言葉のパフォーマーがいます。彼女は、ぼくの詩を子どもたち相手に読んでいるのですが、ある日、障害をもっている子どもたちの施設で詩を読んだのです。 施設の先生たちは、言語障害のある子どもたちにどうにか言葉をしゃべらせたいと思って、1対1で「あー」「かー」とかやっていたのですが、そこへ波瀬さんが行って、全然意味もなく「かっぱかっぱらった」とやったら、全然反応を示さないはずの子どもたちが、動いたり、ウーと言ったりしたというのです。

そういうことは痴呆のお年寄りにもあるでしょう。だから、どういうふうになるのか、ぼくは興味もあるんですね。 印刷されて文字になった詩ではなく、普通に生活している場面での言葉と自分が書いている詩、それをまた声に出して読んだりすること、そのつながりは基本的には地続きだと思っていますから、ぼけたお年寄りを前に詩を読むということは、全然特別なことだと思わないんです。

三好 言葉というのは、コミュニケーションの道具として利用するというとらえ方が一般的だと思うのですが、心が動いたり、刺激があったときに身体と一緒に言葉が自然に出ていくような、身体表現としての言葉がありますね。言葉の根源的なところで詩をとらえたら、痴呆性老人と詩は違和感がなくなるということなのでしょうか?

谷川さん

谷川 われわれはどうしても、言葉は意味を伝えるものと考えてしまうでしょう。だけど、たぶん言葉というものは意味以前のものからはじまっているし、詩のはじまりもそんなものだったという気がするんです。たとえば狼が夜、遠吠えをする。鳥がキーと鳴いて群全体が一斉に飛び立つ。そういうときは意味を伝えているのではなく、体のなかから溢れてくるようなものを、他の個体に対して共感させるように働いている。

ぼくは、詩というものはある意味では原始的な言葉にその根をおろしていると考えているから、そういう意味で、叫び声でも笑い声でもささやき声でも、意味をなさない言葉というものが言葉のいちばん基本にあって、それが身体のスキンシップとか、そういうものと全部結びついていると思っています。

【ケアはプロデュース】

谷川 ぼくは、「よりあい」を見ていると、下村さんはプロデューサーであり、演出家であるという感じがすごくしました。 たとえば、下村さんがだれかおばあちゃんの孫になるということは、孫を演じるわけですよね。おばあちゃんも本気になって孫だと思っているから、おばあちゃん自身もまた演じているわけです。

でも、実際の家庭とは違うんですよね。疑似家庭なんです。どこが違うかというと、実際にぼけたばあさん、じいさんがいたら、あそこまで明るくできないですよ。 日常の生活からみると、それはやはり一種の演技だと見えるんです。これは悪い意味でお芝居をしているということではなく、いい意味ですよ。無意識的にそういう道をとっている。つまり演技にして、一種、喜劇みたいにして乗り越えていこうという態度があると思うんです。

下村 他人だからやれているということはほんとうに感じています。私の実のばあさん、トセさんはぼけて、ウンコ、シッコを自分で始末しようとして、塗り付けてしまうこともありました。本人は後始末をしようとしているだけの話なのですが、介護していたお嫁さんや叔母たちは、「なんでウンコがわからないの!」と嘆いていました。

家族としてのしんどさを見たのともうひとつ、私は孫ですから距離がありますよね。ばあちゃんのぽけの世界はすごくおもしろかったのです。あのおもしろさを教えてくれたトセというばあさんがいたから、いまの私かあるような気がします。

演出しているといわれて、そうなのかなと思ったけれど、私自身がぼけの世界のおもしろさに翻弄されているというのかな。いるだけでおもしろい。何を言ってくれるのか、どんなふうにしてくれるのか。 たとえば、97歳の大場さんが、「アウッ、アウッ」と喘いでいたかと思うと、「どうも、赤ちゃんができたごとある。産んでよかろうか……」「ああどうぞ産んでください」「私も年が年やけん、産みきることはできるばってん、育てきらんごとある」「私か育てるお手伝いばします」「ああ、そりゃよかった。産もう」(笑)その後、たくさんの便が出て一件落着です。 ぽけって、そんなに悪いことなのかなと思うんです。

【死への思想はあるか】

谷川 「ただ、下村さんが細部にわたって工夫して、たのしく明るく演出していくことで、どうしても見落としてしまう面もあるのではないかということは感じます。実際には、老いや近づいてくる死は、トロトロした恐怖や暗いものをもっているはずですよね。それをどこまで気持ちのなかにもっていてやっているのだろうかという疑問が、なくもない。

それは暗くなれということではないんですよ。でも、あまりに明るくたのしくその場その場を工夫して解決していくことで、それがないかのごとくになってしまうことに、ぽくは疑問がある。現実の実際的な解決とは関係なく、大げさにいうと一種の思想みたいなものとして、つまり、このような時代で、年寄りたちを介護していって、やがて死を迎えるということの基盤にある考え方みたいなものが、ぼくなんかはあるべきだと思ってしまうんですね。

こういう場に来て、ちょっと心配なのは、みんな明るく、じいさん、ばあさんをかわいい存在としてとらえているでしょう。そのことに、ぽくはどうしてもひっかかるんです。かわいい存在のなかに、自分よりはるかに年長の人間であり、不思議な謎めいた生命が宿っているということに対して畏敬の念があればいいのだけれど、それをつい忘れて、ペット化する傾向があるのではないかというのは、ちょっと心配なところがあります。ぼけたばあさんたちと暮らしていても、介護する側に畏敬の念がないと、だめだという気がすごくするんです。

三好 全体が軽薄になっている、ということですね。

谷川 そう。人生はほんとうに謎にみちていて、暗い面、悪と呼ばれる面があるのに、そういうものは全部傍らに置いておき、わりと軽いノリで「年寄りだってかわいいじゃん、生きてたらいいじゃん」みたいな感じが、やや、するのね。

下村 存在そのものがどうしようもなく愛おしい、ということはあるんですよね。だけど、その一方で、それこそ死の迫る瞬間とか、死だけでなくいろいろな瞬間に“凄さ”を感じるのです。“凄味”ですね。

三好

三好 ぼくらが「かわいい」といっている裏にある老人の凄さ、「やさしさ」といっている裏にある残酷さ、そういう両方をひっくるめた表現をちゃんと手に入れていかないと、だめだということだと思います。 下村さんは、谷川さんが指摘されたようなことを気持ちのなかにもっているから、おそらく、谷川さんの詩に魅かれるのだろうという気がします。

【無意味の意味】

谷川 ただ、ぼくは、100%人間は生き続けるほうがいいのだとは、言いきれない気もするのです。90歳までいろいろな病気を克服して、しかもいろいろな人に介護してもらって生きているというのは、昔の考え方でいうと、神とか宿命とか言われるものを人工的に否定している面があるように、ぼくにはみえるのです。

ぽくの母は4年7ヵ月ベッドの上で挿管されて、話も何もできない状態でした。感情を読み取っても全然頼りないし、そういうのを見ていると、死んでほしいという気持ちがどこかにありますよね。それと同時に、やはり生きていてほしいという気持ちもある。 解決のつかない矛盾をずっと自分のなかで保っていくしかない、というのかな。そんな気がします。

そういうことまで考えると、人間が生きるとはどういうことなのか、まったく役割を失っても生きていくことの意味、ないしは無意味は何か。また、人間が人間であることの尊厳は何かということを、解決はないのだけれども考えてしまうところがあるんです。そういうおよそ実用にもならない、実際的でもない、いってみれば抽象的な思考みたいなものも、年寄りと生きていくうえでは必要だろうという気はするんです。

【旧くて新いヽ「よりあい」】

谷川 「よりあい」が若い世代に拡大していくとおもしろいと思いますね。一時、ヒッピーが出てきてコミューンが流行りましたよね。コミューンがなくなっていったひとつの理由は、年をとって死ぬまでのことをちゃんと考えていなかったということがあるんですね。わりと若い男女が一緒に生活して、小さい子どもがいる。そこで60年後、70年後が視野に入っていなかったという気がするんです。

もっと若い時代から「よりあい」的疑似家族ができていって、相互扶助的に長い歴史をもってああいうふうな生活の仕方ができてくれば、すごくおもしろいと思うのですけれど。

三好「よりあい」には、家族が自然なかたちで来られたり、若い人が応援に来たり、いろいろな人が出入りしていますよね。その意味では、ひとつの共同体になる前の核みたいなものができかかっているという気がします。

谷川 たぶん昔の田舎の大家族はああいうものをもっていたんじゃないですか。みんな出たり入ったり、いろりで飯食ったり、ぼけたばあさんをみんなでからかったり。だから、「よりあい」は最新型ではあるのだけれど、逆に先祖返りをしているという面もあるんですよね。

われわれはなにか役割をもっていて、あくせく働いて妻子を支えているのだけれども、ぽけちゃって何もしない年寄りを見ていると、こういうことをやっている自分は何なのだろうと、逆に疑問を突きっけられたりしますよね。そういう存在として年寄りはいまいるのだ、というようなところがあって、これは高齢化社会のまったく新しい人類に対する問いかけだという気もします。

【本来の福祉へ】

谷川 いま、宅老所が成り立っているのも、日本の国としての経済成長がどうしてもバックにあるわけでしょう。国全体が貧しかったら姥捨て山があったり、それから、北のほうのインディアンの人たちは、氷の上を一族で移動していく間に、年寄りが「私はもう、ここから先へは行かない」と言い出すと、ごくわずかな食糧を年寄りにもたせて、みんなはそのまま移動を続けるという話を読んだことがあるのですが、そういうふうに時代の状況に年寄りは左右されてしまうわけです。

三好 北欧では、食事を食べなくなった人に鼻にチューブをさしてまで延命することはやっていないそうですね。「そこまでうちの国には経済的余裕はない」という言い方をはっきりするそうです。いまの谷川さんの言葉を借りれば、バブルが崩壊したとはいえ、日本は世界一豊かだということでそういうことも成り立っている、ということなんでしょうか。

谷川 それは生命倫理というようなことではなく、それこそ実際的な経済状況みたいなもので決まっていくところがあるわけでしょう。天変地異が起こって日本が経済的にだめになってしまったら、年寄りは死んでいくしかないというふうに、たぶんなると思うんです。

三好 私は、痴呆性老人や寝たきり老人のケアを、金がかかるというかたちでやっていたのでは絶対に行き詰まるときがあるから、お風呂でも金のいらないやり方を、それから「よりあい」みたいなものをどんどんつくろうと思うんです。

だから、「豪華な施設、市町村の恥」というスローガンを意識的に流行らせたりして、金を使うなと言ってるわけです。一方で、「それは安上がり福祉だ」といって批判する左翼の人がいたりするけれど、それが本来の福祉ではないかという気がしているんですね。

下村さんたちが相手にしているのは、世の中のどこからも相手にされないような人たちですよ。それを、生きていていいと本人が思えるような生活を実際につくりだしていますよね。そういうことをちゃんとやっておかないと、それこそ経済が破綻してしまったらどうなるのだ、という気がすごくします。

下村さん

下村 やっていることは、なにも新しいことも専門的なこともなくて、ごくごく普通の、みなさんが家で普通に生活してらっしゃるようなことなんです。古びた家のなかで、ただ普通の生活がくりかえされているというだけですから、ほんと、安上がりですよ。

10億、15億円かけて専用施設をつくって、何も持ち込めないとか、つなぎ服ですから洋服は何も必要ないというような世界をつくってしまうと、自分がぼけたとき怖いじゃないですか。これから10億、15億円かけてつくっていくうちの、ひとつでもいいからやめてみて、その予算で、なにかやりたいと思っている人を応援してもらえればなあと思います。

三好 15億円あったら、田舎なら一戸建てが40軒くらい買えるでしょう。1軒に4、5人は住めるわけですから、それで十分ですよね。

下村 「痴呆性老人の介護は大変ですよね」とか「行政が遅れていてほんとにしんどいですよね」とかいわれます。もちろん、行政の遅れや介護の大変さも語っていかないといけないということはわかっているのですが、そこだけではない、おもしろさやたのしさ、この世界に足を入れたら絶対に抜けられないというところの魅力もぜひ知ってもらいたいと思います。

そういうものを知った人たちがこの分野でおもしろがって仕事をしていくと、「お世話したい」「人の役にたちたい」というような福祉の見方から、少し変われるのではないかという気がします。

三好 そうね。これから谷川さんに読んでもらおうと思っている「小母さん日記」のようなことを、たとえば介護福祉士の学校で教えるべきだという気がしますね。 痴呆の原因は脳細胞がどうで、長谷川式痴呆スケールがどうのというようなことより、「小母さん日記」みたいな詩をきちんと読むべきだという気がすごします。

医療の世界は言葉ではすごく貧困で、ひとつの言葉がひとつの見えるものに全部対応しているという世界です。たとえば解剖学などそうでしょう。「胃」といえば胃、「肺」といえば肺のことをさしている。それは当たり前で、胃といいながら手術で肺を切ってしまうと困るわけですから、そういうふうに、ピシッと型にはめられた言葉の世界だけで終わっているんです。

だけど、ひとりの人間の人生とか、ましてや死というようなものは、そういう言葉では語りきれないじゃないですか。そういうときに谷川さんの詩に出会うのでしょうね。

************** 「小母さん日記」より **************

小母さんが土手の上にしやがんでいるのが見える。うしろで大きな煙突が煙を吐いている。小母さんにああしろとは言えない、こうしろとも言えない。小母さんは小母さんだ。今夜はこんにやくを煮るそうだ。

           *

いま言ったことをすぐに忘れて、小母さんは同じ話をくり返す。いま怒ったかと思うと次の瞬間には上機嫌だ。昔あんなに上手にたいた御飯をまっ黒こげにする。だが平気だ、こがしたこともすぐに忘れてしまうから。もったいないねえこんなにこがしてしまってと、小母さんはけろりとひとのせいにする。変幻自在のいまの小母さんの中で、昔の律儀な小母さんがかくれんぼをしている。小母さんはどこかへ行ってしまったのか。いや小母さんはそこにいる、まだ。きれいな白髪を陽に輝かせて、生きている。

           *

ぼくに見えている小母さんだけが小母さんではないのはもちろんだ。小母さんはヴィールスのようにぼくを浸食する。見えない小母さんは見えている小母さんより危険だ、ぼく自身と区別がつかなくなってくるから。見えない小母さんを見ようとしてぼくは小母さんを書くことを試みる。免疫? そんな言葉が役に立つものか。

          *

明らかに名ざすことができるものは、この世にはひとつもない。鍋が鍋ではない何か別のものの寄せ集めなのと同じように、かなしみはかなしみではない数えきれぬほどのおそろしくしんどいもののなれのはてだ。ひとつの名はまるでブラック・ホールのように他のすべての名を吸いこもうとする。名はその根を無名におろしている。

           *

もっといい世の中になるよと小母さんは言う。でも世の中ってこうしたもんさと小母さんは言う。夕方、壁のほうをむいて小母さんが泣いているのを見たことがある。ぼくには小母さんを見守ってゆくことのほか何もできない。ぼくはおそろしいくらい無力だ。そのせいでぼくにはときどき小母さんがくらべるもののないほど美しく見える。

          *

おなかがすくと小母さんは鍋の中のものを手でつまんで口へほうりこむ。三日つづけて風呂へ入るかと思うと、一月も入らないことがある。ぼろぼろになった半衿を誰かが盗んだと言って騒ぎだす。そのくせふとんの下にかくした株券のことはすっかり忘れている。小母さんがばらばらにこわれてゆく。だがその中にまたもうひとりの小母さんがいる。まるで子どものころに買ってもらった寄木細工の箱のようだ。

箱の中に箱があり、その箱を開けるとまた箱があり、その箱の中にもっと小さな箱が入っている……かくしていたものを小母さんは次々とあらわにしてゆくが、箱とちがって小母さんはからっぽになることはない。どれがほんとうの小母さんかと問うのは愚かなことだ、矛盾と混乱こそが小母さんそのものだ。だが正直すぎるそんな小母さんが、ぽくはときどきひどく憎らしい。あばかれるのはぼく自身だから。

           *

ぼくもいつか小母さんになるだろう。それとももうぼくも小母さんなのか。ぼくの名前、ぼくの金、ぼくの未来、ぼくの何か、そんなものがぼくと小母さんをへだててくれるはずはない。ぼくの手、ぼくの髪、ぼくの言葉、ぼくのうつろう意識、ぼくのと呼ぶことのできるものはすべて、小母さんのものと瓜ふたつだ。

          *

犬の腹を撫でながら、小母さんは小声で犬に話しかけている。犬の喜ぶのが小母さんは嬉しくてたまらない。小母さんが永久に犬を撫でつづけるのではないかと思って、ぼくはその情景から目が離せなくなる。だがやがて小母さんはゆっくり立ち上がり、家の中へ入ってゆく。ぼくに残されたものは、息のつまりそうなひとつの感情、それに名前をつけることがぼくにはどうしてもできない。

          思潮社刊「続続・谷川俊太郎詩集」


会場写真


1996.11月 「倫理」や「人格」を経由しないケア
   ~特別講座の印象から~

7月に、東京の八王子と浜松で「生活リハビリ特別講座」を開催した。まず、私が体調を崩していて、自分ではここ数年来でもっともデキの悪い講演をしてしまったことを、参加者にお詫びしておきたい。お金を、特に一人ひとりから直接参加費をいただいている以上、体調を整えて臨むくらいのことはプロとして当然だと思っているのだが、今回は果たせなかった。

そのかわり、と言っては何だが、松下明美さんと高口光子さんの報告は、参加者に大きな影響を与えたものだったと思う。私自身も、いい勉強をさせてもらったと共に、いくつかの新しい印象を与えてくれた。 拙著、『老人介護Q&A』(雲母書房)の一番最初の質問への解答は、悠紀会病院の総婦長である松下さんからの話を使わせてもらっている。

かつては、患者が亡くなって裏口から出ていくばかりだったという老人病院が、いまでは、床ずれ、肺炎、尿路感染はほぽなくなり、家庭復帰するケースが続出しはじめた。 そのきっかけのひとつが、熊本で開かれた「オムツ外し学会九州版」に、総婦長以下、大勢の看護婦が参加したことだという。

松下さんは、そこで講演した私の「POS批判」に反撥したという。そこで「じゃ、ほんとうに老人の役に立つ看護計画をつくってやろうじゃないか」と発奮し、老人を起こしはじめる。 彼女の報告を聞いて再確認できたことが2つある。

ひとつは、私は日頃「看護批判に強く反撥するくらいの看護婦でなきや脈はない」と言ってきたのだが、それがまちがっていなかったこと。もうひとつは、「管理主義、権威主義、科学コンプレックス」の3Kに浸りきっているかに見える看護の世界に、それを変えていくすごいエネルギーがちゃんとあるということである。

もうひとりの報告は、ご存知、高口光子さんである。会場を爆笑に巻き込む例の早口でしゃべりまくるのだが、聞いていた私は、ある感慨にとらわれていた。 彼女が転身していった熊本の特養ホーム・シルバー日吉では、副園長の森上さんが私たちの考え方に共鳴されていたため、開園時から新しいケアが行われてきた。

たとえば食事はバイキングだし、風呂も1人浴槽を使っているといった具合だ。 広島県の誠和園の場合を考えてみよう。「誠和園ふしぎ白書」がちょうど佳境に入ってきたところだが、新しいケアがはじまるまでには、古い意識や固定概念との壮絶と言ってもいいほどの戦いが必要だった。でもそのなかで、少しずつケアは変わり、一人ひとりの老人が変わっていくことで、職員はその意義を確認することができただろう。

しかし、シルバー日吉の場合は、若い職員にとっては、あたりまえのものとして“新しいケア”はあるのである。 そこで高口さんは、こうした新しいケアを一人ひとりの内在性に結びつけていくという仕事をはじめていく。「ひとりの老人に出会うことからはじめよう」というわけだ。

ここから先は、彼女の講演を聞いてのおたのしみだが、私はやはり、2つのことを確認しながら話を聞いていた。 ひとつは、私たち介護の世界は、医療の世界からすごい人材を引っこぬいたということである。これほどの実践力と表現力を兼ね備えている人は他には思いつかない。

新しいケアの方法論やその理論的背景についてはすでに語られている。だが、その先で、「ではそれを日勤5人でどうやるのか」とか「新しいケアのためのチームワークとは何か」なんてことを彼女はちゃんと伝えてくれるのである。 もうひとつはその伝え方である。というより、そのしゃべり方にもっとも表現された彼女のキャラクターである。

これまでの“よいケア”の多くは、倫理的な人格者によって語られていた。そうした人たちによって“よいケア”がつくられてきたのも事実である。しかし時代は変わってきた。「倫理」や「人格」を経由しないで“よいケア”が実現してきたのだ。むしろ旧来の“よいケア”が、老人にとっても介護職にとっても息苦しく感じられるに至っている。

高口光子さんに倫理がないとは思わないが、少なくとも倫理的ではない。もっと自由である。なにしろ「こいつはクソババですよー、ポントに」なんて憎々しげに言うんだから。 高口さんに人格が無い、なんて言うと問題だが、彼女が「人格」の有無なんていうカテゴリーに入りきらないキャラクターであることはだれしも認めるだろう。

そんな彼女が、「人権意識が低い」とか「敬語を使え」なんて説教じみたことしか言わない倫理的な連中よりはるかに“よいケア”を実践し、語っているのである。これは爽快であった。


1996.10月 三好春樹インタビュー 倫理主義を脱け出すこと
   ~インタビュー 茂木敏博

★表現を収奪されている

茂木 三好さんが「生活とリハビリ研究所」をつくって11年だそうですね。そして今は月刊誌になった「ブリコラージュ」が、今度50号を迎えることになりました。 その50号という節目に何か特別な意味を見出すという発想はしたくないのだけれど、とりあえずブリコ50号は「三好春樹特集」です。

発行者自身が自分で自分の特集をするのもおかしいということで、50号については発行者を外して編集することになりました。このインタビューはその企画のひとつです。熱海の三好さんのお宅で、お酒を飲みながらなので、セミナーでの話とはまた違ったものが引き出せればと思っています。

三好さんがこの世界に入った24年前まで遡って、当時の気持ちを話してみてくれませんか。

三好 ぼくが老人介護の現場に入ったのはまったくの偶然なんです。とにかくその日から働く、老人に関わるということからまず始めていったでしょう。すると、病院でもうダメだといわれたような人が入ってきて、老人ホームでよくなっていくということが実際にあるわけです。

だから、ぼくらが現場でやっていること感じていることと、一般に語られている福祉とか老人介護ということにはすごいギャップがあったんですよ。肝心なことはちっとも語られていないし、逆に語られているとおりのことをやってもちっともよくならない。老人がほんとうによくなった理由はちっとも語られないし、語られても何か違うといういらだちがあったんです。

これは過激な言い方をすると、ことばを奪われているというか、表現を収奪されているということですよね。それまで収奪というと、それは経済的な意味での収奪ということだったんですが、でも本質的な収奪というのは観念やコトバの収奪だと思うんです。観念を収奪されてしまえば、経済的な収奪なんかわけないんです。自発的に収奪されるわけだからね。

それと同じような構造を老人介護の世界に感じました。現場で素人がやっていることを専門家たちが表現していくわけだけど、現場からみると、ことばを奪われているという恨みとか、怒りが強くありました。昔の言い方でいうと階級意識みたいな、そういう種類の恨みつらみですね。その恨みをなんとか晴らしてやろうという気持ちがありましたね。

★個別に届かない方法論

茂木 そして今、その新しい表現が主流になってきたかのように思うんだけど。

三好 いや、主流になる、ならないなんてケチな話じゃなくて、老人の問題だけでなく、子どもや障害者の問題などにも通底する、現代のシステム社会の矛盾を揺さぶるような、価値観の転換のようなものに立ち会っているという自覚はありますね。

これまでのやり方というのは、どんなやり方をしても個別に届かないという気がするんです。たとえば、看護の世界にはこれまでの技術体系、知識体系があって、そこから老人に関わるというやり方をしています。そういうことに批判的な福祉の世界の人たちも、ヒューマニズムといった、抽象的な人間の理念から出発していて、私たちこそ老人の味方だというような言い方をする。しかし、それも一人ひとりの個別の人間には届いていない。

それは老人問題だけではなくて、どうも近代的な人間の思考方法、感じ方そのものが、まず普遍的な理念を前提にするということに囚われすぎていると思うんです。それは子どもや障害ということだけではなくて、政治まで含めてそうなっているような気がしますね。

茂木 最新号の『生きいきジャーナル』に、三好さんが「メサイヤ・コンプレックス」について書いていましたね。自分が助けないとこの人はダメになるというかたちでのクライアント依存、これは医療や看護や福祉や子どものことまで含めて、ぼくたちが陥りやすいワナだと思います。

三好さんは、そこを抜け出せと言っているわけだけど、三好さんにもそういう危機というか、その裏返しの充足感があったからこういうことを言っているのだと思うし、ある意味で一度そこを通らないとおもしろくないわけでしょう。

13年前の三好春樹 若い!若い!

★ヒューマニストとは思うまい

三好 ずっと話が遡るんですが、高校を中退して転々としているころに、山口県のある工場に勤めたんですよ。九州から中卒で集団就職してくる、女の子900人くらいと男の子が300人くらいのところだったのね。そこでは高校中退でも高学歴なわけ。ものすごい流れ作業で、女の子はトイレにも行けないような状態の職場だったんですが、重いものを移動させるときだけは、男は同じ作業をしながら女の人に手を貸すことになっていた。

それまでぼくは、自分のことをヒューマニストだと思っていたんです。そう思いたい年頃だし、そういうふうに自分を律してもいたはずなんです。ところがぼくは、明らかにおばさんが助けを求めているのを知りながら、自分が疲れているときは見てみないふりをするんです。それは見事な挫折たった。

そこで気がついたのは、ヒューマニストというのは余裕があるんだ、ということでした。人間というのは、余裕があればヒューマニストだけど、余裕がなくなるとエゴイストになるものなんだ。余裕の度合いというのは人によって違いがあって、余裕が少なくてもヒューマンに振るまえる人というのは尊敬できるけど。

まあそういう自分を発見してしまったわけです。それからは、二度と自分のことをヒューマニストとは思うまいと決めたんです。 もうひとつのエピソードは、老人ホームに就職して2週間くらい経ったときに、主任生活指導員のB型の女性がぼくに、「ここの老人はかわいそうだと思う?」と聞いたんです。ぼくが「かわいそうだとは思わない」と言うと、「どうして?」と聞くわけ。

その当時、とっても気位の高い80代のおばあさんがホームにいたんです。彼女から見ると、ぽくなんか心理的には召使い同然です。英語はしゃべれるし和歌はつくる、毎日お化粧をして髪も染める、どこから見ても弱者だとは思えないんです。

たとえ障害があっても、ADLが自立していなくても、つまり彼女はぼくの介助が必要なんだけど、そんなことは関係ないと思った。だから、そのとおり答えたわけですよ。かわいそうな部分とか、弱者だとかいうのは、その人のほんのごく一部にすぎないんです。どうも、ヒューマニストというのは、ヒューマニストであるために相手を弱者だと思いたがる傾向があるわけですね。

茂木 そうですね。そう思える自分がいとおしい、という側面がどうしてもある。一体、どっちが弱者なのかわからなくなるという立場の逆転があって、そこを知りながら仕事にしていくというところに、どうも人間に関わる仕事の妙味があるのでしょうね。

三好 現場の人は、ほとんどそれに気づいていると思いますね。だから、弱者論とか、倫理主義には冷ややかなところがあります。でも、じゃあ自分をどうやって表現していくかというと、あえて「自分は生活のためにこの仕事をしている」というような、ある種開き直ったような言い方をとおして、自分が偽善者に陥らないようにするとか、スタンスはそれぞれ多様だと思います。

★関係にはまリ込む能力

茂木 もうひとつ、お年寄りとの一人称的な関係にドップリつかってしまって出て来れないという関係があるでしょう。一種の恋愛空間のようなもので、居心地のよい特殊な世界をつくって、他人を介在させない。恋愛なら、いつも居心地がいいわけではないから、ときどき覚醒する瞬間があるけど、ぼけのお年寄りだったりすると、ズズズーツと行ってしまう可能性はあるでしょう。

とくに、お年寄りを「カワイイーツ」とか言っている若い寮母さんなんか、そこにハマル可能性は大いにあると思う。最近ぼくは、老人の世界というのはそういう魅力がある世界だと思うようになりました。

三好 それについてはそんなに心配していないんですよ。若い人は若い人なりに自分というものをちゃんともっているからね。仕事以外に何をやるのかということは別にして、ちゃんと9時5時のなかで、能力として、はまり込む、そこまでいくというのはいいと思うのね。

それは、たとえばあるお年寄りの人生に興味をもって入り込んでいけば、そこまで行くことはあり得るね。それに、そこまで行かないと老人介護の仕事はおもしろくないんだと思う。そのうえで、プロとして醒めている部分を忘れなければいいんですよ。

三好春樹写真

茂木 ボランティアについても三好さんはそうとう批判的だよね。素人であることとか、お金がからんでないということをどこか「売り」にしているところがあって、その裏には責任を負わないという逃げの姿勢が見え隠れしていて、そこが気になるということでしょうか。

三好 いや、頭の下がるようなボランティアの人たちというのはいっぱいいるんです。それは言うまでもない前提ですよ。しかも、社会がこれだけボランティアを評価しているわけだから、ぼくまで評価することはないと思っているんです。

ぼくは施設の現場にいたわけだけど、そこには知識もなければ技術もないし、差別用語はいっぱい使うという寮母さんたちがいました。安い給料で、旦那とも別れて子どもを育てながら、生活のためにここで働いているんだという人たちです。そこに、学歴もあって常識もあって心やさしいボランティアの人が来てくれるわけだけど、ぼくは職員のほうが好きだったんです。

それは、余裕をもってボランティアをしている人たちに対するぼくのひがみだったかも知れないけどね。でも、もしそこで何か論争が起こったりすれば、ぼくは差別用語もパンパン使う寮母の側につこうと思った。それはもう理屈じゃなくて実感だからね。ぼくが「現場」ということを強調するのは、そういう実感的な何かなんだよね。

茂木 いまブリコに誠和園のレポートを連載している相川俊英さんが、妙高の合宿のブリコセミナーで、自分は人が働いている姿を見るのがいちばんおもしろい、と言っていました。だから、これからも働いている人のルポルタージュを書き続けたい、と。ぼくはそのことにショックを受けた。

つまり、ここからはぼくの拡大解釈なんだけど、資本主義社会における仕事というのは、どのみち疎外された労働なんで、そこではその人らしさが全面的に発揮されるなんてことはないのだ、仕事から離れたときにはじめてその人は自分の素顔を取り戻すんだ、という思いこみがあった。その古い労働観みたいなものを、ひっくり返された気がした。三好さんの言う現場と通じるような気がしたな。

★倫理の強制はいちぱん悪どい権力だ

茂木 ところで、三好さんはすごい実績があるのに、たとえば大学教授になるとか、なかなか偉い人にならないですね。権威とか権力に対して、そうとう意識的にブレーキをかけている気がします。老人にとって現場の介護者はそのこと自体が権力だというような、そういう自己抑制は、いつごろから意識するようになったんですか。

三好春樹写真
三好 特に福祉の現場にいる人だけでなく、老人問題について書いたりしゃべったりしている人たちのなかにもその傾向が強い、ということをこの間ずっと見てきたわけです。本人は、自分では反権力だと思っているわけだけど、自分の権力性にはものすごく無自覚なのね。ぼくから見ると、「お前が権力なんだ」と言いたい。

ミッシェル・フーコーは「権力というのは実態としてどこかにあるのではなくて、毎日の諸関係のなかから生成してくるものだ」と言っています。では、いまの権力とはなにかというと、専門性とか理念から個別を見ること、これが権力なんです。これは右翼も左翼もみんないっしょです。

だから、ぼくが倫理派と呼んでいる人たち、つまりお年寄りには一律に敬語を使えなんて言っている人たちに言いたいことは、自分がどれだけ権力的でない関係性とか生き方をしているのか、ということです。それが問われているんだと思います。他人に向かって敬語を使えなんて説教じみたことを言ったり、理念の高みからあいつは意識が低いなんていうのは、いちばんあくどい権力だという気がします。

あるお医者さんの話なんだけど、講演なんかで北欧の施設の話をしたり、政府の悪口をいったり、新しいシステムをつくらなくてはいけないなんてことを言ったりするわけだけど、それよりも自分の病院で何をしていて、自分がどうやってそこで自分の権力性とたたかっているのかという話をこそ聞きたいわけよ。

少なくとも自分たちの権力性について自覚的か無自覚かという点においては、政府とか厚生省なんかよりも質が悪いという感じがします。厚生省は、自分たちが権力をもっているということはよく知っているからね。だから巧妙に隠したりもするんだけど。

茂木 もっと言えば、知識そのものが権力性をもっているんだものね。

三好 そう。私は左翼なんてもうやめたけどだからこそ反権力であり続けたいと思うんです。


1996.10月 村上廣夫が教えましょう 三好春樹攻略のためのQ&A
   ~新刊『ねたきりゼロQ&A』を中心として

【Q1】『老人の生活ケア』が出版されて、10年になります。その後、『ねたきりゼロQ&A』まで、次から次へと矢継ぎぱやに本を出版されていますが、この間の三好春樹さんの活動をどのように思われますか?

【A1】「『老人の生活ケア』を越える本は、出ない」という三好通の人がいます。確かに、衝撃のデビュー作でした。でも、初回の“奇跡”ではありません。
▼年々、かたさが取れて、内容が練れています。一見ハウツウ本のような書き方であっても、著者一流の社会的洞察が含まれており、そこに“深み”を感じます。
▼三好さんのデビュー以来、「三好さんに続け!」とばかりに、続々と新しい実践が登場してきました。
▼「あ、それなら、俺だってやっている」と言う人も表れました。しかし、ベッドの足を切っていた人はいても、それを三好さんのようにリハビリの知見に基づいて、構造化した人はいませんでした。(実はここが最も大切なところだと思います。)
▼老人保健施設の創設時に意見を求められた時、「私はせっせとベッドの足を切る」と、何食わぬ顔でコメントし、今日の状況をある程度予見していたことが思い出されます。
▼老人ケアの裾野が広がっている今日、三好通の人が想像している以上に、読者の幅は膨らんでいます。「越える、越えない」というオタク話は打ち止めです。
▼自分の出版活動を通して、「こうすれば本ができるよ」と、高嶺の花だった本づくりを私たちにも出版できそうだという身近なレベルまで引き寄せてくれました。
▼「三好本」の登場によって、本を買う層が厚くなりました。「裾野を広げ、層を厚くする」これが、三好戦略の本質ではないかと思います。
▼「本を読むのが嫌いだから、この世界に入った」人たちに、本を買わせるのですから、偉大な人ではあります。
▼しかも、話の効能が切れそうになったら、ちゃんと元気パワー充電用として、筒井書房から「薬本」2冊が出版されています。
▼「専門バカ」指向と、われこそは「正義の味方」であるといったある種の風潮に警告したかったのです。だって、口当りが柔らかそうに見えても、専門家も正義の味方も権威的なんです。横文字理論と権威でもって世論を誘導する旧来の手法に対する異議申し立てをしています。

【Q2】三好春樹さんめ魅力は何でしょう?

【A2】平たく言えば、「話されること、書かれていることが、とってもわかりやすい」ということでしょうか。「なるほど、そういうことか…!?」と思わせる話術と文章力、それに実践の裏づけがあります。花も実もあるところが魅力です。その割に、「立派が裃(かみしも)を着て歩いていない」ので好感がもてます。
▼生活リハビリ講座で、三好さんは「今にも動き出しそうな感じで…」と、しばしば身振り手振りを交えながら熱っぽく語り、すぐにでもできそうなことを提案します。「ふつうの人間にやれてこそ、超高齢社会の福祉なんですから」と、一部の教育訓練を受けた人が指導する老人ケアのあり方に対抗しています。
▼思想家も時代の申し子です。三好さんの青春時代、ベトナム戦争がありました。高度で特殊な訓練を受けた特殊部隊の精鋭が惨敗しました。普通の人たちの力を過小評価しないところから、三好さんの論理は組み立てられています。
▼実践の科学化とか、少数精鋭の地域ケアの先導者では、人がついて来ないことを骨の髄までご存知だと思います。

【Q3】三好春樹さんの功績は何でしょうか?

【A3】「功績を云々されるほど年をとっていないよ」と、睨まれるかもれませんが、反面「僕は早熟だから…」とも聞きます。
▼飽食の時代のベストセラー「ダイエット本」に喩えてみましょう。「廣夫さん、あなた肥っているから、ダイエットしないと駄目だよ。頑張ってスリムになれば、体によいですよ。自分のためなんだから、しっかりやりなさい」、これが従来のリハビリ観かな。
▼三好さんは、「明日の為に…」とは決して言いません。そればかりか、「老人ホームは個室でなければならない」などと、かくあるべき論も展開しません。「かくあった方がいいだろうね」とは言いますが、決してそれに拘泥されないのです。
▼「今の条件でできることを見つけ出そうよ」と、言われるから貧弱な私たちでも、やってできそうな気持ちになるのです。
▼誰にでもわかりやすく“噛み砕かれた具体的な処方池の提供”、これが三好さんの功績ではないでしょうか。
▼既成概念を壊して、後は野となれ山となれではなく、その後の展開をどうするかにこだわっています。要するに、面倒見がいいんです。

【Q4】三好春樹さんの弱点は何でしょうか?

【A4】恐ろしいほど“頭が切れる”ことです。「1を聞いて99を知る」シャープな頭脳の持ち主ですから、「何から何まで話したい」私など、1聞いて「わかりました」と言われるので辛いのです。
▼『ねたきりゼロQ&A』のQ69「仕事の効率悪いとクビに」のAで、「効率を悪くすればするほど、逆に効率が上がるという、老人介護の世界というのはそういうおもしろい世界」だと書かれています。
▼でも、三好さん自身は非常に合理的なものの考え方をしているのではないか?と思います。「先が読めすぎる」というか、何ごとも、ものすごく早く理解できる人なので、「1・2・3・4・5…」ではなく、前略・中略・後略「1・5・10」で答えが出ます。結論が早い。名実ともに“ヒラメキ”が凄い。だから、「こうやって、ああやって、こうしたら、いやこうでもないけど…」といったクスクスが嫌いなはずです。だけど、お年寄りは合理的で、効率的な世界とは縁遠い人たちですし、介護職員もほぼ同じような人たちです。
▼実はそんな三好さんだからこそ、老人ケアの不条理で人間臭さに出会われて、ある面で「ホッとされた」のではないでしょうか。
▼ところで、「三好さんには敵が多い」と聞きますが、
①敵が多いいほど燃える人である、逆に言えば、敵がいないと生きいきしない
②反主流の論陣を張るのが似合っている「論争大好き人間」なので、決してこのことが三好さんの弱点ではないことを付け加えておきます。
▼むしろ、最近は「三好先生に教えを乞う人」ばかりなので、退屈しているかも知れません。
▼それと、「肩書き、権威とか力で押して来るタイプの人間」が三好さんは大嫌いです。反対に、自分のことを「有名人だから…」と、受け止める人も気に食わないだろうと思います。

【Q5】三好春樹さんには、「理論もあり、実践もできる、リーダーシップもある」から、老人ホームの園長になったら、きっと素晴らしい施設づくりをするだろうと思いますが、現役の園長としてはどう思いますか?

【A5】プロ野球の世界では、「名選手、必ずしも名監督にあらず」と言われています。俺はできるのに、何で君はできないの?では「いろいろな性格の人が必要」(Q68のA)な組織の長は苦しいのです。
▼「つくづく組織人でなくって良かったと思う」と、三好さんは言いました。世の中、さまざま。凡庸な頭脳の持ち主にも、生きるポジションがあってもよいはずだと思っています。
▼はっきり言って、三好さんに1つの老人ホームの園長をさせるのは、もったいないと思います。人的資源の不適正配分、ミスキャストです。
▼これだけ影響力のある人ですから、老人ケアに関わる現場の足腰を鍛えてもらって、日本中のお年寄りが生きいきするような仕事をしてほしいではありませんか。

【Q6】最新作『ねたきりゼロQ&A』で一番面白かったところは、どこですか?

【A6】すべてです。
▼素直というか、大新聞社の論説委員が喜びそうなAが書かれていないからです。「言われてみれば、当たり前だよなあ」の延長線上にほとんどのAがあります。
▼Aを導き出すための三好流現場の思考が痛快です。 Q54の「この上司は縄文時代のような生活をしている」という書き出しは、よほど柔軟な頭と洒落心がないと書けません。
▼Q45の「カメラでお年寄りを監視」に対するAの「権力は必ず堕落する」に思わず笑ってしまいました。
▼どんな綺麗ごとをつらつら述べても、「権力は誕生の日から腐敗する」し、「職員の仲良しごっこ」が始まります。
▼ゴールドプランの発表後、高齢者保健福祉の分野は「夢よ、もう一度」と、霞が関幕府発信のバブルに踊らされています。「この施設は。私の趣味で造ったようなもの」などと、うそぶく創設者がいます。「見栄や虚栄、パッタリで高齢者施設を造るな!」、「あなたは権力欲の自家中毒に陥っている」、「そんなもん老人ケアと全く関係ない、方向違いですよ」と、三好さんは言いたいのでしょう。
▼本書には書かれていませんが、「手づくりを近代は越えられない」というAも、三好さんらしいのではないかと思います。

三好春樹

【Q7】これからの三好春樹さんの活動を予測してください。

【A7】大転換はないでしょう。現場最優先のスタンスも変わりません。これまでどおり、体力と気力の続く限り、生活リハビリ講座、講演、執筆活動をしていくでしょう。そして、新しい老人ケアの実践家を発掘し、やる気のある人たちの芽を大切にするでしょう。とにかく、人を育てるのが巧いし、三好さんの回りに人が集っています。
▼来るものは拒まず、去るものは追わず。人をその気にさせる名人。これが三好さんの真骨頂です。
▼一読者としては、「Q&A」という形式で、「1を聞いて99((X))答える」を当分続けてほしいと思います。
▼実は、三好さんの絶対攻略本は、「老人介護Q&A」、「ねたきりゼロQ&A」、及びその続刊なのです。他人に攻略本を書かれる前に、自分で書いてしまうところが、三好さんの憎いところです。
▼ウィットに富む文章。これぞ、知性の発露ではないか、と改めて男“三好春樹”に惹かれました。
▼いくらでも“地下水脈”から「Q&A」に姿を変えた湧水が出てきます。
▼私が出会った頃の三好さんは「P.T.の三好春樹です」でした。今では「三好です」で通用します。だからこそ、自分の思いを書いて、話して、飛んでください。
▼「村上さん、もうビデオ撮らなくていいよ。同じ話だから…」と照れ笑いの三好さん。「山手線や環状線は同じ所を回っていますが、その時々によって、窓から見える風景が違うんです。三好さん、あなたはそんな人です」。
▼最後に、三好春樹さんの攻略法?泣きどころに答えましょうか。
▼「広島が好き。広島の味が懐かしい。広島弁を聞くと心が安らぐ…!」。的を得ていると思いますが、いかがでしょうか?

★-- 参考PDF -------------------------------★
「なにか変」から「なるほど」へ
アマチュアリズムが良かったのに…
どうしてこんな見方ができるんだ!
三好春樹攻略のためのキーワード
基本に立ち返ることで見えてきたもの
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1996.10月 老人には堕落する権利がある
  ~木村松夫さんへの公開書簡

拝啓、木村松夫兄。
前号の文章、拝読いたしました。木村さんの文章にはいつも、年配者らしい常識と生活者というスタンスが感じられて、「大人」からの発言として読ませていただいています。 32号の「コトバ論争」についての発言も、ありがたい何よりの応援として読みました。

今回の指摘についても共感、納得するところが多いのですが、若干、弁解もさせてもらえれば、とペンを取りました。 まず、私たちの運動体が、内輪にのみ通じる世界、すなわちひとつの「党派」になりつつあるのではないか、という指摘についてです。こうした傾向については、私自身も気をつけていて、どんな会でも、懇親会であっても、「初めて参加した人が主役」という気持ちでやってきたつもりです。

11年間も同じことばかりしゃべっているのもそういう気持ちの表れと思ってください。 世の中には「セミナー屋」というのがいっぱいあって、受講者を集めるために、次々と新しい流行のテーマに飛びついているのですが、私どものように一貫して基本的にはひとつのテーマで11年も続けているというのは、考えてみればすごいことだと、我ながら思ってしまいます。

おっと! また自分のことを誉めていると高口光子さんに言われそうです(前号「一を聞いて十を知る」参照。もっとも、彼女が挙げている「新進気鋭のPT」というキャッチフレーズは、医学書院が考えたもので、私の創作ではありませんが)。

でもね、木村さん。私には“内″へと向かおうとする気持ちがよくわかるのです。かつて介護現場の一介のシロウトだったころ、医学的な学会や研究会はもちろん、福祉系の会であっても、そこにはシロウトの私には共通のコトバがなく、身の置きどころがないという感じでした。

長い間、そしていまでも、そうした疎外感をもっている現場の人たちが、やっと発見した共通の表現や雰囲気に、はしゃぐ気持ちは当然だと思うのです。かつて、地域リハ研懇親会で、医者やPT、OTばかりのなかで、坂本さんや私のような特養関係者が片隅に陣どって異様に盛りあがり、ひんしゅくを買ったことがありましたが、あれは、専門家の閉鎖性に対する反動だったのだろうと思います。

もちろん反動で運動をやっちゃいけません。抑圧に対する恨み、つらみでやる運動が、結局、別の抑圧をつくり出すだけであることは、歴史の教えるとおりです。 そこで、「専門性よりは常識」、「組織じゃなくて活動態」、「生活優先、イヤになったらいつでもやめる民間デイ」なんてことを言い続けきました。

したがって、木村さんの言う「異論に対しては容赦なく反論」するのも老人介護の切り拓いてきた自由さを、もう一度、理念や倫理という狭くて、いつでも抑圧に転化する世界に閉じ込めようとする論に対してのみ、「容赦なく反論」してきたつもりですし、これからもそうするつもりでいます。特に、スターリンの血筋を引いているような党派性に閉じ込めようとする連中には容赦しません。

それが、私たちがそうならないための自戒をこめたものであることは、私と同じく、かつて反体制運動をやっていた木村兄には、おわかりであろうと思います。 さて、「初めて参加した人が主役」つまり、「内より外へ」と自分を律してきたつもりですが、私はやはり、現場の人と老人には甘いのです。前述した弁解よりは、もう少し積極的弁解になるのですが、ちょっと聞いてください。

私たちが老人介護から学んだことのひとつが、明日のためではなくてきょう、ここを大切に、ということでした。「明日のために」とか「○○のために」と言って我慢していると、精神衛生に悪いし、結局「明日」はいつまでたってもやってこないで人生は終わってしまうのです。むしろ、刹那的にみえる「いま、ここ」の積み重ねこそが、確実な「明日」を創り出すのだと思います。

そうすると、せっかく「いま、ここ」に集まった仲間どうしで、共感しあって、人生をたのしむのも悪くはない、と思いはじめてきました。 私も齢をとりました。なにしろ、先日メガネが二重焦点レンズになったくらいです。齢をとって、「老人ケアの向上のため」に自らたのしむことを先にのばすよりも、話のあう仲間と気楽に過ごしたいと思うようになりつつあります。

世間ではこういうのを「取り巻きに囲まれて堕落した」と言うのですが、そう思ったらまわりの人が見限ればいいだけの話です。老人には堕落する権利があるのだと思います。 ただ、゛堕落した老人″を組織の要職なんかに置いておいてはいけません。特になんとか研究班の班長なんかにはね。

゛いつまでも若々しく、自分を向上させ続ける″なんて老人像は、幻想でなければ、とっても運のいい人にだけ与えられるものです。私は、齢相応に゛堕落″していこうと思います。 木村松夫さま。結局、老人には甘い、というのは、゛自分のなかの老い”に甘い、ことにすぎないと思われるでしょうか。

党派や理念に同調するのではなく、家族会の役員になったりするでもなく歩んでおられる木村さんに共感しつつ、共に訪れつつある老いについて考える秋です。
                        敬具


1996.9-8月 地下水脈 老人介護Q&A・番外編③

【Q】特養ホームで寮父をしています。私は最近、性の問題で悩んでいます。男性入所者のAさんが、女性の裸の写真が掲載されている雑誌を買ってきてくれ、と私に頼むのです。同じ男性ですので、その気持ちはよく解りますし、いくら年を重ねても、性的関心のあるのも当然だと思うので、本人の希望に沿いたいとは思うのですが、それによって問題が生じはしないかと心配です。

たとえば、本を見て興奮したAさんが、それだけでは飽き足らず、女性入居者に直接的行動をとったり、性欲のはけ口がないため問題行動を起こしたりしないだろうか。 また、Aさんの家族が面接に来て、その本を見たらどう思うでしょうか。それを職員が買ってきたなんて聞くと、施設に対して悪い印象を持たないか、ひいては地域での評判を落とさないだろうか、といった点です。
こうした問題を、タブーにしないで、かつ現実的に解決していくにはどうしたらいいのでしょうか。

【A】うーむ、私の最も苦手とする領域の問題ですね。というのも、性や恋愛に関する問題は、最も個別的な問題として立ちあらわれるので、とても一般論では語れないからです。 にもかかわらず、Aさんの事情からではなくて、自分自身の理念からこうした問題を語る人が多くて困ったものです。

まず、職員がヌード写真集や雑誌を買ってくるなんてとんでもない、という意見です。いくらAさんが喜ぶからといっても、人間の中の動物的な部分をイキイキさせるのがいいこととは思えないという主張でしょう。「性の商品化に手を貸すべきではない」なんて言うかもしれません。

清らかな福祉の世界にそんないやらしい物を、まぎれこませるわけにはいかない、なんていうストイックな感情がどこかにあるかもしれません。 それとは反対に、性はもっと大らかで自由でいいはずだ、という主張もあります。 70歳にもなった老人の訴えに、説教じみたことを言って禁止するより、喜んでもらおうよ、明日があるかどうか判らないんだし、というような柔軟な意見です。

禁止派の意見は、いわゆる「正しい」意見ですが、少し堅苦しいですよね。何より、自分の世界観でのみ語ることが多くて、現実のAさんの訴えや悩みを理解しようとしていないような気がします。だって人はいろいろで、高齢でも性的欲求が強くて、人生に占める性の割合が大変大きい人だっていますものね。

でも、自由気ままにして、ヌードだろうがなんだろうが、ドンドン買ってきて、部屋の壁に貼りつけりゃいいじゃないか、というのもちょっとねえ。こうした積極賛成論は、型にはまることがなく、常識にとらわれないという点では魅力的ですが、“常識や形にとらわれない、ということにとらわれている”という感じがしないでもありません。

私の立場は、世間一般で許容されていることなら、老人ホームでも許容されるべきだということになります。ヌード写真を見ることも、風俗の店に通うことも、今の世の中では許容されていますから、老人ホームの老人がそれをしたければ、してもいいと思います。

しかし、それらは、世の中でもあまり、おおっぴらにやることではありません。法的に罰せられることはなくても、道徳的には問題があると感じられていることです。ですから、ふつう、それらは、人に隠れてこっそりするものです。 ですからAさんも、こっそり買ってきて、こっそり楽しめばいいのです。

でも身体が不自由で自分では買いにいけないので、あなたに頼んだのでしょう。ほんとうは、面会に来た友達にでも頼んで手に入れればいいのでしょうが、親族くらいしか面会がないのでしょうね、男性職員で話の解りそうなあなたに頼んだということでしょう。

ですからあなたも、職員としてではなく、仕事で知り合った男性から頼まれたことを私的にやってあげる形で、希望の本をそっと手渡せばいいと思います。その際、家族や、真面目でストイックな職員には見つからないように、とアドバイスしてあげると、男同士の秘密を共有したみたいで2人の関係はグッと近くなるでしょうね。

それによって興奮して何か問題を起こさないか、というのは心配のしすぎです。ポルノの解禁によって性犯罪は減っています。道徳的とは言えない雑誌や風俗店は、むしろ、社会の秩序を保つためのもののようです。 万が一、Aさんが性的な問題を起こしたとしたら、それはそれでちゃんと対応すべきことです。ヌード写真をひとりで見て楽しむことは許容されていても、ワイセツ行為は許されてはいないのですから。

職員としてではなく買ってきてあげればいい、と言いましたが、実際には、職員としてのあなたと、ひとりの男性としてのあなたを、区分できるものではありません。ですから、もし上司がちゃんと解ってくれる人なら、頼まれたので買ってくるけど職員としてではないので、たとえば、運悪く親族に見つかって文句が出たら私のせいにしていただいて、施設の方針でやっているのではないと、申し開きしてほしいこと、道徳的には問題があるだろうが、禁止することの方が問題になると思うので、見て見ぬふりをしていてほしい、と事前に話しておくといいと思います。

掃除のときに、雑誌を見つけて、取りあげてしまう「正しい」職員もいるかもしれませんね。私は人に迷惑をかけてないのなら人の持ち物を取り上げる権利なんてないと思いますが、まあ、老人もイロイロ、職員もイロイロ、だから世の中面白いんです。取り上げられたら、またAさんとあなたが共謀して買ってきましょう。でも、こんどは、見つからない隠し場所をちゃんと探して。


1996.9-8月 死の関係学 鳥取赤十字病院医師 徳永 進
  《第1回 ブリコラージュセミナーin神田》

徳永 進
【「いい死」を願う】

私は内科医ですが、患者さんがよく亡くなって、その主治医であることが多いのです。鳥取周辺では、「徳永に診せると早いぞ」といわれたりしていますが、今年2月は7人亡くなられて、そのなかに、ガンで胸水が溜まっている、田辺ユリさんという80歳のおばあちゃんがいました。だいたい私は80過ぎた患者さんを診るのが好きなんです。

もう、右に転んでも左に転んでも、もとはとってるわけでしよ(笑)。大胆な治療もどんどんできるし、諦めるときも引き際が早いし、怖いものはないんですね。 そのユリさんは、ガンで胸に水が溜まっているにもかかわらず、私に向かって、「先生、うつりやまいじゃないでしょーな」というのです。

うつりやまいとは結核性胸膜炎ということです。私の基準では、気の毒なのは結核よりもガンなのですが。「うつりやまいじゃありません」「ああ、よかった。だったら、どんなんでもいいです!」 ユリさんは家でしばらく過ごしたあと、悪くなって最後は入院されました。それまでは家族から見放されたような、お嫁さんがイヤイヤ看護にくるという、よくある家族構成のような感じでした。

ある冬の朝、病室のドアを開けると、ベッドのまわりに孫が立っていました。そして84歳のお姉さん、82歳のお姉さん、78歳の妹、それに長男夫婦がベッドの周囲にいました。おばあちゃんたちが色とりどりのマフラーと帽子を持っているのを見て、「ああ、チューリップ畑だね」と言うと、老婆たちは自分たちが励まされたように誤解して、亡くなっていくユリさんの手足をこすっていました。

家族に、「無事にだんだん亡くなりつつありますから、心配なく」と説明しました。私としてはごく当たり前の会話だったのですが、「先生、そんな失礼な! すいません、こんな主治医でごめんなさい」と、そこにいた若い看護婦は、家族に謝っていました。

夕方行くと、下顎呼吸に近い状態だったのに、ユリさんはきれいに散髪していました。 「誰が死ぬ前の患者さんの、髪を洗ってカットしたの?」と言うと、それは新卒の看護婦でした。「アタシ」「おまえ……。いま亡くなるという人を散髪したな。でも、うまいね」「でしよ? 今度から私のこと、「ヘアーサロンあゆみ」と呼んで」。---いま人が亡くなるというのに、そういう会話でした。

夜また行ってみると、チューリップたちはくたびれていました。首はたれ、片方はのけぞり……。すぐ亡くなればいいのですが、人の命って、残念ながら長く続いたりするわけですね。隣のベッドが空いていて、みなさんトドがうちあげられたような感じで休んでおられました。

そして朝がきて、ユリさんは無事亡くなられました。それはそれでいい死でした。 いや、「いい死」ってあるんですね。私たちも「いい死」であるように願っているわけです。願えば「いい死」がくるなと思って、本当に死を願って仕事をしているわけです。そのあたりが三好さんと視点が違うかもしれないと思っているんです。

【はじめて見た人の死】

私は小さいころは病弱で、よくひとりで寝てたりしました。隣の農家の牛がモオッー、と鳴きました。誰もいませんでした。この町にいるのは牛とおれだけかな、と思ったりしました。 そのころ、私は生まれて初めて入院したのですが、その病院の小児科の先生は私の顔を見るなり、「寝てたら治るから~」と言いました。

私は、「ああ治った」と思いましたね。医者の一言は私にとっては大きかったのです。私も医者になってから時々それをやってみます。「寝てたら治るから~」。でも、なぜか私の患者は死んでいきます(笑)。 私は、私の親分だったケンちゃんと、その子分たちとよく遊びました。

あるとき、そのケンちゃんが「みんな集まれ! 今日は家だ」と言うのです。親が鳥取に買物に出ていないから、お医者さんごっこをしようというわけです。なんだろうなと思いながら2階に上がってみると、部屋に女の子が上下ともすっぽんぽんで並んで、男の子が松葉こちょこちよ、です。私は生唾を飲みながらおいしゃさんごっこをしました。将来は医者になろう、なんて思いながら……(笑)。

私のお医者さんごっこの相手は、ケンちゃんの妹のユキコちゃんでした。つながっている長屋の、私の家の隣でした。 そのユキコちゃんがおトイレにはまって、その後髄膜炎を起こして、入院しました。1週間後、私がままごとをしていて、ふと振り返ると、ユキコちゃんのお母さんが歩いて帰ってきました。白い包みを抱えていました。「あ、ユキコちゃんだ」私は思いました。

ユキコちゃんは髄膜炎で亡くなりました。お母さんは駅から500メートル離れていた私たちの長屋に、死んだユキコちゃんを白い布で包んで連れ帰ってきたのでした。私が生まれて初めて見た人の死は、幼なじみのユキコちゃんでした。

 ♬ ♬ ♬
あかいほうせんか お庭に咲いたよ
やけつく夏の日 暑さも知らずに
かわいい娘は 爪先 そめたよ
あかいほうせんか お庭に咲いたよ
やがて夏さり 秋風ふけぱ
ほうせんか 種まけ
遠くへ はじけよ

【歪んだ家族】

大学生のときは、京都で鶴見俊輔さんという人が、「家の会」という会を主宰していると聞いて、私はどんな会なのだろうと思って行ってみました。 鶴見さんは、家というものは確かに父親が威張っていて、悪い点もあるけれども、人類が始まって以来家族、あるいは家というものがなくなっていないということは、それはそれで大事なものをもち続けているからではないか、ということで主宰されていました。

家や家族というものを全面的に否定するわけでもなく、また全面的に肯定するわけでもない。なぜ続くかわからない家や家族について考えてみよう、という会でした。 私は、自分の家が非常に歪んだ構成員で成り立っているということを感じていました。私の叔父は朝から酒を飲んで、「おい、金出さないかい」と言ってうちに来ました。

おふくろが、怯えながらお金を出すと、それをひったくるように受け取って、「誰がオバアの面倒みとるんだ。お前の親父は三男だろうが。わしゃ四男じゃ。なんで四が三の先にオバアの面倒みないけんのだ」と言って帰りました。 夕ご飯を食べていると、下駄のまま叔父が上がってきました。

「お前らだけ楽しそうに晩ご飯食っとってええんか。オバアの面倒は誰がみとるんだい!」と言って、お膳を下駄で蹴りました。しょうゆが飛び、豆腐がちり、ネギが飛びました。母はそれを片付けるふりをしました。 「金出さんなら出さんでええで」と言って、叔父は下駄のまま帰り、廊下の窓ガラスをガーン、ガーンと1枚ずつ蹴り割り、そして玄関にあった植木鉢を順番に宙に投げました。

誰も受け取るものはいないものだから、ばちゃーん、ばちゃーん、ばちゃーん……。 叔父が来ると、母は台所に逃げ、姉はお風呂場に逃げ、私は縁の下に隠れました。すると叔父は私を見つけて、「かくれんぼやっとるんじゃない、金出さんかい」と言いました。 叔父を出刃包丁でブスッと殺す夢を見ました。新聞には「小学5年生、叔父を殺す」と出ています。

私は、ああ、殺すほどじゃなかったのに、殺すほど悪い人じゃないと思って、気がつくと夢でした。3回くらいそういう夢を見ました。 私か医者になってから、叔父は病院にやってきました。「おい、進。鮎釣りのハリ代がないから出さんかい」「今月分はもう出したでしよ」と言うと、「ナニ! 生意気な」とパチーン。

私は患者さんが待っている廊下で殴られました。私は叔父を許すことができませんでした。もう叔父は狂ってる、と思いました。 祖母のキヨは、叔父がカーツとなると「出ていかんかい!」と、追い出されることに慣れていました。あるとき、叔父は私を呼びました。 「進、キヨを入院さしたれ」。キヨは少し熱が出ていました。

「病気なら入院させてもいい」と言うと、叔父は「そうか病気か。よかった。頼むわ。おばあさん、入院せないけんて」と、おばあさんに風呂敷を投げました。そうするとキヨは、あらよっとそれを受け取りました。叔父は次々にいろいろなものを投げてきました。大田胃酸のさびたもの、アルミの弁当箱、駅で売っているお茶の入れ物、住所録、木の枕……。最後はおじいさんの位牌を投げました。キヨはそれをあらよっ、あらよっと、とても手慣れた受け方をして、「ささ、行こう」と私の車に乗りました。

病院まで来て、キヨは駐車場からなかなか進みません。「ちょっと急いでよ」「あんまり元気げにすると、お前の顔つぶすじゃろから、えらげにせんと」「誰も見てないところじゃなしに、病院でやってよ」「あ、ここはええか?」 キヨは、点滴がすぐ効いて、食事はぺろっと食べるし、隣の人が残したバナナを「あんた、お嫌いかな」と、それをつまんで食べました。

私の家に来れば「なんだ祭りか。お餅があるがな」と、もらいもののお餅をご馳走になり、魚があれば「おいしそうだな」と、自分が用意していたアルミの弁当箱に入れ、「ついでにおにぎりも入れとくれ。次の避難地に持っていかないけんだ」と言って、宗教仲間のところ、お寺などを歩いて回りました。

キヨは信号が赤でも手をあげて渡りました。 「信号よりわしのほうが先に生きとる」という感じでした。店に行くと「これなんぼ? こっちの魚は? なら、あれは? そうですか、おいしそうですな」と言いながら、いつも買いませんでした。最後までキヨは町を歩き続け、98歳で父の家で「ナンマイダ、ナンマイダ……」と言って、涸れるようにして亡くなりました。

キヨが死ぬと叔父は暴力をやめました。やめると、飲んだ酒がもとで肝硬変になり、血を吐いて私の外来へ来て入院しました。入院すると絶食です。「進、味噌汁すすったらいけんか?」 「ちょっといけん」ー入院すると従順でした。看護婦さんが、「叔父さんて、先生と違って規則を守られるし、いい人ですね」と言うので、どこが! と思いました。

叔父は退院すると、大きな鮎を捕ってきました。いい技術をもっていました。「鮎捕ったから取りに来い」と言い、正月が近づくと、コンブと大根炊いたから取りに来いと言いました。 そして数カ月後、従兄から電話がありました。「スーちゃん、お父ちゃんおかしい」。私は赤信号を無視して叔父の家まで車を飛ばしました。叔父はポータブルトイレから倒れて死んでいました。

私は従兄と一緒に叔父を拭き、穴に栓をして、寝間着を着せました。 私は私の家族は異常だと思っていました。すると、「家の会」の鶴見さんはこう言いました。「家族は親しい他人」。どきっとしました。その言葉を聞いたとき私は、ふっと救われる気がしました。いつ家族の誰によって殺されてもいいと思い合う者同士が住むのが家族。すごい定義だなと思いました。

鶴見さんの著作は私にいろいろなことを教えてくださいました「誤解する権利が人にはある」ということも、「日常の思想」ということも教えてくれました。「暮らし」ということを大事にしました。 「悪はある。誰の内にも、外にも悪はある」ということ。あるいはまた、プラグマティズム (一種の功利主義哲学。知識が真理かどうかは、生活上の実践に利益があるかないかで、決定されるとする「岩波国語辞典」)。

あるときは右、あるときは左、そういうふうに生きていくしかないという方法がある、ということを教えてくれたのも鶴見さんでした。 あの頃は、ひとつの主義を唱えたらそれ以外のものは悪でした。正義があり、正しさがあり、それ以外のものは、過ちでした。そんななかで、プラグマティズムというものを、鶴見さんはいつも大事なものとして片方の手に持って生きてきました。私は不思議な考えだな、と思いましたね。

徳永 進
【臨床という海】

私か医者になったのはいまから22年前、京都病院でした。そこの疋田先生に初めて患者さんを受け持たせてもらいました。その患者さんは松井孝一さんといって、肝ガンか、肝硬変かわからない、ということでした。 「ぐるん」と触れるやろ、あれがどうもガンなんや、「ぐるん」は肝硬変や、と疋田先生は言いました。私にはその違いがわかりませんでした。

そして、「でも、ガンと言うなよ。肝ガンは肝硬変、胃ガンは胃潰瘍、肺ガンは肺腺腫、せめてものウソをついて慰める。これが医者の礼儀ちゅうもんや」と言われました。 その頃は、受け持ち患者は3名で、私は朝、昼、夜と回診しました。そうすると松井さんが、「あんた、することないんでしょう? あんたは私の主治医だけど、人生の先輩は私だからね。人生、生きていくうえで大事なことが3つある。教えてあげるから、まあ、座りなさい」と言って、お茶も出してくれました。

私は初めて受け持った患者さんの部屋で座らされました。
(1)自分以外の誰も信じるな
(2)今日の言葉は明日はない
(3)何の保証人にもなるな、ハンコを押すな
「この3つが大事だから覚えておくように!」

どっちか主治医だ?!(笑) あるとき松井さんは血を吐きました。そして、疋田先生が「ガンだ」と言っていた、「ぐるん」の腫瘤はパッと消えました。なんだ、あれはガンではなく、牌臓に溜まっていた血が、破裂したんだ……。「ガンだったら小さくならないでしよ、ガンじゃないんですからね。絶対違いますからネ。頑張りましょう」と言うそばで、看護婦が、「先生、血圧60です」「ナニ?」「あ、また下がって40です」。

私か弱々しく、再び「ガンじゃありませんからね……」と言うと、松井さんは最後の力をふりしぼって、言いました。「またそんなええかげんなことを! 私は死にます! 死の淵まで行ってきました」 私はもう何も言えませんでした。そして、松井さんはおっしゃったとおり12時間後に亡くなりました。

亡くなったとき、学校にも行かないし就職もしない、なにか問題があるといわれていた娘さんが、「おとうちゃーん、洋子えー。死んだらいけん!」と言って、体にしがみついて離れません。私はただ病室の隅に立ってその光景を見ているだけでした。 臨床ってすごいなと、思いました。

どんな教科書にも、患者が人生の教訓を教えてくれるとか、最期のとき「またそんなええかげんなことを!」などと言われてもひるむなとか、問題児の娘なんかがいて遺体にしがみつくけれど、びっくりしないように、などということは何も書いてありませんでした。ほんとうに臨床ってすごいと思いましたね。 私は解剖室に行くのが好きでした。解剖室に行ってうれしいことは、もう自分が人を死なせることはないという自信でした(笑)。

私かどんなミスをしてもこの人はもう死なないと思うと、あるリラックスした気持ちになりました。 いろいろな遺体が運び込まれました。ガンは、いまほど画像診断が発達していないころで、解剖によってどこに転移しているかが初めてわかる症例もたくさんありました。私かびっくりしたのは、副腎に転移しているものでした。

解剖の授業で副腎というところを習ったのですが、見ると、がんは全部に散っていました。副腎にも他のリンパ節にも、いろいろなところに輯移していました。ガンの野郎、解剖学をよく知ってるな、おれより上だなと思ったですね(笑)。

あるとき20代の男の人が亡くなって運び込まれてきました。泌尿器科の患者さんで、睾丸に腫瘍があったそうです。すると、「尿の妊娠反応は?」と非常識なことを病理の先生が聞きました。カルテを見るとやっぱり男でした。泌尿器科の先生は「ええ、尿の妊娠反応は陽性でした」といい、病理の先生は「やっぱりそうですか」というのです。

この場合は畢丸が原発だったのですが、ある遺残物があって、それが大きくなるときにガン化して起こる、絨毛(じゅうもう)ガンでした。このように男性でも妊娠反応が陽性になるのは「ヒョリオカルチノーマ(Choriocarcin-oma)」といって、腫瘍の真ん中が出血しているのが特徴なのだと教わりました。

臨床ってすごいんだ。決まったことはないんだ、いろいろなことが起こるんだ。ああ、これは海だな、と思いました。いつも穏やかな海ばかりでなく、時化のときがあったり、アジやヒラメの大群だけでなく、サメが来たり、クジラが来たりする。そして、がらんとした海になったかと思うと、そこに草が生え、ワカメが春の日差しを受けてぽこぽこっと酸素を放出したりする和やかな日もある。

海は一日として同じことはない。いろいろなことが起こっている。臨床というのはそれと同じなんだ、ということを教えられました。

徳永 進
【ひとりで死に、滅ぶこと】

当直中に運ばれてきた患者がいました。男は私の方を見て、「すまないねえ、救ってくれるのかい」と言いました。点滴をうつときにそんな大げさなことを言う患者は初めてでした。 「おれね、刑務所から出てきたばっかりなの」 「は?」「おれね、心を入れ替えて清く正しく生きようと思ったの。

だけど、人間て冷たいね。1週間誰も脅さずに生きてたら、誰も何もくれなくて水ばっかり飲んでた。そしたら、昨日から体がねじれてきたんです……」。ザマーミロと思ったんですけれどね(笑)。 男は点滴が効いて、ぺろっと食べるようになりました。男は私に9犯だと言いました。

彼は退院したのですが、病院が忘れられずに、夜12時になると内科の6病棟に姿を見せました。三食昼寝、お尻触り付き、そして若い看護婦さんが「いかがですか?」なんて言ってくれるのは、きっと刑務所ではなかったでしょうから。 それが、ガードマンに「帰ってください」と言われるわけです。

「なにー、てめー、やるのかよ」とかいって、大声が病棟に響きわたる。 みんな病室のドアから恐る恐る見ている。準夜の看護婦さんはふるえあがる。そして「主治医は誰? 徳永? どうしてあの先生、ロクな患者もたせてもらえんのか」と、私か呼ばれるわけです。

「え?! 来てる? ハイ、なるべくすぐ行きたいという、そんな気持ちにだんだんなっていますので、はあ……」 シャツを選んだり、エレベーターも最初のを見送って次のに乗ったり、それでも家がすぐそばですから、3分もすると6病棟に着いてしまうんです。 着いてしまうと私は、看護婦さんがいると思うと、それまで怯えていたのに、「君、帰りたまえ」なんて、ええかっこをして、9犯の手ぐっとねじあげたときでした。

9犯は私を反対の手でバチーンと殴りました。私はぐるぐるぐるっと、倒れて、星か何かが出たんです。「これで10犯だ」と思って、交番に電話をかけました。 私は必死になって訴えました。お巡りさんはとにかく連れて帰ってくれましたが、あくる日外来をやっていると、その9犯がやってきました。

「先生よ、昨日はいいとこ泊めてもらったよ」。小指がどうとか、詫びがないなどの脅かしです。夜中に電話でも脅かす。恐喝でした。 脅しが続いた3日後の、朝4時、ガードマンからの電話。例の男がまた来たと。行ってみると、男は救急室でぐでんぐでんに酔っていました。全然起き上かってくる気配がないということを確認した私は、急に強くなって、ドンゴロスを引くように廊下をひきずり、時々短い足でポッと蹴飛ばしたりしながら連れていきました。

男は玄関の前ですっくと立ち上がりました。「送ってくれるんなら帰ってやる」 車で家まで送っていくと、「まあ、あがってよ」と言います。朝5時でした。光も射さないような暗いアパート群の、いちばん奥のアパート。それもしょんべん臭い、窓ガラスの壊れたところでした。なかは、6畳の部屋だというのに畳は1枚で、あとは新聞紙が敷いてあるだけでした。

さびた冷蔵庫、湿ったお布団。光も風も入らない部屋。もちろん、洗濯物のタオルやらがあるわけでもありませんし、待っている人もいませんでした。 「まず座ってよ」と言って、男が新聞紙を取ると、そこにぴかっと光った出刃包丁が6丁、ずらっと並んでいました。「最近寝込みを襲われるんでね。包丁だけは研いでおくんだよ」。包丁だけがすごく立派でした。

これだったら9犯になるわな、と思いました。光も風も入らない。お風呂はない。安らかな睡眠がとれるようなお布団はない。洗濯物はない。いつ誰が襲ってくるかわからない。コミュニケーションをとれる人は誰もいない。宗教心はない。仕事はない。学習、レクリエーション、成長はない……。

バージニア・ヘンダーソンの看護の基本となるもの14項目が、パカッとその部屋から欠落していたのでした。私は「ヘンダーソン、この部屋知ってるな」と思いました(笑)。 ご存知ないかもしれませんが、バージニア・ヘンダーソンは今年3月19日に死んでしまいました。私が会いたかったひとりがヘンダーソンおばちゃんでした。

彼女の看護論がすごいのは、偉そうに看護なんて言わずに生活に密着した、三好さんたちが思っているその祖先みたいな感覚で、そして人を救うために人権とか、そんなことも考えながらいろいろな実践をしたことです。わずかなことで悲惨な目に合わせたくない、たとえばオムツがぬれているままで過ごさせたくない、ということでしょうね。そういう14項目をつくった。

その14項目のなかで最も大きいのは、10番の 「他者とコミュニケーションをもち、情動、ニード、恐怖。意見などを表出する」です。今日、与えられた題で私が話せるのは、「その関係のなかの死」というあたりのことだと思うのです。 私は、人が誰にも見守られずに亡くなるというのはすごい、立派だと思うのです。結局、人はひとりで死に、滅び、この世を去ればいい。

私の祖母、キヨはあれだけみんなから石を投げられ、道をただ歩きながら、しかしそうであるがゆえに、値段を聞いて買わずにショッピングを楽しんだり、あそこまで生き、楽しんだ。それを見ると、彼女は辛かったけれども、長く強く生きれたのは、石をもって追われたからだろうと思うのです。いまの時代、石をもって追うということが少なくなりました。

日本人のケアとしては、もう少し石をもって患者を追うということをどこかでやって、人はひとり惨めに孤独に滅びる、それでいい、ということがあっていいと思うのです。それが9犯や、私か出会ってひとりで亡くなっていった患者さんたちのひとつの教えであるような気がします。 ひとりで生きていき、ひとりで死んでいく。それを忘れてはいけないという気がします。

私たち介護をするものは、患者さんにはあたたかい介護をしても、自分には要求しないで、惨めに、象のようにどこかで滅びて死ぬ、それがゆえに人には丁寧にしてきた、ということがあっていいのではないかという気がします。

徳永 進
【死んだ男が残したものは】

外来に29歳の刑務官がやってきました。私はあるときテレビで、「患者さんで素晴らしいのは農婦だ」と言ったことがありました。 農婦は自然の摂理を見ている。いろいろな農作物をつくったり、家畜を飼ったり、でも、それが災害にやられたり、自分たちで殺して食べたり、ということを知っている。

それから、谷に若い者が落ちてロープで引き上げたけれど死んでいたとか、妊婦が出産のときうまくいかずに赤ちゃんと妊婦自身も死んだとか、そういうことを見ている。昔の農婦たちは命を育てながら死をも育ててきたのだ。だから、彼女らは死の前で怯むことなく、見事に死に向かっていける気がする。そんな話をテレビでしたときでした。その刑務官が私に言いました。「おれは農婦ではないけれども、よろしく」。

彼は縦隔(じゅうかく)腫瘍で2回手術して、3回化学療法を受けたとき、どうせ死ぬのなら故郷で死にたいと言って、京大病院からやってきた人でした。 病室では、奥さんと3歳のアヤちゃんとで過ごされました。奥さんがつくってきたサンドイッチやコーヒーを飲んで、あたたかい団槃の部屋でした。私はいいな、と思っていました。

すると、彼は言いました。「先生、このまま死を待つのはいやです。手術でもいい、化学療法でもいい。もう一度挑戦したいです」 そうですよね。人は自ら自分の言葉を覆す。臨床にいればそういうことに出会います。すべての治療を拒否したじゃないかと言い返したいところですが、そう言ったのはあのときの気持ち、いまは別の気持ちなのです。

父親の責任として、この娘をディズニーランドに連れて行きたいのですが、いいでしょうかと尋ねられました。看護婦さんは「ディズニーやめて、鳥取のおもちゃ博にしたら?」と言いました。「そんなチャチなものじゃないんです! 西海岸の」。奥さんが「東京のにしよう」「まあ、東京のでもいいけど」と彼は言いました。 彼は頑張っていましたが、3歳のアヤちゃんを連れて病室に入るその後ろ姿を見ると、肩や腰に転移していて、少し衰えを感じました。

私たちは、患者さんの表情を見るということがひとつの結論であり、そのときのすべての信号であるということを感じますが、それは顔だけでなく、背中でも、あるいは寝姿でも寝顔でも感じるわけです。 ガン末期の人の様子を知る手がかりのひとつにフェイススケールがあります。フェイススケールの欠点は寝顔と後ろ姿がないことです。姿、表情はさまざまあるわけですが、フェイススケールは6つだけです。

一人ひとりの臨床の医療従事者は、もっとさまざまな、各々のフェイススケールをもっています。私は彼の背中を見たとき、辛そうだなと思いました。 夜、奥さんから電話がかかりました。彼の兄が、絶対に弟を死なせたくないと言っているというのです。「東京にフィリピンの祈とう師が来るそうです。その祈とう師に祈ってもらって死んだという人いないそうですが、行ってもいいでしょうか」ということでした。

私は値段のことを聞きました。「15,000円だそうです」 「15,000円?! 安いわ。いい、いい、行ってください」(笑)いまどき15,000円で死なないというのはいいですよね。「どうせ、ディズニーランドにも行くんでしょう。行ってください」 私は家族を呼んで言いました。「道中、彼がだめになる可能性があります。でも、慌てることはありません。どこの病院に寄ることもありません。みなさんの手のなかで彼の死を看取ってください」。

夜10時、彼と奥さんとアヤちゃん、お兄さんとお父さん、お母さんの6人を乗せたワゴン車は、中国縦貫道、東名高速を走って、東京に来ているというフィリピンの祈とう師に祈ってもらうため出発しました。 それから48時間後、彼はもとの病室にいました。私はびっくりしました。すごいね、宇宙からの帰還だね、というと、「先生、おれ、もう死にませんから」と彼は言いました。

そのときの様子をお兄さんが話してくれました。フィリピンの祈とう師がやってきて、カーテンを閉めて、術創のところを祈とう師が撫でると、ピンクの血綿みたいなものが出た。すると、どす黒かった弟の目が急に赤くなって、挙がらなかった腕が挙がった。その瞬間、みんなが「治った! 洽った」と言って、帰ってきたのだそうです。

そして朝の4時、下顎呼吸ですという看護婦からの電話です。行くと、奥さんは泣きながら3歳のアヤちゃんに「お父さんの手を握って!」といい、お母さんが足をさすり、父親が病室の隅で立っているときでした。バタバタッと大きな音がしてお兄さんがやってきました。入ってくるなり、奇妙な手つきで彼の首を持って、「死なへんぞ、死なへんぞ」と撫でました。お母さんが「よう、がんばったなあ……」というと、「そんなことほざくな! 死なへん」と兄が言いました。

私が「もうすぐ呼吸が止まりますから」というと、「そんなこと、こっちで判断できるでしょうが」と言いました。もう呼吸が止まりそうなのに、私は、亡くなったということが言えませんでした。黙ってその部屋を出て、詰所に行きました。 私に初めて患者をもたせてくれた疋田先生はこう言いました。医者の仕事はヒューマニズムとか、そんなものじゃない。生きているか、死んでいるか判断する、それだけのことや。しかし、あなどるな。

「亡くなられました」と言って、しばらくすると患者さんが大きな息をすることがある。霊安室で見送りをして棺の蓋が開くことがある。解剖しようと思ったら、患者さんが起きてきたことがある。それほどむずかしいんや。だから、亡くなったと思っても、あっち見たり、こっち見たり、つねったり、5分くらい時間を稼げ。すると、うしろから遠い親戚の者が「もう死んどるわ」と言う。それを聞いておもむろに「ご臨終です」。これがコツちゅうもんや。

医者の仕事は死の判定だと聞いた、それが生まれて初めてその場面で、できませんでした。おまえはするな、わしがすると兄貴が言うわけですから。 しかし、「死なへんぞ、死なへんぞ」とずっとやるのはつらいわな、どこかに区切りちゅうもんがあるわな、殴られてもいいわ、と思って私は部屋に入りました。

「彼も頑張ってこられたし、家族のみなさんも頑張られましたが、5時ちょうど亡くなられました」。殴ってくるかなと思っていた兄貴は。 「死なへんぞ、死なへんぞ」と言って、首を撫でていた手をぱっと止めると、「お前らしいわ……」といって、ぼろぼろっと大きな涙を弟の顔の上に落としました。

「勝手なことばかり言ってすみませんでした。どうもありがとうございました」と言って、深々と頭を下げると、彼の大きな体で隠れていた朝5時の鳥取の景色が、窓から私たちの目のなかへ飛び込んできました。 中国縦貫道、東名高速はよかったと私は思いました。あれをやって治ったかというと、治りませんでした。同じ死でした。

でも、48時間天井を見て、「もういけんわな」「頑張りなさいよ」というよりも、祈とう師を信じて家族6人が旅をしたこと。それは目に見えない力だな、薬だな、と私には思えました。もちろん、保険点数としては何もつきませんが、それでいいのだと思いました。死に向かうなかで、家族6人が同じことを心を一緒にして過ごした。それは大きな宝だったと思います。

 ♬ ♬ ♬
死んだ男が残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
ほかには何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
ほかには何も残せなかった
着物一枚残せなかった

死んだ子どもの残したものは
ねじれた足と渇いたなみだ
ほかにも何ものこっていない
ほかには何ものこっていない

【長屋の通夜】

柴田ヨシエさんという人が外来にやって来ました。昔、肺結核をやっていて、呼吸不全で入院しました。その日の夜中2時、電話があって 「柴田さん、心停止です」と言うのです。 ドキッ。柴田さんて、そんなに悪くなかった、なんて思いながら病棟へ行くと、看護婦さんが馬乗りになって心臓マッサージをしていました。

ばたばたとレスピレーターやらが個室にセットされました。病院で起こった心停止ですから、ある程度戻ることがあります。挿管してラインをとってみると、「脈がふれます」と看護婦が言います。そして「ううう、ううう」と、少し呼吸が戻ってきました。「家族呼んで」「ひとり暮らしだと聞いています」「でも、夕方誰かみえてたでしょう」「それは近所の方だと思います。連絡してみます」

そして3時頃、近所の人が2人やって来ました。重症であること、もし身内があれば連絡してほしいこと、一度酸素が止まったから植物状態だし、それよりもこの2、3日が山だと言いました。聞いてみると、「実は私たちは、古道具の仲間でして、同じ長屋に住んでいるんです。古道具も高級骨董、並骨董、衣類専門、夜逃げ専門といろいろありまして、お互い助け合って生きていた仲間なんです。

それから、ヨシエちゃんのお母さんが昨年亡くなるときに、ヨシエをよろしく頼むと言われましてね。みんながヨシエちゃんのことは気にかけていたんです……。」そして、「甥御さんが筑波の方におられるので、連絡しておきますから」と言って帰られました。 柴田さんはある程度呼吸が戻ってきました。あくる日は洋品店の奥さんがずっと部屋にいました。ヨシエさんはその店の帳簿係だったそうです。洋品店の奥さんが部屋にノートを置きました。

「ヨシエちゃんは今日も意識がないみたい。看護婦さんたちがきれいにしてくれる。呼んでみたけれども返事はなかった」。 次の日は“並骨董”でした。“並骨董”は 「看護婦さんが何か呼びかけると、ぐっと目を動かした」と書きました。その次は“高級骨董”で、「大きな声で呼ぶと顔がびくっと動く。だんだんわかってきたみたい」と書きました。それは単なる痙學だったのですが(笑)。

その次の日”夜逃げ専門”で「本日も主治医回診なし」というふうに、交替でみんなが看病しつづけました。そして、35日目に柴田さんは亡くなりました。変わった病室だったなと思いました。 あくる日「お通夜は今日かな」と思い、夜9時頃、私は近所のスーパーに寄りました。そこでなければ花がないからです。

かすみ草とマーガレットの花束をもって、行徳のきつね橋のところにある長屋だと聞いていたので、橋を渡ったところできょろきょろしていると、お通夜をしているところはそうそうありませんから、すぐ目にとまりました。 行ってみると狭い、うなぎの寝床のような部屋でした。 20人もの人が相向かって座り、お寿司とちくわとスルメの皿が交互に置いてありました。

私の顔が見えると、「いや先生、どうぞ、どうぞ」と言って中に入れられました。どこに入るのかなと思っていると、みんなが5センチずつお尻をずらして、あっという間に私の空間ができました。「どうも……」と言ってまわりを見ると、夜逃げ専門がいる、並骨董もいる、高級骨董もいる、懐かしい面々でした。

この長屋でもみんな結核でやられて死んでいったんですよね。最後に残ったのは私らとヨシエちゃんだったんです。「今度はあんたやね」「あんたが先にいきんさいな」なんて言ってたのに、ヨシエちゃんが逝って私だけが残りました。それから先生、長屋のみんなはね、桜の頃になると、ござを持って、ワンカップ大関とちくわで桜土手の花見をするのが好きだったんですよ。

でも、こんなお通夜をするのもぼくらの世代で終わりかなと思ってるんです、と甥御さんが言いました。面々が私に言いました。「先生、お世話になりましたな。看護婦さんにもタンをとってもらったり、助けてもらいましたな」 「いや、そんなことありません」「ほんに助けてもらいました」「そんな助けた、助けたなんて、助かってないじゃないの……」(笑)。

古時計が10時をうったので、長屋を出て、きつね橋の上からふと見ると、その長屋の一角に灯りがともっていました。あれって、ひとあかりというのかな、いいなと思いました。 鳥取でもそういうお通夜はむずかしくなってきています。家族だけでなく、近所に住んでいた人たちが集まり、それも暗く悲しくではなく、あっけらかんと、いろいろな思い出を語りながら死者を見送るお通夜。

いったい私たち日本人のなかでそんなお通夜を何人できるのか、と思ってしまいました。「死の関係学」と言われると、私はそのお通夜のことを思い出します。

【いま 生きているということ】

一昨年だったでしょうか。8月のお盆でした。開業医の先生から、17歳の高校生が血痰が出て、レントゲンをとってみると影があるので診てほしいという電話でした。 17歳で血痰。 16歳の胃ガンという症例はありましたが、でも、肺ガンで17歳は早いなと思いました。

背の高い男の子が帽子をかぶり、リュックを背負って、ノーテンキな感じでやってきました。彼が出したレントゲンを見てどきっとしました。縦隔に悪い影がたくさんあって、これは……、20年前解剖室で出会ったあれではないかと思いました。そして、看護婦さんに彼の尿の妊娠反応を調べるように言うと、看護婦さんは 「先生、ぼけてんじゃないの? 男の子よ、男の子。あらマジな顔してる。やるんですか?」。

しばらくして検査室から帰ってくると、「先生、あの子、妊娠反応は陽性です。Hしたのかしら」。そんなんじゃない。あのヒョリオカルチノーマでした。 お母さん、お父さんが来られました。私と同年配の方でした。病気の説明をすると、全然信じられない、私かウソを言っているのではないかという顔でした。

彼はノーテンキでした。看護記録を見ると 「タバコ20本、ビール大2本」と書いてあります。でも、片方でそういう生活かと思うと、片方では一生懸命ボランティア活動をしているというのです。その先輩たちも見舞いに来ていました。あるカップルが、見舞いにきれいなトルコキキョウを持ってきました。私はそれを見て 「きれいだね、この花言葉はなに?」と聞くと、そのカップルは「さようなら、です」。

化学療法を受けると脱毛すると聞いた友だちは、ゴム製のカツラを持ってきました。殿と姫のカツラでした。彼は抗がん剤を、ある日は殿のカツラ、ある日は姫のカツラで受けて、「先生、やっぱりこの薬、姫のほうが効くような感じですね」(笑)。彼にとってはお姉さんのような看護婦、お母さんのような看護婦、恋人のような看護婦がいて、看護婦さんみんなにかわいがられて過ごしていました。

あるとき、ベッドサイドで話しているとき疸撃発作が起こりました。脳転移でした。だんだん悪くなっていくのですが、彼の夢は理学療法士になることでした。願書を11月までに出さないといけない、どうしようと私に言いました。私は胸が痛みましたが、「ちょっと待って、もう1年待って」と言いました。 ちょうど願書締切の頃、共働きのお父さん、お母さんが泊まってくれた朝5時、彼は息を引き取りました。

食が進まないというので、看護婦さんが朝食にとゼリーをつくっていたのですが「間にあわなかったですね」と言いました。 死後の処置のとき、彼の手のひらに意昧のわからない言葉がボールペンで書いてありました。「ボストンバッグ、あさって」 夜、病棟に別の用で電話すると、ヘアサロンあゆみが夜勤で働いていました。「先生、カズ君、いないじゃない。あゆみさみしいよ、めちゃ、さみしいよー」

徳永 進

【生きる】

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ

それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うという
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬がほえるということ
いま地球がまわっているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

最後に、谷川俊太郎さんの詩を朗読。
拍手のうちに幕。


1996.7月 地下水脈 老人介護Q&A・番外編②

【Q】 「湧愛園」や「誠和園」の話を、うらやましく聞いている特養ホームの寮母です。私の施設では、隣接する病院からやってきた婦長をトップに、病院以上に管理的なケアが行われています。治療行為が少ないぶん、管理が行き届いてしまうので困ったものです。

ある入所者は言います。「病院では看護婦さんたちが忙しいので、隠れて何でも好きなものを食べられたけど、ここに来たら出されるもの以外は口にできん」と。 買物も面会者の持ちこむ食べ物もチェックされ、ほとんどの人は事前に禁止されてしまいます。元気で禁止のない数人は、金も家族の面会もほとんどない人なので、事実上全面禁止です。

私たちはずっと前から、もっと自由にしてほしいと訴えていたのですが、先日の゛事件″をきっかけに、ますます管理的になってしまいました。パーキンソン病のNさんは、カステラが大好物なのですが、嚥下困難があるからと禁止されていました。それでもNさんは食べたかったのでしょう。面会者に頼んでもってきてもらったカステラを、トイレで隠れて食べていて喉につまらせたのです。

発見されたときは呼吸もなく、手当てもおよばず亡くなってしまいました。 私たちは婦長から「それ見なさい。好きなものを食べさせるなんてとんでもない」と言われ、みんなシュンとしています。 でも、老人のおやつを取りあげるたびに、三好さんが講演で紹介していた『看護婦はドロボー、寮母はその手先』という老人のコトバが思い出され、つらい気持ちです。

【A】 パーキンソン病の老人がカステラを喉につまらせて亡くなった゛事件″から、あなたの施設の婦長は「だからもっと管理しなくては」という結論を導き、あなたたちの「もっと自由に」という主張を斥けてしまいました。 でも、私は全く正反対の結論を出すべきだと思っています。

Nさんは、管理主義によって死に至ったのです。そもそもプロ(資格の有無ではなく、金をもらってケアをやっている私たちのこと)で、しかも専門職なら、老人の希望を禁止するのではなく、どう安全にその希望をかなえるか、というふうに問題を立てるべきです。

なぜ彼女はカステラを喉につまらせたのでしょう。嚥下困難があるから、というのは原因を個体の機能にのみ限定した極めて狭い捉え方にすぎません。 理由は、職員に見つからないように、あわてて食べたからです。そして喉につまったとき、ゴホンとセキ払いしてカステラを出すだけの体力、この場合は特に腹筋と肺活量がなかったからです。

おそらくそんな婦長の下ですから、日頃から安静を強制されて、ふつうの体力が維持されるような生活かつくられていなかったのではありませんか。 さらに、喉がつまったのを、すぐに発見できなかったからです。それはもちろん、Nさんがトイレに隠れて食べなければならなかったからです。

どうして、職員や家族といっしょに、つまり目の届くところで食べてもらおうという発想にならないのでしょうか。お茶を飲みながら、ゆっくり食べれば、まず喉につまることはありません。万が一のときにもすぐに対応ができるはずです。 タバコも同じですよね。タバコの箱を寮母室で管理し、時間毎に1本ずつ配給してマッチの本数まで数えてるなんて施設もあるようですが、実はこうしたやり方をしているところほどボヤがよく出るのです。

゛Nさんのカステラ″と同じように、老人が隠れてタバコを喫うからです。 つまり、管理を強化すれはするほど管理しにくい状況をつくりだしてしまうのです。倉庫の物品を管理するのならともかく、欲求をもった人間を相手にするとき、管理主義は、結局゛管理″にもならないのです。

まして相手は老人です。 70年も80年もの時間のなかでつくられてきた嗜好を、今さら変えろなんていうのは゛管理者″として失格だと言わざるをえません。 9月にいっしょに゛湧愛園ツアー″に参加しませんか? タバコの自動販売機があって、老人が廊下の長椅子でタバコを喫っています。

ふと見ると、床のじゅうたんには無数のタバコの焼けコゲが。もちろん防炎加工してありますけどね。誠和園には喫煙コーナーがあって床はタイル張りになっています。職員が管理しないで、老人自身の自己管理能力に任せてごらんなさい。゛ドロボーの手先″になんかならないで、いっしょにカステラをいただき、タバコを喫って一服しましょうよ。


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