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介護夜汰話
変えられないものを受け入れる心の静けさを  変えられるものを変えていく勇気を
そしてこの2つを見分ける賢さを

「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /  経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
 (三好春樹)

「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
 (方方)

 介護夜汰話



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地下水脈 近代的理念と日本の介護 ~ボランティア論争の深読み~
地下水脈 なんとも俗っぽい教祖たち icon

1994 ~ 1993
1994.12月 近代的理念と日本の介護 ~ボランティア論争の深読み~

●10月のボランティアをめぐる討論についてふれたいそうですが。
あれは不思議な論争ですよね。村中さんがあれだけ苛立って訴えているのに、ほかのメンバーは、えっ何か問題なの、って感じでしよ。なかには「もっと我々にしてもらいたかったのか」というふうに、村中さんの主張とは逆に理解した人までいる訳です。

●村中さんの立てた論点に、他の人が乗ってきていないですよね。
乗る、乗らないの前に、ピンときていないんです。何を苛立っているのだろうという感じですよね。実はこういう構図の論争は、日本では何度もくり返されてきたと思うんです。

●遠藤先生は、リーダーという立場のせいではないかと言われていますが。
そうかもしれないけど、他にもリーダーさんはいたわけですしね。私としては少し、 ゛深読み″をしてみたいんです。 これは、明治以来、日本人の長年のテーマと同じ構図だと思います。漱石も鴎外これで悩んできたんです。 つまり、村中さんの側は「近代」なんですね。で、彼女が苛立っていて、なんとかしようと思っている対象が「日本的現実」なんです。

●うーむ、よく判らない(笑)。
近代というのは、「人間とは自立した個人でなくてはいけない」という理念から出発します。従って、人と人との関係は横の関係であって、神様でもメイドでもないんだ、と。

●村中さんの文章の中にありましたね。
特にボランティアなんてのは、そうした自立した個人が自ら自発性でもって参加する訳ですから、もう゛近代のカガミ″。(笑) ところが、その近代の典型、模範でなければならないボランティアが、実際の介護場面では゛没個人″になってしまう。

●それは、そうなるもんなんですか?
そうなるもんなんですよ、これが。(笑)介護現場に入りこんだ人なら判ると思うんですけど、いや、入り込んでいるとそれが普通だと思うから判らないかもしれないんだけど、これはもうありますね。村中さんが感じたのと同じ違和感を、私もかって感じたことがあります。でも、自分もやっぱりやってしまうんですよ。かなり抵抗したんですけどね。(笑)

●これじゃ゛個人″がないじゃないか、ということになるわけですね。
そう。それで「契約」なんて概念をもってきたらどうだ、なんてことになる訳です。でも無理だと思いますね。私たちはボランティアじゃなくて、職業として介護をしてきた訳です。

これはちゃんとした契約なんです。直接老人から給料をもらっているわけじゃないけれど、国を通しての契約関係ですよね。でも同じですね。しかも面白いのは、いいケアをやっている人ほど、周りから゛没個人″に見えるんです。

●「近代」の側から見れば、それは「前近代」としか見えませんよね。
そうなんです。だから変えなくちゃということになる。ところがそれは「前近代」じゃないんですよね。少なくとも「前近代」というだけでは捉えられない。そもそも、「近代」「前近代」という区分の仕方そのものが近代的発想なんですから。

●じゃ一体何でしょうね。
゛日本的介護状況″としかいいようがないんですけどね。文化が違うんですよ。「自立した個人」と「横の人間関係」という理念は、日本では完全に「建て前」でしかないんですよね。もっと違う原理で人と人との関係が成り立ってるんです。

例えば「日本的母性」なんてものを持ち出すと判りやすくなると思いますね。西欧の文化が厳しい父性社会であるのに対して、日本は甘えに寛大な母性社会だというのはよく言われていますよね。

「近代」の側から見れば、ベターっとくっついて過剰に見える介護は、実は「前近代」ではなくて「母性」という日本文化そのものなんじゃないでしょうか。西欧人が「自立」によって自己を確認するのに対して、日本人は母性的融合の中で自己を確認しているんですよ。だから「自己犠牲」なんて批判は当たっていないんです。

●すると村中さんの苛立ちは、日本文化への異議申し立てである、ということですか。
私の゛深読み″ではそうです。(笑)

●で、どうなんでしょう。こうした゛日本的介護状況″というのは、どうすればいいんでしょうか。
どうしなくてもいいんじゃないでしょうかね。(笑)と言うのも、明治以降「近代的個人」を日本人に移植しようとした試みは、ことごとく失敗していると思います。近代的知識と技術はいっぱい吸収したけれど、人間と人間関係は変わっていないでしょう。

●すると村中さんはどうすればいいんでしょう。
(笑)いや、村中さんに代表される近代の側、私たちもそういう教育を受けていますよね。その立場はどうなるのでしょうか。

「近代」という方法論でやれる領域はいっぱいあると思うんですよ。つまり、専門性とか、システムとか、契約的で合理的な人間関係の中でちゃんとできる仕事はあると思います。でも、あるところまでやると、そういうやり方ではどうにもならない、という現実にぶつかると思うんですね。

既成の専門性や科学ではどうにもならないというか、逆に、そうしたものが問題をよけいに深刻化してしまったというケ-スが出てくるんです。そうなったときに、それを解決しているのが゛日本的母性″だったりすることが多いんですよ。湧愛園だって誠和園だってそれを感じますね。そうした場では、近代はとても ゛母性″に勝てないんですよ。

●すると結論はどっちもあっていいということですかね。
うーん「近代」の側は、日本的状況にぶつかって一度挫折しなきゃいかん(笑)と思いますね。そして「近代」と「日本」をめぐって自分の中で葛藤すべきなんでしょうね。 ゛日本的母性″の側は、自己を表現する術を手に入れるべきでしょうね。

村中さんへの他の人たちからの反論はちょっと物足りなかったですね。もっとも、コトバをうまくあやつるのが近代人ですから、それは無駄な注文かもしれませんね。

●ひょっとしてこのインタビューの内容は高井さんの三好批判(30号参照)への反論の序章になっているじゃありません?
はい。構造的には同じだと思いますね。それについてはまた次号で。


1994.11月 なんとも俗っぽい教祖たち

「大阪おむつ外し学会」はすごかった。その参加者数も内容も、空前のものとなった。何の組織も持っていない者が、ただ現場の一人ひとりの内発性にのみ基づいて開く会としては最大のものではなかろうか。内容については、12月の広島のオムツ外し学会も負けてはいないが、規模は、広島の会場にはあれだけの人数は入れないから、おそらく、゛空前絶後″といってよかろう。

私自身にも、その゛空前絶後″が起こった。私は、午後9時にはベッドインするという健康的な生活を送っているのだが、学会の終わった日、大阪のスタッフたちと、午前1時半まで、カラオケボックスに行ってしまったのだ。

カラオケ嫌いの私がそんな所へ行ってしまったのはなぜか。その原因はその日の「打ちあげ」にある。 後片づけの後、運営委員会の人たちとの打ちあげの会が市内で持たれた。一人ひとりが感想を語るのだが、それが感動的だった。涙ぐむ人さえいる。大きな会をやりとげた後の満足感と解放感から、涙腺がゆるんだのかもしれないけれど、どうもそれだけではない。

「失語症ライブ」に参加した人たちが最も感動していた。病院で関わっていたケースが参加してくれて、目の前で伝い歩きができるようになったと見せてくれたというOTも泣き声だ。やはり、遠藤先生のやっていることはスゴイ!と再確認。

自分の仕事が変わった、と自らに感動している人がいるのはまだ判る。だが、自分の生き方まで変わったという人がいるのはどういうことか。生きていく自信がなかった人が、老人に関われる仕事に就き、この会の運営に参加して、ハタ目にも変わってきたという。

私は、他人との付き合い方は、できるだけドライにしようと心がけている。あまり個人的な事情には入り込まないし、自分も聞かせたりはしない。人生の諸々の事情は、たとえ耳に入ってきても、゛知らないふり″をしてつき合うのが近代人の礼儀だと考えている。

その私が、ついもらい泣きである。それでついつい、1時半までカラオケ、となってしまったのだが、一人ひとりの話を聞いていて、私たちの活動が回りから『新興宗教みたいだ』といわれてもしかたがないなあ、なんて考えていた。

断わっておくが、私自身は私たちの活動が ゛宗教的″になっていくのに手を貸したつもりは一度もない。むしろ、そうならないよう意識的にふるまっているつもりだ。お揃いのTシャツにだって若干の抵抗があるくらいだ。

「大阪おむつ外し学会」のスタッフもそうだ。特に代表を務めてもらった松本恵子さんは外から『宗教みたい』との批判をむしろ大事にして、学会の内容や運営が閉鎖的で権威的にならないよう気を配った、と語っていたくらいだ。

松本さんはタイプからしてそういう人で、1200人を越す参加者で満員の大ホールでの開会のあいさつに出ていくのにもまったく緊張がない。「ほな、行こか」という感じで舞台に出ていくのである。いくら人前でしゃべるのに慣れている保健婦とはいえ、こういう夕イプの人に「宗教的になれ」といっても無理な話である。

この間、スタッフをグイグイ引っ張ってきた小林早智子さんは、松本さんに言わせれば「ひとつのことにのめり込むタイプ」だそうである。そういう意味ではこの2人の絶妙のコンビが、学会を作りあげてきたのだが、その小林さんも、欺隔的なものに対する嗅覚の鋭い人で、この人も゛宗教的″なものには相入れない人だ。

打ち上げ画面 にもかかわらず「打ちあげ」でこの雰囲気である。これは何か。実は「教祖」がいるのである。もちろん私なんかではない。老人が教祖なのだ。老人に関わるなかで私たちは変わる。゛やらされている″仕事が、゛やりたい″仕事に変わり、生きていくことの意味さえ見えてくる。

この「教祖」は何とも俗っぽい人間的な教祖で、それに関わることで介護職は明るくなり、変わっていくのである。 考えてみれば老人とは、生きていくことへの肯定感をずっと積み重ねてきた人たちである。老いても、障害を持っても、ひどい病院や施設の中にいても、なおかつ「生」への肯定を止めなかった人たちだ。その彼らから、私たちが゛生きる意志″を与えてもらっているのである。

ボランティアで介護の仕事をすることで、例えば犯罪者や不良少年が変わっていくのは、「自分が役に立ったという経験」であると言われてきた。だが、老人介護に関しては、もっと深いところにその意味があるのだということを、大阪おむつ外し学会のスタッフたちの話から私は気づかされたように思う。

その私は彼らから、「カラオケに興ずる自分」への肯定感をもらってしまった訳である


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