●「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /
経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
(三好春樹)
●「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
(方方)
● 介護夜汰話
- 1996 ~ 1995
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- 1995.11月 ヒロシマとオキナワ
生活リハビリ講座のプログラムAIで、ADLの項目を確定するグループ討議のなかから、次のような意見が出てきた。 『「眠る」というのが抜けていませんか。大事な項目だと思うんですけど』 確信のある声だった。ベテランのやり手の看護婦さんからである。
講座に参加された方はご存じのように、生活リハビリ式ADL評価法に、「睡眠」という項目は入っていないし、講座の中身でも触れることがない。昼間と夜間の両面で人の生活が成り立っているというのに、これでは片手落ちではないか、と言われかねない。
だが私は、「睡眠」を語っていない訳でもないし、゛夜″を無視しているのでもない。ただ、゛夜″を゛昼″と切りはなして考えるべきではないと考えているのだ。 夜、老人が眠れないのはなぜだろう。身体や精神にストレスがあれば、たとえば痛みがあれば眠れないから、これは原因を取り除いたり、それが無理なら対症療法するよりなかろう。
だが、そうした特別な理由がない場合、老人が夜眠れない原因の90%は、゛昼″にあるのだ。施設あげての運動会やクリスマス会のあった日の夜勤がどれだけ楽か。何しろナースコールが鳴らないのだ。みんな熟睡している。一晩中尿器を入れたり出したりしているTさんもいびきをかいているし、決められた9時になる前に睡眠薬をくれと、つきまとうYさんも、なんと9時になる前に寝入っているではないか。
在宅のNさんもそうだった。毎晩3~4回は奥さんを起こすそうだが、デイサービスでの温泉一泊旅行では、ビールをグイグイやったせいもあって、朝まで熟睡してしまった。 宿直の巡回時、何人かの老人が起きている。「どうしたの」と聞くと「しっこ」という答えが最も多い。でも尿意を感じて目が覚めると思ってはいけない。逆だ。目が覚めるから、尿意を意識してしまうのである。
心地よく疲れるくらいの゛昼″があれば。゛夜″は保証されるのである。つまり、睡眠というADL項目は、食事、排泄、入浴、そして遊ぶ、かかわるという昼間の生活行為が、生きいきすることに因るのである。 つまり私は、講座でも講演でも、昼間の生活をあたたりまえに゛生活″と呼べるものにすることを訴えてきたが、それこそが、じつは、睡眠を語ってきたことになるのである。
もちろん、夜、眠れないそのとき、どうかかわるかという問題はあるだろう。光刺激が多すぎないようにとか、物音を立てないようにとかいったことだ。それらも大切ではあるが、これはいわば゛局所療法″でしかない。 床ずれを治療するのに、゛寝たきり″という生活状態をそのままにして、いくら最新の局所療法を施行しても意味がないように、昼間の生活づくりをしないで、不眠そのものを治そうとすれば、結局は薬に頼るよりほかになくなるだろう。
だいたい昼間活動的に過ごして疲れていれば、物音があったって人は眠ってしまうものだ。 それにしてもどういうことだろう。いまだに褥瘡の治療といえば、どの雑誌が特集しても局所治療のオンパレード、おまけに製薬会社の主催する治療法セミナーには看護婦さんがつめかけている。
座る生活をつくってごらん。褥瘡だけじゃなくて、尿路感染も肺炎も治ってしまうから。もちろん、急性期や終末期の安静を必要としている場合には局所治療も必要だから、知識や技術はもっていて欲しい。だが、コロコロ変わる最新治療法を追いかける必要はない。たとえ急性期や終末期だろうが、生活のなかでつくられてきた人間関係こそが、局所療法の効果さえ決めていくのだから。
そこでは、私たちの専門的知識や技術は、あたかも゛小手先″に過ぎないかのように感じられるではないか。昼間の生活づくりに比べれば、夜、眠ってもらうための知識や技術は゛小手先″である。 さて、この文章は、睡眠と活動、夜と昼について語ってるが、じつは、死と生について語るためのプロローグである。つまり、私が「死」について語らないのは、ちょうど同じように「死」が「生」によってこそ決まっていくと考えているからなのだが、それはまた次号で。
- 1995.10月 浜田寿美男・三好春樹対談② 近代と専門性
【手持ちの力で暮らすことを邪魔するもの】
●三好 僕らが老人を見る時にもどんな能力をもっているかという目で見るではないですか。検査でも評価でも。それを見たうえで、では今もっている力をその人がどのように使いこなしているのか、今もっている力を今の生活に役立てて、楽しい生活のために生かしているかというところをちゃんと見ているかということなんでしょうね。
苦しい訓練をして将来もっと高い能力をもったとしても、それを使いこなせる保証はどこにもないわけですから。その保証を未来に託すのではなくて。先生がおっしゃったように手持ちの力で私たちは今生きている。まず手持ちの力で生きられる生活をちゃんとつくろうということは全く同感です。
言い方を変えれば等身大で我々は生きているということだろうと思うのです。人は、手持ちの力とか等身大の自分というものがあまり好きではないのですかね。明日になればもっと素晴らしいだろうとか、明日になればもっと進歩しているだろうとか、発達しているだろうと。そちらが本来の自分であって、今ここにいる自分というのは自分ではないとどうも思いたがっているような心理というのがあるではないですか。
あれがいつまでたっても現実を直視しないというようになっていると思うのです。私は元進歩主義者ですが、今は進歩主義者ではありません。世の中が進歩するのは全然否定しませんけれども、進歩主義が進歩をつくってきたとは思わなくなっているのです。
進歩主義というのは今日よりは明日の方がもっといい、明日よりもあさっての方がもっといいというような世界なのですが、そこから見てしまうと現実を見ていない、あるいはお年寄りなどだったら、明日に向かって、明後日に向かって、だから今日は我慢して訓練しなさいと言われても明日があるのか明後日があるのか分からないわけです。そういう進歩主義的な世界観から「今ここ」を取り戻すということをやらないと駄目ではないかと思うのですが、先生はどうでしょうか。進歩主義者でしょうか。
【なぜ不安なのだろう】
●浜田 進歩主義というと、バラ色の世界を描いてそこに向かって進んでいくというようなイメージがありますね。その進歩主義の背景には実は「不安」があるのではないかと私は思っています。不安というのは、これは非常に厄介なものでして、人間というのは、本当に「ここ」の「今」をどこかに追いやってしまって、「明日のため」ということになりやすいのです。
僕らは「明日」という概念、イメージをもってしまっているでしょ。動物の世界では「明日」という概念をもたない動物もいるわけですね。「ここ」の「今」を生きている。ある本で読んだのですが、家のなかのダニではなくて、森林、灌木のなかで生活して生き物の血を吸って生きているダニがいるのです。触覚はあるのですが、目は見えなくて耳も聞こえなくて、光だけを感じる。
産卵期に、交尾を済ませたメスダニは木に登って枝の先まで行きます。哺乳類の汗の臭いを感じると、手足を離して落ちる。うまくいけば哺乳類の上に落ちるので、そうすると毛のなかに潜り込んで血を吸います。たらふく血を吸うと、ボロッと落ちて後は産卵をするだけです。うまく哺乳類の上に落ちないともう1回やり直すのです。
ところが、いじわるな研究者がいまして、このダニがどのくらい待つのだろうという実験をしました。瀧木の上に上らせたまま実験室に持ち込んで絶対に哺乳類が下を通らないような条件をつくったのです。どれだけ待つたかというと17年たってもまだ待っていたというんですね。
皆さん、そんなことができますか。できないでしよ。つまり、彼等は「ここ」の「今」を生きている、明日という概念はもっていない。明日来るだろうか、明日来るだろうかと思っていたら17年間も待てるわけがないんですね。残念ながら人間は明日という概念をもってしまっている。明日という概念をもちますと明日のために蓄えるということもできる、蓄えておけば明日何か大変なことが起こってもそれで生きていける。
だから物をためるということをやっていくのです。ところが物をためるということは、裏返しにすると明日に対する不安なのです。今ためこまなければ困るのではないかというわけですね。人間にとっては、不安は逃れられないものだと思います。ただ、その不安に対する対処の仕方というものをもっと考えていかなければならないのではないでしょうか。
今の日本の社会のなかではまさに能力を伸ばし、制度の梯子の高みまでどんどん登っていけばまっとうな生活ができるのだというような錯覚をもってしまって、いつも「今」を食い潰しているわけです。一生懸命にためても結局ためたものを使う機会がないという話になってしまう。明日どうなっているだろうという不安感を「今」をどうやって生きていったらいいのだろうかという視点に切り換えていかないとこれは大変だなと思いますね。でも、簡単には変わらないと思います。
【老いの受容を邪魔するもの】
●三好 今の不安を解消するために未来という抽象的なものをつくったというと、パンドラの箱を開けたという感じがするのですが、将来がバラ色であれば「今」の不安は一応忘れることができますからね。人間は死ぬまで発達していくのだ、みたいなことを言う人がいますよね。これは大ウソもいいところで、最後は皆、人は崩壊していくわけです。それが自然なのですから生涯ずっと発達していくなどというのは現場を知らない人の無茶苦茶な言い分だと思うのだけれども、やはりそういうことが出てくるのでしょうね。
現場にいるとわかるのだけれども、ためこんでいくもの、たとえば金だとか、地位、名誉とか、今の世界ではすごく意味があるかのように思われているものが実は、脳卒中になって施設にでも入ると全く役に立たないんです。病院ではまだ役に立ちます。つけ届けをもっていくと良くしてもらえますしね。
そういう世界から特養に来ると、誰が偉いのかと見回して園長とか指導員に金を渡そうとして断られるわけです。そうすると職員のなかで誰が受け取りそうかというのをじっと見て、その人の夜勤の時にそっと渡そうとしてそれでも断られて、どうもこれまで生きてきた世界とは違うなというのに初めて気がつくというのがよくありました。実際にそういうタイプの人は、障害を負って人の援助を受けなければいけなくなったということを受け入れていませんから暮らしにくいわけです。
社会的に地位の高い人ほど着地が難しいとよく言われますが、たとえば、大学教授などは、皆から先生、先生と呼ばれて、助教授とか講師などは人間ではないというような扱いをしている場合が多いですから、特養の一介の入所者になってしまった自分を受け入れにくくて、逆にそういう地位も金も名誉も年をとると邪魔になっているということがありますね。実は、人生の目的だと思っているものはせいぜい人生のアクセサリーに過ぎないのではないかというところまで現場にいると達観するところがあるのです。
【死との折り會いを 人はどうつけるのだろうか】
●三好 「今」に対する不安というのは個人として生きていることに対しての不安だと思うのです。発達してどんなに高みにいった人でも結局死んでしまう、死ぬ時は1人きり。歴史とか国家とか社会とか人類とかという普遍的なものは永遠に進歩して続いていき、自分だけが死んでいくではないですか。これはものすごく悔しいですね。
個人は死んでも人類は残っていく。僕が今日死んでも、明日の朝も東の空から日が昇るというそのへんの悔しさみたいなのがどうもあるのです。この問題を一気に解決してくれるのが、ハルマゲドンです。ハルマゲドンというのは、全世界で毎年のように予言している人がいるのです。もちろん全部外れてきたのですが。要は、人間というのはどこかでハルマゲドンを望んでいるのですね。1人で死ぬのではなくて皆と一緒に死ねるということにものすごく願望があるのだろうという気がするのです。
●浜田 不安の元をつきつめれば、最後に死の問題に行き当たります。けれども死というのは考えてみたらごく当然のことなのです。たとえば死ぬのが怖いと言いますが、誰も死は体験できないのです。生まれるのもそうです。生まれるのを覚えている人は誰もいないでしょう。同じように死ぬという体験を自分でもつことはできないわけです。死を体験すべき自分自身が死ぬわけですから、死を自分のものとして知るすべはないわけです。
だから放っておいたら1人で死ぬわけです。しかし人はなかなかそうは思い切れないです。私だって受け入れることができているわけではないのですが、ただこんなことを思ったことがあります。自分に子どもができて育てていくと大きくなっていきますね。そうすると人というのはこうやって生まれて大きくなっていくのかという実感をもちます。自分自身が育ってきた過程は覚えていませんから自分の子どもを見ることで思うのです。
ある哲学者は「人は自分の子どもを育てることで自分の子ども時代を生き直すのだ」「自分自身の子ども時代をもう1度生きるのだ」という言い方をしています。これを裏返して言うと死ぬ過程でも同じで、私は親父もおふくろもゆっくり死にましたので、ずっとゆっくりつきあったのですが、そのなかで人というのはこうやって死んでいくのだなと思いました。
もちろん親に限らずいろいろな人が死んでいく過程を見るわけですが、しっかり死につきあうという経験はあまりないですよね。老人ホームなどで仕事をしていてもずっとつきあうということはあまりないでしょう。私は、親父、おふくろが死んでいくのを看取りながら人はこのようにして死んでいくのだなと思いましたね。
さきほどの、子どもを育てることで子ども時代をもう一度生きるという言い方を裏返して言えば、人は自分の目の前で身近な人が死んでいく過程を見て、自分自身の死をいわば先取りする、自分もこうやって死んでいくのだなということを見極めていくのだと思うんですね。
それまでは何となく真っ直ぐ進歩して自分は高い所に向かって進んでいくのだという、前しか見ていないような感じでしたが、子どもができることで後ろの世代がいる、親が亡くなっていく過程を見て自分の前を生きてきた世代がこうやって消えていくのだという、そういう前後が見えてくる。人というのは有限で、生まれて死ぬものだなということをあらためて知る。それはある意味では救いであるように思えました。そんなものだということです。こういう時代だからこそ、こうした感覚をもっと大事にしていかなければいけないと思うのです。
●三好 人間は死ぬものである、本当にそうだと思うのです。それをなかなか認められないというのが我々のカルマでありましょうか。死ねば死にきりということがちゃんと分かれば、いつ死ぬかわからないのですから、今をできるだけ楽しく生きようと。楽しくというのはおもしろおかしくということではなくて、自分の個性を生かして周りの人も大事にしながらということも全部含むのです。私は老人介護の現場に入って、老いていくこととか死んでいくことにつきあいながら開き直りができたような気がするのです。
- 1995.09-08月 浜田寿美男・三好春樹対談① 近代と専門性
【そこに生活は含まれているか】
●三好 現在のリハビリは、何のためにするのかという意味という側面がすっぽり抜けて、とにかく能力さえ獲得すれば後はどうにかなるだろうという形で行われているような気がします。よく例に出すのは、訓練をやる気のなかったおぱあちゃんを何とかなだめすかして平行棒まで連れてきた。
おばあちゃんは「どうするの」と言いますから「立ってごらん」。「立ったよ」と言いますから「では歩いてごらん」。平行棒を歩いて「歩いたよ」と言うから「では帰ってきて」というと、「帰らすくらいなら行かさなければいいじゃないか」と言われて、一同大笑いになったということがありました。
浜田先生の講演を聞いて、この話を思いだしました。下山名月さんがよくされる話ですが、彼女が老人病院で食事介助をしていた時、「おばあさん、ご飯食べて。食べないと元気にならないわよ」と言うと、おばあさんがぽつりと「元気になったら何があるの」と言われて、彼女は愕然としたそうです。
ある病院では週に1回PTが来て訓練をするそうですが、訓練に行くのに車椅子に乗せられて30分くらい待たされる。それからやっと10分くらい関節を動かされて、またベッドに帰ってくると、残りの6日間は手足を縛られているという、かなり倒錯した現実というのが当たり前になっていたそうです。何でこんなになってしまうんでしょうね。
●浜田 講演のなかでも言ったように、やはり学校の影響が非常に大きいと思うのですが、そう言えば次に学校は何でできたのかという話になります。学校というのはまさに近代の産物なんですね。日本でも学制が発布してから120年になります。近代というのは産業革命以降ということなのですが、産業革命以前は、一人ひとりの人間がある種の共同体のなかで生きてきて、そのなかで自分たちの生活空間をつくりあげて共同で生き合ってきたという関係がありました。
それが産業革命以降は、工場という所に出かけていって働いて金を稼いで生きるようになった。金を稼いで生きるというのを僕らは当然みたいに思っていますが、金を稼いで生きるという生き方はここ100年ほどで徐々に定着してきたのです。そして、日本人のほとんどがそういうライフスタイルになったのは、ここ30~40年の話でしょう。
この発想が人の営みの実質的意味と制度的意味とを分岐する大きなきっかけになったのではないでしょうか。お金というのは実質的と制度的という2つの意味があるのです。たとえば1万円札の意味。実質的には紙切れにすぎない。それそのものとしては何かに使おうとしてもメモ用紙にもならない。ところが、日本銀行券という形で日本の貨幣制度の御墨付きを頂くと絶大な力を発揮するのです。
つまり、お金というのは制度的な意味の権化であり、それにあやつられているのが我々ということになります。そこのところに根っこがある。たとえば、何のために福祉の仕事をするのか、2つの側面から見てみましよう。1つに福祉の仕事をするのは人が生きいきと、あるいは安らいだ形で生き合うためだという建て前があります。
これは実質的な意味ですね。ところが、実際には仕事にならないと飯が食えないという現実がある。とにかく飯を食えるようにするためには、ここで嫌でも何でも仕事をすることしかないと思う人が出てきてもおかしくはないわけです。
そういう状態になりますと福祉の現場の意味が違ってきます。たとえば施設でも、そこで生活する人たちには生活の場かもしれないけれど、職員さんたちには職場なのです。つまり金を稼ぐ場所ということになります。生活者の論理がそこで崩されるということになり得るわけです。そういうお互いの人間関係というものをどう統合していったらいいのかということで、問題の根は実に深いのです。
●三好 金というのは現実的には稼がなければいけませんが、稼いで貯めておいても何も意味がないわけですね。自分らしく生きるために使うというところでは大きな意味をもつし、金を使って何か楽しいことをやろうとか、人の役に立つことをやろうということで使うのは一向に構わないのですが、貯めること自体に意味をもってくるのがひとつの物神化というか、そういうことでしょうね。
【どこを見ているのかが間われている】
●三好 たとえば資格をもった専門家であるという言い方をしますね。寮母さんとかヘルパーさんが何か言うと、「専門家でもないくせに」と口を封じるタチの悪い「専門家」がいっぱいいるじゃないですか。専門家というのはその専門的な知識をどう使うかということで初めて評価されるのであって、ライセンスをもっているというだけで評価されるのはヘンですよね。
だから「専門家でもないくせに」と言われたら、専門家であるとわざわざ言わなければいけないというのはそもそもおかしいのだと切り返せばいいのです。専門家ならどう実践がちがうのかということをちゃんとやって見せてくれと。
さきほどの脳性マヒの学生さんの話(前号の浜田先生の講演参照)で、まず訓練をして良くなったら新しい人間関係が始まるという言い方。これはPTの世界と全く一緒で、訓練をして体が良くなったら新しい生活が待っているだろうということで訓練、訓練というのですが、確かにこれで良くなる人もいます。
そういう人を見逃してはいけないから、ちゃんと専門的な訓練をすることも大切なのですが、たとえば特養とか老人病院にいる人の95%くらいは一生懸命やったとしても良くならないですよ。良くならないのだから今手持ちの力でできることをちゃんとやろうよ、という言い方をこちらがしますと、それは敗北主義だと言われるのです。専門性を放棄していると。
あくまでも希望を失わないで最後まで自分の専門性を発揮してやらないとだめではないか、少しでも希望があるうちは訓練を続けるのが専門家の仕事ではないかと怒られるのですが、その点はどうなんでしょうか。
●浜田 専門家が専門家としての力を発揮して相手の方が生きやすくなればもちろんいいと思うのです。問題なのは専門家の視点がどこにあるかということです。子どもの例をあげますと、子どもの育つ過程を外から眺めている人間が、ここまで来た、次はこうだなという確認をしてきているわけですね。
訓練の場合も、ここでうまくいかない、つまずいている、ここをどうしようかという話で、それを伸ばすことが希望であるというのですが、はたしてそれが本人の希望なのかどうかです。その人の力を伸ばすことは、専門家にとっては自分の専門性を伸ばせたかのように思えますから希望ですが、しかし、伸ばした力がその人のためになっているのかということを抜きにしては何も言えないわけです。
【生活を含んだ希望でなければ】
●浜田 希望を捨てるのは敗北主義だという言い方をするとき、ともするとその希望というのは訓練者の、専門家の側の希望であり、決して本人の希望ではない。それは非常におかしなことで、たとえば小さい子どもが3才、4才の時点で歩けないと親御さんは大変な思いをしますね。訓練をさせたいと。そうすると歩くことが希望になるわけです。
誰の希望かというと、もちろん本人も歩けるようになりたいと思います。ところがそれがなかなかうまくいかない。2年たっても3年たっても歩けない。手術をしてそれでもうまくいかない。毎日毎日訓練をする。 10才になってようやく歩けるようになる。杖をついて歩けるようになったのはいいのだけれども、ところが歩いて遊びに行く所がない。友達が誰もいない。こういう状況になることがあるわけです。
そうすると、その希望は一体何だったのかという話になります。それは希望を捨てろということではなくて、もちろん歩けるようになって世界が広がればそれはいいことなのだからそういう希望をもつことは大事だと思うのですが、ヘタをするとそれが専門家の希望に飲み込まれてしまう。専門家の希望と本人の希望がまさに矛盾なくぴったり重なればそれでいいのですが、とかくずれるものなのです。これは全く困ったことだと思うのです。
いわゆる養護学校問題と呼ばれてきた問題の根にも同じようなことがあると思います。養護学校に行かせることでその子の力を伸ばす、こまめに面倒を見られるから力を伸ばせるのだという形で養護学校に入れようということがずいぶん盛んに言われて、新しい養護学校が1979年以来たくさんできてきました。
ところが伸ばした力をどこで使うかというと、結局障害児だけが集められた学校空間、あるいは学校を出た後は作業所とか障害者たちしか集まらない所に行かされて、そこでしか力が発揮できないということになります。たとえ、力を能率よく伸ばすことができても、その力を発揮する場を奪ってしまったら、元も子もないということはちょっと考えればわかるはずなんですけどね。
これを私は「発達強迫」と言っています。1歩でも半歩でも伸ばさないと、まっとうな生活が送れないという、強迫観念みたいなものですね。人が生きるというのは「卵から土まで」の道筋のその上を生きているわけです。その道筋を外から眺めて生きているわけではなくて、その道筋のただなかを生きているわけで、まさにそのなかを生きている人間にとっての希望という視点が非常に大事なことになるはずです。
この希望などということはまさに心の問題で心理学の研究の対象になっているはずだと思われている人が多いでしょうが、不思議なことに心理学事典をひいても「希望」という言葉は出てこないのです。なぜかというと、今の科学的心理学においては人間が外から眺める研究対象でしかないために「希望」という言葉が出てきようがないわけです。
専門家や研究者の希望はあるかもしれませんが、そのなかを生きている子どもたち自身の、あるいはお年寄り自身の希望の問題は横に置かれてしまうという状態になります。だから冗談みたいに言うのですが、今日の心理学に希望はない、そんなふうにも言えると思う。
この対談は、5月5日、埼玉県大宮市で行われた「東日本版オムツ外し学会」で収録したものです。