●「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /
経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
(三好春樹)
●「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
(方方)
● 介護夜汰話
- List
- 1993 ~ 1992
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- 1993.11-12月 “老人問題”とは何か
9月になると毎年多く開かれるのが、新聞社あたりが主催、後援する「老人問題」のシンポジウムやセミナーである。私は、こうした会には、講師としても聴衆としても参加しないことにしている。どうしてかというと、ちっとも面白くないからである。
面白くないのは、私たちのように、老人介護の現場にいる者だけではないらしく、一般の参加者も、なんだか暗~い気持ちになって帰ってくる、と言う。こんなシンポジウムやセミナーが好きなのはどんな人たちなのだろうか。
講師やシンポジストの話すことや、主催者の顔ぶれを見ていると、どうやら、評論家や文化人、さらに評論家的な人や文化人的な人、総じて、高学歴の知的職業の人や知的無職業の人たちである。彼らの主張の主旨は次のように要約できる。
「老人問題」が生じている原因は、日本の社会、特に政府の無策、あるいは不充分な政策に拠る、と。従って、制度・政策を北欧並みにし、施設や在宅介護を支えるシステムを作りあげ、誰もが安心して老後を迎えられるようにすべきである。それをしないで、家族、特に女性に介護を押しつけ犠牲にしている政府は許せない、と。
「ふむ、ふむ」と私は彼、彼女らの意見を黙って聞く。『でも、今、目の前にいる老人のことはどうなるのか、5年先、10年先に、彼、彼女らの運動によって立派な制度ができたときには老人は亡くなっているじゃないか』という思いは口に出さないまま。
ときに、こうしたシンポジウムやセミナーに、現場の実践者が登場することがある。私かかつて聴衆として参加したことがあるのは、その人の話を聞きたいがためであった。ところがこの実践報告が、受けない。会場にも、特に他のシンポジストに受けない。
現場の人間が、生きいきと老人との関わりを語れば語るほど、受けない。評価されないのだ。それどころか、次のように言われてしまう。「現場の人が自己犠牲の精神で頑張ってらっしゃるのはよく判りました。しかし、そういう個人的頑張りだけでは世の中は良くなりません。社会を変える運動へと普遍化しなければ、せっかくの活動も自己満足になるだけです」なんて。
実践報告のどこに「自己犠牲の精神」があったというのか、と私は不審気に、「○○大学教授」なんて肩書のついた発言者の顔をのぞいてみる。全く的はずれの不当な評価に、挙手して反論してやろうかと思うが、あの無表情な顔には理解は不能だろうな、と思ってやめてしまう。
彼らには、こうした実践は、あってはならないものらしい。現在の制度・政策の下では老人は悲惨な状況に置かれており、それを解決するためにこそ我々の運動が必要なのだ、と訴えているときに、その制度・政策の下で老人が生きいきしてます、なんて発表されたんじゃ、自分たちの存在理由がなくなるのであろう。
だから、同じような現場からの発表でも、「私たちは老人の権利を守るために自己を犠牲にして頑張っている。一刻も早く制度を良くしてくれないと老人も職員も倒れてしまいます」なんて涙ながらの内容なら、拍手喝采、評価も上々なのである。
彼らにとっては、現場実践は、彼らの主張を正当化する材料であって、材料にならない現実は無視してしまうのだ。私が、彼、彼女らの、こうした小児的精神構造を批判しているからといって、現在の日本の制度・政策が十分だと言っていると思われては困る。
もっと施設を、もっと在宅介護のマンパワーを、と訴えることは必要だろうし、そうした運動が実際に厚生省を動かすこともあるに違いない。だが、それが「老人問題」か、と私たちは思うのだ。そもそも「老人問題」というコトバそのものにも抵抗があるのだが、「老人問題」と呼んでいるもののうち、制度や政策といったものが占めているのは、ほんの一つの側面でしかないではないか、というのが私の彼らへの本質的な違和感なのである。
考えてもみよう。制度や政策が充実し、必要とする人が利用できるだけの施設も在宅介護システムもできあがったと想像してみよう。それで「老人問題」は解決できるだろうか、と。私たちの現場で生じている「老人問題」とば何だろうか、と問うてみよう。
もちろんその中には、制度・政策の不備をどう克服するか(批判するだけではない)という問題もある。だが、それよりはるかに大変なのは、例えば、〈老い〉というものとどう付き合うか、といったことである。〈障害〉を加えてみてもいい。〈痴呆〉でもいい。老人ホーム職員として、ホームヘルパーとして、〈老い〉をどう捉え、どう感じ、どう了解するのか、ということのほうが、少なくとも私たちには問題なのである。
自分の父や母の〈老い〉と〈障害〉にどう付きあうのか、という家族としての問題もこれに重なってくる。更に、老人自身が自分の〈老い〉や〈障害〉とどう向き合うのか、ということが、私たち自身の未来の課題とも重層して加わる。そしてそれは、総じて、〈老い〉や〈障害〉といった〈自然〉と、私たちがどう向き合うのかといった、生き方そのものとして、私たちに問うているのだ。
「老人問題」の解決には、いろんな側面での解決がある。制度や政策といった社会的側面での解決は、そのひとつに過ぎない。制度・政策の充実は、実は、もっと普遍的な〈老い〉を巡る問題の出発点でしかないのである。例えば、局地的・個別的には、既に、制度、政策といった側面では解決のついている所やケ-スは存在しているのである。
都市近郊の中産階級の居住地では、個人的資産を使って、それほど負担を感じることもなく、公的制度や民間の社会資源を使って、本人や家族の望む介護の仕方がかなり可能になっている。だからといって〈老人問題〉が解決されたことにならないのは自明である。
前述した、家族としての問題や老人自身の問題は、むしろここから、誰のせいにもできない形で露わになるのである。私はかつて、急性期の治療と生活期の介護を、前者を5%、後者を95%と表現したことがあった。(『専門バカにつける薬』筒井書房(「影の部分が見えているか?」P110~113)
もちろん、5%は、欠け替えのない5%であることを前提としてのことである。同じく、必要であることを前提にして言えば、シンポジウムやセミナーをやりたがる人たちの言う「老人問題」は、〈老い〉の問題全体の5%に過ぎないと言っていい。彼らにはそれが見えていない。
だから、残りの95%の課題に格闘している現場の実践報告の意味が判らないのだ。その課題が深くて、個別には答が出せても、とても一般化なんてできるものではないから、私たちが1人1人の老人の話しかしないのを、彼らは『普遍性がない』なんて言うのだ。
その95%の課題が、古今東西、人間に普遍的に問われている課題であり、それにいつも直面している現場の人間は、楽天的に明るくならざるをえないのだが、それとは反対に、その課題から逃げている彼らは、逆に深刻ぶるのだ。
さあ、「高令化社会を良くする女の会」や ゛生協活動の一翼として″なんて狭い量見で〈老人問題〉をやっている人、「5%」から足を洗って、こっちに来なさい。なんて書いても、そんな人は「Bricplage」なんかとってないんだ。
現場の皆さん、評論家や文化人たちの語る〈老人問題〉の面白くない原因は、こんなことだと、私は思って納得している。夢々、「私もあんな活動をやらなきや」なんて思わないように。
あなたが、関わっている老人との関係を変え、老人を生活の主体として生きいきさせていくこと、つまり、〈自然〉という不可避性との付き合い方を作り出していくことこそ、社会を一番深い所で変えていくことになるのですから。
介護の仕方を含めた「付き合い方」という具体的な生活の問題であるがゆえに、極めて思想的な問題として問われているものを、単なる「社会制度問題」にすり替えることのありませんように。

