●「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /
経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
(三好春樹)
●「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
(方方)
● 介護夜汰話
- List
地下水脈 “老人問題”とは何か
“ときどき介助”の効用 ~「受身的」についての再考~
地下水脈 スケベの解析
地下水脈 MRSAの特効薬
老人の入浴ケアの現在 ~誠和園の入浴法をデータで紹介する~
「現場の思い」あふれたオムツ外し学会 福祉週評掲載(福祉新聞)
地下水脈 スペシャル ”生活リハビリ”を語る(下)
- 1993 ~ 1992
-
- 1993.11-12月 “老人問題”とは何か
9月になると毎年多く開かれるのが、新聞社あたりが主催、後援する「老人問題」のシンポジウムやセミナーである。私は、こうした会には、講師としても聴衆としても参加しないことにしている。どうしてかというと、ちっとも面白くないからである。
面白くないのは、私たちのように、老人介護の現場にいる者だけではないらしく、一般の参加者も、なんだか暗~い気持ちになって帰ってくる、と言う。こんなシンポジウムやセミナーが好きなのはどんな人たちなのだろうか。
講師やシンポジストの話すことや、主催者の顔ぶれを見ていると、どうやら、評論家や文化人、さらに評論家的な人や文化人的な人、総じて、高学歴の知的職業の人や知的無職業の人たちである。彼らの主張の主旨は次のように要約できる。
「老人問題」が生じている原因は、日本の社会、特に政府の無策、あるいは不充分な政策に拠る、と。従って、制度・政策を北欧並みにし、施設や在宅介護を支えるシステムを作りあげ、誰もが安心して老後を迎えられるようにすべきである。それをしないで、家族、特に女性に介護を押しつけ犠牲にしている政府は許せない、と。
「ふむ、ふむ」と私は彼、彼女らの意見を黙って聞く。『でも、今、目の前にいる老人のことはどうなるのか、5年先、10年先に、彼、彼女らの運動によって立派な制度ができたときには老人は亡くなっているじゃないか』という思いは口に出さないまま。
ときに、こうしたシンポジウムやセミナーに、現場の実践者が登場することがある。私かかつて聴衆として参加したことがあるのは、その人の話を聞きたいがためであった。ところがこの実践報告が、受けない。会場にも、特に他のシンポジストに受けない。
現場の人間が、生きいきと老人との関わりを語れば語るほど、受けない。評価されないのだ。それどころか、次のように言われてしまう。「現場の人が自己犠牲の精神で頑張ってらっしゃるのはよく判りました。しかし、そういう個人的頑張りだけでは世の中は良くなりません。社会を変える運動へと普遍化しなければ、せっかくの活動も自己満足になるだけです」なんて。
実践報告のどこに「自己犠牲の精神」があったというのか、と私は不審気に、「○○大学教授」なんて肩書のついた発言者の顔をのぞいてみる。全く的はずれの不当な評価に、挙手して反論してやろうかと思うが、あの無表情な顔には理解は不能だろうな、と思ってやめてしまう。
彼らには、こうした実践は、あってはならないものらしい。現在の制度・政策の下では老人は悲惨な状況に置かれており、それを解決するためにこそ我々の運動が必要なのだ、と訴えているときに、その制度・政策の下で老人が生きいきしてます、なんて発表されたんじゃ、自分たちの存在理由がなくなるのであろう。
だから、同じような現場からの発表でも、「私たちは老人の権利を守るために自己を犠牲にして頑張っている。一刻も早く制度を良くしてくれないと老人も職員も倒れてしまいます」なんて涙ながらの内容なら、拍手喝采、評価も上々なのである。
彼らにとっては、現場実践は、彼らの主張を正当化する材料であって、材料にならない現実は無視してしまうのだ。私が、彼、彼女らの、こうした小児的精神構造を批判しているからといって、現在の日本の制度・政策が十分だと言っていると思われては困る。
もっと施設を、もっと在宅介護のマンパワーを、と訴えることは必要だろうし、そうした運動が実際に厚生省を動かすこともあるに違いない。だが、それが「老人問題」か、と私たちは思うのだ。そもそも「老人問題」というコトバそのものにも抵抗があるのだが、「老人問題」と呼んでいるもののうち、制度や政策といったものが占めているのは、ほんの一つの側面でしかないではないか、というのが私の彼らへの本質的な違和感なのである。
考えてもみよう。制度や政策が充実し、必要とする人が利用できるだけの施設も在宅介護システムもできあがったと想像してみよう。それで「老人問題」は解決できるだろうか、と。私たちの現場で生じている「老人問題」とば何だろうか、と問うてみよう。
もちろんその中には、制度・政策の不備をどう克服するか(批判するだけではない)という問題もある。だが、それよりはるかに大変なのは、例えば、〈老い〉というものとどう付き合うか、といったことである。〈障害〉を加えてみてもいい。〈痴呆〉でもいい。老人ホーム職員として、ホームヘルパーとして、〈老い〉をどう捉え、どう感じ、どう了解するのか、ということのほうが、少なくとも私たちには問題なのである。
自分の父や母の〈老い〉と〈障害〉にどう付きあうのか、という家族としての問題もこれに重なってくる。更に、老人自身が自分の〈老い〉や〈障害〉とどう向き合うのか、ということが、私たち自身の未来の課題とも重層して加わる。そしてそれは、総じて、〈老い〉や〈障害〉といった〈自然〉と、私たちがどう向き合うのかといった、生き方そのものとして、私たちに問うているのだ。
「老人問題」の解決には、いろんな側面での解決がある。制度や政策といった社会的側面での解決は、そのひとつに過ぎない。制度・政策の充実は、実は、もっと普遍的な〈老い〉を巡る問題の出発点でしかないのである。例えば、局地的・個別的には、既に、制度、政策といった側面では解決のついている所やケ-スは存在しているのである。
都市近郊の中産階級の居住地では、個人的資産を使って、それほど負担を感じることもなく、公的制度や民間の社会資源を使って、本人や家族の望む介護の仕方がかなり可能になっている。だからといって〈老人問題〉が解決されたことにならないのは自明である。
前述した、家族としての問題や老人自身の問題は、むしろここから、誰のせいにもできない形で露わになるのである。私はかつて、急性期の治療と生活期の介護を、前者を5%、後者を95%と表現したことがあった。(『専門バカにつける薬』筒井書房(「影の部分が見えているか?」P110~113)
もちろん、5%は、欠け替えのない5%であることを前提としてのことである。同じく、必要であることを前提にして言えば、シンポジウムやセミナーをやりたがる人たちの言う「老人問題」は、〈老い〉の問題全体の5%に過ぎないと言っていい。彼らにはそれが見えていない。
だから、残りの95%の課題に格闘している現場の実践報告の意味が判らないのだ。その課題が深くて、個別には答が出せても、とても一般化なんてできるものではないから、私たちが1人1人の老人の話しかしないのを、彼らは『普遍性がない』なんて言うのだ。
その95%の課題が、古今東西、人間に普遍的に問われている課題であり、それにいつも直面している現場の人間は、楽天的に明るくならざるをえないのだが、それとは反対に、その課題から逃げている彼らは、逆に深刻ぶるのだ。
さあ、「高令化社会を良くする女の会」や ゛生協活動の一翼として″なんて狭い量見で〈老人問題〉をやっている人、「5%」から足を洗って、こっちに来なさい。なんて書いても、そんな人は「Bricplage」なんかとってないんだ。
現場の皆さん、評論家や文化人たちの語る〈老人問題〉の面白くない原因は、こんなことだと、私は思って納得している。夢々、「私もあんな活動をやらなきや」なんて思わないように。
あなたが、関わっている老人との関係を変え、老人を生活の主体として生きいきさせていくこと、つまり、〈自然〉という不可避性との付き合い方を作り出していくことこそ、社会を一番深い所で変えていくことになるのですから。
介護の仕方を含めた「付き合い方」という具体的な生活の問題であるがゆえに、極めて思想的な問題として問われているものを、単なる「社会制度問題」にすり替えることのありませんように。
- 1993.11-12月 “ときどき介助”の効用 ~「受身的」についての再考~
(生活リハビリ講座 受講者通信1993・秋) 
図は、講座のみでなく、講演でも提起しているいつもの座標軸である。従来の、専門的で科学的な方法論が、じつは、老人を受身的で画一的にしてしまう〈A〉の方向性でしかなく、私たちは〈B〉の方向性、つまり、専門的で、かつ主体性や自発性を引き出す方法論を手に入れねばならない、と訴えてきた。
主体性や自発性を引き出す専門性、と言ってもよかろう。ここで言う「自発性」や「主体性」が、学者さんたちの言う「自己決定権」なんてものではない、ということについては、「生きいきジャーナル・通巻14号」に書かせていただいた。
私は「主体性」を、地理的には西ヨーロッパの、歴史的にはせいぜい最近100年くらいにしか通用しない近代的自我意識の中にではなく、゛生きもの″として人間、さらには、有機的自然としてのヒトの在り方そのものとして位置づけたいと思っている。ぜひ一読いただきたい。
さて、その反対側に位置づけられた、「受身的」についてひと言述べておきたい。『受身的にしてはいけない』というのはそれでよいのだが、だからといって、それを介護の手を抜く口実にしてもらっては困る。ヒトには介助してもらわねばならない時がある。子供の時、病気の時、そして老いた時だ。
介護する、ということは、一見すると、老人を受身にしているように見える。しかし、介護の介とは媒介の介であり、相手の主体の在りように応じて私たちを自己媒介化できるかどうかが勝負なのだた。それができたとき、たとえ全面介助であっても、それは老人の主体性を引き出す介助になっているはずなのである。
「半介助」とか「全介助」というコトバは使われているが、「ときどき介助」というのは聞かない。でも実際には、こういう老人は多いのである。いつもは一人でやっているのだが、ときどき職員の介助を求めるのである。こういうとき職員の側は「1人でできるんだから、甘えちゃだめよ」なんて対応をしていることが多い。「受身的にしちゃいけない」という訳だ。
でも、私たちも、ときどき受身的になってみたい時というのはある。それは、イザというときにちゃんと介助してくれるかどうかを確かめてホッとする、ということだけではなく、受身的になること自体の心地良さを味わいたいということではないだろうか。
名古屋老人ケア研のメンバーで、朝日新聞に「生活リハビリ」を連載(本誌P.56、57に収録)している河津孝一さんはこう言っている。「針灸マッサージ師がPTの真似をしたりするより、自分の持っている技術で老人を気持ち良くさせて『さあ、それじゃちょっと散歩に出ましょうか』と誘ったほうがいいと思うんですよね」と。
マッサージは私もよく受ける。これはたしかに受身的ではある。だが、受身になることによる解放感がある。それは、一時的に受身になることによって、再び主体性を発揮しようとする方法なのだろう。「主体性」が、私たちが有機的自然であることに発しているのなら、「受身的」とは、ヒトを無機物のように扱うことだということになろう。
しかし、マッサージには、同じ「受身」でも、「省力化入浴システム」や安静看護技術とは違って、有機的自然を再活性させるという考え方と手技が含まれているようである。その辺りもこんど河津さんに尋ねてみよう。
さて、老人の「ときどき介助」、いいじゃないですか。「処遇の統一」なんて固いこと言わないで、「じゃ今日だけ特別」「他の人には内緒よ」なんていいながら「一時的受身」にしてあげましょ。それが主体性を育(はぐく)むこと間違いありません。
- 1993.09-10月 地下水脈 スケベの解析
Yさんは、言ってることもよく判らないし、よだれは垂れるし、ときには、下(シモ)のほうも垂れるというおじいさんである。しかもスケベで、Yさんのベットの上に立って物人れの整理をしている寮母さんのスカートの中に、すでに寝たきりとなっているYさんが手を入れたりするのだ。
「ま。このじいさんは! ダメよ!」寮母さんに叱られて「エヘヘ」と笑っているのである、寮母さんのほうも、叱っているとはいっても楽しんでいるふうで、Yさんは寮母の間の人気物である。
それに比べると、かわいそうなのはKさんである。Kさんも寝たきりなのだが、Yさんよりはよほどしっかりしていて、身の回りだってきれいである。でも、「いやらしい」と寮ほの問では嫌われているのだ。
といっても、Yさんのように、スカートに手を突っ込んだりするわけではない。ちょっと触ることもない。ただ「オムツ交換」をしてると、胸もとをじっと見ている」のだそうで、寮母さんに言わせると、「その目がいやらしい」ということらしい。
どうやら、同じ゛スケベ゛でも、女性の介護職に好かれるタイプと嫌われるタイプがあるらしい。その違いは、いったい何によるのであろうか。「明るいスケベは好かれて、暗いのは嫌われるのかな、ほら゛ダンマリスケベ″なんていうし」
「うーん、でもFさんはどうです?」明るくても嫌われている」(笑い)
「そういえぱそうだ。」
「枯れてるかどうかじゃないですか?枯れてれば許せるけど、まだ若くてギラついてると気持ち悪いとか」
「でもEさん見てごらん。あの人は枯れてるとは思えないけど人気あるよ」
「そうですねえ」
生活リハビリクラブに関わっている私と上野文規氏との、利用者とスタッフを゛観察″していての会話である。何しろ、自分たちの未来が明るいものになるかどうかがかかっているのだから真剣である。このコツが判るまでは齢はとれない。
結局、現在有力な説は次の2つである。
①゛遊び人″説 昔、女性を相手にキャバレーやバーあるいは昔のことだから遊郭あたりで遊び人だった人は好かれ。気まじめだった人は嫌われる、という説である。これはかなり説得力かある。
゛遊び人″だった人は、お尻の触り方ひとひとつでも ゛自然″なのである。
それに比べると゛まじめ人″はぎこちない。その辺りが、女性介護職が、サラッと流せるかどうかの分かれめになるのではないか。
②゛資貿″説 これは゛遊び人″説も全てのケースにはあてはまらないことから出てきた説で「結局は一人一人の資質だよねぇ」という、そう言ってしまえぱ何でも説明がつくという結論である。それくらい、この問題の解明は難しいということであろう。
となると、私の未来はどうなる。女性介護幟に嫌われずに゛スケベ″をする゛資質″は私にはないように思われる。かといって、いまから゛遊び人″にもなれそうにない。
あきらめるか。
- 1993.07-08月 地下水脈 MRSAの特効薬
気が重くなる話である。ある病院で、老人患者の1人からMRSA(Methicillin - resistant Staphylococcus aureus=メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)が検出された。その途端、この老人は個室(というよりは“孤室”)に隔離され、特別扱い(=差別)されることとなった。
部屋から出ることも、他の老人が部屋を訪ねることも禁止された。もちろん楽しみだったリハビリ室でのおしゃべりもできないし、お風呂にさえ入れてもらえない。言っておくが、この老人は、単にMRSAの保菌者だというだけで、発熱や下痢といった症状は何も起きていないのだ。
にも拘らず、ある日突然、彼女の回りの世界は一変してしまったのである。何しろ、職員も他の患者も、家族さえも近寄らなくなり、“やむなく”やってくる人も、マスクにガウンで誰かさえ判らず、しかも、恐る恐る接触するのである。
その日のうちに彼女ば゛終末″となった。目が虚ろで表情が消え、ベッドで寝ているだけとなって、3週間後に亡くなったという。MRSAで大騒ぎしている人たちよ。あなた方は、B型肝炎の時にも、隔離だ、消毒だといって。パニックになったではないか。あれはいったい何だったのか。
MRSAのような感染力の弱い菌で大騒ぎするのなら、緑膿菌なんかはどうするのか。緑膿菌は下半身マヒの障害者の尿からしばしば検出されるが、MRSAと同じように有効な対策は見つかっていないではないか。そもそもこうした菌は、昔からありふれた菌である。
つまり、私たちと生活を共にしてきたのである。例えば黄色ブトウ球菌は、食中毒や肺炎を引き起こすが、それは、菌が大量に増殖している食べ物を摂取したり、体力が極端に低下している時に発症するに過ぎず、その辺にウジャウジャ、例えば、あなたの身体にだっていると思っていいのだ。
MRSAはその黄色ブトウ球菌の新種とはいえ、感染力は極めて弱く、大手術後の患者や抗生物質を大量投与された患者以外には、たとえ保菌者であっても問題になることなどないことは既に述べられているとおりなのである。
しかも、有効な対処法がないというのでパニックになっているが、じつは、ちゃんと対処法があるのだ。菌を消滅させる(そんなことは不可能だし、する必要もない)のではなく、たとえ保菌状態であっても発症せず、いつのまにか菌がいなくなってしまう、という方法論があるのだ。
恐らく、現場の寮母さんや看護婦さんは、知らないうちにMRSA陽性になり、知らないうちに陰性に戻っている人はいっぱいいるはずである。それはどうして可能なのか。じつは特効薬があるのだ。それは、体力である。特別な体力ではない。普通の生活の中で作られた生活する力である。
特に大切なのは免疫力、抵抗力だが、こうした力は、本人の前向きの気持ちに大きく左右されることが良く知られている。感情が豊かになれば、特に゛笑い″が、ヒトの免疫力を高めるというではないか。多くのMRSA保菌者が、退院して地域に帰るとそのほとんどの人が陰性になっているのがその良い証である。
生活の場には消毒も隔離もない。その代り、生活があり人間関係があり、笑いがある。それこそ、私たちが、特養ホームの現場から開き直り、創りあげてきた「生活の場ならではの方法論」ではないか。とすれば、冒頭の病院のスタッフは、全く逆のことをやっているのである。彼女や、多くの保菌老人たちは、決してMRSAで死んでいくのではない。
病原性の弱いMRSAにすら抵抗できない状態によって死んでいくのだ。隔離して生活をはく奪することにこそほんとうの死因がある。老人ホーム関係者よ。 MRSAの老人こそ病院から受け入れるべきではないか。病院という「生活はく奪空間」から「生活の場」に迎えるべきではないか。
病院でオムツだった老人を、ホームでオムツ外ししてきたように、鼻腔チューブの老人が口から食べるように頑張ってきたように、MRSAも陰性にしてみせようではないか。長野県の老人ホーム関係者は「感染に対して『危険』『安全』と医師に2つの意見があった場合、私たちとしては、安全策を取らざるを得ない」(信濃毎日新聞、1992・ 6 ・ 8)ともっともらしく語っている。
何を主体性のないことを言っているのだろう。医師にはいろんな医師がいる。「痴呆性老人は、人の皮をかぶった獣かウジ虫だ」と平然と言う医師だっているではないか。しかし、私たちがそんな立場をとることはない。それは、この間の痴呆性老人のケアの経験からそれが間違いであることを断言できるからである。
この医師とは違った痴呆性老人観、人間観を持っているからだ。MRSAは保菌者を、単なる「感染源」、老人ホーム入所者を「易感染者」の集団と見るか、それとも、生活の主体として見るかということは、私たちの老人観、人間観の問題なのだ。
「MRSAお断り」なんて人間観は、人間を化学物質の反応体としか見ない「医療の人間観」どころか「ICU(=集中治療室)の人間観」への後退でしかない。そんな人間観から遠く離れた所に私たちの人間観を創り出すだけの実践を、老人ホームの現場は積み重ねてきたはずではなかったか。
気持ちが明るくなる話で終わろう。4月29日に福岡の「宅老所」をお訪ねした。託老所ではなく宅老所である。お寺の本堂でデイサービスをやっていた元寮母の3人組が、古い一軒家を改造して新たに出発したのだ。築70年というから古い家だが、それが老人たちに似合っていて、他にはない落ち着きである。
なんと、2人の老人がここに住みついている。1人は94歳で、ここなら何とか1人暮しできるだろうと、増築して個室を作ったという。もう1人は病院で縛られていたのを、家族が見かねて“自発的退院”させてきたという、可愛く呆けたお婆さんである。
お風呂は古家に似合わず近代的で真新しい桧(ひのき)の風呂である。もちろん、障害老人向きに38センチの高さだ。この風呂は、3人のスタッフもお気に入りで、なんと、老人といっしょに裸になって入浴しているという。痴呆性老人は、服を脱ぐのを嫌がることが多いがここではそんなことはないそうだ。
「こっちが先に脱ぐと、すぐ脱いでくれますよ」と言うのだ。なるほど。ここには、「MRSAお断り」なんていう゛福祉″と対極の「福祉」がある。対極の老人観がある。そして何より、対極のアプローチがある。
私たちの経験の最も良い部分が、こうした民間の小さな実践の中に受け継がれている。老人ホーム関係者も、地域の保健婦やヘルパーも頑張ろうよ!
MRSAに対する私たちの対応は次の通り。
M MRSAの
R 老人にこそ
S 生活を!
A あたりまえのケアを!
- 1993.05-06月 老人の入浴ケアの現在
~誠和園の入浴法をデータで紹介する~ 【なぜ、あえて数量化するのか】
生活リハビリ講座を受講していただいた方はご存知のように、私は、ADLを点数で表わすなんてことはやめようよ、と訴えている。点数よりは、1人1人の老人の表情こそが、何よりも生活の変化を表現しているからである。
だから、誠和園に、゛生活リハビリ式お風呂″が実現して、職員の工夫と熱意で大半の老人が、日常生活に近い入浴が可能になったということも、゛50人のうち45人が普通浴になった″ということ以外には゛数字″を持ち出したりはしてこなかった。
それより何より、鼻腔チューブを入れられたまま入園してきたSさんが、45人めの入浴可能者になったという事実の方が、はるかに説得力を持つと考えてきたからである。にも拘らず、私に、老人の入浴の自立度と職員の介護量の変化を数量化して提起しようと思わせたのは、1冊の報告書であった。
この報告書はある県の「省力モデル事業検討委員会」が、ある特別養護老人ホームに導入された入浴システムによる職員の省力化についての研究をまとめたものである。公的な予算がたくさんついているらしく、良質な紙にカラー写真まで使ったものである。
゛専門家″と称する人たちによる細かな数字の羅列は、もとより私には興味はないが、がまんして読んでみると、じつは何も語ってはいないという代物である。私が目を止めたのは1枚のカラー写真である。その近代的システムとやらで ゛モッコ″に乗せられた老人の姿はなんとも惨めである。
写真では表情までは見とれないが、゛モッコ″からぶらりとさがった足以上に、゛生活の主体″から遠ざけられているくらいのことは判る。 そうなんだ。こういう写真を平気で出す人たちがいるのである。゛数字″には興味があっても゛表情″には興味すら示さない人たちが、さも科学的で専門的であるかのような゛データ″で、現場を指導しようとしているのである。
そして、そうした゛データ″につられて高価なシステムを導入する施設長や理事長がいっぱいいるのである。 ならば私たちも゛データ″を提出するよりあるまい。゛数字″しか信用しない人には゛数字″で説得しようではないか。それで老人の笑顔が確実に増えるのだから。
なお、余談だが委員として共著者に名を連ねさせられた私の友人のOTが、「こんな報告書に私の名前は出さないでくれ」と強く主張し、既に印刷されてしまった彼の名前の上に黒いインクが塗られて消されているのである。ふだんは強く自己主張することのない彼の頑固さに驚いたのだが、この報告書の唯一の痛快事であった。
【誠和園のお風呂とは】
さて、ここで私があえて数量化を試みようとしている広島の特別養護老人ホーム誠和園のお風呂は、既に誠和園職員によって発表されたり、紹介されたりしており、本誌読者には改めて説明するまでもないと思われる。 本誌の10号には設計図と写真が載っているし、「生きいきジャーナル2巻2号・特集・風呂に入る」にも詳しく報告されているとおりであるが、簡単にそのお風呂について説明すると共に、写真を添えることにした。

ごらんのように、浴槽は、市販の3人浴槽と5人浴槽を使っている。これらの浴槽は、会社の寮やペンションなどに販売されることが多いものである。「介護覚え書」(医学書院)でも述べているように、私が一番障害老人に適していると考えてきたのは、市販の和式の家庭用浴槽である。
ただ、何しろ特養ホームでの入浴である。私を含め関係者には若干の躊躇があり、そこまで踏み切ることができなかった。せめて、できるだけ小さい浴槽にしよう、ということでこういう形になった。 浴槽の深さは60センチで20センチを埋めこみ、40センチ床から出た形である。
これは老人が坐りやすく、かつ立ちあがりやすい高さであり、同じく40センチの「洗い台」を付けて浴槽に出入りする。 機械浴も、よくある、上を向いたまま寝た姿勢で入る「特殊浴槽」(私たちは゛天ぷら揚げ器″と呼んでいる)ではない。足を垂らした安定した坐位のまま浴槽に入れるリフト浴である。
<図1>
果たして特養の老人に゛天ぷら揚げ器″が本当に不要かどうか、正直言って不安ではあった。そこで、職員が「心配だ」と言う老人に会わせてもらって、股関節などをチェックしてみた。確かに身体の固い人が1~2人いるものの、私はおそらく大丈夫だろうと思ったが確信はない。
しかし、「もし無理でも1人か2人でしょう。そのために゛寝たきり浴″にすることはありません。どうしても無理なら、2人がかりでも3人がかりでも普通の浴槽に入れますよ」とスタッフが言ってくれたことが決め手となった。その結果゛寝たきり浴槽″は誠和園の庭で雨ざらしになっている。
なお、私が理想として提起している、1人用の浴槽を並べたお風呂については、この4月にオープンのデイサービスセンターせいわ園で実現している。特養誠和園での入浴実践の中から゛理想″が可能であることが確かめられた結果である。
つまり、ここで報告している「特養誠和園のお風呂」も、既に古くなっているのである。これを読んでもらっている人には申し訳ないが、゛データ″に頼ってやっていこうという姿勢が、既に゛何年遅れ″のものでしかないことが判る良い例である。最新のデータは現場の試行錯誤の中にしかない。にも拘らず、私かこのデータを発表しようと考えた理由は既に前章で述べたとおりである。
【老人の自立度はどう変化したか】
誠和園のケアの見直しは7年前から始まった。食事ケアの見直しをきっかけに、排泄のケアに及び、それぞれ大きな成果を挙げていることは既に知られているとおりである。 入浴ケアの見直しは、そういった成果を受けてのものである。
だから、ここで示すデータは、浴槽を変えたことだけで変化したものでは決してない。従って、浴槽の改装の直前と直後のデータを比べても、その意味は半減してしまう。 そこで私たちは、9年前の、「寝たきり処遇花盛り」(寮母の梶本さんのコトバ)の頃のデータと比較してみようと思う。
I。浴槽利用者数の変化

〈表①〉に示したように、9年前、寝たきり浴の利用者は50人中37人(74%)に及んでいる。とはいえ、この割合はそれほど驚くにはあたらない。私が勤務していたホームでも少しづつ特浴利用者が増え、同じくらいの数字になっていたはずだ。
それが何と、一般浴に44人(88%)が入っているのである。実は現在は45人である。 45人めは、私かよく講演でスライドを使って紹介している、病院から鼻腔チューブをつけて入園してきた女性である。
Ⅱ入所者の移動の自立度の変化

その結果老人の浴槽への出入りの自立度はどうなっただろうか。〈表②〉に示す。 ここでは、よく専門職が学会発表で行なっているように、自立を3点、一部介助2点、半介助1点、全介助0点として点数化を行なった。その結果、37点が86点、約2.3倍の自立度アップである。
Ⅲ。洗体、洗髪動作の自立度の変化
体を洗ったり、髪を洗ったりする動作はもっと自立度がアップしている。従来は自立及び一部介助の人は2人に過ぎなかったのに現在は21人である。これは入浴の姿勢が安定したことと、職員にゆとりができたためである。〈表③〉に示す。

【職員の介護量はどう変化したか】
私たちは、どんなケアをすべきかという根拠を、より生活的なものであるかどうかに求めてきた。そして、それによって生まれてくる老人の落ち着いた表情と笑顔が、その根拠に確信を与えてくれている。 しかし、大半の老人介護の世界はそうはいかない。
どんなケアが職員にとって楽か、ということを根拠にする人も多い。私たちに言わせれば、老人が落ちついて笑顔が出ることこそ、介護者にとっての一番の゛楽″だと思うのだが、彼らはデータに表わされる「介護量」にしか興味はないらしい。
そもそも、「介護」というものを、何kgの負荷といった数字だけで表わそうと考えることが、現場の実態を知らない人のやることであるが、ここではあえて、そうしたやり方で誠和園の方法を数量化してみよう。 何しろ9年前の話である。当時の入所者を確定すると共に、寮母日誌などから、1人1人の入浴状況を想い起こす作業から開始した。
この作業には、9年前から誠和園及び併設の養護ホーム和楽園に継続勤務している寮母及び元寮母4人に協力を頂いた。こうして出てきた数字が、既に述べた自立度の変化として紹介したものである。 介護量については、更に、入浴に際して必要な介護動作を、その難易度に応じて、次のように分類した。
重介助 3点
中度介助 2点
軽介助 1点
これらは、老人1人1人についてではなく、それぞれの入浴法を利用している老人全員の介助量の平均を、現場の実感をもととして出したものである。
IV.従来の入浴介助を数量化する
〔従来の一般浴〕
従来の一般浴は、よくある温泉の大浴場風の風呂である。 ゛バリアフリー″などといって建築家が設計したこうした風呂は、現場の職員に大変な労働を強いている。階段やスロープをつけても、風呂がますます広くなるばかりで利用できる老人はほとんどいなのも良く知られた事実である。

※これらの介助は大変だが、9年前 誠和園では11人は自立、一部介助の2人も声かけだけなので数量化できなかった。皆さんの職場で数量化する場合は1人1人の平均で各々の介助が何点に当たるか、現場の人で定量化してみてほしい。 2点、2点、3点、3点くらいではないだろうか。
こうした埋め込み型の風呂は、まず、床に座る、という難しい動作を老人に強いる。さらに浴槽の出入り、特に出る動作は位置が低いため介助か大変である。さらに、濡れた床から立たねばならないとくるから、これはもう゛風呂場″ではなくて゛修羅場″である。 従来の誠和園では自立している人しかこの風呂は使えなかったため、介助は声かけ以外にはなく、点数はO点である。
〔従来の特浴〕
従来の寝たまま浴槽の介助も大変である。これは私も4年半、特養で仕事としてやっていたから定量化に加えさせてもらった。 必要な介助とその点数、及び必要な人数を 〈図3〉に示す。
特浴に必要な労力は、1人平均が (3点×2人)十(1点×2人)十(1点×2人)十(3点X2人)=16点であるから、これに人数をかけて、 16点×37人=592点となる。 従来の入浴法に必要とした労働力は、一般浴O点、特浴592点 合計592点である。

II.新しい入浴介助を数量化する
〔新しい一般浴〕
新しい一般浴の介助は〈図4〉のとおりである。何しろ従来とは違って44人もの老人がこの方法で入っているから、いわゆる゛寝たきり″と呼ばれている人、足に力の全く入らない人も多く含まれている。 皆でワイワイ言いながらつけた点数が〈図4〉の各々の数字である。
ベッドから車イスヘの介助は3点なのに、 車イスから入浴台や車イスからベッドへの介助は2点なのはどうしてか、と思われる人もいるかもしれないが、現場に人はおわかりと思う。老人がその気になっているかいないかによって介助量は違うのである。
一般浴44人のうち、自立と声かけのみの一部介助の人25人を除いた19人に必要な介助量は計15点、そこで15点×19人=285点となる。

〔新しい坐位浴〕 新しい坐位浴に必要な介助は〈図5〉に示す。シャワーチェアーを居室まで持ち込めば介助回数は少なくなるのだが、誠和園ではシャワーチェアーはあくまで風呂の中だけ、という考えで、面倒でも2回の移乗介助をしている。
1人平均15点で、利用者は6人だから15点×6人=90点となる。新しい入浴法に伴う介助量は285点+90点=375点である。 表にまとめると〈表④〉となり、介助量は4割近く減っていることが明らかになる。 さらに、洗体、洗髪の介助量を数量化して上の得点に加える。
洗体、洗髪の介助量の計算は〈表③〉の自立度の表を、逆に全介助を3点、半介助を2点、一部介助を1点、自立をO点として数量化する。 それを〈表⑤〉に示す。また、〈表④〉と〈表⑤〉を合計した総合的な介助量の変化を 〈表⑥〉に示す。同じく、従来に比べて、40%に近い省力化になっていることが判るだろう。

【皮相な合理主義に訣別を】
お判りのように、老人の自立度が高くなっているのはもちろんだが、職員の介護量も大幅に少なくなっているのである。 機械を使わない平凡な浴槽を使う、と聞けば、゛さぞかし介助か大変だろう″と思うのは実はシロウトである。
誠和園では寮母さん1人で介助できている。もちろんそれには若干のコツが必要だが、それは私の「生活リハビリ講座」に出ていただければいい。(既に受講された方へ。浴槽を出るときのコツは、実技でやった、立ちあがり動作の応用である)
「老人のことを考えると職員は大変だ」というふうに、老人の満足度と職員の省力化は両立しないと思われていることが多いが、この入浴介護については決してそうではない。 考えてみれば当り前なのだが、本当の省力化のためには、老人自身の持っている力をちゃんと引き出すことこそ必要なのである。
端坐位という足を垂らした安定した姿勢なら、どんな老人でもかなりのことができるのである。 ところが、厚生省までが後押ししてすすめられている゛省力化″ときたらどうだ。受身的な姿勢を強いられ、老人自らできることは何もなくなってしまう。そうなれば職員の介護も大変になる、という悪循環である。
そもそもこうしたシステムは、実はちっとも省力化にはなっていないのだ。現場の人なら判るはずである。ベッドに寝ている老人を、上向きで寝た姿勢のまま゛モッコ″に乗せ、廊下のレールで゛運搬″する゛作業″は果して楽だろうか。
工場で、60kg~80kgの物体をA地点からB地点に運ぶのであれば、こうしたシステムは確かに省力化になるだろう。だが相手は人間である。老人である。じっとベッドのまん中に上を向いて寝ている訳ではない。ところがこうした゛システム″は、その老人が上を向いてじっと寝ていることを前提にして作られている。
だから老人がベッド上でゴソゴソして体がずれていたり捻れていたりしていると、使いにくなってしまう。゛モッコ″の上でも老人はゴソゴソする。そのたびに「危険だから」と怒らねばならない。 私がいつも言っているように゛ゴソゴソ″こそ人間の主体性の基本なのである。
それを抑圧された老人が、生活の他の場面で主体性を発揮すると考えるのは難しい。かくして、この゛省力化システム″は、老人の廃用性萎縮を促進するだけではなく、主体の崩壊をもまた強力に推し進めるのである。 私は合理的なことは嫌いではない。むしろ不合理なことは嫌いであり、どちらかというと合理主義者である。
しかし、老人介護という、人間、しかも老人を相手にする世界に、皮相な合理主義が入り込んでくると、老人はもちろん、現場の職員に大変な弊害をもたらしてしまう。入浴介護で起こっていることはその一例にすぎない。 こうした皮相な合理主義を突き破るエピソードは現場にはいくらでもある。
家の前に階段のある家の老人を、特養の入浴サービスに送迎することになった。階段をどうやって運ぶかが問題になり、福祉事務所や保健婦といったメンバーが考えたのが車イスを乗せたまま階段昇降できる車である。キャタピラーのついた戦車の子分のようなものである。
ところがこれ、車イスに乗っているほうは恐くてしょうがない。実際に一度乗ってみれば良く判るが、位置が高くてとてもではないが落ち着いてはいられない。 見るに見かねて、特養の職員が老人をおんぶして階段を降りたという。老人(お婆さんだが)は恐がるどころか感激し、以来、その職員の言うことなら何でも聞いてくれるようになったという。お陰でショートステイも体験することになったという。
こうした話は、゛介護″の決して数字にならない部分、してはならない部分を教えてくれているといえよう。 誠和園で起こっていることは、こうしたエピソードを大規模に実現しているようなものである。一見、手がかかり面倒なように見えても、良い介護は老人を心身ともに落ちつかせる。
だから、例えば夜間みんなよく寝てナースコールが少ないといったふうに、他の部分でずい分職員は楽になれるのである。 良い介護は何より良い人間関係を作る。老人にとって介助を受けることが屈辱ではなく喜びになり、私たちにとっては、作業ではなくアート(術)になる アートに合理主義は似合わない。ましてや皮相な人間観に基づいた皮相な合理主義など。
- 1993.03-04月 「現場の思い」あふれたオムツ外し学会
福祉週評掲載(福祉新聞) 「第3回日本オムツ外し学会」(11月21日~23日・広島市)は想像を超える会となった。 前夜祭は会場に参加者が入り切れず、開始の五分前に急拠2つの会場に分かれてもらい、私の講義と熊本老人ケア研究会の寸劇「老人の排泄ケアはそれぞれ、2回公演することになってしまった。
そのうえ、壇上にまで座ってもらってもまだ廊下に人が溢れる始末。 すでに、参加者の自発性だけで運営する″学会″としては、その規模が限界を超えてしまったようだ。 すごかったのは参加者数だけではない。北は北海道から南は沖縄まで、自費で全国から実践報告をしに来てくれた人は30人に及び、そのひとつひとつの内容に私は感激した。
今回の特徴は、PTやOTといった専門職が、入浴ケアを始めとする老人介護に関わっている報告が多かったことである。 さすがに彼らの発表は、10分という短い時問内に、スライドやビデオを使い、自分のやっていることと思いをうまく伝えてくれた。
一方、寮母やホームヘルパーの発表は、制限時間を越えて20分もしゃべって、まだ話は入口だったなんてのや、方言丸出しの型破りな報告が会場を沸かせた。それはあたかも、「現場の想い」が、とてもそんな学会の形式には収まり切れないよ、と訴えているように私には思えた。
特に参加者の間で話題になった発表を2つ絡介しよう。 北海道の端野町のホームヘルパーの山本さんは、同町の保健婦の菊池さんと2人で登壇。違う職種同士がいっしょに発表するというのもこの学会らしいが、内容はもっと学会にふさわしいものだった。
”寝たきりゼロ”が叫ぱれながら、上を向いた姿勢で入浴させる。”寝たきり入浴サービス”が蔓延しているなかで、家での入浴成功が11例、さらに、日曜まで訪問して便器に座ってもらい続けて自然徘便に成功した例が4ケースもあるという。
ホームヘルパーを増やせという声は高いが、肝心の何をするためにヘルパーを増員するのかが分かっていない市町村が多い。ヘルパー増員の目的は、こうした”寝たきりゼロ”を実践するためなのである。
福岡市からやってきた下村恵美子さんら三人娘(?)は元特養ホームの寮母。管理的な施設ケアに飽き足らず、″脱サラ″して民間のデイサービスセンターを始めたという。と言っても、施設を建てる金もない。そこでお寺の本堂をお借りして実践しながら、これまた寺の敷地内の家の改造資金を集めているという。
この学会でも、協力者から現品カンパのあった衣料を会場で販売レたり、カンパを訴えたり大忙しだったが、発表のほうは、20分も話して、まだ、なぜ施設を辞めたかというところまでしかいかず。最後の全体討諭で続きを話すという始末。表現したいことがいっぱいあるのだ。この熱意で、改装資金達成まであと一歩だという。
こんな面白い発表をぜひ他の人たちにも絡介したい、と5月16(日)、東京で閲かれる「生活リハビリクラブ5周年記念・寝たきりケアゼロ作戦セミナー」での出演を依頼交渉申。
- 1993.01-02月 地下水脈 スペシャル ”生活リハビリ”を語る(下)
”QOL”の問題点 問 :前号の″生活リハビリを語る・上″を興味深く読みました。その中で三好さんは、生活とは何かということについて、朝起きて、歯を磨いて、会社に行ってという実体としてではなく、私たちを生活に向かわせているものが大事なのだというふうに語られました。
そこでちょっとお聞きしたいわけですけれども、クオリティー・オブ・ライフ、QOLを大事にしようよと言う主張と、三好さんのイメージしている生活というもの、あるいは生活に向かわせるものというものとの違いについてお話し頂けませんでしょうか。
三好:クオリティー・オブ・ライフと呼ばれているものと、私の考えというのはかなり違います。身体に障害があるかないかとか、生活が自立しているかしていないかという評価の軸に対して、社会的に有用であるかどうかという別の軸をもってきたというのがクオリティー・オブ・ライフですね。
ですからアメリカあたりで、たとえ身体に障害があって人に介護を受けていようとも、弁護士として社会的に有能であるということであれば、それでいいじゃないかという形で語られてきました。ですから別の価値観をもってきただけだという気がします。
そうすると私たちが関わっているみたいな、当然弁護士でもないし、優秀な頭脳ももっていない、社会的な有用性もあるとは思えないというような人は、これは質が低いんだという形で評価されてしまうことになります。
そもそもクオリティー・オブ・ライフというのを「人生の質」なんていうふうに訳していることそのものが問題で、本来は「人生の意味」というふうに訳すべきだと木下康仁先生もおっしゃっています。ところが実際にはアメリカでも日本でもQOLというのは、かなり近代的で合理的な価値観を押しつけているような気がします。
ですからクオリティー・オブ・ライフを数量化しようなんていう人が現れてくるわけです。恥ずかしい話ですがPTの偉い人の中で、クオリティー・オブ・ライフが高いのは、例えば地域社会にちゃんと出て生活をしている人であって、その次は家庭内にいる人であって、それから自分自身の生活だけをしている人はクオリティー・オブ・ライフが低いなんていうふうに、段階づけをしていこうなんていう人がいるわけです。
私たちはこういう考え方では老人のケアということはできないと思います。
”生活に向かわせるもの”とは 問:なるほど。身体障害の程度やADLによる差別よりも、QOLによる差別の方がもっとひどいですよね。何しろ″質″を評価してしまうんですからね。よくわかりました。では本論に戻ってその生活に向かわせるものというのは、いったい何なんでしょうね。
三好:もう生きていくのを止めようと思っている人、食べるということを拒否していた人が食べ始めて、そしてごそごそ動き出しスーパーマーケットまで出て行くなんていうケースがあります。例えば広島の誠和園から、第2回のオムツ外し学会で発表されたケースなんて、まさしくそうですね。
鼻腔チューブを付けられて、手を抑制されて病院にいた人が、老人ホームに入ってきます。そして職員さんのいろいろな関わり方によって、自ら食べ始めるわけです。食べ始めるというのは生きていこうということなわけですけれども、そのきっかけというのがいろいろあります。
例えば看護士さんが、お婆さん食べて下さいと言うと、あんた食べなさい、というので自分が一口食べて、それでお婆さんの御飯だよというと一口食べた、これを繰り返した、というふうなエピソードがあります。これなんかは相互的な人間関係の中で、初めて人間というのは生きていこうという気持ちになるのだということを教えているような気がします。
介護されるという一方的な関係の中では食べる気がしなかったものが、一緒に食べるということで食べ始めた。もちろんこれは偶然かもしれません。だけど他にも見ていくと、栄養士さんや調理士さんが、何か好きかと聞いたら、果物だと言うので果物ばかりのお膳をつくったら、それで食べ始めたという話があります。
これなんかも果物が好きだから食べたというふうに考えるよりは、私はそういう特別扱いをしてくれるような人間関係が成立したことによってこの人は生きていこう、食べていこう、食べようという気持ちになったのだろうというふうに解釈しています。
さらに面白いのは、御飯も食べない人をレクリエーションに連れていく。そうするとゲートボーリングをやって、そこでピンが全部倒れて、みんなから拍手をしてもらう、それで俄然食べるようになったというふうなエピソードも聞いています。
これは自分は世間の中にちゃんと一員として存在しているのだという関係の確認ができたということによって、また生きていこう、食べていこうという気になったんだろうと思います。
こうした誠和園のスタッフによるアプローチというのは、前回紹介したジム・ジャームッシュという監督が言っている、こういう文章、がありましたね、『日常のささやかなディテール(細部)に、時折見いだされることのある偶然のような美しいもの』、これを地で実現しているという気がします。
この背後にあるものは何かとひとことでいうと、関係ということになるだろうというふうに思います。ですから生活に向かわせるものというと、普通みんな意欲だとか、生きがいだとかいう言い方になるわけですけれども、意欲とか生きがいというふうにいってしまうとこれは個体の問題になるわけです。
その人の問題になってしまうわけです。そうすると意欲がない、そこでおしまい、生きがいをもってないということで終わってしまうわけです。まず、生きがいなんていうのは非常にあいまいな言葉であって、我々が生きがいをもっているかというと、そんなことないですよね、気がついたら生きていたわけです。
この生きがいというふうな言い方に対して、生きがいというのは生の効率主義である、と批判をしたのが富岡多恵子さんという作家です。生きがいがあって生きているわけではないのです。生きているから後から生きがいというのを私たちが見つけ出しているにすぎないわけです。
意欲というのもそうでありまして、意欲というのはいったいどこから出てくるのか、というふうに言いますと、人間の身体の中から生命力という形でもちろんあるわけですけれども、それがいろいろな人間関係の中で喪失されてしまう訳です。それがもう1回同じ人間関係の中から意欲が湧き出してくるわけですから、それをぬきにして意欲というふうに語ることはできないというふうに思います。
ですから私は生活リハビリとはなにか、それは生活に向かわせるものをつくりだしていくことである。そしてそれは何かというと、関係である、というふうに言いたいと思います。
知識や技術は、二の次、三の次 問:わかりました。 しかし「関係」とか「関わり」とかいう言い方は、例えば精神科の領域でも昔からかなりいわれていることです。みんなそれは大事だというふうに考えていると思います。だけどもそこでとどまってしまって、じゃあその関係とは何かということは余り語られてないような気がするのですが、その点についてはいかがでしょうか。
三好:全くそのとおりです。人間関係が大事であるとか、関わりが大事だという言葉は、みんな認めることだろうと思います。誰も反対しないし、美しい耳ざわりのいい言葉ですよね。結局それはどういうふうになっていくかというと、倫理主義になっていくよりほかありません。
いい人間関係を持とうとか、いい関わり合いをしようというと、一人ひとりの介護者の資質の問題とか、倫理観の問題になってしまうわけです。それではだめなのであって、関係が大事だ、関わりが大事だといいながら、では関係とはなんなのかというところにもう一歩踏み込んでいくということがないのです。
ですからこれはもう哲学とか思想の領域に入っていかざるを得ないわけです。いったいこんなに大きな影響を与えている関係というものはなんなのかという関係の構造というものの中に入っていって、そこからもう1回私たちのなすべきこと、やっていることを捉え返すという作業をしなければいけないというふうに考えています。
特にこの関係、例えば関係をちゃんと評価しようよ、という言い方を私はするわけです。関係を評価するというのは日本人とか、日本のケアということを考える上では大変大切だというふうに思っています。
というのも、外国には行ったことがないからわかりませんけれども、むこうからやってくる介護論とか方法論とかいうものをみていますと、例えば食事介助であれば、それは食事介助そのものが問題であって、そこに技術とか知識とかいうものを集約していくわけです。利用していくわけです。
或いは入浴ケアであれば、入浴そのものが目的であって、そのためにこういう技術、こういう知識が必要だという形で語られています。だけど、私たちは経験でよく知っていると思うのですけれども、日本の老人のケアをする時というのはそうではないですね。
もちろん知識があった方がいいし、技術があったほうがいいのだけれども、それはもう二の次、三の次であって、お風呂に入れるということを通して、そこでどういう人間関係が持てるか、そこで老人がどういう人間関係の中に入るかということが一番大事なことなのです。
誤解を恐れずに言えば、お風呂に入れるとか、排泄介助をするとか、食事介助をするということ自体は、目的ではなくて手段であるかのように私たちは感じています。そういう日本の、人間関係の中で自分というものを確認していくという、欧米とは違った人間のあり方というものの中でのケア論を考えた時に、関係の構造を明らかにし、それを評価していくという目を私たちはどうしても持たなくてはいけないだろうと思っています。
【関係を3つの軸でとらえてみよう】 問:その関係の構造というのは、今哲学とか思想の領域の問題にはいるというふうにいわれましたけれども、そんな思想や哲学が存在していますか?
三好:またこの人の名前がでてきて申し訳ないのですが、私は吉本隆明という人しかいないというふうに思っています。吉本隆明という大は、人間の意識の世界、彼は心的世界というふうに言っていますけれども、その世界は三つの軸で捉え得るというふうに構造化をしています。
彼は意識だとか心的な世界というのを幻想という言い方をするわけですが、3つに分けています。
一つは共同幻想という言い方をします。これは国家とか宗教とか規範だとか、私たちが日頃使っている言葉でいえば、社会的関係というふうにいわれていることだと思うのですけれども、そういうもの。
もう一つは、彼は対的幻想というふうに言っています。対的幻想というのは男女のペアという意味ですけれども、もっと広く家族的な関係ということです。
そしてもう1つ、これがすごいのですけれども、個的幻想という言い方をしています。つまりこれは自分が自分自身にどう関わるかということで、自分自身との関係というふうに言っていいだろうと思います。
この3つの軸で人間の心的な世界というのは解いていけるのではないかという提案を行っています。 私たちもこれに習って、老人を取り巻く世界というのを3つの軸、もっと分かりやすい言葉に直していけば、社会的関係と、家族的な関係と、そして彼自身の、老人の自分自身との関係、という3つの軸によって、老人の関係的世界というものを評価していく必要があるのではないかというふうに思うわけです。
これは大変有効です。まず社会的関係に関しては、これは社会といっていますけれども、日本の場合は世間というふうに言っていいでしょうね。世間の中で彼自身がどういう存在であるか。その世間も抽象的な一般的な世間ではなくて、私たちが現に作りだそうとしている機能訓練教室の中での彼の社会的な関係、デイサービスセンターの中での人間関係、そして関わっている私たち自身と彼らとの関係、これも社会的関係です。
こういうものがあるのかないのかということが大変大きな意味をもっています。 こういう社会的関係がないという状況のもとで、いろいろな介護をしたり、いろいろなアプローチをしてもほとんど無駄なものに終わってしまうということを私たちは良く知っているはずです。
その次は家族的な関係の評価です。これは社会福祉関係の人とか、保健に携わっている人はそんなに無視することはないと思いますけれども、ただ言えるのは、社会的関係と家族的関係というのが相互的な関係になっている、つまり車の両輪になっているにも関わらず、あたかも社会的関係を家族的関係が代替できるというふうに思われている点です。
これはそうではありません。 吉本隆明さんは、この二つの関係というのは位相が違うと言っています。家族的関係がいくら良くても社会的関係がなければ人はだめになります。さらに社会的関係がいくら良くても家族的関係、これは単に家族を持っている、持っていないというだけではなくて、情緒的な人間関係が持ち得るかどうかと広く捉えるべきですが、これがなければやはり人間というのは大変虚しいものになってしまうということがありますので、社会的関係と家族的関係の両方を別々に評価していくということが必要になってくると思います。
そしてもう一つは自分自身との関係です。老人自身が自分をどう思っているのか。もう私なんか死んだほうがいいのだという言い方をするというのは、自分自身との関係が持てなくなっているというこ、とです。まだそういう言い方をするうちはいいです。そうやって他人の反応をみているわけです。
これはどこで分かるかというと、一番よく分かるのは目です。その人の目が輝いているかどうか、生きているかどうか。たとえ社会的関係がほとんどなくても、家族関係もうまくいってなくても、自分自身との関係さえ保たれていればこの大はまず大丈夫だというふうに言えますし、逆に社会的関係も、家族的関係もそれなりにあるのだけれども、自分自身との関係を失っているという人の将来は、たとえ障害が少なくても、大変暗いものだというふうに言うことができるだろうと思います。


評価することが関係を作る
こういう3つの構造で表わされる関係が、果たしてどれだけあるのかないのかということを、まず私たちは老人に向き合った時に評価すべきではないだろうかと思います。私は今、こういう関係があるかないかということ、或いは量の問題を言っているわけです。
ですけれども例えば精神障害者なんていう場合には、この関係の質の問題も問題になってきますし、この関係の取り方というのを“チャンネル合わせ”という言い方で、「生きいきジャーナル」の通巻7号でOTの岡野純毅さんが語っていますけれども、老人の場合、質も要求されますが、とりあえずは量の問題で解決ができるだろうというふうに思っています。
そしてこういう3つの関係の中に、身体というものを位置付けていくことをしなくてはいけないと思います。 まず私たちは身体の評価から入っていくわけですが、そうではなくてその身体、つまり障害を持っているかどうかとか、それがどれぐらい重いかとか、どういう動作ができるかできないかということを、どういう関係の中にその身体があるのかということのなかに位置付けていかないと、意味がなくなってきます。
ですから病院の訓練室で評価された身体というのは関係というものを剥奪した、全く特殊な関係、セラピスト、患者、という一方的で命令的、あるいは指示的な人間関係の中で観察された身体の評価でしかないわけですから、そういう部分的なものでしかないということを私たちが知った上で、我々はこの3つの関係のおりなした生活の中で、その人の身体がどういうふうに発揮されていくのかということを見ていかなければいけないだろうというふうに考えています。
大事なことは私たちが老人を評価するということそのものが関係を作り出したり、関係を駄目にしたりするという中にいるということなのです。私たちはこういう関係の中から離れて客観的に老人を見ているわけではなくて、彼を観察し評価しようとしていること自体が実は関係の中にいるわけです。
問題点ばかりを見つけるという形で評価すること自体が、実は老人との関係を駄目にしていることがありますし、逆にその人の良い点を見っけだしていこうというふうに見ていくことが、その人とのいい関係を作り出していくということにもなっています。
ですから私たちのやっていること、やるべきことは、『関係の中の身体を、関係の中で評価し、と同時に関係を作り出していく』ということでなくてはいけないだろうと思います。そうなってくると客観的評価というふうな言い方はほとんど意味がなくなってくるのは当然のことではないかというふうに思っています。
簡単なケースは専門職に任せればよい 問:老人の場合、身体そのものの評価ではなくて、ADLでとらえるべきだというふうな意見かあるわけですけれども、三好さんにとっては、身体やADLよりも関係の評価というものの方が第一義的にあるべきだというふうに捉えてよろしいわけでしょうか。
三好:はい。身体やADLよりも関係の評価が先行するというふうに言えると思います。
問:しかし、身体がよくなれば生活が変わっていったり、ADLに対するアプローチによって生活が変わり、それによって関係が変化し開かれていくということもあるのではないでしょうか。
三好:確かにその通りです。ADLが自立するということによって、関係が開いていくということももちろんあるわけですけれども、そのときには本人の意欲というものがすでにそこに存在していて、ADL訓練というものができて、そういうやろうとする意志が前提になっており、そして帰っていくべき人間関係という場があるのだということが前提になっているわけです。
そういう簡単なケ-スというのはこれは従来の、例えば病院でのアプローチ、病院の専門家にまかせておけばいいじゃないですか。私たちがいまやろうとしているのは、お年寄りのように意欲がないことが当り前である、そういう人たちを対象にしているわけです。
そして元気になっても帰っていくべき人間関係というものがない、見えないという状況の人たちにどうアプローチをするのか、いわば医療の関係者がもう駄目だといって見捨てたような人たちに対するアプローチを我々は求めているわけですから、そういうむずかしいケースであればあるほど私たちは人間関係というものは、身体やADLの後に自ずからやってくるものという従来の考え方を捨てて、関係そのものを作り出していくというところから入っていかなければならないだろうというふうに思っています。
問:なるほど簡単なケ-スは病院の専門家に任せればいいではないかというのは、これまでの一般の言われ方とは全く逆で、たいへん興味を惹きました。さてそこで次の質問なのですけれども、そういう関係を評価するというふうなことは、これまでは行われてこなかったのでしょうか。現場ではどうなのでしょう。
すでに現場ではやっている
三好:いえ、私はすでに現場では行われてきていると思います。ただそれは評価というふうには呼ばれていないかも知れません。優れた現場の実践家たちが、感じ取るという形で、十分行われてきているのではないかというふうに思っています。そしてそれは評価したりとか、関係の構造がどうのというふうな理屈を通さないで、感じとったまま実践に移されているだろうというふうに思います。
例えば老人ホームに入ってきた人たちに、職員が一生懸命いろいろなアプローチをする。あるいは他の老人との人間関係の媒介になるという形で作ろうとしているのは、これは社会的関係、新たな世間というものを作り出すということによって、その人を回復させようという試みです。
老人ホームでは、いわば対的な関係、家族関係という側面がないために、(これはないわけではないのですけれども、一応家族というものを抜きにして考えていくことができるために)実践的には簡単です。世間の中にいるのだ、自分は共同的存在なのだということが確認できれば、個人として生き生きしてくるということがあります。
これは日本人の特殊性でありまして、まわりから認められれば、それが自分自身の確認になるという、これは個人としては自立していないというふうに、マイナスで語られてきていることが多いわけですけれども、私は逆にいい点として、関係的に人間か生き生きしてくるというそういう日本人の特殊性というのを、たいへんうまく使って老人ホームだとかあるいはデイサービスセンター、機能訓練教室というところでは老人一人ひとり生き生きさせてきているだろうというふうに思います。
ところが在宅の老人となるとこれがちょっと複雑でありまして、家族という人間関係が入り込んでくるわけです。複雑というのはそこで役割の混乱が起こってきているように思います。 つまり本来家族という情緒的な関係で人間を支えるという側面が社会的関係の役割を果たしていたり、あるいは果たすべきだというふうに主張されているということから混乱が生じています。
ですから家族が、自立しなければだめよといって、老人に訓練を強制したりというようなことがそうです。 もっとしっかりしなさい、とけしかけていたりするのもそうです。 家族の役割というのはそういうところにあるのではないだろうというふうに思います。
それは社会的関係が引き受けるべきことで、家族というのは例えば訓練から帰ってきたら、今日は大変だったわね、お風呂にしますか、ご飯にしますかという形で、いい意味で甘えられる存在でなくてはいけないわけですけれども、その辺がどうも逆になっているケースが多いような気がいたします。
この辺は家族の役割を補うことは、社会はできないし、社会の役割を家族が補うというのも適切ではないというふうに思います。それぞれがそれぞれの役割を果たすことによって、本来のその関係の良さというものを引き出さなければいけないわけです。
ですから家族だけがケアしている状況というのは、一般的に進歩的文化人がいうように社会がこれを引き受けなければいけないのだという意味ではなくて、役割が混乱されているという意味において問題だろうというふうに思います。
そういう役割の混乱をちゃんと整理して、3つの関係の構造の中で老人を生き生きさせるというふうなアプローチを優れた実践家は行っていると思います。
開かれた身体、閉じた身体
例えば安永道生さんが書かれた「生きがい宅配人、安永道生です。」(筒井書房)という本などを見ますと、彼が実際にやっていることというのは、そういうことをちゃんと見てます。 この人は社会的な関係を持っているだろうか。世間とちゃんと関わっているだろうかという視点。家族との関係はどうなっているだろうかということは、これは現場に行ってみれば、肌身で感じることができます。
そして自分自身とちゃんとつきあっているだろうか。プライドが保たれているだろうかというあたりは、その人の目の輝きを見ればわかるわけです。そういうものをちゃんと見据えてその大に対するアプローチをしているように思います。
ポアン・カレという数学者がいます。この人は私か講演などでよく使っている言葉で、「象も1匹、蟻も1匹」という言葉がありまして、これは、味噌もくそも一緒にした画一的なアプローチに対する皮肉として使っているわけですけれども、この「象も1匹、蟻も1匹」という言葉を言った人なのです。
つまり数学というのはそういうものだ、個別性というのはそこで消えてしまって、非常に抽象的な世界なのだというふうに言っています。一つ一つの個別性や質というものを、問うような数学というのはできないだろうかというふうに考えて、彼がつくりだした数学がトポロジー、日本語では位相学というふうにいわれていますけれども、そういうものを作り出しました。
これは例えば、あるものが開かれているか閉じているかというふうなことを判定して行くのです。いま私たちが老人を見るときに、一番必要なことは、そういうことではないかと思います。つまり老人という身体が、関係に向かって開かれた身体であるか、それとも閉じた身体であるかということを見なければいけないと思うのです。
もしいくら障害が軽いとしても、閉じた身体というのは生きいきしないだろう。たとえ障害が重くても、開かれた身体というはこれから生きいきしてくるだろう、生活障害が進行していくことは、おそらくないだろうというふうに見ることができるだろうと思います。
そういう新しい評価の目というものを1月15日と24日に行われる、宇都宮での生活リハビリ特別講義の中で提出できればと私は思っています。
(終)

