●「投降のススメ」
経済優先、いじめ蔓延の日本社会よ / 君たちは包囲されている / 悪業非道を悔いて投降する者は /
経済よりいのち、弱者最優先の / 介護の現場に集合せよ
(三好春樹)
●「武漢日記」より
「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」
(方方)
● 介護夜汰話
- List
地下水脈 ヒロシマとオキナワ
地下水脈 浜田寿美男・三好春樹対談② 近代と専門性
地下水脈 浜田寿美男・三好春樹対談① 近代と専門性
三好春樹へのインタビュー 38号の地下水脈「受容の原則」を巡って
地下水脈「受容の原則」
発達幻想の中の子どもと老い 《大宮オムツ外し学会》講演 浜田寿美男
地下水脈 「オムツ外し」なんてやめよう
なんにもしていない ~民間デイサービスへのラブレター~
地下水脈 『ピアジェとワロン』 私の読書日誌②
地下水脈 私の読書日記
地下水脈 さらば “死体の介護学”
地下水脈 もっと具体性へ、もっと現在へ ~オムツ外し学会の感想に代えて~
地下水脈 「表層」のコトバからもっと深いところへ
- 1995 ~ 1994
-
- 1995.11月 ヒロシマとオキナワ
生活リハビリ講座のプログラムAIで、ADLの項目を確定するグループ討議のなかから、次のような意見が出てきた。 『「眠る」というのが抜けていませんか。大事な項目だと思うんですけど』 確信のある声だった。ベテランのやり手の看護婦さんからである。
講座に参加された方はご存じのように、生活リハビリ式ADL評価法に、「睡眠」という項目は入っていないし、講座の中身でも触れることがない。昼間と夜間の両面で人の生活が成り立っているというのに、これでは片手落ちではないか、と言われかねない。
だが私は、「睡眠」を語っていない訳でもないし、゛夜″を無視しているのでもない。ただ、゛夜″を゛昼″と切りはなして考えるべきではないと考えているのだ。 夜、老人が眠れないのはなぜだろう。身体や精神にストレスがあれば、たとえば痛みがあれば眠れないから、これは原因を取り除いたり、それが無理なら対症療法するよりなかろう。
だが、そうした特別な理由がない場合、老人が夜眠れない原因の90%は、゛昼″にあるのだ。施設あげての運動会やクリスマス会のあった日の夜勤がどれだけ楽か。何しろナースコールが鳴らないのだ。みんな熟睡している。一晩中尿器を入れたり出したりしているTさんもいびきをかいているし、決められた9時になる前に睡眠薬をくれと、つきまとうYさんも、なんと9時になる前に寝入っているではないか。
在宅のNさんもそうだった。毎晩3~4回は奥さんを起こすそうだが、デイサービスでの温泉一泊旅行では、ビールをグイグイやったせいもあって、朝まで熟睡してしまった。 宿直の巡回時、何人かの老人が起きている。「どうしたの」と聞くと「しっこ」という答えが最も多い。でも尿意を感じて目が覚めると思ってはいけない。逆だ。目が覚めるから、尿意を意識してしまうのである。
心地よく疲れるくらいの゛昼″があれば。゛夜″は保証されるのである。つまり、睡眠というADL項目は、食事、排泄、入浴、そして遊ぶ、かかわるという昼間の生活行為が、生きいきすることに因るのである。 つまり私は、講座でも講演でも、昼間の生活をあたたりまえに゛生活″と呼べるものにすることを訴えてきたが、それこそが、じつは、睡眠を語ってきたことになるのである。
もちろん、夜、眠れないそのとき、どうかかわるかという問題はあるだろう。光刺激が多すぎないようにとか、物音を立てないようにとかいったことだ。それらも大切ではあるが、これはいわば゛局所療法″でしかない。 床ずれを治療するのに、゛寝たきり″という生活状態をそのままにして、いくら最新の局所療法を施行しても意味がないように、昼間の生活づくりをしないで、不眠そのものを治そうとすれば、結局は薬に頼るよりほかになくなるだろう。
だいたい昼間活動的に過ごして疲れていれば、物音があったって人は眠ってしまうものだ。 それにしてもどういうことだろう。いまだに褥瘡の治療といえば、どの雑誌が特集しても局所治療のオンパレード、おまけに製薬会社の主催する治療法セミナーには看護婦さんがつめかけている。
座る生活をつくってごらん。褥瘡だけじゃなくて、尿路感染も肺炎も治ってしまうから。もちろん、急性期や終末期の安静を必要としている場合には局所治療も必要だから、知識や技術はもっていて欲しい。だが、コロコロ変わる最新治療法を追いかける必要はない。たとえ急性期や終末期だろうが、生活のなかでつくられてきた人間関係こそが、局所療法の効果さえ決めていくのだから。
そこでは、私たちの専門的知識や技術は、あたかも゛小手先″に過ぎないかのように感じられるではないか。昼間の生活づくりに比べれば、夜、眠ってもらうための知識や技術は゛小手先″である。 さて、この文章は、睡眠と活動、夜と昼について語ってるが、じつは、死と生について語るためのプロローグである。つまり、私が「死」について語らないのは、ちょうど同じように「死」が「生」によってこそ決まっていくと考えているからなのだが、それはまた次号で。
- 1995.10月 浜田寿美男・三好春樹対談② 近代と専門性
【手持ちの力で暮らすことを邪魔するもの】
●三好 僕らが老人を見る時にもどんな能力をもっているかという目で見るではないですか。検査でも評価でも。それを見たうえで、では今もっている力をその人がどのように使いこなしているのか、今もっている力を今の生活に役立てて、楽しい生活のために生かしているかというところをちゃんと見ているかということなんでしょうね。
苦しい訓練をして将来もっと高い能力をもったとしても、それを使いこなせる保証はどこにもないわけですから。その保証を未来に託すのではなくて。先生がおっしゃったように手持ちの力で私たちは今生きている。まず手持ちの力で生きられる生活をちゃんとつくろうということは全く同感です。
言い方を変えれば等身大で我々は生きているということだろうと思うのです。人は、手持ちの力とか等身大の自分というものがあまり好きではないのですかね。明日になればもっと素晴らしいだろうとか、明日になればもっと進歩しているだろうとか、発達しているだろうと。そちらが本来の自分であって、今ここにいる自分というのは自分ではないとどうも思いたがっているような心理というのがあるではないですか。
あれがいつまでたっても現実を直視しないというようになっていると思うのです。私は元進歩主義者ですが、今は進歩主義者ではありません。世の中が進歩するのは全然否定しませんけれども、進歩主義が進歩をつくってきたとは思わなくなっているのです。
進歩主義というのは今日よりは明日の方がもっといい、明日よりもあさっての方がもっといいというような世界なのですが、そこから見てしまうと現実を見ていない、あるいはお年寄りなどだったら、明日に向かって、明後日に向かって、だから今日は我慢して訓練しなさいと言われても明日があるのか明後日があるのか分からないわけです。そういう進歩主義的な世界観から「今ここ」を取り戻すということをやらないと駄目ではないかと思うのですが、先生はどうでしょうか。進歩主義者でしょうか。
【なぜ不安なのだろう】
●浜田 進歩主義というと、バラ色の世界を描いてそこに向かって進んでいくというようなイメージがありますね。その進歩主義の背景には実は「不安」があるのではないかと私は思っています。不安というのは、これは非常に厄介なものでして、人間というのは、本当に「ここ」の「今」をどこかに追いやってしまって、「明日のため」ということになりやすいのです。
僕らは「明日」という概念、イメージをもってしまっているでしょ。動物の世界では「明日」という概念をもたない動物もいるわけですね。「ここ」の「今」を生きている。ある本で読んだのですが、家のなかのダニではなくて、森林、灌木のなかで生活して生き物の血を吸って生きているダニがいるのです。触覚はあるのですが、目は見えなくて耳も聞こえなくて、光だけを感じる。
産卵期に、交尾を済ませたメスダニは木に登って枝の先まで行きます。哺乳類の汗の臭いを感じると、手足を離して落ちる。うまくいけば哺乳類の上に落ちるので、そうすると毛のなかに潜り込んで血を吸います。たらふく血を吸うと、ボロッと落ちて後は産卵をするだけです。うまく哺乳類の上に落ちないともう1回やり直すのです。
ところが、いじわるな研究者がいまして、このダニがどのくらい待つのだろうという実験をしました。瀧木の上に上らせたまま実験室に持ち込んで絶対に哺乳類が下を通らないような条件をつくったのです。どれだけ待つたかというと17年たってもまだ待っていたというんですね。
皆さん、そんなことができますか。できないでしよ。つまり、彼等は「ここ」の「今」を生きている、明日という概念はもっていない。明日来るだろうか、明日来るだろうかと思っていたら17年間も待てるわけがないんですね。残念ながら人間は明日という概念をもってしまっている。明日という概念をもちますと明日のために蓄えるということもできる、蓄えておけば明日何か大変なことが起こってもそれで生きていける。
だから物をためるということをやっていくのです。ところが物をためるということは、裏返しにすると明日に対する不安なのです。今ためこまなければ困るのではないかというわけですね。人間にとっては、不安は逃れられないものだと思います。ただ、その不安に対する対処の仕方というものをもっと考えていかなければならないのではないでしょうか。
今の日本の社会のなかではまさに能力を伸ばし、制度の梯子の高みまでどんどん登っていけばまっとうな生活ができるのだというような錯覚をもってしまって、いつも「今」を食い潰しているわけです。一生懸命にためても結局ためたものを使う機会がないという話になってしまう。明日どうなっているだろうという不安感を「今」をどうやって生きていったらいいのだろうかという視点に切り換えていかないとこれは大変だなと思いますね。でも、簡単には変わらないと思います。
【老いの受容を邪魔するもの】
●三好 今の不安を解消するために未来という抽象的なものをつくったというと、パンドラの箱を開けたという感じがするのですが、将来がバラ色であれば「今」の不安は一応忘れることができますからね。人間は死ぬまで発達していくのだ、みたいなことを言う人がいますよね。これは大ウソもいいところで、最後は皆、人は崩壊していくわけです。それが自然なのですから生涯ずっと発達していくなどというのは現場を知らない人の無茶苦茶な言い分だと思うのだけれども、やはりそういうことが出てくるのでしょうね。
現場にいるとわかるのだけれども、ためこんでいくもの、たとえば金だとか、地位、名誉とか、今の世界ではすごく意味があるかのように思われているものが実は、脳卒中になって施設にでも入ると全く役に立たないんです。病院ではまだ役に立ちます。つけ届けをもっていくと良くしてもらえますしね。
そういう世界から特養に来ると、誰が偉いのかと見回して園長とか指導員に金を渡そうとして断られるわけです。そうすると職員のなかで誰が受け取りそうかというのをじっと見て、その人の夜勤の時にそっと渡そうとしてそれでも断られて、どうもこれまで生きてきた世界とは違うなというのに初めて気がつくというのがよくありました。実際にそういうタイプの人は、障害を負って人の援助を受けなければいけなくなったということを受け入れていませんから暮らしにくいわけです。
社会的に地位の高い人ほど着地が難しいとよく言われますが、たとえば、大学教授などは、皆から先生、先生と呼ばれて、助教授とか講師などは人間ではないというような扱いをしている場合が多いですから、特養の一介の入所者になってしまった自分を受け入れにくくて、逆にそういう地位も金も名誉も年をとると邪魔になっているということがありますね。実は、人生の目的だと思っているものはせいぜい人生のアクセサリーに過ぎないのではないかというところまで現場にいると達観するところがあるのです。
【死との折り會いを 人はどうつけるのだろうか】
●三好 「今」に対する不安というのは個人として生きていることに対しての不安だと思うのです。発達してどんなに高みにいった人でも結局死んでしまう、死ぬ時は1人きり。歴史とか国家とか社会とか人類とかという普遍的なものは永遠に進歩して続いていき、自分だけが死んでいくではないですか。これはものすごく悔しいですね。
個人は死んでも人類は残っていく。僕が今日死んでも、明日の朝も東の空から日が昇るというそのへんの悔しさみたいなのがどうもあるのです。この問題を一気に解決してくれるのが、ハルマゲドンです。ハルマゲドンというのは、全世界で毎年のように予言している人がいるのです。もちろん全部外れてきたのですが。要は、人間というのはどこかでハルマゲドンを望んでいるのですね。1人で死ぬのではなくて皆と一緒に死ねるということにものすごく願望があるのだろうという気がするのです。
●浜田 不安の元をつきつめれば、最後に死の問題に行き当たります。けれども死というのは考えてみたらごく当然のことなのです。たとえば死ぬのが怖いと言いますが、誰も死は体験できないのです。生まれるのもそうです。生まれるのを覚えている人は誰もいないでしょう。同じように死ぬという体験を自分でもつことはできないわけです。死を体験すべき自分自身が死ぬわけですから、死を自分のものとして知るすべはないわけです。
だから放っておいたら1人で死ぬわけです。しかし人はなかなかそうは思い切れないです。私だって受け入れることができているわけではないのですが、ただこんなことを思ったことがあります。自分に子どもができて育てていくと大きくなっていきますね。そうすると人というのはこうやって生まれて大きくなっていくのかという実感をもちます。自分自身が育ってきた過程は覚えていませんから自分の子どもを見ることで思うのです。
ある哲学者は「人は自分の子どもを育てることで自分の子ども時代を生き直すのだ」「自分自身の子ども時代をもう1度生きるのだ」という言い方をしています。これを裏返して言うと死ぬ過程でも同じで、私は親父もおふくろもゆっくり死にましたので、ずっとゆっくりつきあったのですが、そのなかで人というのはこうやって死んでいくのだなと思いました。
もちろん親に限らずいろいろな人が死んでいく過程を見るわけですが、しっかり死につきあうという経験はあまりないですよね。老人ホームなどで仕事をしていてもずっとつきあうということはあまりないでしょう。私は、親父、おふくろが死んでいくのを看取りながら人はこのようにして死んでいくのだなと思いましたね。
さきほどの、子どもを育てることで子ども時代をもう一度生きるという言い方を裏返して言えば、人は自分の目の前で身近な人が死んでいく過程を見て、自分自身の死をいわば先取りする、自分もこうやって死んでいくのだなということを見極めていくのだと思うんですね。
それまでは何となく真っ直ぐ進歩して自分は高い所に向かって進んでいくのだという、前しか見ていないような感じでしたが、子どもができることで後ろの世代がいる、親が亡くなっていく過程を見て自分の前を生きてきた世代がこうやって消えていくのだという、そういう前後が見えてくる。人というのは有限で、生まれて死ぬものだなということをあらためて知る。それはある意味では救いであるように思えました。そんなものだということです。こういう時代だからこそ、こうした感覚をもっと大事にしていかなければいけないと思うのです。
●三好 人間は死ぬものである、本当にそうだと思うのです。それをなかなか認められないというのが我々のカルマでありましょうか。死ねば死にきりということがちゃんと分かれば、いつ死ぬかわからないのですから、今をできるだけ楽しく生きようと。楽しくというのはおもしろおかしくということではなくて、自分の個性を生かして周りの人も大事にしながらということも全部含むのです。私は老人介護の現場に入って、老いていくこととか死んでいくことにつきあいながら開き直りができたような気がするのです。
- 1995.09-08月 浜田寿美男・三好春樹対談① 近代と専門性
【そこに生活は含まれているか】
●三好 現在のリハビリは、何のためにするのかという意味という側面がすっぽり抜けて、とにかく能力さえ獲得すれば後はどうにかなるだろうという形で行われているような気がします。よく例に出すのは、訓練をやる気のなかったおぱあちゃんを何とかなだめすかして平行棒まで連れてきた。
おばあちゃんは「どうするの」と言いますから「立ってごらん」。「立ったよ」と言いますから「では歩いてごらん」。平行棒を歩いて「歩いたよ」と言うから「では帰ってきて」というと、「帰らすくらいなら行かさなければいいじゃないか」と言われて、一同大笑いになったということがありました。
浜田先生の講演を聞いて、この話を思いだしました。下山名月さんがよくされる話ですが、彼女が老人病院で食事介助をしていた時、「おばあさん、ご飯食べて。食べないと元気にならないわよ」と言うと、おばあさんがぽつりと「元気になったら何があるの」と言われて、彼女は愕然としたそうです。
ある病院では週に1回PTが来て訓練をするそうですが、訓練に行くのに車椅子に乗せられて30分くらい待たされる。それからやっと10分くらい関節を動かされて、またベッドに帰ってくると、残りの6日間は手足を縛られているという、かなり倒錯した現実というのが当たり前になっていたそうです。何でこんなになってしまうんでしょうね。
●浜田 講演のなかでも言ったように、やはり学校の影響が非常に大きいと思うのですが、そう言えば次に学校は何でできたのかという話になります。学校というのはまさに近代の産物なんですね。日本でも学制が発布してから120年になります。近代というのは産業革命以降ということなのですが、産業革命以前は、一人ひとりの人間がある種の共同体のなかで生きてきて、そのなかで自分たちの生活空間をつくりあげて共同で生き合ってきたという関係がありました。
それが産業革命以降は、工場という所に出かけていって働いて金を稼いで生きるようになった。金を稼いで生きるというのを僕らは当然みたいに思っていますが、金を稼いで生きるという生き方はここ100年ほどで徐々に定着してきたのです。そして、日本人のほとんどがそういうライフスタイルになったのは、ここ30~40年の話でしょう。
この発想が人の営みの実質的意味と制度的意味とを分岐する大きなきっかけになったのではないでしょうか。お金というのは実質的と制度的という2つの意味があるのです。たとえば1万円札の意味。実質的には紙切れにすぎない。それそのものとしては何かに使おうとしてもメモ用紙にもならない。ところが、日本銀行券という形で日本の貨幣制度の御墨付きを頂くと絶大な力を発揮するのです。
つまり、お金というのは制度的な意味の権化であり、それにあやつられているのが我々ということになります。そこのところに根っこがある。たとえば、何のために福祉の仕事をするのか、2つの側面から見てみましよう。1つに福祉の仕事をするのは人が生きいきと、あるいは安らいだ形で生き合うためだという建て前があります。
これは実質的な意味ですね。ところが、実際には仕事にならないと飯が食えないという現実がある。とにかく飯を食えるようにするためには、ここで嫌でも何でも仕事をすることしかないと思う人が出てきてもおかしくはないわけです。
そういう状態になりますと福祉の現場の意味が違ってきます。たとえば施設でも、そこで生活する人たちには生活の場かもしれないけれど、職員さんたちには職場なのです。つまり金を稼ぐ場所ということになります。生活者の論理がそこで崩されるということになり得るわけです。そういうお互いの人間関係というものをどう統合していったらいいのかということで、問題の根は実に深いのです。
●三好 金というのは現実的には稼がなければいけませんが、稼いで貯めておいても何も意味がないわけですね。自分らしく生きるために使うというところでは大きな意味をもつし、金を使って何か楽しいことをやろうとか、人の役に立つことをやろうということで使うのは一向に構わないのですが、貯めること自体に意味をもってくるのがひとつの物神化というか、そういうことでしょうね。
【どこを見ているのかが間われている】
●三好 たとえば資格をもった専門家であるという言い方をしますね。寮母さんとかヘルパーさんが何か言うと、「専門家でもないくせに」と口を封じるタチの悪い「専門家」がいっぱいいるじゃないですか。専門家というのはその専門的な知識をどう使うかということで初めて評価されるのであって、ライセンスをもっているというだけで評価されるのはヘンですよね。
だから「専門家でもないくせに」と言われたら、専門家であるとわざわざ言わなければいけないというのはそもそもおかしいのだと切り返せばいいのです。専門家ならどう実践がちがうのかということをちゃんとやって見せてくれと。
さきほどの脳性マヒの学生さんの話(前号の浜田先生の講演参照)で、まず訓練をして良くなったら新しい人間関係が始まるという言い方。これはPTの世界と全く一緒で、訓練をして体が良くなったら新しい生活が待っているだろうということで訓練、訓練というのですが、確かにこれで良くなる人もいます。
そういう人を見逃してはいけないから、ちゃんと専門的な訓練をすることも大切なのですが、たとえば特養とか老人病院にいる人の95%くらいは一生懸命やったとしても良くならないですよ。良くならないのだから今手持ちの力でできることをちゃんとやろうよ、という言い方をこちらがしますと、それは敗北主義だと言われるのです。専門性を放棄していると。
あくまでも希望を失わないで最後まで自分の専門性を発揮してやらないとだめではないか、少しでも希望があるうちは訓練を続けるのが専門家の仕事ではないかと怒られるのですが、その点はどうなんでしょうか。
●浜田 専門家が専門家としての力を発揮して相手の方が生きやすくなればもちろんいいと思うのです。問題なのは専門家の視点がどこにあるかということです。子どもの例をあげますと、子どもの育つ過程を外から眺めている人間が、ここまで来た、次はこうだなという確認をしてきているわけですね。
訓練の場合も、ここでうまくいかない、つまずいている、ここをどうしようかという話で、それを伸ばすことが希望であるというのですが、はたしてそれが本人の希望なのかどうかです。その人の力を伸ばすことは、専門家にとっては自分の専門性を伸ばせたかのように思えますから希望ですが、しかし、伸ばした力がその人のためになっているのかということを抜きにしては何も言えないわけです。
【生活を含んだ希望でなければ】
●浜田 希望を捨てるのは敗北主義だという言い方をするとき、ともするとその希望というのは訓練者の、専門家の側の希望であり、決して本人の希望ではない。それは非常におかしなことで、たとえば小さい子どもが3才、4才の時点で歩けないと親御さんは大変な思いをしますね。訓練をさせたいと。そうすると歩くことが希望になるわけです。
誰の希望かというと、もちろん本人も歩けるようになりたいと思います。ところがそれがなかなかうまくいかない。2年たっても3年たっても歩けない。手術をしてそれでもうまくいかない。毎日毎日訓練をする。 10才になってようやく歩けるようになる。杖をついて歩けるようになったのはいいのだけれども、ところが歩いて遊びに行く所がない。友達が誰もいない。こういう状況になることがあるわけです。
そうすると、その希望は一体何だったのかという話になります。それは希望を捨てろということではなくて、もちろん歩けるようになって世界が広がればそれはいいことなのだからそういう希望をもつことは大事だと思うのですが、ヘタをするとそれが専門家の希望に飲み込まれてしまう。専門家の希望と本人の希望がまさに矛盾なくぴったり重なればそれでいいのですが、とかくずれるものなのです。これは全く困ったことだと思うのです。
いわゆる養護学校問題と呼ばれてきた問題の根にも同じようなことがあると思います。養護学校に行かせることでその子の力を伸ばす、こまめに面倒を見られるから力を伸ばせるのだという形で養護学校に入れようということがずいぶん盛んに言われて、新しい養護学校が1979年以来たくさんできてきました。
ところが伸ばした力をどこで使うかというと、結局障害児だけが集められた学校空間、あるいは学校を出た後は作業所とか障害者たちしか集まらない所に行かされて、そこでしか力が発揮できないということになります。たとえ、力を能率よく伸ばすことができても、その力を発揮する場を奪ってしまったら、元も子もないということはちょっと考えればわかるはずなんですけどね。
これを私は「発達強迫」と言っています。1歩でも半歩でも伸ばさないと、まっとうな生活が送れないという、強迫観念みたいなものですね。人が生きるというのは「卵から土まで」の道筋のその上を生きているわけです。その道筋を外から眺めて生きているわけではなくて、その道筋のただなかを生きているわけで、まさにそのなかを生きている人間にとっての希望という視点が非常に大事なことになるはずです。
この希望などということはまさに心の問題で心理学の研究の対象になっているはずだと思われている人が多いでしょうが、不思議なことに心理学事典をひいても「希望」という言葉は出てこないのです。なぜかというと、今の科学的心理学においては人間が外から眺める研究対象でしかないために「希望」という言葉が出てきようがないわけです。
専門家や研究者の希望はあるかもしれませんが、そのなかを生きている子どもたち自身の、あるいはお年寄り自身の希望の問題は横に置かれてしまうという状態になります。だから冗談みたいに言うのですが、今日の心理学に希望はない、そんなふうにも言えると思う。
この対談は、5月5日、埼玉県大宮市で行われた「東日本版オムツ外し学会」で収録したものです。
- 1995.09-08月 三好春樹へのインタビュー
38号の地下水脈「受容の原則」を巡って ●38号の「地下水脈」、大笑いで読ませてもらいました。ただ、今までの三好さんの表現とは違うのでちょっと面喰らったというのはありましたね。それと、時流に乗った冗談として十分面白いんだけど、三好さんがこれを書いた意図ってのはそれだけじやないでしよ?テーマが「受容の原則」となっているのもイミシンですしね。
そこで、表現されたものの意図を問うなんてのはヤボであることを承知でちょっとインタビューしてみたいと思ったんですけど……。
主人公は、このしやべってる寮母さんなんですよ。相手は誰でもいいんですね。よくしやべるでしょう、この人。“秘密保持の原則”なんて知ってはいるんですけどね、どうしてもペラペラしやべっちゃうんですよ。しかも本人の目の前でね。
想定としては、定年がそう遠くない寮母さんで経験はかなりある。介護福祉士の受験資格はあるけれどもう受ける気はないんです。で、若い有資格者も入ってきて、口では「あなたたちは勉強してるんだから」ってへりくだるんだけど、心の中では『資格より経験よ』と思ってるって人。
で、人の噂は大好きで、夜勤入りの日なんか朝からワイドショーつけっ放し。園内の噂ときたら嬉しくてしかたない。つまり典型的な俗っぽいおばちゃんですね。 ハルマゲドンって言われてもね、“ふ一ん、大変ねえ”、空中浮遊って聞いてもね、“そーお、よかったわねえ”ってね。空中浮遊ったって、目の前の介護が楽にならなきや何の役にも立たないだろうっていうすごいリアリズム。
一応、この人もね「受容の原則」つて教わってるんですよ。そうでなきや、「何パカなこと言ってんのよ!」って叱るところなんですけどね。そこをなんとか、一応専門職だからね、抑えてる。それで“そ一お、よかったわねえ”(笑い)。
これ、「受容」なんていうよりは、バカにしてるんですよ。バカにしてるっていうより相手にしてないんですよ。それで、コトバだけ「受容」(笑い)。現場ってそんなもんでしよう?「受容の原則」をいくら教えても。そういう皮肉をこめてるというのもあるんですね。
で、私は、この俗物の寮母さんを肯定してるんですよね。こういう人に「受容の原則」なんてのを教え込もうとする側に対しても、それからオウム真理教の側の“真理”に対しても、です。 おそらくこの寮母さん、相手がたとえば、晩年のサルトルとか大江健三郎だったとしても同じなんですよ。
“松本さん”に対するのとね。サルトルが「実存は本質に先行するんだ」とか、大江が「“あいまいな日本”をどうするのか」なんてまともなことを言ったとしてもね、“ふーん、大変ねえ”(笑い)とがそーお、大江さんて頭いいのねえ。じゃ作業療法室行きましょ”なんてやると思うんですよ。
そういうね、大江だろうがオウムだろうが、自分の生活から外れてるものに対してはイカれたりしないし関心がないっていう健全さを肯定したいんですよ。
●人の噂話に関心があるほうがよっぽど健全だというわけですね。
そうそう。でも実際にいっしょに仕事してると、おそらく私、カリカリすると思いますよ、こういうタイプの人(笑い)。でも、心優しくていいケアをするボランティアより、こういう困った職業人のほうが好きなんですよね、私は。どうしてなんだろうと思うんだけど、正しいボランティアよりは俗物の寮母の味方になりたいというのが私の倫理なんですね。
“正しいボランティア”ってね、オウムの世界へ行っちゃいそうでしょう。でも“俗物の寮母”は行かないと思います。オウムに行った若い人のなかに、時代の先端を行っているような職業の人が多くて、どうしてだろうなんて言われてるけど、あれ不思議じやないですよ。老人に関わっている職業の人で、オウムに入ってる人ほとんどいないと思いますね。
だって、「老いていく」っていうのぱ解脱(げだつ)”みたいなもんですからね。 “個人”だの“自意識”だの“人間”だのから解脱して“生きもの”に帰っていくんでしょう。彼らの“解脱”とは向きが逆ですけどね。オウムの言う解脱は、人間よりもっと偉くなっていくんですね。上にあがっていく。こっちは下へ、深いところへ帰っていくんですけどね。
つまり、私たちは日常的に“解脱”を見てるんですよ。そしてそこから、生とか、今の時代とかを無意識に見直すということをやってると思います。 時代の先端の職業って、死とか老いに触れることがないですからね、生というのも判らないんだと思います。それは、いま生きてるだけ、ってことなんですけどね。それだけでいいってことだと思うんだけど、そうは思えないんでしょう。それで“生きてる目的は何だ”なんて考えて、過剰な観念が必要になるんでしょう。
久米宏が「こんな事件が起こるのは日本人が個人として成熟してないからでしょうね」なんて、コメントしてましたけど、こういう、お決まりのことしか言えない進歩的文化人こそ成熟してない証拠ですよね。個人が成熟してるはずの欧米こそがカルト教団の本拠だってことくらい常識でしょう。
逆だと思いますね。“個人”をもてあましてるんです。生きものにとっての人間には、“個人”とか“自己”なんてのはほんの一部分で、病気や老いですぐ崩れ去るものでしかないのに、それが人間だなんて思いこまされるでしょ。どうも無理がありますよね。
オウム信者の社会復帰が大変だって言われてますね。老人ホームで働いてもらうのがいちばんいいと思いますよ。人間ってのは、ただ生きてるんだ、って判ると思いますね。ただ生きてて、それでいいんだってことがね、だって、私たちはみんな、気がついたら生きてただけなんですから。
日曜日に孫が面会に来るとか、今日の夜勤は○さんだとか、今日は膝が痛くないとかいった、何とも日常的で具体的な事を小さな楽しみにして生きていけるんだ、ということが判るんじやないですか。 あ、あんな過剰な観念なんか不要だってことが判って、頭のなかヘッドギアも外れると思うけど。どっかのホームで引き受けませんかね。
結論、ホーリーネームは「ジジババ」。
- 1995.07月 地下水脈「受容の原則」
あっ、だめよ、松本さん、人の物に手を出しちゃ。あなたのはもう食べちゃったでしょ。まったく困ったわねぇ、目が見えないはずなのにメロンだけは正確に手が出るのよねぇ。こないだも都沢のおばあちゃんのメロンまで食べちゃったのよ。困ったもんだわ。
えっ、松本さんのお風呂の順番もう来たの?そりゃまた困ったわねぇ、そう、嫌いなのよ、お風呂。近づくと臭うでしょ? 先週も入ってないのよねぇ、どうして嫌いなのかなあ。ほら、昔の老人介護の本読んでると、満州とかの大陸に行った人って入浴の習慣がないって書いてあったりするけど、年代が違うわよねぇ、松本さんて何年生まれ?
昭和30年か。じゃ全然違うわ。珍しいわよねぇ、この年代で風呂が嫌いっていうの。えっ、風呂に誘うのにコツがあるの? 何それ? クンバカ?“クンバカ行きましよ”つて言うと付いて来るの? 本人は風呂のことを“水中クンバカ大会”だって言ってるの? 何だろうねぇ、“松本クン馬鹿”の略かな。そんな訳ないよね、プライドだけは高いものね。ね、松本さん、今日クンバカ大会やってるんだけど行きませんか? ね、行こ。ほんと、言うこと聞くわね。じゃお願いしますね。
あ、そうそう、湯舟の中に頭ごと入り込んじゃって出てこないクセがあるから気をつけてね。 あら、松本さん、お風呂どうだった? いい男になったわねぇ、ちょっと頭を乾かしましょうね、そんなに怒らないでよ、ドライヤーかけるだけなんだから。ほらほら、おひげも乾かさなきゃ、判った判った、触ったりしないからさあ。ご機嫌悪いわねぇ、どうも私とは相性がよくないのよねぇ。
寮母の石井さんには機嫌がいいのよ。あんな化粧っけのない女のどこがいいのかしらね。そういえば髪の毛の長い女が好きみたいよ。石井さんでしょ、飯田さんでしょ。えっ、私も髪長くしたらどうかって? イヤよ。そうまでして松本さんに好かれたかないわよ。私は同じ入所者なら松本さんより上祐さんのほうがいいな、いい男じゃない。おとなしいしさ。ま、失語症だからしゃべれないんだけどさ。昔はよくしゃべる人だったらしいよ。
えっ、松本さんと上祐さんて昔友達だったの? でも仲良くないじゃない。え? 何? 上祐さんの彼女を松本さんがとったの? えーっ! 信じられなーい! 逆じゃないの? どう見ても上祐さんのほうがもてそうだけどなあ、世のなか判らんわ。え? 松本さんがゲートボールチームのリーダーだったのに、長期入院してる間に上祐さんがチームを乗っとっちゃったの? それで仲が悪いんだ。それなら納得だけどね。
はいはい、また始まっちゃったよ、判ってますよ、ハルマゲドンでしょ、人類が滅びるのね、ふーん、大変ねぇ。 それにしても重いわねぇ、体重何キロあるの? ちゃんと食事制限してるんでしょうね。何? 糖尿病だからちゃんと糖尿食になってるの? それでなんでこんなに肥えてるのよ。いくらカロリー制限したってダメよ。いつも何かオヤツ食べてるんだもの。
買物は制限してるんでしよ? 誰が与えてるの?家族とは縁を切られたらしくて一度も面会はないしさ。え? お婆さんたちがあげてるの? お布施だって言ってんの? 鹿島さんは年金で買ってるオヤツ全部お布施したんだって? どっか魅力があるのかしらねぇ、単なる嗅い妄想爺さんとしか思えないけどねぇ。妄想? ひどいよぉ。こないだなんか “毒ガス攻撃だぁ”なんて叫ぶのよ、隣のベッドの早川さんがポータブルトイレで大便してたんだけどね。
それが1週間ぶりの便通だったから量も嗅いもすごかったことはすごかったけどね。そうそう、自分で大きなオナラしといて“サリンだ! タブンだ!”って大騒ぎしてたのには笑っちゃったなあ。それにつられて隣で早川さんは“シェルター、シェルター”つて叫ぶしさ。いったい二人ともどんな生活歴もってるんだろうね。
あっ、今日の妄想もちゃんと寮母日誌に書いといてね。自分はブッダの生まれ変わりだっていうやつ。ブタじゃないわよ、ブッダ! おしゃかさまのことらしいわよ。えっ、あなたにはキリストの生まれ変わりって言ったの? 節操がないわねぇ。 はい、松本さん、首に手を回してくださいね、車イスに移りますよ。
えっ、何、空中に浮かべるの? そーぉ、よかったわねぇ、空中に浮かべるんなら今やってくれりゃ、こっちは介助か楽なのにねぇ。はい、しっかり足に力を入れてね、左マヒでも右足は効くでしよ! イチニーの、ハイ! ブーツやれやれ。はい、じゃ作業療法室に行きましょうね、松本さん。
- 1995.07月 発達幻想の中の子どもと老い
《大宮オムツ外し学会》講演 浜田寿美男 【はじめに】
こんにちは、浜田といいます。私は子どもの心理学をやってきた人間でして、いつもは大学で黒板を背にしてしゃべっているものですから、こういう場でうまく噛み合うような話ができるかどうか、ちょっと自信がありません。ただ縁あってこれまで三好さんの話とかご本とかを、いろいろ聞かせていただいたり読ませていただいたりしていまして、かなり共通の問題というか、重なるところがあると思ってきました。
今日の私のテーマは「発達幻想の中の子どもと老い」となっていますが、これを見ただけではイメージをつかみにくいかもしれません。「テーマは難しいけれども分かりやすい」という謳い文句がついていますが、最後まで分かりにくいかもしれませんので覚悟して聞いていただきたいと思います。
【生活という物語を紡ぐ】
どこが重なるのかという話をしていきますと、ずいぶんいろいろな部分が出てきますので、今日は1点だけお話をさせていただきたいと思っています。 私がやっているのは子どもの心理学だと言いましたが、私自身は大学で「発達心理学」という講義を持っています。そこで、「発達幻想」と言う場合の「発達」とはどういうことか、これをどのように考えたらいいのか、というところから話を始めたいと思います。
敢えて言いますと、最初に人間は卵であったわけです。もちろん、体外に出てきたときに卵だったわけではなくて、お腹のなかで受精卵として出発する。人間誰しも、最初は単細胞だったということです。これは人間に限らず、あらゆる生き物が最初は卵という形で、その卵から出発したものが人間の場合は母親の胎内で大きくなって、ある時点で出生をする、世のなかに出てきます。
その後何十年か生きてきまして、最後は土に還る。こういう「卵から土まで」の生活歴ですね。ライフヒストリー、生活史という言い方もあります。この生活史の全体を見通して、人間の活動がどういう形で展開していくのかを見ようというのが発達心理学ということになります。
とりわけ、子どもの時代を中心とした子どもの心理学については、「発達心理学」という呼び方をしてきましたが、最近では「生涯発達心理学」と言って、生まれた時から死ぬまでの人生全体を対象にしようという動きも出てきています。生涯発達なんて言いますと、年を取ってもなおかつ発達し続けるというイメージで、ぼくはちょっと強迫的過ぎるかなという感じがしています。
ですから、あまり発達ということばにこだわりたくないのですが、一応数十年の「卵から土まで」の生きる過程を扱うわけですね。そのヒストリーを「生活歴」と言ったり「生活史」と言ったりしますが、もう少し別の言い方をしますと、ライフヒストリーというのはもともとの語源をたどると「お話」あるいは「物語」ということらしいです。
ですから、訳しようによっては「生活の物語」と言ってもいいでしょう。私自身は生活史とか生活歴という言い方はあまり好きではないものですから、この方が膨らみがあっていいと思います。誰もが、1人ひとり自分の生を受けてこの世のなかに出てきて、自分なりの生活の物語を紡ぎ出しているという、そういうイメージで考えたいと思っているわけです。
さて、とかく科学というのは「卵から土」までの過程を生きている人間を外から眺める、というアプローチをします。外から眺めてどうなっているのだろうか、という目で見やすいわけです。しかし、実際には外から見ている研究者も、その人自身の生命過程のなかを生きているのです。「卵から土まで」のある1コマを生きているに過ぎないわけですから、実際は外から眺める視点に加えて、このなかを1コマ1コマ生きている、そういう視点からも見ていかなければいけないのではないかと私自身は思っています。
【活動を可能にする能力】
そこで、生活の物語がどのように織り成されていくのかということを考えたときに、数十年という長い期間を見ていくわけですから、全部を一遍に捉えることはできませんね。そこで、生活の物語の1コマの部分をとりあえず見てみよう、ということになります。では、その1コマをどう見るかということになるのですが、抽象的な言い方をしますと、人は生きている間必ず何らかのことをする、それを「活動」と呼んでおきます。
その活動というものを生活の物語の単位、1コマとしますと、1コマ1コマの活動を組み合わせて自分の生活の物語を織りあげていくというふうになります。この生活の物語を1本の帯のようなイメージで考えますと、帯の織り目の1つ1つがそれぞれいまを生きている私たち自身の活動だということになるわけです。
その活動をどう見るかということなのですが、1つの見方は、この活動がどうやって可能になるのかということです。たとえば、ぽくはいましゃべっているわけですが、しゃべるためにどういうことが必要かというと、平たく言って、まず能力です。ある活動をするについての必要な能力、そういう側面から見ていこうというのが、1つの見方としてあるだろうと思います。
つまり、私がここでしゃべるということには、一定の能力がいる。たいそうなことを言っているのではなくて、例えば2本足で立たなくてはいけない。声を出さなければいけないし、言葉というものが使えなければいけない。
さらには私は京都から来ているわけですが、京都からここまで来るのに2本足で立って歩くという活動も必要でしょうし、あるいは要所要所で間違わずにここに来るという認知の力も必要なわけです。つまり、ある1つの活動にはものすごくたくさんの能力が必要なので、活動を可能にする能力という視点がひとつの大事な視点にはなります。
ところが、能力である活動を可能にするという、この部分だけを見ていますと、何か大きな間違いを犯すような気がしてしょうがないのです。実際にいまの社会のなかで、この日本という社会のなかでまっとうに生きていくためにはこういうことが必要だ、と思われていることがあります。
出生してから、節目としては6歳のところで学校に入ります。学校に入るくらいまでの間には、身辺自立に関する力がなければいけない。基本的には、歩ける、しゃべれる、衣類の着脱が自分でできる、食事が自分でとれる、排泄が自分でやれるという、そういうことができなければならない。それを、狭い意味での生活的能力と言っておきましょう。
5~6歳までに自分の身の回りのことはおおよそできるようになる。その後、学校に最低限9年間、今はほとんど高校に行きますから、95パーセント以上が12年間、さらに大学に行く人、専門学校に行く人を含めますと、20歳すぎまで勉強をしているという人が5割くらいいることになりますね。それまでの間は、学校というところを通っていかなければいけない。
この学校という階段を一つ一つ上がっていくのに要する力が、いわば学校的能力です。それから学校というところを順調にくぐっていって、社会に出る。というか、どこかに勤めて仕事をする、つまり金を稼いで生きていくということになります。
これも生活的能力、学校的能力というのと類似の言い方をしますと、会社的能力というふうに言えるでしょう。会社勤めをしてそこで金を稼いで食う、そういう力が要求されてくるわけです。これが、少なくとも日本の社会のなかでまっとうに生きるための筋道だというイメージを、どこかでぼくらは持っていて、これからはみだすと、とんでもないことになると思っています。
【意味あってこその能力】
今日の子どもたちは、学校に行けなかったら一生ハミ出し者として、まともな生き方はできないというように思われています。実際に、不登校のお子さんをお持ちのお母さん方、あるいは本人も非常にしんどい思いをしている。
こういうふうに、人生のなかでやらなければならない活動の方は最初からすでに決まっているわけですから、あらかじめ決まっているこの活動を行うに足る能力がどう伸びていくのかということを見なければいけないし、それを見るのが発達心理学の役割だ。
だからうまくいかない子どもについては、どうやったら筋道通りにたどらせることができるのかという手立てを研究する、そういうことが大事だと思われているわけです。私自身も、それから皆さんもたいていはこういうコースをたどってきたわけで、この考え方はひじょうに強いんですね。
ところが、ある活動をするのに必要な能力を伸ばしていかなければいけない、どう伸ばしていったらいいのかという目だけで見ますと、大きなところが抜けてしまうように思うのです。それは何かというと、人はある能力である活動をするのだけれども、本当はその先に、それを何のためにやるのかということがあるのです。それを「意味」と言っておきます。
私はいま、ある能力のもとにしゃべっているのですけれども、それとは別に、何かの目的があってしゃべっている。しゃべることで何らかの意味をまっとうしようとしている皆さんの場合もそうです。能力があるというだけでここに来ているわけではなくて、ここに来て話しを聞くについては何らかの意味があるわけです。
では何のためかと考えると、案外に難しい。その、意味ということを考えでいかなければいけないと思うんです。この意味を考えるときに、2つの種類の意味を分けて考える必要がある。たとえば、子どもが勉強するというときに、教師と子どもがいて、教師は勉強を教えて子どもは学ぶ。2人の人間が共通の課題を持って、何のために教えるとか学ぶということをするのかということです。
建て前上は、勉強したことが生活で意味をもつ、これが大前提です。しかし、ここのところがじつは怪しいわけです。学校で勉強したことが本当に役に立つのか。その子どもの生活を支えたり、生き方を支えたり、あるいは生きるとはどういうことかと考えさせる、そういう力になっているでしょうか。
本来はそういうものであるはずなのですが、学校というところで教えると、これがズレるのです。何のために勉強するのかというところがズレてくるんです。たとえば、5~6歳くらいの子ども、この世のなかに1歩足を踏み入れたか踏み入れないか分からないくらいの子どもであれば、何々することの意味というのは、文字通り生きるということにつながっている。
小学校に入る前後の子どもが文字を読み書きできるようになる。親の方で教えようと思わなくても、子どもの方で知りたがるというところがありますね。なぜ敦えるかというと、本人が一生懸命にそれを知りたがるからです。どうしてかというと、子どもたちにとって文字が読める以前というのは、文字というのは謎の模様に過ぎません。
クニャクニャして何だか分からないけれども、大人にとっては意味を持っているらしい。ちょうどぼくらが、韓国に行ったりしますと、ハングル文字が溢れていて、文字らしいけれども何を書いてあるのかさっぱり分からないという体験をしますが、そういうなかに子どもたちはいるわけです。そこから文字を読み始めるというのは大変なことで、まさに世界が広がるという感覚を実感的に持てるのだろうと思うのです。
ですから、子どもたちが最初に文字を読み書きし始めると、非常に生き生きしてきます。それは、自分たちの生活のなかにつながっていくからです。ところが、大体3~4年生くらいから、つまり学年が上がってくるにつれて、学ぶことが生活に直接つながっているという実感が徐々に失われていきます。そして、学校で勉強するのは学校のなかで試されるから必要なんだ、ということを学びはじめます。
たとえば、授業であてられて答えられるかどうか、先生から試される。あるいは試験に出されてうまく解けなければ、点数が上がらない。学校で学んだことは自分たちの生きる生活の場で使うのではなくて、試験とか学校という制度の梯子を順当に渡っていくために必要なのだ、ということを知り始めます。
私自身の子どもの例で、こういうことがありました。家庭科の問題で、卵の鮮度を見るというのがあったんです。家庭科が試験になるというのがそもそもおかしいと思うのですが、ちゃんとテストがあるんですね。それはともかく、卵の新鮮度を見るというのが家庭科のテストであったんです。
卵の新鮮度というのは、ぽくたちが小さい頃はもみがらのなかに入れて売っていましたから、手で触って買う。卵の殼がツルツルしていれば古い、ザラザラしていれば新しいと習いました。うちの子は卵を割ってみたら黄身がもっこり盛り上がるかどうか、というのを家庭科で学んだようで、それが試験に出されたんです。
「花子さんが卵を買ってきて料理しようと思いました。割ってみたら次のようになりました」という問題で、平べったい皿の上にもっこり盛り上がっているものと、ベラッとしているものが描いてあり、どちらを使いますかという問題です。うちの子はペラッとした方にマルをつけて、しっかりバツをもらいました。(笑)
本人が家に答案用紙を持って帰りましたので、「どうしてこちらにマルをつけたの?」と聞いたんです。うちの子はなかなか家庭的なところがあって、「卵は古い方から使わなければいけない」と言いました。(笑)「なるほどねー」と親はびっくりするやら、なかなかのものだと感心したわけです。ここで何が怖いかというと、ほとんどの子どもたちがこの問題に正解を出していることなんです。
盛り上がった方にマルをつけて、それで正解を得る。つまり、学校で試されるテストというのは、生活のなかで使えるかどうかではなくて、知っているかどうかなんです。だからクイズのようなものです。ここのところから、子どもたちの意識がズレていくのです。
【学校的能力観とは】
こういう笑い話のような例を挙げなくても、皆さん自身が何を学校で勉強してきたのかということを振り返っていただけたら、すぐに分かると思います。学んだことが自分たちの生活のなかで生かせるかどうかということではなくて、知識を持っているかどうかを試されて、それで成績を上げなければ困る、でなければまともな学校に行けないと言われ続けてきたでしょう。
大学でもそうですね。学生たちがなぜ授業に来ているのか、それを正直に本音で言ってしまうと、単位を取らなければ卒業できないからです。卒業すると資格になる。資格になったものは、やがて将来の自分に役立つだろう。ですから、大学卒の資格をもつとか、教員免許の資格をもつとか、そういう資格や免許をもつということ自体に意味があって、それは生活のなかで使えなくても結構だということになっています。
そういう分離が起こってしまっていて、生活のなかに実感的に広がっていくような、子どもが文字の読み書きをし始めたときに持っていたような意味 --- それを実質的意味と言いますが --- それはない。これが大問題なのではないかと思うのです。
ほとんどの人が、学校という場所をくぐり抜けてきているわけです。学校では、勉強したことは生活のなかで生きるのだという前提でやっているのですが、実はそうではなくて、制度を渡っていくために使うのだということを、それこそ実感的にぼくらは身につけてしまっています。
だから、能力というものに対する見方が非常に歪んできている。学校という場所を通り抜けることで、とんでもない誤解をしてしまう。能力は持っていることに意味がある、持っているかどうかを試されたときにそれを示すことに意味があるのであって、生活のなかで使うことに意味があるのではないという能力観、というか人間観を、長い時間をかけて植えつけられる。
受験のときに覚えた勉強はほとんど忘れていますが、そういう能力観だけはどこかで持ち続けてしまっている。そのことが、どうもあちらこちらでいろいろな問題をもたらしているように思えるわけです。われわれが学校のなかで身につけてしまった能力観というのは、学校というところで能力を身につけて、それが将来何らかの活動に広がって、やがてそれが意味をもつようになるという 能力→学習→意味 の順番になります。
よく考えてみますと、これは能力を高め、それを獲得してから活動して、それで何かをやれるという発想です。学校的な能力というのはこういうことですが、これはよく考えてみるとおかしいのです。
【授業とコミュニケーションの違い】
ひとつ例を挙げておきたいと思います。これは言語訓練の話なのですが、10年ほど前、脳性マヒの障害を持った学生が養護学校からうちの大学に入ってきました。最近は、養護学校から来る人はほとんどありません。養護学校が重度化して大学を受験する人が減ってきているうえに、受験する人はいてもなかなか通らないので入ってこないのですが、その学生さんは12年間養護学校でやってきて、大学に入りました。
彼は脳性マヒなのですが、歩いたり字を書いたりするのにはそれほど大きな問題はありませんでした。他の人が少しペースを落とせば、いっしょに歩くことも問題ないし、文字も少し大きなマス目のものを用意すれば大丈夫ということで、その辺は軽かったのですが、問題は言葉です。
ご存じだと思いますが、脳性マヒは肢体の問題だけではなくて、発音に問題をもつ人がけっこういますね。しゃべれるんだけれども発音がはっきりしない、言葉がはっきり聞き取れないというハンディを持っていたわけです。その学生さんは養護学校時代に、つまり小学部の1年生からずっと言語訓練を受けてきました。
言語訓練というのをいま言った図式に当てはめてみますと、発音がはっきりしないと困る、将来社会に出たときに人とまともにしゃべれないと困るから、発音の能力の部分をまず訓練しましょうということです。これ自体はおかしい話ではありません。訓練すれば人に分かるようにしゃべれるようになる、それで将来人との関係がうまくいくだろうというわけですからね。
ところが、彼はこの言語訓練がイヤでイヤでしょうがなかった。大体、訓練が好きな人というのはあまりいないと思います。何でイヤだったのかと考えてみますと、たとえば小学校の1年生くらいだと、リンゴの絵を見せてリンゴと言わせる。リンゴと言えればいいですが、言いにくいことを言わせられるわけですから、当然イヤだということです。
しかし、そのこと以上に何がイヤかというと、「これ何?」と聞いている先生かいるわけですが、その先生自身はリンゴだと知っているわけです。知っていることを何で聞くのか。おかしな話ですが、学校というところはそういうところで、先生自身が知っていることを聞くところなのです。
ところが、ふつうのコミュニュケーションでは、わざわざ知っていることを聞くなどというのはやらないものです。人間同士のおしゃべりを聞いてもらえば分かりますが、おしゃべりというのは、相手が知らないという前提でしゃべるわけです。昨日いっしょにいなかった人に出会ったときに、昨日こんなことをしたということを伝える。それは自然なことですね。
ところが、昨日いっしょだった人と翌日出会って、昨日はこんなことをしたとは言いませんね。だから、おしゃべりをするというのは、相手が知らないだろうということが前提になっています。これはあるSTさんから聞いた話です。おじいちゃんが倒れて、幸い命はとりとめましたが、失語症状態になったので、病状が落ち着いてから言語訓練に行くことになりました。
STである彼女のところを初めて訪れた。そのときSTさんは、おじいちゃんに「お名前は?」と聞きました。ごく自然ですね、初対面ですから「お名前は?」と聞く。失語でもいろいろと夕イプがあるのですが、聞かれていることは分かっている。だけど名前を聞かれて、言おうとしてもなかなかうまく言えない。いわゆる運動性の失語です。
自分の名前も言えないというのは、本人にとっては大変な苦痛ですから、とにかく頑張って言おうと努力をする。ところがそうしているうちにそのSTさんの前にカルテがあって、そこに自分の名前が書いてあることに気がついたんですね。そのときにそのおじいちゃんは、言おうと頑張っていた思いをスッと飲み込んでしまって、冷や汗が流れるような思いをした。つまり、自分は試されているのだということが分かったわけです。
そういう話を聞いたことがありましたけれども、これも「これ何?」と聞かれて「リンゴ」と答えるという、その話と同じでしょう。それを9年間ないしは12年間やられるわけですから、やられる方はたまったものではない。イヤでイヤでしょうがなかった。その上に、「どうも効果があったように思えない」と本人は言うわけです。
12年間もすればそれなりに変わったのだとは思いますが、本人の感じでは、言葉がはっきりしてきたようには思えない、と言うわけです。ところが、その学生さんが大学に入ると、最近の学生さんは明るいですから、入学式の日からすぐに友だちができてワイワイやっています。うちの子どもも2年ほど前に大学に入ったときに、こんなにおもしろいところだとは思わなかった、と言っていました。
大学の授業がおもしろいのではなくて、そういう学生同士の付き合いがそれまでにはなかった解放感に満ちたものだということなんでしょう。ぼくら親は唖然として、もう少し人生とは何かとか、暗く考え込んでしまうようなことがあってもいいのではないか、と不満をもったりもしました。そういう部分は表に出さないで、本当は考えているのでしょうが、いまの子どもたちは表面的には賑やかにやっているわけです。
その学生さんも、当然ながらその輪のなかに入りたいのだけれども、うまくしゃべれないという負い目があってなかなか入れなかった。それでも周りは賑やかにやっているわけですから、自分もその輪のなかに入って大学生活を楽しみたいと思って、思い切ってその輪のなかに飛び込んだのです。彼がその輪に飛び込んでしゃべり始めますと、周りの学生たちは当然すぐに言葉がはっきりしないということに気づきます。
【いま・ここにあるものしか使えない】
そこで彼がしゃべり始めると、周りの人は一生懸命に聞こうとします。一生懸命に聞こうとしてくれますから彼の方でも一生懸命にしゃべろうとする。そういうことを繰り返しているうちに、ほんの数ヵ月でほとんど彼の言葉がわかるようになった。本人も、発音がはっきりしてきたように思う、と言います。
発音がはっきりしないままに友だちの輪のなかに入って、自分の手持ちの力を使うなかで力が伸びてくる。人との関係があって、しゃべるということが実質的な意味をもって行なわれる。それで発音がはっきりしてくるという結果が出てくる。能力を高めてから生活に入るのではなくて、手持ちの力のままで生きることによって、力というのは伸びてくるんです。誰もがそういうふうにやっているのです。
当たり前ですが、人はいまを生きるためにどういう力を使うかというと、いま持っている力を使う。いま持っている以外の、明日身につくかもしれない力でいまを生きるわけにはいきません。必ず人は、いまある力で生きる。あるいは逆に、いまできないことの無力さというのは、いまここで無力なまま引き受けて生きるしかないわけです。
それが逆転してしまうと、まず力を高めましょう、それではじめてまっとうな生活ができるようになる、人生が楽になる、という話になりがちです。しかしそうではないのです。人はみんな、いまの手持ちの力で生きている。それが自分にとって実質的な意味を持てれば、そのことで結果として基礎的な力が伸びてくる場合もあります。
この辺のところが逆立ちしてしまって、とにかくまず能力を高めるために訓練をするということになりがちなんですね。しかし、生活から離れたところでなされる訓練そのものは実に無味乾燥でおもしろくも何ともない。お年寄りの世界でも、たとえば寝たきりをなくそうということで、大阪府などは「寝たきりゼロ運動」というのをやっていますが、そういう発想はどこか危ないなと思うのです。
とにかく起こそうという、起こすことが自己目的になってしまいかねない。起きてどうするかではなくて、とにかく起こそうというのはおかしいでしょう。起きて何かすることがあるから起きるのであって、ただむやみに人は起きるわけではありません。その発想のおかしさみたいなものが、われわれのなかに身についてしまっている。能力がなければいけない、だからまず能力を高めなければいけない、という発想です。
三好さんの話をあちこちで聞かせていただいて思うのは、この辺のところを見事にとらえているなと思うのです。人は生きている、そこから出発して、「ここ」の「いま」を決める。「発達幻想」というタイトルをいただいたのですが、つまり能力を伸ばすことが発達だと思うのは幻想だ、ということが言いたかったのです。
力は身につけるためにあるわけではない、身につけた力は使うためにある。使ってどういう生活をわれわれが生きるのかということを、そこから考え直していく。そういうことが必要なのではないかなと思うわけです。十分な話ができなかったのが少々残念ですがとりあえず今日はこれで終わります。どうもありがとうございました。
- 1995.06月 地下水脈 「オムツ外し」なんてやめよう
病院では付き添いを仕事にしていた、と言ってもまだ若い女性が、私に、静かだが訴えるように語ってくれた話である。 彼女はガン末期の男性患者に付いていた。副作用に苦しむ長い闘病生活の果てに、食欲がほとんどなくなり、意識もウツラウツラすることが多くなってきた。
ある日、看護主任--若手のバリバリという感じだそうだが、その人がやってきて、付き添いの彼女に「ケース検討の結果だから」と簡単に説明して、鼻からチューブを挿入したという。鼻腔栄養である。
ところがTさんは、半分無意識にチューブを抜いてしまう。そこでお決まりの゛抑制″となった。両手を縛られたのである。 その途端にTさんから表情が失われた。毎日のように面会に来ていた娘さんの顔を見ても、表情が緩むこともなくなってしまった。
驚き悲しんだ娘さんは、何度か看護婦や医師に、チューブを抜いてもらえないか、と談判したらしいが、許可は出なかった。 彼女と娘さんは、それでも、なんとか口から食べられないかと、プリンやヨーグルト、茶碗蒸しなどを食べさせてみたが、間もなくTさんは口も目も開けなくなってしまった。
亡くなられた後、家族と共に病院スタッフへのあいさつをすませた娘さんは、彼女をねぎらった後、付き添いさんたちの控え室のようになっている廊下の片隅に彼女を呼んで、涙ながらに言ったという。手足を縛られていた父の姿とあの表情が忘れられない、あんな状態で終わらせたくはなかった、と。もちろん彼女も同じ思いだった。
◇
その後彼女は、同じ病院で何人かの付き添いをした。何人めかに、やはり末期ガンの患者さんで、担当になったときにはすでに鼻にチューブが入っている女性がいた。 ある日、彼女が売店からベッドサイドに戻ってみると、チューブがない。患者が自分で抜いた形跡もない。ナースステーションに行って尋ねると、例の看護主任が説明してくれた。
「ケース検討の結果だから」と。 他にも何人か、いっせいにチューブが抜かれていた。どうやら、看護主任ら数人のスタッフが研修会に行ったらしい。何やら外国の偉い先生の話を聞いてきて、なんでも、QOLを大切にするため、なのだそうだ。
彼女はやれやれと思ったという。あのTさんの姿と表情と、家族の涙ながらの訴えには耳を貸さなかったというのに、偉い先生の話ならすぐにチューブを抜くのか、と。
◇
たしかに、その後、その病院のケアは、少しは良くなったように思う、と彼女は言う。だが、目の前の患者と家族の現実より、権威や理論のほうばかり向いている看護婦たちへの根本的不信を感じて、彼女は病院をやめた。
彼女は今は老人ホームで寮母として働いている。このホームのケアも決して誉められたものではないと彼女は言う。「理論ばかり大事にするのも困ったものだけれど、理論も知識も無いというのもねえ」 それでも何かしようという時には、老人本人や家族の気持ちを聞くという姿勢があるだけでも救いだと彼女は続けた。
いきなり「ケース検討会の結果です」なんてことはないという。「私自身、病院にいるときはそれがふつうだと思ってましたけどね。本人の意見を聞くなんていう当り前のことさえ考えつかなかった」と彼女は苦笑する。
◇
病院の看護婦だけのことではない。医療でも福祉でも、専門家と自称する人たちのこうした傾向、いや専門家でなくてもそうだが、現場にいながら現場を見ようとしない傾向は、ひょっとして増大しているのではないか。
科学的で専門的なアプローチが必要だと言われれば、それに乗り遅れまいとして、ワーツとそちらに走る。 いやQOL(生活の質?変な日本語!)が大切だと言われ始めるとそちらにダーツと流れる。
そういう人は、今は「QOL」なんて言ってチューブを外していても、そのうち『QOLなんていうあいまいなアプローチではなくて専門家としての鋭い方法論こそが患者の求めているものだ。
QOLはその結果でしかない。 QOLなんてのは専門家の責任を回避する耳ざわりの良いコトバに過ぎない』なんて意見が主流になってきたら、再びチューブを挿入し、手足を縛ってまわるに違いない。
◇
情報化社会、と言われる。コトバも理論もデータも大切だろう。だが現場にとって、いや私たち人間にとってもっと重要な情報はなんだろう。それは私たちが五感で感じとる老人の姿と表情ではないか。
相手と同じ表情をしてみよう、そうすれば相手の気持ちが判ってくる、と、先々月号で杉堀孝雄氏が、ア・ランボーを引用して書いている。そう、五感にさらに想像力が加わって、「情報」は、私たちを目覚めさせ突き動かす。
それで動かない人が、どんな立派な理論で動いたとしても現場は変わらないだろう。老人はイキイキしないだろう。 問題は、もちろん、QOLだけではない。いまや私のような者すら、権威になっている。皮肉にも゛大先生″と呼ばれるようになってしまった。
三好春樹の『介護覚え書』を読み、ビデオを見て、オムツ外しをしようなんていうことにだってこういう問題は当然内包される。 正しいのだから、と管理的に強制されてやることが正しい訳がない。「正しい」とか「理論どおり」が、老人の表情を感じとったり想像力を引き出されたりすることを、最初から拒否してしまうのである。
「正しい」とか「理論どおり」が、私たちを不感症にするのである。 「私は病院でやっとオムツに慣れたのに、ここに来たらこんどはオムツを外されてしまった」と真剣な表情で訴えるお婆さんは、オムツ外しに熱心な施設に入所してきた人である。
私はもちろん、トイレに歩いて行けないならオムツ、なんていう貧しい介護状況や、画一的にオムツにすることで手抜きをしている状態を弁護する気などさらさらない。また、老人の訴えやグチを、そのとおり解釈して、オムツのままにしておいて、主体性を大事にしている、なんていう主張にも与しない。
依然として圧倒的多数の現場に対しては「オムツは外せる、オムツを外そう」と訴えていかねばならないと思っている。 だが私たちはいま、一個二重の訴えをしていかねばならないのだろう。一方で多数の側に「オムツ外し」を訴え、他方でドオムツ外し″なんて止めよう。一人ひとりの排泄ケアをやろうよ」と。
「オムツ外し」があるのではない。「オムツ外し」をやろう、と最初に決めると、私たちは不感症になる。老人の表情を見なくなるのだ。あるのは「Aさんの排泄ケア」「B婆さんのおしっこ」なのである。
それをちゃんとやってごらん、その人の表情やコトバのウラにある本音を伺いながら、その都度必要な理論を『介護覚え書』で確認しながら、じっくりと時間をかけて。その結果、ほとんどの人がオムツは不要になるのだからと。
◇
全国各地の保健婦さんたちにお呼びいただくことが増えている。個性的でやり手の保健婦さんたちと出会い、時に仕事を共にしているのだが、私の体験だけで言えば、北海道や沖縄、離島の保健婦さんがいちばんいい実践をしているようである。
そして、大都会になるほど、どうも味気ない。もちろん例外はいくらもあるが、私の実感で言うと、平均してそうである。そしてこれは、情報化社会の成熟度に反比例する。つまり、情報が少ないと言われている地方ほど、良い仕事をしているように私には感じられるのである。
これは不思議でも何でもない。情報に邪魔されないからこそ、老人の表情という最も大切な情報を入手しているのである。
◇
人は、専門家を先頭に、もっと高いところへ高いところへと行きたがる。もっと専門的にと大学に行き、外国に留学する。もっと意識を高くしなければ、なんて言う。だが、高いところより深いところへ行こうよ、と私は訴えたいと思う。通底する地下水脈へと。
◇
「高度な情報」は少なくても、深い情報のたっぶりある北海道の皆さん。6月のツアーで会いましょう。
- 1995.06月 なんにもしていない
~民間デイサービスへのラブレター~ 
「生活リハビリクラブ」も「宅老所よりあい」もそうだった。「憩いの家・まごの手」もそうだ。なんにもしていない。職員も老人も。 もちろん、スタッフは何もしていない訳ではない。気も使っているし、けっこう身体だって動かしているのだが、何もしていないように見えるのである。
それでいてこの充実感はどうだ。 どうしても比べてしまうのは、特別養護老人ホームという世界である。職員は朝から晩までバタバタしている。しかし、充実感はない。むしろ空虚感さえ残っているというのに。
この世界には「スケールメリット」というコトバがある。特別養護老人ホームでいえば、50人では経営は苦しくて100人なら楽になる、スケールが大きいほど経済的メリットも大きいという訳だ。 だが老人ケアの内実で言えば、それは「スケールデメリット」でしかない。
50人の規模ですら、これら少人数の民間デイサービスの内実に、とてもかなわない。 民間デイサービスの内実の豊かさは、「スケールデメリット」がないことだけではない。なによりその充実を創りあげているのは、スタッフの自発性であろう。
人は、自分の責任で起こした事故で負った傷はあまり痛がらないという。治癒も早い。逆に、誰かから傷つけられた時には痛がって治癒も遅いという。 また人は、意味を見つけ出している仕事は少々つらくとも頑張れる。逆に、意味が判らぬことには、軽い労働でも耐えられない。
自らが創り、自らがその意味を見出し、自らが責任をとるという民間デイサービスの自発性、自立性こそが、あの“何もしてない充実感”につながっているのだろう。
それにしても、職員数30人足らずの小さな組織である特養ホームが、どうしてあんなに官僚的で、職員の自発性や自立性を奪いさってしまうのだろうか。もっと小さな公的デイサービスでも同様である。この落差を見せつけられては、公的職場から民間への優秀な人材の流出は当分続きそうである。
そして、公的な場に残る者は、どうしたら自発性と自立性を自らの場で育んでいけるかという課題を背負わねばならないのだろう。 さあ、民間デイのスタッフよ、もっと落差を広げるために頑張ってほしい。頑張って何もしない(かに見える)ケアを続けてほしい。
いろんな形で後に続く人がいるのだから。
- 1995.05月 地下水脈 『ピアジェとワロン』 私の読書日誌②
画期的な本である。
◇
私には大学のセンセに対する偏見がある。研究なんていったって、どうせ現場の役には立たないし、私たちの発想を変えてくれるようなものはないじゃないか、と思っている。実際そういうセンセや研究ばかりだから、偏見ではなくて客観的事実であるのだが。
だからといって私は、そんなセンセたちに、大学を辞めて現場に入れ、と言っている訳ではない。研究といった、何か他の目的があって現場に入るのは、“現場”にいることにはならないし、なにより、現場にいたとしても、現場のことが判る訳でもない。 頭の良い研究者は、想像力で現場に入ってくればいいのだ。
◇
果たしてその“想像力”なんてものを、人間はどこから手に入れるのだろうか。 発達心理学の大家、ピアジェは、極めて説得力のある論を提出する。それは、感覚→具体的概念→抽象的概念といった、私たちの常識になっている段階論である。
つまり、赤ん坊がギャーギャー泣いているレベルから、発達するにつれて、具体的意識となり、さらに想像力へ至るというものである。こうしたピアジェ的世界、つまり私たちを無意識に支配している人間のイメージでは、赤ん坊がギャーギャー泣いているのは、レベルが低く、次の段階へ至るための早く抜け出すべき状態だということになる。
それじゃ、次の段階へ行くことのない重度心身障害児はどうなるのか、というと、私たちが知っているように、ご親切にも専門家に囲まれた特別な環境で、次の段階に行くように“リハビリテーション”の対象とされるのである。
「でも次の段階に行けないじゃないか」という素朴で現実的な疑問を発するとどうなるか。「それは専門性の放棄だ」「あきらめないのがプロだ」などと説教されるのである。こうした、「錬金術のプロ」たちによって子どもたちは、一生、リハビリの対象者で終わるのである。
◇
ところが、かつてピアジェと論陣を張ったワロンの説は全く違うのである。ワロンは、想像力(表象)は、感情(情動)から生まれるのだと言うのだ。つまり、赤ん坊がギャーギャー泣いて、手足をバタバタさせている状態を想像力発生の場だというのである。
2人の説の最も大きな違いは、個体と社会性とのとらえ方にある。ピアジェの人間観が、個体が発達するにつれて社会性を獲得するのだという常識的なものであるのに対して、ワロンは赤ん坊こそ社会的な存在なのだと言っているかのようである。
赤ん坊は、ギャーギャー泣くことで、回りの大人たちに「何かしてやらねば」という気持ちを呼び起こすではないか、これこそ関係的存在だ、というのだ。おお! 考えてみればなんと現場的で素朴な発想であろうか。著者の浜田寿美男センセは、障害児を意味づけられないピアジェに対する違和感から、同じく障害児に関わってきたワロンの説に出会う。
◇
とするとなんですか、浜田センセ。私たちが関わっている痴呆性老人のあの様々な問題行動は、回りの私たちの〈関係〉を呼び起こしているというべきなのでしょうか。だとすれば、呆け老人を専用施設に収容したり、個室という名の独房に入れたり、怪しげな新薬で副作用だらけにしたり、といったアプローチは、そもそも無効ということになりませんか。
おっと、何でもすぐに目の前の実践に結びつけたがるのが現場の悪いクセである。センセはそこまでは言っていない。学者の慎ましさとでもいうのだろうか、浜田センセの著書はあくまでアカデミックで、具体的なケースについては、そのケースのこと以上に“普遍化”などすることには極めて慎重である。 (『子供の生活世界の始まり』など)
それは、アジテータとしての役割を引き受けている私のような立場からは物足りなくなるくらいなのだが、本ではなくて講演なら、少しは口をすべらせるんじゃないかなあ。
◇
という訳で、5月4日、5日の「オムツ外し学会・東日本版」である。新しい人間観が老人介護の世界にこそ必要だと感じている人は、5日の「発達幻想の中の子供と老い」という浜田センセの講演を聞きに来てほしい。
「そんな理屈よりはとにかく実践」という人も大宮にやって来て、同じ時間帯に別の部屋である報告を聞きにきてほしい。つまり、連休にはみんな大宮へ!
あ、またアジテータになってしまった!
「ピアジェとワロン」
浜田寿美男著
ミネルヴア書房
2500円
- 1995.04月 地下水脈 私の読書日記
【倫理の根拠をどこに求めるか】
○月×日
私たちは「ほんとうの自分」がどこかにあるはずだ、と思っている。言い換えれば、今の自分は、ほんとうの自分ではない、と思っているのである。「ほんとうの自分」を、アイデンティティなんて言い換えてみてもいい。
ところが「ほんとうの自分」なんて、そんなものはどこにもないんだ、と言い出す哲学者が出てくる。そんなものは幻想で、アイデンティティなんてものもなくて、人はどのようにも変わりうるし、変わっていっていいんだ、という訳である。
産業構造の変化が著しくて転職を余儀なくされ、価値観の多様化で離婚だの何だのと変化にさらされている現代人にとっては、この説“救い”ではあった。根無し草のような自分に対する不安に対して、もともと人間には根なんかないんだ、どこに行ったっていいんだよ、と言われた訳である。
吉本隆明と北山修の対談集『こころから言葉へ』(弘文堂)の中で、北山修がそれに対して再び「ほんとうの自分」はやっぱりあるんじゃないか、と語っている。と言っても、倫理的な“自己実現”だのといったものをその根拠にしているのではない。露天風呂に入ると、ああこれがほんとうの自分だと感じるじゃないですか、なんて言っているのである。
果して、「ほんとうの自分」があるのか、ないのか、難しい哲学的議論も面白くはあるが、抽象化していくばかりの議論に、“露天風呂”を提出してくる、その極めて日本的日常からの発想というか、私たちの生活のなかの実感から論をはじめようとする姿勢や良し、である。
もっと感心させられたのは、倫理についての会話である。ふつう倫理は、意識性の高さにその根拠が求められてしまう。しかし北山は、倫理の発生根拠を生理に求めるのである。つまり、「こうしなければ気持ち悪いから」というのが、倫理的態度の根拠だと言うのだ。
そうか!私はかつて、地下水脈の「私たちの倫理の由来」(『専門バカにつける薬』所収)の中で、私たちの中にある倫理性を“場”が引き出すのだ、と主張することで、倫理の強制を批判したのだが、北山のように、倫理の根拠を一人ひとりの生理に根拠づければ、倫理の強制は起こりようがないではないか。
何せ「気持ちいいか悪いか」というのは一人ひとりの生理の問題なのだから。私たちは、人の不幸を黙視していることに、気持ち悪さを覚えるが、と同時に、倫理を強制されることにも気持ち悪さを覚えるのである。
しかし、倫理の強制がシステム化され、意識の位階性が人間の生理まで変えうるとしたら……。北朝鮮のことだけを言っているのではない。 なお、北山修は、元フォーククルセダーズの精神科医である。ああそう言えば聞いたことある名前だ、と気づく人も多かろう。
【福祉を「聖」から引きおろす】
○月×日
木原孝久著『銭形平次はボランティアだった』は、目からウロコが落ちた思いのする新しい福祉のための本である。 平次は「岡っ引き」であった。今でいう警察官だ。警察官の仕事は、犯人を逮捕して裁判にかけるまでである。しかし平次は、島流しにされた犯人の家族の面倒まで見た。それに当時の庶民は共感したと言うのだ。
そこまでしなくてもいいのに、自分の仕事の枠を越えてやってしまう。つまりこれがボランティアだと言うのだ。 ほんどのボランティアは、自分の仕事とは関係なく、休みのときに、例えば施設に行ってオムツをたたんだりしている。それはそれでいいが、木原はこうしだ余暇ボランティア″に対しで本業ボランティア″を提案する。
つまり、平次がやったように、自分の仕事の枠をちょっと越えてしまう。あるいは、やり方を少し変えてみる。それがボランティアになるんだよ、と言うのである。 例えば、主婦は主婦という本業を通して、会社員は会社の仕事を通してボランティアをしようよ、と言うのだ。その具体例はこの本の中にたくさん紹介されていて、なるほど、と思わせられる。
こうした主張の背後には、著者の現在の福祉関係者に対する鋭い批判がある。「福祉は難しいものだ」とか、「心優しくて専門教育を受けた者でないとできない」といった独善的で閉鎖的な体質に対してである。
誰でもできる福祉でなければこれからの高齢社会に追いつかないじゃないか、と私だって思う。この本は、福祉に誰でもが参加できるための案内書だが、と同時に、旧来の福祉の体質を変えようとする書でもある。
そもそも福祉界には、自分たちの仕事を特別のものと思いたがる風習がある。福祉の仕事は尊いもので、それに比べて企業なんかで働いているのは金もうけを目的とした卑しいものだという雰囲気である。
しかし、自分と自分の家族のためにという、それ自体利己的な動機による社会、経済活動こそが、福祉を可能にする豊かさを実現してきたことは歴史的に明らかではないか。 ゛国のため″だの゛人類のため″だの゛民主主義のため″なんて倫理の強制によってもたらされたものがどんな社会だったかも判ってきたではないか。
人類はいまだ“自分と自分の家族のため”という以上の“普遍性”など何も手に入れてはいないのだ。 私の前々号の「地下水脈」の文章に対して「進歩がなければ虚しいではないか」という反応があった。私は進歩を否定などしていない。進歩は「進歩主義」によってもたらされているのではないと言っているのだ。判りましたか、゛進歩中毒者″さん?
木原氏は企業活動こそボランティアに最適だと言っている。そのやり方をちょっと変えるだけで人の役に立ち、さらに、“営利追及”のみのギスギスした雰囲気が変わるのだ、と主張している。 福祉が、俗から離れた「聖」なるものから、ようやく俗も聖も併せもった、人間の当り前の営為の一部として語られるようになってきた。
木原氏はその仕事の先頭に立ち続けている。もちろん他の著書も読み逃せない。
【ここ数年末の最高作】
○月×日
忙しいのに、いつ本を読んでるんですか?」とよく尋ねられる。「夜も9時には寝るというのに」とも付け加えられる。 うーむ、いつ読んでるんだろう、と考えてみるのだが、まず私は本を読むのがかなり速いらしい。時々、電車の中で隣の席の人が本を広げていて、のぞき読みをすると、こちらがとっくに2頁分読み終えても、いつまでたっても頁を繰らないのでイライラしてしまうことがある。
もう1つ。無駄本を読まない。これは重要な点である。自分が求めている本かどうか、1冊読んで面白くて役に立つものかどうか1~2頁読めば判る。もちろん1~2頁では内容は判らない。だが、文体が自分と合うかどうかはそれで十分だ。
ペースというか、テンポというか、それがこちらのそれと合えば、内容も面白いし、合わなければ無理して読んでも途中で投げ出してしまうことになる。 どうやら、活字でさえ、私たちは「生理」で読んでいるのかもしれない。論理も思想も、結局は生理的好き嫌いに還元できてしまうのではないか。
その特異な文体が、なぜか抵抗なくスッと体の中に入って来て、午前2時近くまで深読みを2日続けて読み切った3冊がある。 『悪童日記』 『第三の嘘』 『ふたりの証拠』 いずれも、アゴタ・クリフトフ作(早川書房)である。共同通信文化部の北嶋孝さんに勧められて1冊目を1日めに読み、たまらず、3部作の残りの2冊を次の日に購入して読み終えてしまった。
その文体には情緒も何もない。登場人物の内面描写もない。かつて似たような小説を読んだことがあるなあ。確か、富岡多恵子の『丘の上に人は並ぶ』だった。 ソルジェニーツィンの『イワン、デエソビッチの1日』にも共通性がある。
いずれも、その乾いた表現が私には好ましかったのだが、この3部作は何しろ長篇である。しかも、東ヨーロッパを舞台に、現代史を背景として語られるスケールである。ナチスが侵攻し、次いでソ連が侵攻してくる中、数奇としか言いようのない双子の主人公の生涯が、その乾いた文体で語られ、それがだんだんミステリーめいていくのだ。
ああ、現代とはこんな時代なんだ、そしてヨーロッパとはこんな世界なんだ、と、私は興奮して妙に安心したような気持ちで読み終えたことを覚えている。ここ数年来読んだ本の中では、私にとっての最高作。
【「棲み分け論」が実証されている】
○月×日
私にとっての本の選択が、文体が私の生理に合うかどうかである以上、世の中でどんなに評価されていようが、読みたくないものは無理して読まないし読めない。たとえノーベル文学賞をもらおうが、芥川賞をとろうが関係ない。だいたい文学の良し悪しを選考委員の多数決で決めてどうする!自分の読むべき文学を他人に決めてもらってどうする!
ま、しかたないか。老人ケアの現場で交わすコトバさえ、画一的に決めてもらいたがる人もいることだから。 竹内久美子の新しい本を見つけた。『小さな悪魔の背中の窪み』(新潮社)である。 この動物学者の本は実に楽しめる。『男と女の進化論』『浮気人類学』『そんなバカな』など、私たちの思考の枠を解体するに十分な内容だ。
彼女の説によると、男の浮気も、嫁と姑の仲が悪いのも、遺伝子のせいなのである。なるほど、古今東西、どんな思想家でも解決できなかった理由が判るではないか。 こうした説は、フェミニストにはもちろん、「ヒューマニズム」とか「自己実現」「理性」といったコトバに弱い人たちには評判が悪い。
なにしろ人間を、動物から遠ざけて崇高なものだと思いたがってるところへ、所詮人間も動物なのだ、と主張しているのだから。 しかし、論理のスケールそのものが違っているのである。人間を意識という狭い世界で捉えることもできるし、゛生きもの″というスケールで語ることもできる。
そういうスケールそのものを楽しめる柔軟性がなくては「竹内久美子は゛保守反動″だ」なんていう、ピント外れの批判をすることになろう。 かつて私の講演に対して「血液型によって介護に向くか向かないかなんていう非科学的なことを言ってもらっては困る」なんてわざわざ電話をかけてきた病院婦長がいたけれど、あんな人にはこの本は楽しめないだろうな。
婦長さん、竹内久美子の新刊を読んでみなさい。血液型による性格分類にはちゃんと科学的根拠があることが説明されてますから。 私か血液型よりもっと興味を引かれたのは、この本の後半でふれられている「棲み分け論」を説明する新しい理論にっいてである。
「棲み分け論」というコトバは、前々回の「地下水脈」のインタビュアーの発言に突然出てきて、何のことか判らぬ人が多かったと思うが、進化論に対して、日本の動物学者、今西錦司が提出した論のことである。
ダーウィン主義と新ダーウィン主義による進化の原因は、突然変異と自然淘汰であるとされている。これは現在の教科書にものっている常識だと言ってよい。 ところが今西は、生物の進化は、突然変異と自然淘汰のくり返しという、個体の変化によって起こるのではな、く、種全体が突然変化するはずだ、と主張した。
これまでの常識からすると、誕生以後に獲得された性質は遺伝しないはずだし、ある種全体にその変化が起こることはありえないはずである。何しろ、遺伝子の変化が個体から個体へと水平移動せねばならないのだから。
そこで今西論は、一種の神秘主義のように見られたり、本人も晩年はそういう傾向になっていくのだがじつは今、その種全体が同時に変化するという事態がまさに起こっているというのだ。キイロショウジョウバエがそうだというのだ。
果して、遺伝子の水平移動を起こしているものは何か? そこからは読んでのお楽しみにしよう。だが私が感心するのは、どんなに常識に合わないことでも「でも実際そうなんだから」と言い続けた今西の態度のすごさである。
そうだ、私たちも、偉い先生が何と言おうが、理屈に合っていまいが、現場で「でも実際そうなんだから」と言い続ければいいのだ。科学的証明は私たちの実感の後からついてくる。今西理論のように、本人の没後であるかもしれないけれども。
【文章が下手なんだ!】
○月×日
私はマンガはあまり読まない。「ガキデカ」と「じゃりんこチエ」が例外くらいである。したがって小林よしのりの代表作とされる「東大一直線」も「お坊っちゃまくん」も知らない。 しかし『ゴーマニズム宣言』①~⑥(扶桑社)はすごい。私はただちに彼のファンとなった。
この間の筒井康隆と日本てんかん協会を巡る論争で、私の知る限りまともだったのは、筒井本人と小林よしのりくらいである。 自らをカリスマと呼びつつも、いつも等身大の自分から出発し、自分の弱さもズルさも見せながらの主張の展開は、これまでの思想家や評論家にはなかったものである。
ある評論家の小林への批判が極めて難解であるために、彼は知人の評論家にその意味を尋ねながら反論していく(正直じゃないか)のだが、その難解な文章が理解できない自分のコンプレックスも見せつつこう結論づける。
“こんな難しい文章しか書けないのは、評論家のくせに文章が下手なんだ”と。 そうだ、そうだ。 福祉の専門書など、私たちに理解できないくらい高尚なものだと思わなくていい。文章が下手なのだ!判るように書け!これでいいのだ。
「こころから言葉へ」
著者:吉本隆明,北山修
発行:弘文堂
定価:1400円
「銭形平次はボランティアだった」
著者:木原孝久
発行:筒井書房
定価:1000円
「悪童日記」 「第3の嘘」 「ふたりの証拠」

著者:アゴタ・クリストフ
発行:早川書房
定価:各1600円
「小さな悪魔の背中の窪み」
著者:竹内久美子
発行:新潮社
定価:1250円
「ゴーマニズム宣言」①~⑥
著者:小林よしのり
発行:扶桑社
定価:各700円
- 1995.03月 地下水脈 さらば “死体の介護学”
講演会の後で、特養の寮母さんが質問に来られた。熱心な人で、ある雑誌と私の「介護覚え書」を持参しての質問である。
雑誌の食事についての特集号に、ある病院長が、食事姿勢は、約30度くらい上体を起こした姿勢が一番良いと書いているのである。こうすると、のどから食道に至るほうが下になり、気道が上になるので、誤えんしにくいとりう説明である。
ところが、私の本には、同じような絵が掲載されていながら、逆にその上向きの姿勢は誤えんしやすく、前傾みが良いと書かれているのだが、果たしてどちらが正しいのか、という質問である。 『重力の方向から考えると、雑誌のほうが理にかなっていると思うんですけれど』と彼女は言う。
「そういうのをね、“死体の介護学”って言うんですよ」と私。確かに死体にモノを食べさせたり飲ませたりするのなら、上向きに寝た姿勢が良いかもしれない。しかし、私たちがケアしているのは「生体」である。いや。 「生活の主体」である。
「生体」には、その反射を無意識にコントロールする長年の経験が身についている。私が「介護覚え書」の53ページで、わざわざ重力の方向を示しているのは、ノドから下の食道と気道の位置関係ではなく、ノドに至るまでの口の中でのことを示したいためである。
食べ物、飲物がノドの粘膜に触れると、ノドチンコは上にあがって鼻へ逆流しないようにし、喉頭蓋(こうとうがい)は下がって気道に蓋をし、食べ物、飲物を食道に誘導してくれる。 誤えんをしてしまうのは、この反射の準備ができていない時に、食べ物や飲物がノドを通過してしまう時なのである。
私たちはそうならぬよう、無意識に、呼吸中枢とえん下中枢が連絡し合って、タイミングを計っているのだが、上向きの姿勢ではそうはいかない。口よりノドが下に位置してしまうから、食べ物、特に飲物は、勝手にノドを通過してしまうのである。
この無意識なコントロールの能力は、かなりの呆けによっても失われることはない。なにしろ、赤ちゃんの時から積み重ねられた能力なのだから。生活リハビリクラブのあるお婆さんは、今ではコトバを発することも理解することもないが、ブドウを手に持つと自分で口に入れ、口をモグモグさせたと思うと、見事に皮と種を口から出し、実を飲み込んで、回りの私たちを驚かせたことがある。
無意識はすごい! えん下反射も、めったな事では消失したりはしない。もし病名に「球マヒ」と「仮性球マヒ」とあれば、えん下反射が起きないことがあるが、それも重度なケースだけだし、これらの病気そのものが珍しい。
介護の必要な障害老人のうち、1,000人に1人もいるかいないかといった特殊なケースの方法を一般化しないで欲しいものだ。そのためにどれだけの老人が、寝たきりと痴呆になったことか! しかし、考えてみれば、こうした“死体の介護学”は、この世界に蔓延しているではないか。
「省力化」を売り物にして宣伝されている「天井走行入浴システム」など、その最たる物だろう。これを開発した人たちは、施設の老人たちはみな、上を向いてじっと寝ていると思っているのだろう。言うまでもないが、大半が寝たきりなんて施設は、竹内先生の言われるように“施設長以下職員みんな寝たきり”なのである。
しかも、機械を入れるとどうなるか。機械の方に人間を合わせねばならなくなるのだ。 「この人は右マヒだからベッドの左側を広くしよう」なんてことはできなくなる。何しろレールの真下に寝ていなきゃいけないのだから。「この人はタタミにしたほうがADLが上がるから」と思ってもそうはいかない。リフトが床まで降りてこないのだ。
こうして“一人ひとりの個性と障害に見合った生活づくり”は、“機械のニーズ”の前に挫折させられ、画一的な“死体の介護”が始まるのである。
私たちは、近代的なものに反対して、前近代的で素朴な手仕事にロマンを求めているのではない。近代とか前近代とかいった狭い枠に入りきらない生活の側から近代を逆照射し点検していこうとしているのだ。
- 1995.02月 地下水脈 もっと具体性へ、もっと現在へ
~オムツ外し学会の感想に代えて~ 私は、社会福祉の学校に行って学んだこともないし、公衆衛生学を体系的に勉強したこともない。学んだと言えるのは、高校を中退するまでの受験用の知識と、PT養成校での、人間を身体機能として捉えるという局限された領域の、それも急性期のアプローチの仕方といったものでしかない。
しかし、現場の社会福祉は、清鈴園という特養ホームで少しは学んだと思っている。そこは、一言でいうなら、とことん具体的で現実的な世界であった。理屈や理念は役に立たないのだ。 いかに老人病院の実態がひどいかを訴えたとしても、実際に目の前にいるお年寄りを引き受けてくれる病院を探さねばならないのだ。
理想的なことは言っておれず、現実の解決法は、次善の策から、次々善の策へと無限に妥協していかねばならないかのようである。 いかに人手が足りないかを訴えてみたところで、私か今日の午後、この老人を入浴介助しないなら、この人は週に2度しかない入浴のチャンスを失ってしまうのである。
こうして私の観念的資質は解体されていった。もちろん心地よい解体である。 こうした、やればやるほど矛盾を感じ、気持ちの中に゛オリ″が残っていくような現場にいると、〈政治〉に解決を見出そうとする心理は良く判ると言っていい。〈政治〉が変われば理想的な老人ケアができるはずだ、と、はるか未来に問題解決を託すことで、このやり切れなさを解決するのである。
だから『社会主義になれば老人問題なんかなくなる』などという乱暴な論理に飛びつく福祉関係者が多かったのは判らないではない。 もちろん私はそんな論理は信じてはいないし、「社会主義」が「福祉国家」になろうが「ヤマギシズム」のようなユートピア主義になろうが、老いの問題が〈政治〉という狭い世界で解決できるのは、せいぜい10%か5%に過ぎないと考えている。
では、私たちの背負わざるをえない矛盾はどこへ行くのか。心の中の“オリ″はどうすれば取り除けるのか。 私たちが選んでいる道は、現実の介護現場から〈政治〉や理念へと〈普遍化〉(上げ底化)していく道ではない。逆にもっと具体的で現実的になっていく道である。
未来に問題解決を託す方法ではない。〈現在〉にこだわっていく方法である。 ある政治党派に肩入れし、おまけに職員まで巻き込んで、選挙前になると活動に忙しくて事務もストップし、ケアのレベルも下がるなんてのじゃ本末転倒である。私たちは、どんな党派であれ、どんな理念であれ、〈いま・ここ〉で老人に役立つことであればとことん活用させてもらう、という立場に立つ。
職員の数が少ないのはけしからん、といって、厚生省に訴えるために休みまで削って署名活動をし、シンポジウムを開くなんていうやり方とは大いに違う。なにしろこうした方法はこの間、ほとんど効果をあげていないではないか。
それより、千数百万円を費やす特殊浴槽を外して生活リハビリ式浴槽にすることで、確実に入浴介助に必要な人数が少なくなるではないか。このほうがよっぽどてっとり早い実質的職員数の増加なのである。しかも老人はイキイキし、夜も良く眠れるからナースコールも少なくなる。
誤解する人もいるかもしれないので言っておくが、私は、政治活動をするな、だとか、厚生省への要求をするな、と言っているのではない。なにしろ、世の中には、私が「コトバがどんな雰囲気の中でどんな人間関係の中で語られているかを抜きに、コトバそのものを論ずべきではない」と言ってるのを『どんな乱暴なコトバを使ってもいい』だの『ていねいなコトバを使っている人に敵対している』だのと誤読する人がいるくらいだから。
政治活動もシンポジウムも自由にやって下さい。それは趣味の問題だ。つまり決して価値の問題ではないから、個人の主張を〈普遍性〉だなどと言って押しつけないで欲しいだけである。 それよりもっと肝心なことは、〈政治〉や 〈シンポジウム〉へと私たちの目と意識が向かうことで、現場の具体性へと向かう目と意識が喪失していくことに危惧があるのである。
〈いま・ここ〉でやらねばならぬこと、つまり、老人のニーズに応えるブリコラージュ(具体的創造性)がおろそかにされることを怖れているのである。 ナイチンゲールは、換気や彩光といった具体的なことに最後までこだわった。
当時の政治に期待したりせず、これをえげつないくらい利用した。華々しく台頭してきた近代医学に期待することなく、〈いま・ここ〉でやれることがいっぱいあるよ、それをやってからにしようよ、と、彼女は『看護覚え書』で訴えている。
〈未来〉を語る資格があるのは、〈いま・ここ〉で、妥協のレベルをひとつずつ上げていくという、ちっともカッコ良くない現場の実践の中からである。オムツ外し学会でそんな〈いま・ここ〉がいっぱい語られたことに、私は本当の〈未来〉を見た気がした。- 1995.01月 地下水脈 「表層」のコトバからもっと深いところへ
【良い“コトバ”も“悪いコトバ”も紙一重】
◆前号の「近代的理念と日本の介護」の中で、「近代」と「日本的状況」という形でボランティア論争を三好さんに整理してもらったのですが、「近代」の側が「日本的状況」を何とか変えねばならぬ、と考えているのに対して、三好さんは「どうしなくてもいいんじゃないか」と言われている訳です。
すると、高井氏の三好批判というのが「近代」に、三好さんの立場が「日本的状況」の側、と考えていいんですね。
そうです。前者に「コトバ」、後者に「非言語」、さらに前者を「意識的アプローチ」、後者が「無意識」でもいいと思います。(図1)

高井さんは「良いコトバ」と「悪いコトバ」という風に問題を立てて、あたかも私が『悪いコトバを使ってもいい』と主張しているかのように論じているのですが、私は、「良いコトバ」も「悪いコトバ」もいっしょにした「コトバ」の世界に対して、「非言語」の世界を提出しているんです。
私に言わせると、私たちの世界、つまり今回の場合でいうと、老人を生きいきさせるかどうかを決める私たちの関わり方の世界は、 〈図2〉のように、コトバとか、意識的なものというのは、ほんの一部に過ぎないんです。

だからそのほんの一部の狭い世界で、「良いコトバ」か「悪いコトバ」かなんて言ってるのはほとんど意味ないと思うんですよ。いや、意味がないよ、と言ってもいいくらい、広いところで私たちはケアをし関わっているはずなんです。
◆非言語という広い世界というのは例えば身ぶりとか表情とか……。
そうです。身体表現や、まなざしや、声の調子や、その背後にある無意識の老人観や人間観やら、そういったものです。
◆黙っていっしょにいるなんてのは?
ああいいですねえ。そのとき、何も言わなくても、私たちがイライラしていると老人に伝わるでしよ。こっちがゆっくり落ちついてるとむこうも落ちついてますね。入浴ケアでも食事ケアでも排泄ケアでも、その、何も言わないときに形成される雰囲気が、一番老人を左右するんですよね。
ところが、介護論ていうのは、コトバのほうに偏ってるでしよ。例えば『寮母禁句集』なんてのがよく売れるんですよね。今、私の〈図2〉前に『接遇対話術』という新刊があるんですけど、この2つの本はそれぞれ特養ホームで出されてるんです。私は、こういう本を出す施設の人たちの善意や熱意は疑いのないものだと思いますけれど、どうしても違和感があるんですよ。

例えば食事が遅い人に対して、「悪い言葉」として「早く食べてよ」とか「あなたが一番最後よ」が挙げられて、「良い言葉」として「ゆっくり食べて下さい」「さめないうちに食べましょうね」などというふうに分けて並べられてるんですけどね。これどう思います?
◆うーん、私は特に問題とは思わないですね。これでいいんじゃないですか。
いや、これは間違ってるんですよ。ここでは何も言わないのが一番いいに決まってるんです。食事場面を見てるとよくあるんです。やって来る職員がみんな「遅くてもいいのよ、気にしないでね」なんて言ってるんですね(笑い)。こりゃ気にしますよ。『私は遅いんだ、迷惑かけてるんだ』と思わされてるようなものでしょう。
◆なるほどね。「良い言葉」も「悪い言葉」も紙一重というのはそういうことですか。
それにね、話すにしても、食事のときに食事の話しか出てこないというのがね、貧しい人間関係なんですよ。〈介護者--被介護者〉という関係から抜け出てないんですね。もっと楽しい共通の話題はないのか、と思いますね。
「良い言葉」も「悪い言葉」も、何とか食べさせようというこちら側の意図から出てるコトバなんですよ。相手に対する〈操作性〉のあるコトバなんです。これは会話じゃないですね。
【コトバに機能を持たせるものこそ問題】
◆コトバというのは生活場面の中でほんの一部分でしかないし、〈操作性〉のあるコトバはその中の部分であればあるほどいい訳だから、そこで「良い」「悪い」といってもしょうがないよ、という三好さんの考えが判ってきました。
しかし、それを前提としたとしても、やはり、悪いコトバよりは良いコトバで接したほうがいいんじゃないでしょうか。
そのとおりですよ。だから私は、高井さんや、この論争のもととなった『介護人だからできること』(リョン社)を書かれた三好明夫さんたちが「敬語で依頼形で」しゃべっているのはちっとも批判なんかしません。生活リハビリクラブなんか来た人は職員のコトバがていねいだというので驚くくらいですしね。
ただどこが違うかというと、゛悪いコトバ″を使っている人に対して彼らはそれを矯正しようというんです。矯正じゃなくて教育だと言うかもしれないけど同じことです。 私たちは違うんです。そういうのが余り気にならないんだからしかたない(笑い)。
彼らがそういうことに敏感なのは、老人を「守ってあげねばならない対象者」と見てるんでしょうね。私たちは「生活の主体」として見てる。ここが違ってるんです。 私たちは「悪いコトバ」を教育して治そうなんて思わないんですよ。そんなことすると一日中説教してなきゃいけない。
職員だってボランティアだって家族だって、彼らのいう「悪いコトバ」なんかいくらでも使ってますよ。高井さんも西日本で仕事してるんだから、在日朝鮮人や未解放部落を巡る問題なんかも経験してるはずでしょう。 そういうの聞いたことはないなんていうなら、それは「表層」でしか会話してないってことですよ。
◆そういうのをいちいち教育しようなんて思っちゃダメですか?
ダメですよ。教育というのは最も〈操作性〉のあるコトバで関わるので、それがいい訳がないのは老人でなくてもいっしょです。 まず彼らは私か27号で書いたなかに出てきた゛Wさん″とはいっしょに仕事できないでしょ。もちろん、なぜ゛Wさん″が老人に一番人気があるのかも判らない。
◆ああ、あの、゛カタワ″なんて平気でいう寮母さんね。
そう。でも私はいっしょにできますからね。「教育して良くなったらいっしょにやれる」なんて失礼なこと言わない。 それだけじゃなくて、老人たちといっしょにやっていけないでしよ。 70や80の人って平気で、彼らのいう゛差別用語″を使いますよ。高井さんが私のことを「排他的」なんて言ってるけど、これ全く逆ですよね。自分たちの理念に合わない人は゛矯正″の対象なんだから。
◆゛矯正″や゛教育″じゃないとしたらどうしたらいいんでしょう。これもどうしなくてもいいんですか(笑い)。実際に「悪いコトバ」で傷ついたりする場合もあるでしょうし。
コトバで傷つくというのはどうでしょうねえ。例えば「カタワ」というコトバで人が傷つくのは、そのコトバによってその人を排除しようという意図があったり、雰囲気があって、そのなかで発せられるからであって、決して「コトバ」そのものじゃないんですよ。
ですからよく、当事者本人でもないのに、「差別用語だ」と言ってヒステリックに代理告発する人がいるけど、そういう排除しようという雰囲気や意図のないところで発せられたコトバには傷ついたりしないと思いますね。
実際、゛Wさん″の゛カタワ″にはそんなもの何もなし。むしろ逆です。その場でアタフタして口を押さえたくなるのはこっちだけ。言われた人もケロッとしてる。だいたい言われた本人も゛カタワ″なんて昔からずっと使ってる。
◆じゃ、高井さんの文章の中に出てくる「メクラ」なんて平気でいう施設長はどうでしょう。
いいじゃないですか。苦笑して聞き流せばいいんですよ。もっとも私か親切だったらその施設長に「コトバにこだわる人もいますから気をつけたほうがいいですよ」と言ってあげますけどね。 おそらくこれ、どっかのおじさんでしょう?(笑い)
土地と金があって「老人ホームでもやるか」つていう俗っぽいおじさんですよ。そういう人に対して社会福祉の教育をちゃんと受けた人の側かその無知を馬鹿にしているという構図でしかないでしょ。早め早めに海外の動向なんかを゛輸入″してきて、これも差別用語、あれも言っちゃいけないと早く知ったほうが正義。
そういうの知らない人は゛遅れている人″となるんです。これって、インテリ(観念的な要素の強い人、くらいの意味)が大衆に優位に保つためのいつものやり方ですよ。 私なんかむしろこの施設長がかわいそうになってくる(笑い)
ま、少しは時代を知って欲しいとは思うけど。いくら「流行」に過ぎないとはいえ。でも゛上″にいたら扱いやすいタイプじゃないかな(笑い)。福祉の大学出てるような施設長よりは。
【無意識の世界が意識とコトバを決める】
◆そうすると、〈図1〉に、「インテリ」と「大衆」というのも付け加わりますね。
そう。左側に「インテリ」または「高井氏」、右側に「大衆」または「メクラと平気で言う施設長」が入る。 そもそも、意識やコトバを変えてやろうなんてのが無理なんですよ。私は『老人の意識を変えるくらいなら、猫に社交ダンスを教えるほうが簡単だ』と言ってるくらい。
老人だけじゃなくて、大多数の人間にとってはそうだと思います。 コトバをコトバの世界だけで変えていけるのはインテリだけでしょう。ほとんどの人にとっては、無意識の世界が意識とコトバを決めていると思います。無意識はどこで形成されるかというと生活のなかでなんです。
西欧のような意識中心主義の世界には、例えば精神分析なんてのがありますよね。あれは、無意識を意識化し、言語化するという方法論です。でもこれ、インテリにしか通用しないですよ。いくら西欧でも。
私は無意識の問題は無意識の領域でしか解決していかないと思っています。つまり、生活の時間と空間を実際に変えていくことなんです。 つまり、「カタワ」と言った時に、そのコトバが、その人を排除していくように機能するような現実を変えればいいんです。逆にそのコトバによって、関係が豊かになり共感しえるような現実(現実なんていうと固いですから雰囲気でもいいんですが)、それを作ることこそ私たちがすべきことなんです。
それさえあれば「カタワ」も「メクラ」も「クソババ」も、いいコトバになるんですよ。高井さんはそんな場面体験してないはずがないと思うんですけどね。それとも『かくなければならない』という理念が強すぎて、多様で豊かで深い現実が見えなくなったんでしょうか。だとしたら、空間的に現場にいるからといって「現場」にいることにはならないという証拠でしょうね。
◆おっ、「三好さんは現場の人じゃない」と書かれたことへの反論ですね。
だから私たちは、具体的に雰囲気を変えることから始めるんですよ。いっしょに遊びリテーションをしたり温泉旅行に行ったりね。するとそれだけでその人を見る目が変わるじゃないですか。共通の話題もできるじゃないですか。
◆食事のときに早いか遅いかだけの話題しかないんじゃなくて。
そう。〈操作的〉コトバじゃないコトバがね、自然に出てくるようにしたいんですよ。食事が遅いのなんて当たり前で気にもならないというふうにしたいんですよ。 ところが彼らは「コトバ」から変えようとするでしょう。あるいは、教科書に書いてあるような「個人の尊厳」なんてことから入ろうとするでしょう。
ちゃんと、色メガネなしで老人のニーズを見ていくと、「プライバシー」というのは優先順位として決して高くないはずですよ。日本人はそういうことには鈍感です。鈍感というとそれをまた教育しなきゃなんて人がいるんで、大らかと言っておきましょう。
ほんと大らかですよ。それより「関係」を求めているはずです。「関係の中の自分」を確認したがっているというふうに私には見えますね。プライバシーはそのずっと後のほうにしか見えてこないですね。
◆高井氏の言っている゛家では優しい言葉を使う嫁がホームに来るや命令調や差別用語を使う寮母″というのはどうすればいいんでしょう。
この人家でも優しい言葉使ってるんですかね?(笑い)老人の前でデリカシーも何もないんじゃ、家に帰ったって同じだと思うけれど。でもどっちにしてもこれはその人の問題なんですよ。家とホームのどっちでもひどければその無神経な性格が、実際にこういう人がいるとすればその二重性の人格が問題なんです。
でもこれは、個別にこの人をどうするかという問題でしょう? だったらコトバだけ変えたって何も変わらないですよ。人格を変えなきゃいけないんだから。よしんばとりあえずコトバだけでも変えさせようとして『ちょっとああいう言い方はないんじゃない』と言うことはあるでしょう。
でもこれが同僚としてはじつに言いにくいんだけどね、いっしょに仕事してるわけだから。そう言うにしてもこれはこの人の個別の問題なわけですよ。それを、全職員に向かって「コトバを正しく」「○○は差別用語だから使うな」というふうになっていくのが判らない。
それは管理者的発想ではないでしょうか。 もう一度繰り返しになりますが、こういう人ほど、一つのコトバを変えるには、「現実」のほうを変えるほうが早いんですよ。管理することで表面上はコトバが変わるかもしれないけれど、現実が変われば、コトバの調子や表情まで変わりますからね。そうなれば逆にコトバなんて問題じゃないんです。
【「差別語」があるんじゃなくて「差別語」になるんだ】
ついでにちょっと言い過ぎてもいいですか。
◆はい。むしろそれを期待してる(笑い)
いや、おそらく高井さんもこれちょっと書き過ぎたと思うんですよ。文章というのはそういうところがあって、論理というのはひとりで勝手に進むんですね。だから必要以上の論調になるんです。論争してると、こいつとは絶対合わないな、と思ったりするけど、実際に会ってみるといい人だったりするでしょ?(笑い)
そういうふうになるまいと思ってこういう対談という形を私はとってるんですけどね。話しコトバだとあまりきつくならないから。 ですから、そのことを前提にして高井氏のコトバを問題にするとね、この人、゛コトバを大切に″と言ってるけど、あまり大切にしてない。
『三好春樹大先生』つていう表現があるでしょう。こういう言い方、高口光子さんがときどき言いますけどね、彼女の言うのは「好意的冷やかし」ですね。悪意もありますかね?(笑い)あるかもしれないけど、全体的には好意だってのはこれ判りますよ。だけど高井氏の文章全体のなかでこれが使われてるとね、これは悪意とは言わないけど「皮肉」ですよね。
同じコトバでも、どんな雰囲気で、どんな目的で使われるかによってコトバの意味は全く違ってくるっていういい例ですね、これ。
「おめでとう」というのは辞書を引けば「人を祝福するときに使うことば」と書いてありますよ。でもこれは真っ赤な嘘。嫌味たっぷりに「お・め・で・と」なんて言われたら人を傷つけるに十分でしょう。 コトバの中に「差別語」なんてものがあるんじゃないんですよ。
コトバが、ある条件の下で「差別語」になるんです。その、「差別語」になる条件を変える力は、残念ながらコトバ自身には無いと思います。つまりコトバをいくら言い換えてもダメだと思います。例えば三好明夫さんが本の中でやってる「障害者」を「障がい者」と記述するなんてやり方ではダメですね。
◆いや、面白い゛言い過ぎ″でしたね。もっと言い過ぎませんか(笑い)
最初の自分を紹介するところに『残念ながら本は出版していません』という表現があるでしょう。これもコトバを大切にしてないですね。本音でそう思っているような、または。 ゛本を出してるような人は現場からは遠ざかっている人で私こそ現場の意見を代表してるんだ″と言いたいという意図があるみたいなね。
◆全体にそういう意図は感じますね。
私は素直だから文字どおり受けとめて、本当に残念だと思っているのなら彼にアドバイスしますけど、本を出す、つまりコトバを集めて自己表現しようとするなら、まず現実を感じたままを自分のコトバで書くことですよ。
「プライバシー」とか「人権」といった、ちっとも日本の現実とクロスしてないような「舶来」の理念を安易に使ってたんじやダメです。日本の老人ケアの現実、それを私は「崇高さと醜悪さの入り混じった世界」と『寝たきり地獄はもういやじゃ』の前書きに書きましだけど、そういうものを、西洋的理念という色メガネなしに見つめて表出することです。そうすれば、こんな深みのある世界なんですから、あなたの文章力なら、ちゃんとした編集者は見逃さないでしょう。
◆いまのコトバケアのには皮肉は入っていません?
いいえ、ちっとも入っていません。こんな文章書ける人、現場にはめったにいませんよ。ただ、体だけでなく、頭も日本的現実に置いて欲しい、と言っているんです。
【“進歩主義”は老いとつきあえない】
◆三好さんの論争相手は「左翼」というか「進歩派」といった人が多いですよね。精神障害を巡っての論争もそうでしたし、何か恨みでもあるんですか?(笑い)
いや、いずれも向こうから挑まれた論争なんですよ。私はこう見えても自分から論争をしかけたことはないんです。彼らはまるで、自分の「良心」や「正義感」を満足させるために老人がいるとでも思っているみたいで、自分たちの勝手なイメージを老人にあてはめているんですね。
そういうのに付き合うヒマはないですよ。それより介護職に伝えたいことがいっぱいある。高井さんには私の「関係障害論」を聞いて欲しいですね。これは「やさしさ」とか「ふれあい」とか、「敬語」といった耳に聞こえのいいコトバでしか表現しえてないものを、それを突き抜けたところで、つまり、私たちの「善意」とか「自己満足」で完結してしまわないところで「関係」を意識化したいと思ってやってるものなんです。
ぜひ講座に招待したいと思います。 だから、なぜ「進歩派」と目される人と論争が多いのかというのは、なぜ、そういう人が私の言ってることや書いてることにひっかかるのか、と言ったほうがいいでしょう。
よく「意識が高い」とか「低い」という言い方をしますよね。「この町の住民は意識が低くて」なんて言う人は多いですよ。私は内心、゛あんたは自分は意識が高いと思ってるんだな″って思うんですよね。
私か人間にとって究極の問題だと思ってるのは、この『意識の位階制』なんです。『意識の階級制』と言ってもいいんですけど。人間にとっては、まだまだ飢えや民族間紛争といった、それ自体深刻な問題があるんですけど、それらが解決した後でも最後に残る問題がこの『意識の位階制』だと思うんです。
意識の高いほうが低いほうを支配するんです。もっとも「支配」とは言いません。「教育」と言いまして、あくまで「善意」と「正義感」に基づいているんです。『意識の位階制』で国家を形成した社会主義国で、強制収容所が「教育キャンプ」なんて呼ばれていたことを思い出してください。
「社会主義国家」は次々と崩壊しましたが、あの世界史的規模の過ちと同じ思考方法は、私たちの身近にもあるんですよ。「意識が高い」と言ったって、せいぜい、西欧的近代意識を教育されたとか、゛差別用語″を使わないで、うまく言い換えて、゛市民″の受けよく生きている、というのに過ぎないと思いません?
にもかかわらず彼らは、正義と使命感に燃えて、゛意識の低い″人たちを自分たちに同化させようとするんです。こうした゛進歩派″の現場の人たちが、あまり抵抗なく、むしろすすんで学校の先生になるという傾向も、その表われでしょうね。
こういう人生は損ですよ。だって永遠に苛々してなきゃいけない。死ぬまで欲求不満ですよ。その不満を「意識の優位性」で補償したりするんです。「メクラ」なんて発言する施設長をやりこめるなんてのはその典型ですよ。
゛意識を高くしなきゃいけない″とか゛進歩しなきゃいけない″なんていう強迫観念をお捨てなさい。人間にはいろいろいて、インテリもいれば、゛Wさん″もいるんです。それは価値の優劣や意識の高い低いではなくて、それぞれの役割分担なんです。人は変わるときには変わるんです。コトバや教育によってではなく、変わるべくして変わるんですよ。
◆それは、今西錦司の「棲み分け論」ですね。
そう。「進化論」って生物界の「進歩主義」なんですよ。人間が一番上でアメーバが最低という位階制ですし。その進化論が批判されてかなりになります。人間に対する見方も変わってきているでしょう。じつを言うと、私もかつて「進歩主義」でした。しかし、今西錦司の棲み分け論や、レヴィ=ストロースの構造主義で目からウロコが落ちた。
だって「進歩主義」や「合理主義」じゃ、老人とは付き合えないんですよ。付き合えなくはないけど、どう付き合うかではなくて、なぜ付き合うのかという所が判らなくて、結局、倫理主義になっていくよりなかったんです。でもそれじゃますます〈老い〉から遠ざかるし、゛Wさん″とも遠くなる。
◆それで「進歩主義」を捨てた?
はい。人生楽しくなりました(笑い)と同時に、これまで損してきたなあと(笑い)。 進歩主義って、゛あるべき姿″を最初に思い浮かべて、それに向かって行くべきだって思考なんですね。時間的には未来が一番良くて、現在、過去の順。これを空間にも適用して、ヨーロッパが一番でアジア、アフリカの順なんです。
人間も序列化する。゛あるべき人間″が先にあってね。マズローの人間観なんかもそうですね。これは『介護覚え書』の後書きで少し批判しました。障害受容過程論なんてのもそうです。゛あるべき障害者像″に向かって段階を登っていかねばならない。これも、『教師はなぜぼけるのか』の中でちゃんと批判したつもりです。
◆じゃ、むこうから見ると三好さんは転向者ということになるんだ。
そう。それで結構。今どき、゛非転向″なんてのは、思考の柔軟性の欠如しか意味しませんから。 最後に、私は倫理的な人は嫌いではありません。しかし倫理は自らを律するもので、他人に強制するものではないでしょう。倫理を強制すればタブーや抑圧にすぐに結びつくことは人間の歴史が教えていると思います。
倫理とかコトバとか知識とかが、それらから離れて自然へと回帰していく老人と介護職を抑圧しない道を、私たちは探しているのです。 ※「精神医療をよくする会」の機関誌「おりふれ」でなされた批判に対して三好が再批判したもの。
///////////////////【別枠抜粋 ①】////////////////////////
……でもね、私の経験では、人というものは、敬語やていねい語を使いながら心の底から相手を認めていないという関わりもできるし、逆に「このクソババが困らせやがって」なんて乱暴なことを言いながら愛着いっぱいのケアをすることもあるのである。
もちろん愛着もなく乱暴で無神経なコトバだけが飛びかうのは困ったものである。だが、それを、乱暴で無神経なコトバが出てくる背景の無意識を問題にしないでコトバだけを変えろ、というのは大衆に対する抑圧に他ならない、と私は思う。
生活者としての職員は、専門用語ではなく生活の中のコトバを使う。私の目の前で、Wさんという寮母さんは、やっと立ち直りかけた右片マヒのOさんに向かって「あんたもこんなカタワになってしもうてかわいそうにのう」と言って私をあわてさせた。
だが私は、本で知った知識をタテにして、「カタワというのは差別用語だ」とWさんをお説教する気にはとてもならないのだ。
[……略……]
もっとおおらかになればいいんじゃないの。たかがコトバだよ。「こんなコトバは使っていいかどうか」と意識的に老人に関わってるより、無意識に゛カタワ″なんて言ってしまう寮母のWさんのほうが老人には向いていると思いますけどね。
[……略……]
最後に彼ら「倫理派」の特徴は、自意識過剰であることだ。何しろ自分以外の回りの人間は意識が低くて世の中は遅れているのだから、良いケアができるのは自分(たち)しかいないと思っている。確かに彼らはいい仕事をしている。頭のさがるような実践をしている人たちである。
だが、ここのところが私か一番言いたいことなのだが、老人ケアの面白さとは、〈老い〉と関わることで、私たちの〈自我〉や〈自意識〉や〈専門性〉や〈思想性〉が解体されていく心地よさのことなのである。
でも私には、彼らは逆を行っているように思えるのだ。
-- 論争の発端になったブリコラージュ27号、地下水脈「自我が解体される心地よさ」より抜粋 --
///////////////////【別枠抜粋 ②】////////////////////////
よい老人ホームとは何か
生活とリハビリ研究所三好春樹
マスコミが好んで取りあげる老人ホームというのがある。そこには、ヒューマニズム溢れる施設長と心優しい職員がいて、老人たちは幸せそうだという。でも現場にいた私は、こうしたジャーナリストによる″評価″を信用していない。
こうしたジャーナリストは、だいたいホームの施設長からの話しか聞いていないし、他の職員の話を聞いていたにせよ、施設長をとおしての取材でしかない。 一度でいいから、施設を通さないで、働いている人や、働いていた人の″本音”を聞いてみるといいのだ。
「施設長?講演で忙しくて現場にいることはありませんよ。なのに北欧なんか行って見てきたことをそのままやれなんて突然言い出すんですからね。現場は大混乱ですよ」 「なんか、施設長の理念のショーウインドーって感じね。ホームも。職員も、老人も」
「外に出て講演でいいことばかり言うもんだから、見学者も多くてね。変なところ見せられないってんで、もう大変」……etc こうした愚痴をどれだけ聞かされたことか。
現場は「理念」で仕事をしているのではない。そもそも職員の大半はまず「生活者」であり、福祉の世界に入ったのも偶然という人がほとんどだ。「理念」で仕事についた人もいないことはないが、現場に入れば、その「理念」は三ヵ月ももたない。
なぜなら、〈老い〉だの〈生活〉だのといったものは、どんな〈理念〉の幅より広く、深いからだ。そして、そうした〈理念〉が挫折したところから、老人に関わる仕事の本当の而白さが見えてくるのだ。それは。〈ヒューマニズム〉とか〈福祉の心〉といったコトバが、空念仏に聞こえるくらい複雑で底深く、醜悪さと崇高さとを併せ持った世界なのである。
そもそも、有名な施設長さんもジャーナリストも評論家も、「老人問題」には興味はあっても「老人介護」には興味はなさそうである。だから、私たちには空念仏と自慢話としか思えないような講演と、見学者を意識して作られた小ぎれいな(それも施設長の個人的趣味が色濃く反映していたりすることが多くてうんざりするのだが)施設空間にコロツと感心してしまうのである。
こうしたジャーナリストや評論家の目と手を通すことなく、老人介護の現場の者の間で話題になり有名になっていく施設というのがある。例えば、北海道の上湧別町にある特別養護老人ホーム「湧愛園」がその一つだ。
この施設は医療が充実している訳でもないし、リハビリをやっている訳でもない。でも、寝たきりの人が歩けるようになる。新し物好きの人たちがやっている「回想法」だの「リアリティオリエンテーション」だのやっている訳でもないが、呆けの人がちゃんと落ちつく。
「リハビリ」や「OO療法」をやっていれば、ジャーナリストも評論家もすぐ飛びつく。しかし、湧愛園のように、目に見えないもので勝負している施設は興味を引かないらしい。ましてや建物が立派な訳でもなく、男女相部屋だったりもするから、彼らにはむしろ遅れた施設だと映るようである。
だが、私たちが過去三回計画した「湧愛園ツアー」に参加した現場の人たちは、廊下のベンチの下の無数のタバコの焼けコゲ跡や、雑然とした私物に囲まれた雑居部屋に感心して、ため息をつく。『うちの園だったら、このコゲ跡一つ作ったら始末書ですよ。それにこんな私物は一日で片づけられてしまいますね』と。この人はある“有名”な施設の寮母さんである。
さて、湧愛園と同じように、現場の人たちの間で話題になり、私が編集している情報誌「Bricolage==ブリコラージュ」で「訪問ツアー」を募集すると、あっという間に二〇〇人の定員が埋まってしまうという老人ホームが「誠和園」である。
私は「本当にいい施設長なら、自分が有名にならないで、職員を有名にするはず」とよく言っているが、誠和園の村上廣夫園長は講演に出かけることはまずない。(北海道での2回の講演が例外だが、これは私か無理を言ってお願いしたものだ)その代り、研修会や学会で発表できる職員さんがいっぱいいる。生活指導員、看護婦、寮母……etc これまで私か聞いただけでも10人に及ぶのではないか。
もちろん私は疑ぐり深いから、施設長の「理念」を職員の口を通して語らせているだけではないか、などと思ってみたりもするのだが、どうもそうではないらしい。 もちろん、園長の指導性はある。特に、古いケアから脱皮していく最初の段階ではその指導性はかなり強かったようだ。強くなければとても脱皮などできなかっだろう。
だが、この、いわば「上」からの指導性に、「下」からの自発性が応え、ある時点から、「下」が自律性を持っていったというところが、誠和園のおもしろいところである。 それは何より、この本で活字となっている元の発表を、ライブで聞いてみれば文句なく納得できる。
私が一番最初に聞いて仰天した梶本梢さんの老人との広島弁丸出しの会話を再現してみせる発表も、中田勇二さんの外見に似合わぬ繊細な優しさの伝わる報告も、桑原節子さんの泣きながらのケース報告も、片岡洋子さんのおっとりした、でも確かな人間観を感じさせる話しっぷりも、宮尾フミ子さんの、「バイキングで偏食にならないか?」といった質問への明快な答もみんな、老人ケアの現場の深みに身体ごと入り込んだ者にしか味わえない〈喜び〉のようなものを共有できてしまうのである。
これは、。園長の指導”といった、外側から与えられるものでは決してない。 この現場職員の。〈喜び〉のようなもの” (としか私は表現できなくて何ともくやしいのだが)が欠けているところでは、どんな立派な理念も、立派な建物も、完璧な制度政策も何の意味もないのである。
ましてや、老人介護そのものは、”人のやりたがらない虚しい仕事”でしかなく、ただそんな仕事をやっているということでしかその意味を見出しえないようなジャーナリストや評論家に、ほんとうによい老人ホームが判るはずもないのである。
老人ケアの現場の深みに身体ごと入り込んでいる人、入り込んだことのある人なら、この本の話しコトバの文章と写真をとおして、その”〈喜び〉のようなもの”を共感できるはずである。できたら、自分の休みとお金を使って、直接、誠和園の職員の話を聞きに行きませんか?
「訪問ツアー」を組みますから。もちろん。私も添乗員としてお供しますので。

